最愛の証
その日、思えば僕は朝からあまり体調が良くなくて、薬で誤魔化すようにして、鈍い痛みを訴える頭を押さえて外の世界に踏み出した。
人が多く空気の悪い電車内にさらに具合は悪くなる一方で、重い体を引き摺って辿り着いても、いっそこのまま横になってしまいたいと考えてしまうほどの状態では、話なんて何ひとつ入ってはこない。
こういう時に限って、上手く作用してくれない鎮痛剤に少し苛つく。
少し外の風にでも当たろうと、合間の時間にキャンパス内のベンチに腰を下ろし、休んでいた。
ゆるく吹き付ける風は心地よくて、僅かに痛みは遠のいた気がして、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
ここ最近僕の頭の中には、雅のお母さんの言葉がこびりついて離れてくれなかった。
気にしていないと口では言えても、実際は言われたことを心の中で何度も反芻し考えてしまう。
思えば、この頭痛も寝不足によるのかもしれない。雅にあれから殆ど会えていないのも、原因のひとつだと思う。
「陽向ー!」
よく知っている名前が聞こえ、何気なく見た方向に見慣れた後ろ姿が見えて僕はつい微笑んでしまう。
声の主と思われる女性が反対方向から走ってきて、二人は少し立ち止まり、仲良さそうに会話を交わす。
不意に女性の方が雅に近づき、肩に手を置いた。
僕は、目が離せない。どくんと心臓の音が、大きくなる。
周りの音は一切耳に届かなくて、激しく脈打つ自分の心臓の音しか聞こえない。
ゆっくりと二人の距離が近づいて、キスをしたように見えた。
僕からは走って近づくか、大きな声を出さなければ気付いてもらえないほどの距離の為、見間違いである可能性も容易に考えられる。
だが、冷静さを欠いた脳では正常な思考など出来ず、見ていられなくて、目を逸らす。
今起こったことが現実なのかも分からなくなって、心臓が異常な程に脈を刻み、視界はまわりはじめる。
自分が正常に呼吸できているのかも定かではなくて、まるで僕以外が止まってしまったかのような奇妙な感覚と、胃の中に何か重たいものを入れられたような不快感が一気に押し寄せてきた。
ちがう、雅はそんな事をする人じゃない。
きっと、何か理由があったんだ。もしくは、僕の見間違いかもしれない。
朝から体調が良くなかったから、きっと悪い何かに幻影を見せられたんだ。
だから、大丈夫。必死に自分に言い聞かせながら、耳元のピアスにふれる。
これがあるから、雅との大切な約束だから、絶対に大丈夫。
容赦なく襲いかかってくる頭痛と、混乱する気持ちに心の中の均衡が、破綻してしまいそうになる。
いっそ意識を飛ばしてしまいたいのに、こういう時に限ってうまくそれが出来ない。
こめかみの辺りの血管が激しく収縮し、締め付けるような激しい痛みを訴えてきていて、静止していることも、座っていることすら辛い。
やっぱり女の子なの……?
男の僕はもういらない……?
色々な気持ちが入り混じってしまい、気が狂いそうだった。視界は滲み、うまく息ができなくて、不意にどこからか言葉のナイフが飛んでくる。
――雅の人生を奪わないで。
僕は雅の人生を邪魔、しているのか? 喉からは変な音が何度もこぼれ、苦しさから逃れるように目を固く閉じた。
「みやびのこと、すきになってしまってごめんなさい」
整わない呼吸の中で吐息のように零れた、誰に対して謝っているのかも不明な言葉に、僕の中の何かが壊れるような音が鮮明に聞こえた。
それは僕が、自分の想いを殺した音だったのかもしれない。
その言葉に自分自身が一番の深手を負い、見えない糸で首を締められてるみたいに苦しくて、必死に外そうと指で掻いても、視認することが出来ないものを外すことは出来ない。
――雅にとって僕の感情が邪魔になるのなら、こんな気持ちはいらない。
気づいた時には二人共いなくて、僕の前で起こったことが夢か現実か判別がつかず、この場からはやくいなくなりたくて痛む頭を押さえ、這うようにその場を後にした。
長年に渡り降り積もって蓄積した感情は、その年月を経て形は歪になり、出会ったばかりの頃のような想いを秘めていることが出来ればいいという、純度の高い「好き」だけではなくなってしまったのかもしれない。
想いが通じる幸せを、僕は知ってしまった。
「誰にも、渡したくないなぁ」
涙が頬を流れて、顎から首を伝い着ていたトレーナーの襟元が、雨にでも降られたかのように湿っている。
お前は雅から、離れるべきだと。聞こえるはずのない声が、僕のことを責め立てる。
それからどうやって帰ってきたのかは曖昧で、家に着いたとき僕の服は雨にでも降られたのか水気を含んでいた。
一刻も早く横になりたくて、そのままソファへと横たわり僕の意識は黒く塗りつぶされた。
「し……い」
「……すい」
遠くで、声が聞こえる。僕が聞くだけで安心できる、大好きな声。
「紫翠!」
ぱっと靄が晴れ、視界が開けた。目が一気に光を知覚し、取り込んだことにより痛みを感じる。
金属音が耳元で鳴ったかのように不快で、光の強さに目が眩む。顔を歪め、光を遮りたくて僕は目元に手をかざす。
みやび……?
