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幸せの花を君に捧ぐ  作者: 綴 朔哉


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アディクション

 


 僕が二十二歳になる、少し前のこと。


 この時七十六歳だった祖母が息切れの症状に悩まされ始め、本人は年齢のせいかもというが、不安になった僕は病院へ行くことを強く勧めていた。


 やむを得ずという感じでおばあちゃんは病院を受診し、結果として心疾患の疑いがあるという診断が下る。

 そこからさらに精密検査が必要になり、後日、僕もその付き添いのため病院へと赴く。


 検査の結果は心不全という診断で、完治することはないが薬物療法や食事療法で改善し、進行を遅らせることは可能だという。

 カテーテル手術を行い、約一ヶ月ほどの入院の後におばあちゃんは自宅へと帰ってくることができた。


 それからは平穏な日常を送り、無理のない範囲内で風光明媚な場所へ足を運び、自然の美にふれてみたり、温泉地に家族水入らずの旅行をしてみたり。


 限りある時間が、有意義なものになるように。大切な思い出を、たくさん残せるように。


 雅も時間ができれば、みたらし団子や柏餅などおばあちゃんが好む甘味を手土産に、遊びに来てくれていた。

 持ってきてくれた甘味をお茶請けに談笑したり、料理を教わったり。


 穏やかに、時間は過ぎていった。


 僕が大学を卒業し、就職をしてもうすぐ一年が経とうとしていた頃。

 その年の冬の寒さはとても厳しく、降雪量も多かった。季節が冬へと移り変わってからどこか、本調子でない祖母に僕はずっと気を揉んでいた。


 少しずつ最高気温が上昇し、暖かくなってきていたと思っていた矢先。

 花冷えの季節が到来し、小さな薄いピンク色の花びらが蕾をつけはじめているのにも関わらず、寒暖差が激しい毎日。

 この頃の気温の変動は健康体の僕ですら、体に負荷が掛かっていることを自覚するほどのもので、僕自身も体調にかなり左右されていた。


 そんな日々が続いていた、寒い夜のこと。


 自宅の玄関を開けて見えたリビングに繋がる扉の向こうには、暗闇が広がっていた。


 胸騒ぎがした僕は靴が四方に飛ぶことも構わずに、室内へと足を踏み入れて、部屋に明かりを灯す。

 辺りを見回して捉えたものは、ソファの向こう側でこちらに背を向けるようにして倒れている、祖母の姿だった。


 全身から血の気が引き、ガタガタと歯の奥が震え、固まってしまった足に鞭を打ち、駆け寄る。

 呼びかけにも応じない祖母に、覚束ない手で必死にスマートフォンを手繰り寄せて、救急車を要請した。


 十五分ほどで到着し、救急隊員に運ばれる祖母を、画面の向こう側をみているかのように呆然と見ていることしかできなかった。


 救急車に同乗するという、ドラマや小説の中でしか見たことのない状況を、まさか自分が経験することになるとは夢にも思ってもいなくて、乗っている間の記憶はあまりない。


 検査のため入院する事が決まり、酸素濃度計と酸素マスクを着けられた眠っているその姿を見た時。

 僕の心は強い風を受ければ、簡単に崩れてしまう砂漠の砂の城のように脆くなり、壊れてしまいそうになった。


 連絡を受けて病院へと急いで来てくれた雅を見た瞬間に、僕は思わず縋り付くようにして、手をのばしてしまう。

 父さんの時の事が頭を過ぎり、濁った感情が渦を巻くような濁流となって、僕の身に襲いかかり削ろうとしてくる。


「大丈夫だよ、落ち着いて、紫翠」

 僕の名前を呼んでくれる声は柔らかく、肘の辺りを擦るようにしてくれる手は温かい。


 少し落ち着きを取り戻した僕の手を取ってそのまま繋ぎ、病室へと入る。

 先ほどと光景が変わることはないが、部屋の中が僅かに明るくなったように感じ、自分の視野がいかに狭くなっていたかを、思い知らされた。


 そうだ、僕が弱気になっていてどうする。現実には魔法なんてものは、存在しない。


 辛いときは何をどうしても辛くて、それ以外の事を考えることができない。


 だけど、それを嘆いているだけでは変わることも、何かを変えることもできない。


 今考えるべき事は僕に出来ることが何なのか、おばあちゃんにとって最善とは何かだ。


 面会時間も迫り、必要な荷物を準備するために一度帰宅する。

 書類をダイニングテーブルに置き、息つく暇もなく動こうとする僕を、雅は止めるように手を広げ待っていた。


「おいで、紫翠」

 僕は込み上げてきそうになる涙を必死に抑えて歩み寄り、ぽすんとその胸の中に収まる。


 頑張ったね。きっと大丈夫だから、休める時に体を休めておかないと。


 今は茉白さんの事を信じよう?


