深愛の花
日にち薬とは、よく言ったものだと思う。
昔よく父が言っていたその言葉を、俺はふと思い出す。
あの一件から暫くの間、行事ごとなども重なって俺たちは忙しく慌ただしい日々を送っていた。
そんな日々を過ごす中でぽつんと、カレンダーの中に空白を見つけた俺は気付けば、柴翠に連絡を取っていた。
「紫翠! 次の土日、予定空いてる?」
メッセージを送った数分後。俺の手に振動が伝わり、スマホの画面には了承の返事と、猫のキャラクターのスタンプ。
「空いてるよ!」
「紫翠に会いたいんだけど、どうかな?」
「僕も、雅に会いたい!」
ぴこんっと音を立てて、軽快な音が響く。その音に心は高鳴っていく。
「ありがとう! どこか、行きたい所とかある?」
「外出もいいけど、雅のお家でゆっくりしたい!」
外出のプランも考えてはいたのだが、二人きりでのんびりしたいという柴翠の意向を受けて、お家デートへと落ち着いた。
「いいね! 久しぶりに二人きりで過ごせるの楽しみだね」
「うん! 僕も楽しみ!」
そんな、メッセージのやり取りが暫く続いた。待ち遠しい予定がひとつふえて、俺は幸せな気分をそのままに眠る準備を進め、その日は布団へと入った。
そして訪れた、約束の日。
「こんにちは、雅。会いたかった!」
連絡があって、玄関で紫翠を出迎える。紫翠は扉が閉まった瞬間に、そっと抱きついてきた。
それを俺もしっかりと抱きとめ、腕に力を込める。
「俺も会いたかったよ、紫翠」
紫翠の首元に鼻をうずめれば、俺の大好きな少し甘い香りがした。
「嬉しい……」
ふにゃりと、幸せそうに笑ってくれる紫翠。
「とりあえず、上がって!」
「うん! おじゃまします!」
せっかく来てくれたのにここではと、そっと体を離したが少しだけ寂しさを感じてしまう。
リビングに連れて行き、ソファに座って待っていてもらう。
「お茶でいい?」
「うん! ありがとう」
キッチンからふと見た紫翠は、白のクルーネックシャツにグレーの柔らかそうな生地を使った薄手のカーディガンを羽織り、そこに淡い色合いの幅が太めのデニムをあわせていた。
その服装は紫翠が纏うイメージにぴったりと合っていて、魅力を最大限に引き出している。
「紫翠、今日の服もかわいいね」
「ほんと? ありがとう! 雅に褒めてもらえると、自信つくなぁ」
それからはここ最近、中々取ることの出来ていなかった二人での休日を満喫していた。
一緒にご飯を作り、食べる。勿論、片付けも一緒。そんな何気ないことが、とても幸せで。
そんな時、隣で俺が洗ったお皿を拭いてくれていた柴翠からの熱のこもった視線に、ふと気付いた。
あまりに熱いそれに、俺の体の底からも熱がこみ上げてくる。
その衝動に気付かない振りをしながらも、俺も柴翠にふれたくて、特徴的な口元の黒子に軽くキスを落とす。
一瞬、驚いた猫のような表情を見せたかと思うと、勢いよく顔を逸らされる。
そんな仕草も、かわいくて。愛おしさが、募っていく。
見つめられすぎて、穴が開いてしまいそうなんて微笑めば、ごめんねなんて言う柴翠。
俺は、その様子にどこか違和感のようなものを覚える。
「雅、こっちにもして?」
こちらを窺いみるようにした、柴翠の視線と言葉に理性の糸が一本、音を立てて切れたのが分かった。
俺は柴翠の手から布巾を取り、切れてしまった理性の糸を必死に修繕しようと頑張りながらも、本能はそれに抗うかのように体を操って、柴翠をソファへと連れて行く。
我慢できずに、いつもよりも少し乱暴に抱きしめてしまう。
至近距離で感じる甘い匂いと体温に、胃の少し下辺りの所に熱が渦巻いているのを感じる。
その熱を体から逃がすようにして深く呼吸をし、奥歯をかみしめて必死に耐えていると、柴翠が俺の名前を呼んだ。
その優艶な声は、俺の理性を狂わすほどの甘さを多分に含んでいる。
その声にぐわんと頭は揺れ、その奥で大量の血液が迸っているのを感じた。
