花吹雪が舞う
「ただいま」
帰宅してから玄関のドアを開けてすぐの所にある、全身鏡へと映った自分の首元にあるネクタイが目に入り、口元はゆるむ。
授業のあと、恥ずかしくて雅の目を見れない僕は、物凄く挙動不審だったと思う……。
思い出すと、また顔に熱が集まってきてしまう。
「おかえり紫翠……どうしたの? 何か良いことでもあった?」
その場面を出迎えてくれた祖母に、目撃されてしまった。
「ただいま。今日、雅がネクタイ結んでくれたんだ、それが嬉しくて」
「綺麗に結んでもらったのね、紫翠に仲のいいお友達がいて、おばあちゃんは安心」
おばあちゃんはそう言って、優しく頭をなでてくれた。
少し気恥ずかしさもあったが、安心し喜んでくれているその様子に僕も心が温かくなった。
「ごはん出来たら呼ぶから、降りてきてね」
「わかった。ありがとう、おばあちゃん」
そんな会話をし、僕は自分の部屋へと足を進める。
自室に入り、鞄を置いて上着を脱ぐ。部屋着に着替えるため、ネクタイを外そうとふれた。
雅がせっかく綺麗に結んでくれたのにそれを外してしまうのは惜しい気がして。
少し悩んでからとりあえずシャツとネクタイはそのままにズボンだけ穿き替えることにした。
この浮ついた気持ちを払拭すべく、習慣通り学校で出された課題に取り掛かるが、思っていたよりも早く片付いてしまう。
特にやる事がなくなってしまった僕は座っていた椅子の背もたれに全身を預け、目を閉じて脱力する。
雅がネクタイを結んでくれた時、恥ずかしさはあったものの、とても嬉しかった。
そして、それ以上にあの後、窺い見た雅の表情が僕の頭の中を占拠していて離れてくれない。
――あの心臓の鼓動は、何だったのだろう……。
心臓がどきどきして、少し苦しくて。でもどこか嬉しく思う自分もいて。
初めて体感する感情に、戸惑ってしまった。
結局、僕一人で考えてもその疑問の答えあわせができるわけもなく、一階のリビングから声が掛かる。
そのまま部屋を出て階段を降りれば、父さんが帰ってきていた。
「おかえり、父さん」
「ただいま、柴翠……なんで上は制服のままなんだ?」
そう父さんに指摘され、上を着替えずにそのままだったことを思い出す。
「え……あぁ着替えるの忘れてた。これ雅が結んでくれたんだけど、それが嬉しくて解くの勿体ないなぁって思ってたら、そのまま降りてきちゃった」
ネクタイを持ち上げて言うと父さんは少し驚いたような顔を見せた後、すぐ笑顔を浮かべた。
「そっか、よっぽど嬉しかったんだな柴翠。よかったな!」
柴翠はかわいいなぁ、なんて言いながら少し乱暴に頭を撫でられる。
高校生にもなってと、恥ずかしい気持ちもある。
だけど、おばあちゃんの大切なものを扱うかのような優しい撫で方も、父さんの髪が乱れてしまうほどの少し荒めの撫で方も、どちらも僕が小さい頃から続く二人の僕への数ある愛情表現の内のひとつだと思っている。
高校生になった今でも、僕は内心では嬉しさのほうが勝ってしまう。
あまりはっきりと、当時のことを覚えているわけではないが、僕が二歳の時に母は病気で亡くなっている。
それ以降、父と祖母は母親がいない寂しさを感じさせないようにと、惜しみない愛情を僕に伝えてくれている。
ご飯できてるから早く食べちゃいましょう、というおばあちゃんの声掛けで食卓に座り、手を合わせる。
「いただきます」
この日の晩ごはんは、大根おろしがたっぷり乗った和風ハンバーグに茄子の焼き浸し、油揚げとなめこのお味噌汁にサラダと僕の好きな和食献立だった。
食事を終えて、穏やかに今日あったことなどを話し、一家団欒のひとときを過ごしていた。
そんな折に出てきた話題に、僕は少し驚いてしまう。
「今度、雅くんに家へ遊びに来てもらうというのはどうかな? 柴翠と仲良くしてくれているお礼も伝えたいし」
満面の笑みで言う父さんの提案に嬉しさ半分、気恥ずかしさ半分といった少し複雑な気持ちになる。