少しずつ線を結ぶ視界に映ったのは、焦った様子の雅の顔だった。
耳が何かに覆われ、膜が張られているかのような耳閉感があって、周囲の音も籠もって話している雅の言葉を、上手く拾う事ができない。
これは、きっと夢なのだろう。雅への想いが大きくなりすぎたことによって見た、都合のいい夢。
それなら、少しくらい甘えてもいいかな。
僕は徐ろに雅の方へと、両手をのばした。雅は僕の背中に手を入れて、そっと抱きしめてくれた。その温かさに安心して、忘れていた涙が溢れてくる。
――どうして、ぼくのところにきてくれたの?
そんな疑問は浮かんだが、静かに涙を零すことしか出来ない僕を雅は抱き上げて、膝に乗せ体の隙間が出来ないくらいに優しく、強く抱きしめてくれた。
少しでも光と音を遮りたくて、雅の首筋の辺りに顔をうめれば、うっとりしてしまうほどに安心する匂いがして、締め付けられるような痛みが和らぐ。
子供をあやすみたいに、心音にあわせて背中を撫でるように、軽くとんとんと叩かれる。
そうされるだけで凄く安心して、まるで魔法みたいに不思議と痛みが引いていくような気がした。
「頭、痛いの?」
声のトーンを抑えて、僕の頭に響かないように配慮をしてくれているのがわかり、声を出すのも億劫な僕はぎゅうっと雅の背中の服を返事代わりに握る。
「そっか、しんどいね。薬は飲んだ?」
朝に飲んだ。ほとんど声になっていない小さな声を、ちゃんと雅は拾ってくれる。
「紫翠とりあえず体が冷えてるから着替えて、薬飲もう」
ちょっとだけ動かすね、と言って振動ができるだけ伝わらないように、細心の注意を払って横たえられた。
光から守ってくれるようにして、雅が着ていたカーディガンを目元にかけられ、そっと頭を撫でられる。
その間に、雅は色々と準備をしてくれているようで、控えめな足音が聞こえていた。
暫くして、声をかけられる。
「紫翠、体起こすね」
背中に手を入れられ、抱き起こされて見慣れた鎮痛剤と、ストローがささったペットボトルの水を手渡された。
普段よく服用しているのは即効性を重視して選んでいるので、口に含んだ瞬間から唾液で溶けてしまい、僅かな苦味を感じる。
水を口に含み、薬を何とか嚥下し飲み下す。ペットボトルを回収されて、軽く体を蒸しタオルで拭いてもらってから、温かい格好に着替えさせられた。
その間も意識は朦朧としていて、暗く冷たい水の底へと沈んでいくように徐々に音は遠くなり、不明瞭になっていく。
額に冷たい感覚があって、冷えピタを貼ってくれたのかとぼんやりと考えた。
「薬が効くまで、少し眠ったほうがいいよ」
そんな言葉が聞こえるが、その間も体は暗い水の中に沈み続けている。
――そばに、いて、僕から、はなれないで。
言葉が水の中に仄暗く、浮かび上がったように見えた。自分の口が、譫言のように何かを言ってしまったような気もするが、何を言ったのか、わからなくて。
そのまま僕は、前後左右すらも認識できない真っ暗な世界の、得体の知れないものに飲み込まれた。
急に、世界が明るくなる――。
僕は大学のキャンパス内にいて、雅は僕に背中を向けていた。
声を掛けても雅は振り返ってくれなくて、懇願するように僕は何度も名前を呼ぶ。
ようやくこちらを見てくれたと思った、一瞬後の出来事。
「もう紫翠の事、好きじゃないんだ」
言葉を紡ぐ唇が、スローモーションに見えた。いつも優しく僕のことを呼んでくれる声は、まるで別人のように冷たくて、氷の矢と姿を変えて、僕に襲いかかってくる。
――いやだ、置いていかないで。
心臓を氷の矢で串刺しにされ、矢は冷気を放ちすべてを覆い尽くす。
機能を止められ、血液を循環させることができない心臓では息も吸えず、もがき苦しみながら必死に背を向けて去る雅に手をのばす。
――お願い、待って……みやび。
僕が何度、その名前を呼んでも、雅が振り返ってくれることはなかった。
「紫翠!」
体を揺らされ、目を開ければ見慣れた天井を背景に、僕の目は雅の姿を捉える。
みやび……?