なんとか懸命に理性の糸を手繰り寄せ、冷静さを僅かでも取り戻すためにと熱くなりすぎた体を少し離そうとしたが、すぐに鼻と鼻がぶつかりそうなところまで、磁石のように引き寄せられてしまう。
「あんまり可愛いこと、言わないでよ……」
唇に、吐息がふれる。自分でも驚くほどに、情けない声が出た自覚はある。
本当に、これ以上はまずい。柴翠に手を取られ、自分に視線を誘導するかのように、頬へと導かれればその姿に釘付けにされてしまう。
緩慢に見えるその動作は、いつもの柴翠からは想像できないほどの艶やかな色香を放っており、その瑞々しく甘美な果物のような魅力に、俺は思わず手をのばしそうになる。
熱に飲み込まれてしまえば楽になるよと助言する俺と、その衝動に負けてはいけないと止めようとする俺がいて、頭の中で二人は拮抗している。
「みやび……」
柴翠の甘い声で名前を呼ばれた一瞬、前者の俺が前に出た。
瞬きひとつの間に、俺は柴翠の唇を奪っていて、その体温に頭の奥は痺れ、生の実感を色濃くする。
これ以上は、本当に駄目だ。自分を制御できなくなってしまう。
俺は柴翠を怖がらせたくないのに、もっと深くその身にふれて奪ってしまいたくなる。
理性を総動員し、ふれあった唇を離す。
柴翠が少し寂しそうな顔をしているのが、垣間見えた次の瞬間にはまた唇が重なっていた。
何が起こったのか状況を理解できず、驚きを隠すことが出来なくて、体が硬直してしまう。
意思とは別に本能は幸福感を感じ、もっと欲しいと求めている。
意識はしっかりと保っているはずなのに、体の感覚は少しずつ現実から乖離していく。
唇を食まれれば、体の中の水分が沸騰しているかのように熱くなり、鋭い電気信号が体中を駆け巡る。
きゅっと袖を引っ張られる感覚に我へと返った俺は、そっと唇を離す。
二人の間を銀の糸が繋いでいて、恍惚の表情を浮かべている柴翠。
体からは力が抜けてしまったようで後ろに、ぽすんと可愛い音を立てて倒れた。
目の前の光景に、座面が広めのソファを選んでよかったなんて、くだらないことが頭の中を通り過ぎていく。
本当は柴翠の事が欲しくてたまらないくせに、意気地がない俺は確認してしまう。
「本当にいいの? 柴翠」
紫翠の全てを世界から隠すように覆いかぶさり、腕の中へと閉じ込める。
俺の事を、もっと欲しがって。
良いって言って。
「こたえ」なんてひとつしか求めていないくせに、ほんと、笑える。
今の俺は好物を目の前に待てをされた、わんこのように見えると思う。
「いいよ。みやび、おいで?」
その瞬間、俺の理性の糸は完全に切れた音が聞こえた。
睫毛がふれてしまいそうなほど近づき、唇を押し付ける。
熱に浮かされた頭で強く自分を律し、この世に存在する何よりも大切に、丁寧にふれた。
心の奥深く、ふかくまで繋がれたような気がして、この世界にはこんなに幸せを感じられるものがあるという事実を俺は初めて知った。
言葉だけでは形容することの出来ない、様々な感情を柴翠のそばにいると経験できる。
熱くて、少し苦しいのに、たまらなく幸せで仕様がなくて。
その体に俺のものだという証を刻みたいなんて、我儘だろうか。
悩ましげに、ゆらりと揺れる腰。背中に回した手にはうまく力が入らないようで、本当は爪を立てているつもりなのかもしれないが、ただふれているだけになっている。
華麗に咲き誇る薔薇のように染まった頬を流れる一筋の涙は、どんな宝石よりも美しい。
ふれてみたくなって、優しくそっと拭うようにして手をのばす。
ふわりと音がしそうなほど、柔らかく微笑む紫翠の甘く澄んだ綺麗な声を発する喉元に、柔く歯を立てる。
そうすれば背中は弓なりに撓り、その声はさらに甘さを増していく。
星空が浮かんでいるようにも見えるその瞳には、溢れそうなほどの涙を浮かべていて、熱に浮かされた表情も相まって官能的な色気を惜しげもなく、放っている。
柴翠のすべてが愛おしくて、俺たちは時間を忘れてお互いを求めあった。