 このままだと、紫翠まで倒れちゃうよ。


 頭の中で考えすぎていてもいいから、その気持ちを全部抱えて辛いときは、俺のところにおいで。

 俺が出来ることなら何だってするし、絶対に紫翠のそばから離れないから。


 ゆらり。ゆらり。と揺り籠のように抱きしめられたまま優しく揺られていれば、少しずつ全身の強張りは解けていく。


 体裁や世間体を気にする事が癖になってしまっている僕も、雅の前ではそれを上手く繕うことが出来なくなる。


 一度、優しく呼ばれてしまえば、その胸に縋り付きたくなってしまう。

 その柔らかく甘い声と体温に、バターが熱によって溶けるように体の力は抜け、僕より少し広い肩幅に身を預けるようにすれば、自然と瞼は落ちてきてしまう。


 まだ眠りたくない。意識が暗闇に包まれてしまうのが、今の僕には怖くてたまらないのに、体は言うことを聞いてくれず、小さな子が愚図るように雅の胸元を掴む。

 柔和な笑顔を浮かべた雅は、僕の前髪をそっと避けておでこにキスをひとつ。


「怖い夢からは、俺が守ってあげるから、大丈夫」

 紫翠が望むのなら、ずっと抱っこしていてあげるから、今はゆっくり眠って?

