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幸せの花を君に捧ぐ  作者: 綴 朔哉


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夢幻泡影

 


 紫翠はいつも花の咲くような笑顔を、俺に向けてくれる。


 俺は彼より美しいものを知らないし、見たこともない。


  そんな柴翠の隣にいられることは俺の生涯で、一番の幸福なのではないかと思っている。


 付き合ってから初めてのデートで行った水族館では、イルカショーやペンギンの餌やり等、無邪気にはしゃいだ姿を見せてくれた。かと思えば、海の生物が展示されている大きな水槽の前で見た横顔は、水族館の幻想的な雰囲気も相まって息をのむほどに美しく、まるで絵本の世界に迷い込んでしまったかのようだった。


 どこか儚げなその姿に俺はたまらず手を取り、自分から離れてしまわないようにと、繋ぎとめたくらい。


 一回ずつ引いたくじで手に入れた、色違いのシャチのぬいぐるみを大切に抱え、満面の笑顔を見せる柴翠の姿は、俺以外の誰にも見せたくなくて。


 このまま永遠に、俺の腕の中に隠してしまえれば。そんな少し、馬鹿げたことを考えてしまったのを覚えている。


 紫翠は、ぬいぐるみのようなかわいいものが好きだったり、意外と甘えたがりなところがあったりと、その多岐にわたる魅力は挙げ始めるとキリがない。


 彼を知る人ならほとんどの人が言うであろう「容姿端麗」なんて言う言葉だけでは、その魅力を表すには足りないと俺は思う。


 本人にその自覚がないというところが、少しの不安要素ではあるのだが……。


 水族館で、手を繋いだ時。いいの? なんて聞いてくる紫翠。


 俺は、出来る事なら柴翠は自分の恋人なのだと、周りに自慢して歩きたいくらいで、それゆえに柴翠以外の人にあまり興味が湧かない。


 だから何と言われようと、周りの反応や考えなんてどうだってよかった。

 俺にとっては紫翠が、どう思うかの方が重要。


 