「そうだね、どうだろう。雅は誘ったら来てくれるかな……」
雅が家に来てくれたら嬉しいなぁ、なんて思う。明日、聞いてみようかな。
「明日学校で聞いてみたらいいよ。普通に遊びに来てもいいし、相手の親御さんが許可してくれるなら泊まってもらってもかまわないし」
雅とお泊りは絶対に、楽しいと思う。
「おばあちゃんは、いいの?」
それまでにこやかに見守ってくれていたおばあちゃんにも確認をする。
「もちろん、おばあちゃんも柴翠にあんな嬉しそうな顔をさせる雅くんに会ってみたいもの」
おばあちゃんもにこやかに、言ってくれる。
小さい頃から比較的、一人で過ごすのを好んでいた僕は誰かを連れてきたり、友達の話を家ですることも殆どなかった。
だが、中学生になり雅と出会ってから、自然と自分の話をする機会は増えていたと思う。
本当は心配をかけていたのかもしれないと、二人の様子を見て気付かされた。
「わかった、明日雅に聞いてみるよ」
「よし、そうと決まったらはやくお風呂入って寝て、明日は万全の体調で挑まないとな!」
父さんにお風呂場のほうへと、背中を押される。
遊ぶ約束をするのに万全の体調で挑むとは……? と思ったのは、黙っておこうかな。
「そうね、暖かくして、今日はゆっくりと眠って体を休めないとね」
僕よりも楽しそうに話す父と祖母に、笑みがこぼれる。喜んでくれてよかった。
それにこういう時、この二人はやはり親子なのだなと思う。
本音を言えば、母がいない寂しさを感じたことがない。と言うことはできない。
僕自身に母についての記憶というものは、殆どないと言っても過言ではないと思う。
物心ついて周りの友達には「お母さん」という存在が当たり前にいるのに、僕にはいない。
それを幼いながらに悩んだ時期もあったし、迎えに来てくれたお母さんと手をつないで帰っていく友達を見て、羨ましいと感じたことも一度や二度ではない。
授業参観のような親がくるような行事ごとには、大抵の場合、お母さんが来るというのが世間一般的にいう「普通」というものだ。
父や祖母が来てくれる僕を不思議に思うのか「なんで深月くんのお母さんは来ないの?」なんて聞かれてトイレにこもり、人知れず泣いたことも記憶には鮮明に残っていたりする。
それでも僕は二人にそれを言ったことはないし、これからもそれを伝える気はない。
それに、今まで一度も欠かすことなく、二人は学校行事に参加してくれていた。
そんなことを言って、悲しい顔や困った顔をさせたくなかったし、これ以上ないくらい二人は日々僕に愛情を伝えてくれている。
確かに母さんがいないのは、さみしい。でも二人がいるなら、この家族の「かたち」だからこそ、僕はいま幸せなんだと、心からそう思えるようになった。
「二人ともありがとう、お風呂入って今日はゆっくり寝るね」
お風呂場に入り脱衣所の鏡で一頻り、ネクタイが締められている首元を見る。
少し名残惜しい気持ちはあったが、ネクタイの結び目に手をかけゆっくりと緩め、そのまま服を脱いで、浴室へと足を踏み入れた。
あたたかい湯舟につかり、ゆっくりと一日の疲れを癒す。
軽くスキンケアをしてから髪をドライヤーで乾かし、二人に就寝前の挨拶をしてから普段より少し早めに布団へと入り、僕は眠りの世界へと旅立った。
その夜、夢をみた――。
夢の中で僕はお花畑の真ん中にいて、見渡す限り一面に白い花が広がっている。
その至るところに、点々と存在する赤や紫。
あまりにも美しく咲き誇る花々に思わず辺りに視線を彷徨わせていれば、離れた所に母さんと父さん。おばあちゃんと雅を見つけたが、何故かみんな僕に背を向けている。
僕もそちらへ行きたいと、手をのばしたその時。瞬間的に目を開けていられないほどの強い風が吹き、花びらが空へと舞い散り飛んでいく。
その光景に僕は目を奪われた。我に返ったときすでに辺りに人影はなく、僕はひとり静かに佇んでいた。