 まるで雲の上で流れに身を任せているかのように、雅の腕の中にいれば、僕の世界には穏やかな時間が流れる。


 雅の存在は、こんなにも心強い。たったひとりに心酔することは酷く怖ろしい事のはずなのに、その目に映されている自分が見えた時。

 僕は雅のものなのだと身震いをしてしまうほどの、優越感を感じる。


 安心する体温に包まれて、僕は眠りに落ちていった。



 次の日、病室に入ると祖母の意識は戻っていた。酸素マスク越しに見える表情は、苦しさが見てわかるのにおばあちゃんはそれを隠すように微笑む。

 その姿は、痛々しくて痛烈に僕の心へと棘のように、刺さった。

 傍らの椅子に腰を掛けて、手を握る。


「心配、かけてごめ、んね。紫翠」

 おばあちゃんが話すたびに、酸素マスクの内側が吐息で曇っては、少し引いてを繰り返している。

 呼吸をしていることすら苦しそうで、心が引き千切られるように痛くて、何も出来ないことが酷くもどかしい。


「ごめ、んね。一人にして」

「それは、大丈夫。……だけど……やっぱり寂しいから、早く元気になって帰ってきてね」

 僕の言葉におばあちゃんは、にっこりと優しく笑ってくれた。


 自宅へ帰ってからも悲観的で後ろ向きな想像は止まらなくて、気付けば外の世界は真っ暗になっていた。 

 明かりをつけようと、立ち上がった時。スマートフォンが、着信を知らせる。


 その音に心臓は跳ね上がり、鼓動を刻みすぎて震える手を抑え、恐る恐る画面を覗き込む。

 ディスプレイには「雅」の文字があり、迷わず通話ボタンを押した。


「紫翠? 今、家にいる?」

「うん、いるよ」

「今から、行ってもいいかな?」

「うん、きてほしい」

「ありがとう、十五分ほどで着くと思うから、まってて」

「うん。まってる」

 いつもと変わらないその声に、心の中で蓄積され続けた不安が、溶かされていくのを感じた。


 はやく会いたくて、抱きしめてほしくて。たった十五分なのに、時間が止まってしまったのかと錯覚するほどに、遅く、長く感じてしまう。

 出迎えた雅は、急いで来てくれたのか少し息を切らしていて、その手にはスーパーの袋が下げられていた。


「紫翠、キッチンお借りします」

 雅はよく、おばあちゃんの手伝いをしながら料理を教えてもらっていたので、何がどこにあるかは把握しているだろう。

 そこは特に心配していないが、珍しいとも思える少し強引な行動に目を白黒させてしまう僕を置いて、キッチンの方へと行ってしまった。


「紫翠ー?」

 呼ばれ、慌ててその後を追う。


「おいで?」

 優しい表情でそんなふうに言われたら、たまらない。その大好きな体温に包まれるため、体は勝手に動いてしまう。

 雅のいつもと変わらない態度は一時の安息をくれ、強張っていた体が弛んでいくのを感じる。


「座って、待っていて?」

 頭を撫でてくれたが、その体温は離れていってしまう。言われた通りに座って様子を窺っていたら、包丁とまな板が接触する時に鳴る、小気味の良い音が聞こえてきた。


 暫くして、食欲を刺激する、芳しい匂いが漂ってくる。ダイニングテーブルで待っていた僕は、そっとキッチンの方を覗き込んだ。

 その先には、まるで魔法を使っているかのような手捌きで作業を進めている雅の姿があって、つい魅入ってしまう。


「どうしたの? お腹すいた?」

 太陽のように暖かい笑顔で言うその姿がなければ、どうなっていたのかなんて考えたくもないくらい、僕はいつも雅に救われている。


 雅が持ってきてくれたのは、シンプルながらも丁寧に作られたトマトリゾットだった。

 ふわりと湯気が立ち昇り、トマトの酸味を感じる香りは食欲をそそる。

 ハーブのどこか甘く、ほろ苦さの残る芳しい香りも相まって、忘れてしまっていた欲求を思い出し、お腹は空腹を訴える。

 見た目も鮮やかで目が覚めるような美しい赤は、お皿の上でさらにその輝きを増しているように思う。

 食感の良い硬さに炊き上げられているお米は噛んだ時に粒感を感じることができ、トマトのしっかりとした旨味は、不安によって疲弊した体に染み渡っていくようだった。


 食欲なんて湧かないと思っていたのが嘘のように、次々と口へとスプーンを運んでしまい、あっという間にお皿は空になってしまった。

 その事に自分でも驚き、雅の方を見れば優しく微笑んでくれる。

 付け合わせで出してくれた南瓜のサラダにも箸を伸ばせば、ほんのりとキャラメルの風味がした。

 花の蜜のように甘くて、冷えてしまっていた心が、じんわりと温かくなり幸せで満たされるような、優しい感覚に包まれる。


「ごちそうさまでした。……雅、ありがとう。美味しかった」

「どういたしまして、喜んでもらえてよかった」

 太陽が温かい日差しで照らしてくれるように、雅は僕に大きな安心と愛をたくさんくれて、向けてくれるその笑顔は、僕の幸せを体現している。


 後片付けも終わりソファへと座り、眠気が訪れてくれるのを待っていた僕に雅は、ハーブティーを淹れてくれた。

 湯気が立つ透明なカップには、泉から湧き出たのかと思うほどに神秘的で、美しく透き通った青に白色の可愛らしい花が、浮かべられている。


「綺麗な色……お花も浮かんでる」

 両手でそっと包み込むように持ち上げれば、甘くやわらかな花の香りが、鼻腔を蕩かす。


 そっと口にすれば、ほんのりと優しい甘さが口の中に広がって、喉を降りていく。

 食道を温かさが通り、僕の体の中へと入ってその一部になる。


 余韻が口の中へ微かに残り、ふわっと消えてしまう。


 美味しい。心が甘く柔らかい綿飴に包まれるような、安心させられる感覚に浸る。


「バタフライピーっていうハーブを使ってみたんだ。カモミールも入っているから安眠効果もあるよ」

 それにね。この綺麗な色を見た時、紫翠みたいだなって思って飲んでみて欲しかったんだ。

 それはまるで、愛の告白のようにも聞こえた。言葉では表現することの出来ない、雅の「心」を貰ったようで嬉しくて、少し気恥ずかしくて。

 照れを隠すようにもうひと口、飲む。


「これね、レモンを絞ると色が変わるんだよ」

 そう言って、スライスしたものを持ってきてくれる。

 液面にそっとレモンを浮かべると、紫陽花の色が移ろいでいくかのように少しずつ青からピンクがかった紫色に変化した。

 その光景に目を輝かせつい、魔法みたいなんて零してしまうと、正面に座った雅が微笑んでくれたのがわかった。


 僕も一緒に笑っていると体は温まり、心が安らいでいくのを感じていれば、睡魔は少しずつ近づいてきていたようで、瞼が重くなってくる。

 雅の隣は心地よく幸せなこの時間が終わってほしくなくて、眠気と戦いを繰り広げていれば、優しくそっと抱き上げられベットまで連れて行かれた。

 背中に柔らかい感触が伝わってきて、下ろされたことに気が付く。

 大好きな体温が離れてしまった事が寂しくて、すぐ横に入ってきた雅へと手をのばして吸い寄せられるように、いつも僕の事を簡単に蕩かしてしまう甘い唇へと、自分の唇を重ねた。


 温かい布団の中で夢見心地のままの僕は、朦朧としてくる意識に抗うように、大好きな匂いのする胸元に額を擦り寄せたが、抵抗虚しく睡魔に負けた。


 落ちていく意識の中で、雅が笑ってくれたような気がして。

 雅が見せてくれるその笑顔は僕の心を掴んで離さず、太陽のように暖かく照らして、時にはチョコレートのような甘さで僕を虜にしてしまう。

 一度、嵌ってしまえば二度と抜け出すことの出来ない甘美な罠に、僕は自分から態と囚われに行く。

 

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