茨の森の糸車
俺の手元には、ひとつのピアスがある。
まだ俺が、片想いをしているとき。初めて紫翠の家へと泊まり、次の日一緒に出かけた先で見つけて、一目惚れをしたものだ。
あの時は渋々諦めたのだが、やはりどうしても忘れることが出来ず、後日ひとりで足を運び購入してしまったもの。
紫翠にそれを渡すことも出来ずに、ずっと大切に仕舞ってあったそのピアスは、予期せぬ事態により日の目を見る事となった。
それが紫翠の、二十歳の誕生日。
プレゼントのリクエストを聞いてみたら、その場では思いつかないようで、迷った紫翠に時間が欲しいと言われた。
気長に待ちつつ、俺の方でも色々と調べていた。
そんなある日。俺の講義が終わるのを待って、一緒に過ごす約束をしていた。
俺は早く会いたくて自然と歩幅が広くなってしまい、約束の時間よりも随分と早く、待ち合わせ場所に着いてしまう。
紫翠はまだ来ていなくて、外の木漏れ日が差し込むベンチに座り、のんびりと待っていた。
暫くして周囲を見渡してみれば、俺を探す紫翠の姿を見つけ、笑みが溢れてしまう。
息を切らすほどに急いできたのが珍しくて、少し不思議に思いつつも会えたのが嬉しくて、口角が上がってしまうのを止められない。
お疲れさま! なんて喜色満面な様子で、小さな袋を手渡される。
首を傾げながらも受け取り、念の為に確認を取ってからそっと袋を開ければ、美しい赤色の石が付いているフープ型のピアスが入っていた。
「ピアス、だよね? これどうしたの?」
沢山の疑問符を散らばらせて、聞いてみると小さい子が玩具を見つけた時のように目を輝かせる紫翠。
「僕、雅と同じ場所にピアス開けたい!」
時偶、こちらが思いがけない様な言動をとる事もある紫翠。
そういう時は大抵驚かされる事になり、少しだけ振り回される。
だけどそんなところも可愛いらしくて、俺はいつも甘やかしてしまうのだった。
開けるのは怖くないの? と聞けば、雅とお揃いにできるなら全然怖くない! と元気な返答が返ってくる。
かと思えばすぐに、雅は嫌じゃないの? なんて少し不安になってしまったのか、いつもは気まぐれで自由を好むにゃんこなのに、それは鳴りを潜め今は迷子の子犬のように見つめてくる。
紫翠は最近、俺の前では必要以上に考え過ぎてしまうということが減ってきたように思う。
思うままに自分の感じた心を有りの儘伝えてくれるのは、それだけ心を俺に預けてくれているような気がする。
勿論、考えすぎてしまう所も紫翠の優しさから来るものだと、俺は思っているのでそこも含めて、全てを愛している。
その後、どこに開けたいの? と聞いたときに、そこまで考えていなかったのは少しうっかりさんな部分が出た、なんて笑ってしまった。
俺が、大切に仕舞っていたピアスを見せた時。紫翠は目を輝かせ、とても幸せそうに微笑んでくれた。
その姿はまるで、絵画に描かれている世界の一部を切り取ったかのように美しく、視線を奪われてしまう。
紫翠の綺麗な形の耳に、ピアスを開ける時。背筋を寒気にも似た何かが、駆け抜けていったのがわかった。
――またひとつ、俺のものである証が増えた。
選んだファーストピアスは、赤と青にした。熱を持ったそこが愛おしく、手で優しくふれる。
そのまま二人の影は、重なった。
そして時は進み、待ちに待った俺の誕生日。
紫翠の耳で光を放ち輝いているピアスを見て、満足感と堪らない愉悦を感じてしまう。
消えることのない跡というのは想像していたよりも遥かに、俺の心を満たしてくれた。
それに呼応するように体も熱を上げて、紫翠への愛はより深まる。
完成したピアスホールに、紫翠が選んでくれたピアスを着けた瞬間。
俺はまたひとつ紫翠のものになることができ、幸せが全身を駆け巡っていくのを強く感じたのだった。
あれは、大学四年生の頃だったと思う。
忙しく慌ただしい日々の中で久しぶりに二人の時間が重なり、せっかくのその機会を有効に過ごすため、俺たちはデートの約束をしていた。
始めはいつもの通り迎えに行くよと言っていたが、紫翠は偶にはデートらしく待ち合わせをしてみたいというので、その意向に添えるようにカフェを約束の場所にする。
以前、この道を通りがかった時。紫翠が好みそうな抹茶にこだわっているカフェを見つけていてたことを思い出し、前日の夜にその場所を送っていたのだった。
俺の方が先に目的のカフェへと着いていて、店内で待つことも考えた。
だけど方向音痴気味の紫翠が心配で、念の為スマホを片手に辺りを探す。
案の定、スマホの画面と周囲を交互に見渡しながら歩く、紫翠の姿を見つけ、愛おしいその名前を声に乗せる。
こちらに気付き、宝石の様に輝くその瞳が俺の姿を捉えた刹那。その表情には、大輪の花が咲いた。