 ある時、俺は学校で女子に呼び出された。


 急いで戻ってきた教室で、何やら難しい顔をしている柴翠の姿。


「雅は、僕とキス以上の事、したい?」

 なんて突然、聞かれた俺はみっともなく狼狽してしまったのだった。


 話が急展開すぎて、流石についていけないよ……紫翠。


「僕はいつも、雅にもらってばっかりで何も出来てない……だからっ」

 なんて言う柴翠に、驚かされた。キス以上の事を考えたことが、ないわけでは……正直ない。


 思春期真っ只中の男子なので、そういう事に興味も欲求もある。


 だが、俺は本心からそれを焦る気は更々なかった。


 それにこの先一生できなかったとして、俺は柴翠のそばから離れるつもりなど、微塵もない。


「紫翠には、たくさんの幸せをもらってるよ? それに俺はね、キス以上のこと出来なくてもずっと紫翠と一緒にいるつもりだよ」 

 俺の言葉に目を伏せて安堵の表情を浮かべた柴翠の姿は、人魚姫のように泡になって消えてしまったらどうしよう。


 そんな思考が浮かんでしまうほど、繊細さを感じる。


 そうならないように、俺は手をのばして頬に手を添えた。

 柴翠は微かに身じろいで、ゆっくりと瞼を閉じたことにより整然な顔に、睫毛が影を落とす。


 俺を狂わせる、甘い果実のようなそこに口づけをひとつ。


 それから耳元でそっと囁いて、さらに甘さを味わうようにもう一度キスを落とした。

 顔を赤らめ、力が抜けてしまった柴翠の体を、間一髪で抱きとめる。

キス以上の事はまだもう少し先かな、なんて俺は微笑んだ。


「好きだよ、みやび」

 柴翠の「好き」は、おそらく確認なのだろう。俺の気持ちがまだ自分にあるのか、恋人が自分でいいのかどうかを確かめたいのだと思う。


 そのために恥ずかしがり屋さんなのに、愛を伝えようとする柴翠は可憐で慎ましく愛おしい。


「俺も好きだよ、柴翠」 

 どんな柴翠でも、変わらず愛すと誓うよ。この身を挺して、柴翠の事を傷付けようとする、どんなものからも守りたい。


 だから、無理なんてしないで。俺は柴翠の笑顔のためなら、どんなことでもするよ。


 笑い方が分からなくなったとしても、俺が思い出させて必ず取り戻させる。


 丁寧に啄んだ後。さらに求めるように深く口づければ、先ほどまで不安そうに強張っていた柴翠の表情は、幸せそうに綻ぶ。


 そこには安心の色が見えて、笑みがこぼれた。俺はいつまでも柴翠のものなのに、なんて伝えたらどんな反応を見せてくれるのだろうか。




 もうすぐ、桜の季節が近づいていた。だけどその日は、冬のように凍てついてしまいそうなほど寒くて、吐く息は白かった。


 春休みに入ったというのに寒の戻りという言葉が、的確過ぎるほどに空気は冷えていて、そんな日に図書館へ行く約束をしていた俺と柴翠。


 紫翠はダウンコートにマフラーと、完全に冬仕様の装備で俺の前へと現れたのだった。


 この頃から本格的に進路を決め、その対策を始めていた俺たち。

 寒さが苦手な紫翠は防寒の為に着ぶくれし、鼻先を赤く染めていた。


 その様子はとても愛らしいが、少しでも温めてあげたくて体温を分け与えるかのように、図書館までの僅かな道のりを俺たちは手を繋いで歩いた。


 約束の時間から三時間ほどが経過し、休憩するために外へと出れば、痛いほどの強く冷たい風に襲われる。


 体の芯から冷やそうとするその風に、先程まで温かい室内にいた体は小刻みに震え、体温を維持しようと指令を出す。


 不意に柴翠のスマホに、着信が入った。


 一瞬、眉を潜めた柴翠がこちらに視線を送ってきて、それを不思議には思ったが、俺は静かに見守る。


 どうやら相手は茉白さんのようなのだが、どこかいつもと違う柴翠の様子に緊張が漂う。

 様子を窺いつつ待っていると、見る間に柴翠の顔色が変わっていった。


 只事ではないと察知した俺は、震える手からスマホを受け取り耳を当てた。


「もしもし、雅です」

 電話口から聞こえた茉白さんの声は、いつもの穏やかで優しいものとは全く異なり、焦りと不安が綯い交ぜになったようなものだった。


 一瞬で、その場を支配する空気の糸が張り詰めるのを感じる。


 その声は切迫していて、一刻を争う事態なのだと直感した。


 震えの感じられる茉白さんの声。


 千翠さんが仕事中に倒れ、病院へ搬送された。


 怒涛のように、伝えられる情報。俺の脳は、ひとつひとつの言葉を噛み砕くのに必死で。


 最後に、病院の場所を伝えられる。


 柴翠のことをお願いします、とも。