「すごい魘されてたけど、大丈夫?」
なんでいる、の? 僕の事、もう好きじゃないって……。
そっとあたたかい指で目元を拭われ、そこで自分が涙を流していることに気が付く。
「俺が紫翠を好きじゃなくなるなんて、ありえないよ」
悪い夢、見たの怖かったね。夢とは違う慈愛に満ちた、温かい声に僕の視界は徐々に、ぼやけていく。
雅がそっと掛け布団を捲って、隣へ潜り込んでくる。首の下に手を回され、宝物にふれるようかのようにして、僕の体は優しい温度に包みこまれた。
足も絡められれば、お互いの体がぴったりと密着するようになり、じんわりと伝わってくる体温は湯船のような安らぎをくれて、僕の氷と化した心臓は溶かされていく。
まだ眠れそうなら、もう少し眠って紫翠。
次起きた時も絶対、そばにいるから安心して。
キャラメルのような甘い声を耳に流し込まれて、僕の意識は綿飴のように溶けていった。
鳥の囀りが耳に届き、僕は目を覚ます。昨日感じていた重苦しい痛みはどこかへと消失していて、額に貼られていた冷えピタには、まだ冷たさが残っていた。
視界に入った天井は見慣れているもので、不意に左手が温かい何かに包まれていることに気づく。
体をゆっくりと起こし視線を向ければ、その先には雅が僕のベットに突っ伏して眠っている。
いつも優しくふれてくれる雅の綺麗な手は、僕の左手へと重ねられていた。
「ん……紫翠、起きたの?」
体調はどう? と起きてすぐに眠気眼をこすりながらも、一番に僕のことを気にかけてくれる雅。それは僕がよく知っているものに、変わりはなかった。
心臓が、嫌な音を立てる。これはどちらなのだろう? 現実? 夢の中?
自分が今、どちらにいるのか分からなくて、右手のひらに自分で爪を立ててみれば痛みを感じた。
それにより現実だということはわかったが、起こった事のどこまでが本当で、どの部分までが嘘なのかという識別が出来なくて、返事を上手く返すことができない。
「紫翠、何かあった?」
それとも、俺が何かしてしまった? 雅の問いかけが何に対するものなのか分からず、魘されて見た夢での状況が僕の脳裏をちらつき、動揺する。
「えっと……それ、は」
懸命に頭を使い考えても、聞かなければいけないことに対する言葉を上手く見つけられない。
少しの逡巡の後、小さく軋む音が聞こえベットが少し沈み込み、雅が静かな声で言った。
「……俺が紫翠を不安にさせることを、したんだよね」
俺じゃその原因が、わからなくて。だから、教えてほしい。
何もなければ紫翠は、体調悪くても濡れた服のまま寝たりしないでしょ? それに一番は「どうして、ぼくのところにきてくれたの?」なんて言わないかなって。
何も言わない僕の事を責めるどころか、優しく接してくれる雅は、やはりいつもと何ら変わりはなくて。あんな酷いことを、言うとは到底思えない。
意を決して、僕は言葉を紡ぐ。
「雅は、僕の事……好き?」
真意の読めないであろう、掴みどころのない質問にも雅は真摯に答えてくれた。
「好きだよ、言葉なんかじゃ表せないくらい」
その真剣な眼差しに、焼かれてしまいそうになる。
「俺ね、紫翠に渡したい物があって……右手出してくれる?」
そう言って雅はスボンのポケットに手を入れて、そこから小さな木箱を取り出す。
その箱をそっと開ければ、そこには二つの指輪が並んでいた。
それを雅はそっと取り出してから僕の手を掬い上げるようにし、薬指ヘとはめてくれる。
まるで王子様がお姫様にするような、一連の動作とは対照的に、雅の手は少し震えているような気がした。
シルバーのシンプルなデザインの指輪は、僕の指にぴたりとはまっていて、まるで僕のために誂えられたかのような、特別な煌めきを放っている。
「これね、俺の分もあるの。紫翠がつけてくれる?」
上向けた僕の手のひらにリングが置かれて、右手を差し出される。