駆け寄ってきた好きな子を抱きしめたい衝動を我慢し、その代わりと言うように手を取った。
そうすればまたひとつ、綺麗な花が咲く。
俺はその花をもっと見たくて、そばに引き寄せた。
「やっぱり、紫翠のこと迎えに来てよかった。地図、苦手だもんね?」
「ここまでは一人で来られたし、ちゃんと雅に会えたからいいの!」
可愛くて少しだけ意地悪を言えば、拗ねてしまう。
そんな姿にも俺の心臓は掴まれてしまい、さらに愛は大きくなる。
メニューを決める時の悩んでいる横顔も、決めきれなくて半分こを提案した時の嬉しそうな笑顔も、飲んだ時の「んまぁ」なんて幸せそうに笑うその顔も、紫翠を形作る全てが好きでたまらない。
――あぁはやく紫翠を、独占したい。
二人で、穏やかな時間を過ごした後。カフェを後にし、紫翠の手を引いて駅へと向かう。
はやく紫翠の事をひとりじめしたくて、急ぎ足になってしまう歩調を抑えて家を目指す。
そんな時……。
「雅!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには母さんの姿があった。
気づいた時には俺たちは勢いよく引き離されていて、危険を感じた俺は咄嗟に掴まれた手を振り払い、素早く身を翻して即座に紫翠を引き寄せて俺の後ろへと隠す。
母さんが退院しているのは、知っていた。
でも俺は、一度も会いには行かなかった。いや、行けなかったという方が正しいかもしれない。
あの優しかった母さんは本当はもう、どこにもいないような気がして。
会ってそれを突きつけられてしまうのが、どうしても怖くて。
だから、俺は逃げた。
俺の目の前で 怒号を飛ばし、暴れる母の姿。
それを父さんと蓮が二人がかりで抑えかかるのが、スローモーションのように見えた。
やはり大好きだった母さんは、もうどこにもないのだと思い知らされる。
その中で母さんの口がゆっくりと動き、言葉を発した。
「雅の人生を奪わないで」
紫翠に向けたであろうその言葉に、濁流のように憤りの感情が迸った。
あなたが……それを言うのか。黒く強い感情に制御の利かなくなった体は、掴みかかろうと手を前に出していた。
「その言葉取り消せっ! でないと俺は……」
経験したことのない怒りに視界は揺れ、頭の中を血液が物凄い勢いで巡る。
血液を運ぶために血管が収縮した事によって、強く締め付けられる様な痛みが俺を襲う。
「雅! 僕は大丈夫だからお願い、おちついて」
紫翠の必死の訴えが、遠くで聞こえて頭は少し冷静さを取り戻した。
回る視界と痛みを逃すように、目を閉じて深く息を吸う。
僅かに収まりはしたが、依然として揺れる視界を誤魔化すようにして、紫翠の手を引きその場から離れる。
自分の心臓の鼓動しか、聞こえない。
どれくらい歩いたのだろうか。立ち止まり、思わず紫翠を抱き寄せ、震えてしまう声で必死に謝る。
あんな酷い言葉を紫翠には、聞かせたくなかった。もし俺の手から、この体温が離れてしまったら?
それが怖くてたまらなくて、掻き抱くように力を込めると優しく宥めるように背中にぬくもりを感じる。
安心させるように上下にゆっくりと擦るように撫でてくれる、その温かさによって目には水分が集まってきてしまう。
少し落ち着いた頃。紫翠に優しく手を引かれて、俺は自宅へと戻った。
俺の前ではいつも通りの様子を崩さない紫翠に、言いようのない不安は募る。
周りの人の事を人一倍、気にかけることのできる心の優しい紫翠が、あんな言葉を投げつけられて平気なはずがない。
それでも情けない事に俺は、色々なことが同時に起こったことにより感情を上手く処理できずにいて、表情を取り繕う事すらできない。
夜も更け、ベットへと入ってもまだ頭の中は混乱し、思考はまとまらない。
明かりを消して、闇に包まれた空間の中。ついにその不安を抑えきれなくなってしまった俺は、助けを求めるように紫翠の方へと手をのばした。
腕の中で体を反転し、俺の頭を抱えるようにして包みこまれる。
じんわりと伝わる体温と、優しく撫でてくれるその手に涙は溢れ出し、止めることができない。
焦がれてたまらない花のような柔らかい匂いと、聞こえる穏やかな心音に、自然と瞼は落ちていった。
次に、意識が戻った時。熱を持っているところに、少し冷たい感触がする。
それが気持ちよくて、もっとふれてほしくて、手探りでその正体を探る。
不意に指先が何かにあたり、俺は目を開けた。
そこには紫翠がいて、優しく微笑んでくれた。
この世の何よりも大切な存在にゆっくりと手をのばせば、二人の距離は近づき、静かにその唇が重なる。
俺は心の中に温かなものが広がっていくのを感じ、もっと近づきたくて、その体を強く引き寄せたのだった。