 俺は自分のスマホで病院の場所を調べ、固まる柴翠の手を取り、駅へと向かう。

 偶然にもここからは一駅ほど先の距離にあって、迷っている暇などない俺は、必死に頭と足を動かし前へと進む。


 繋いだ手はそのままに、電車に乗り病院を只ひたすらに目指す。

 冷え切ってしまった柴翠の手を、温めるように包み込む。


 ふたり手を繋いでいれば、不安を半分こにできるかもしれない。


 病院に着いて受付で名前を伝えれば、手術室の前まで案内された。手術中を知らせるランプは変化することなく、只時間だけが刻一刻と過ぎていく。


 どれほどの時が経過したのだろうか。ランプが、ぱっと消えた。


 中から医師が出てきて、静かに千翠さんの死を告げた。


 咽び泣く茉白さんと、魂が抜けたように立ちすくむ柴翠の姿を、俺は少し後ろから呆然と見ていることしか出来なかった。


 こんなにも呆気なく人は亡くなってしまうのかと、現実を上手く飲み込むことが出来ない。


 無情にもそこで立ち止まることはできず、残酷にも物事は進んでいく。

 それに、ついていかねばならない。


 二人は必要事項の確認などを行い、茉白さんは諸々の手続きのために動き回っている。

 身内でもなく、子供の俺には何も出来ることはなくて。


 葬儀会社の人が、来るのを待っている間。


 外の空気を吸うついでに、飲み物を買おうと俺は席を外していた。

 戻ってきた俺の目に映ったのは、茫然と空を見上げるように座っている紫翠の姿。


 何と声をかけるのが適切なのか分からず、冷え切った柴翠に体温を分け与えるよう、そっと隣にいた。


 諸々の手続きが終わり、茉白さんは役所に行ってから帰るというので、俺たちは先に帰ることになる。

 心ここにあらずな柴翠の手を引いて、守るように家まで連れて帰った。


 玄関の扉を開けた柴翠は、立ち止まり虚空を見つめている。

 いつ遊びに来ても、明かりがついていて温かいお家の中は寂しくて、冷たい。

 それはまるで、別世界に足を踏み入れてしまうような錯覚を呼び起こす。


 俺は柴翠の手を引いて、一歩踏み出し明かりをつけた。温かい色味の照明は部屋の温度を僅かに上げ、体感した寒さは僅かに和らいだように思う。


 暫くして茉白さんが戻り、帰ろうとリビングのソファから腰を上げたとき、柴翠に泣きながら引きとめられる。


 そんな柴翠を放って帰るわけにもいかず、この日は泊まらせてもらうことになった。


 夜も更けて布団に入ったが、うまく眠ることが出来ないのか落ち着きなく、身動きを繰り返す柴翠。

 少しでも落ち着かせたくてその手を掴まえ、抱きしめる。


 体は震え、涙を必死にこらえている様子がありありと感じとれてしまう。

 その様子に胸は苦しいくらい締め付けられ、全身全霊をかけて不安から守れるよう包み込んで、少しでも安らかに眠れるようにと、俺は力を込めた。


 次の日、俺は勢いよく柴翠に抱きつかれた事により、目を覚ます。


 しがみつくようにして離れない柴翠は、何も言わずただひたすらに、俺から離れることを嫌がっているようだった。

 それはまるで、迷子になってお母さんと離れてしまう恐怖を知ってしまった子供のよう。

 その様子は痛ましく、見ているのが辛い。


 少しして落ち着いたのか、申し訳なさを滲ませた面持ちで紫翠は、視線を彷徨わせている。


 こんなに泣いてしまうほどに深く負ってしまった傷を労わるように、その頬にそっとふれる。

 いつも凛とした印象の強い目元は赤く腫れてしまっていて、痛々しい。


 少しでもはやく冷やさなければと、体を起こそうとした時。柴翠の悲痛な声が聞こえ、袖を引っ張られる。


 その姿は、ふれたら割れて消滅してしまうシャボン玉のようで、怖くなった。


 憔悴しきったその目は、自分の感情が何か理解できずに困惑している子供のよう。

 溶岩のように熱い感情が、お腹の奥から湧きあがってきてしまい、抱きしめられずにはいられなかった。


 どうしたらその不安を、少しでも取り除くことが出来るのだろう。


 絶対に柴翠から離れないという誓約を視認できる形で、結ぶことが出来れば少しは安心してくれるだろうか。


 葬儀の後、無言の帰宅となってしまった千翠さんに、挨拶に行った。


 この小さな骨壺の中にいるという事が信じられなくて、いつものように柴翠に面差しの似た笑顔で、出迎えてくれるのではないか。


 そんな、淡い期待は簡単に破られてしまうことになり、遣る瀬無い気持ちでいっぱいだった。



 


 

 

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