全く同じデザインの指輪を雅がしてくれたのと同じ様に、そっと薬指にはめた。ペアリング? 呟くように言った僕に、雅が優しく答えてくれる。
「そうだよ、俺が作ったペアリング」
作った……? いつ? それにサイズは? たくさんの疑問符が浮かぶ。
「どうして? 雅、昨日女の人と……」
そこまで言ってはたと気付き、口元を押さえた。違和感しか感じられない誤魔化し方が咄嗟に出てしまい、背中の中心を冷たいものが流れていくのがわかる。
「女の人? 汐見さんのことかな……」
「雅がその人と……キス、してたように見えて」
キス!?してない、してない。雅はベットの上で両手を顔の横に上げて、無罪を主張するかのように眉を下げている。
「汐見さんにはリングのお店教えてもらっただけで、昨日はその報告を……それに彼女にも同性の恋人がいて、それをきっかけに少し仲良くはなったけど、浮気とかでは断じてない。絶対に」
珍しく驚くほどに必死な雅の姿と、先程の言葉に自分が何であんなに不安な気持ちになってしまったのか、急に分からなくなった。
断片的に残る記憶の中で、雅は甲斐甲斐しく僕の看病をして、約束通りずっとそばにいてくれた。
この指輪だって、雅が多くはないはずの空き時間を使って、僕の為に作ってくれた。
目まぐるしく過ぎていく、忙しい日々の中では大変だったはずだ。
何でそんな事にも気付かず、雅を疑うようなことを言ってしまったのか、罪悪感に苛まれてくる。
「紫翠……?」
不安を色濃く乗せた声音で、黙ってしまった僕を覗き込んでくる雅の首元に手を回して、勢いよくその胸の中に飛び込んだ。
おわっなんて声が聞こえたが、お構いなしにぎゅうっと抱きつく。
咄嗟の事にも関わらず、雅はしっかりと僕の事を支え、受け止めてくれた。
「疑ってごめん、みやび。ありがとぉ……」
雅の気持ちが離れたわけではないことへの安心と、こんなにも大切にしてくれているのに疑ってしまった負い目に、僕の心の中はぐちゃぐちゃになる。
それはまるで、自分の感情をうまく理解できずに、泣くしかない子供のようで。
「俺の方こそごめんね、それに紫翠は悪くないよ。体調良くない時に俺が、嫌な思いをさせちゃった」
今回は入れたからよかったけど、次からはちゃんとお家の鍵閉めるんだよ? なんてお母さんのようなことを言う雅に、僕は笑ってしまう。
「よかった、泣き止んでくれた」
やっぱり紫翠には笑ってる顔が一番似合うよ、なんて今の僕の顔は涙や鼻水で酷い有様だろうに、愛おしさを惜しみなく伝えるように、瞼と鼻先にキスをくれた。
雅はどこまでも優しくて、僕のことを何よりも大切にしてくれている。
「みやび、こっちにもして」
後ろに重心をかけ、重力の赴くままに後方へと倒れた。
「仰せのままに」
王子様のように、美しく微笑んだ雅に左手を捕まえられる。
花は太陽の光を吸収し、光合成を行うことによって、自身に必要な栄養を生成している。
太陽光は唯一のエネルギー源であり、成長を促進し十分な光量を受けることができれば、花はより大きく、より美しく咲くことができる。
僕にとって雅は太陽で、必要不可欠な存在だ。
「今はこっちだけど、いつかちゃんとここに指輪を贈らせてね」
ちゅっと可愛い音を立てて、左手の薬指にキスをされる。
「その時は、受け取ってくれる?」
「もちろん、雅が返してって言っても、僕は絶対返さないからね」
ふはっと吹き出すように笑った雅は、返してなんて死んでも言わないよ。
ここにも一生外せないおまじないでもかけようか? なんて僕の耳元のピアスにふれながら、楽しそうに言う。
それも、わるくない。寧ろその方が、いい。
呪いでも何でも、それが理由になるのなら。
だってそれは僕がずっと、雅の隣にいれる、確約になるでしょ?
僕はそれから事あるごとに、指輪のはまった右手を宙へ翳し、眺める事が楽しみになった。
またひとつ、宝物が増えて僕の薬指で輝く光彩は、永遠を約束する証のようで、目に入るたび笑みがこぼれる。




