純白の羽根と赤いネクタイ
僕、深月紫翠と陽向雅の出会いは、今から約二十年前の中学一年生の時にまで遡る。
独特の空気間に包まれた中、行なわれる入学式。慣れない制服に身を包み、僕は緊張感が最高潮に達していた。
滞りなく式は終わり教室へと戻れば、学生生活への心構えについてや自己紹介を行い、約二週間後に控えている宿泊オリエンテーション授業での部屋割り、班行動の編成の指示を受けた。
班編成は出席番号順で二列ずつ並んでいる席の前方の六人、後方の六人といった具合で決まり、その塊が三ブロックある為、一クラスで班が六班できることになる。
そこから決められた班へ分かれ役割分担を決める為に、机を動かして話し合いが始まった。
学校行事において宿泊を伴う行事が著しく苦手な僕は、不安でいっぱいになる。
知らない人に囲まれている緊張でうまく話せない僕を他所に、話は次々と進んでいく。
僕の前に座っていた女の子が班長を買って出てくれたことにより、続々と役割が決まっていく。
「ねぇ、深月君はどの役がいいの?」
急に話しの矛先がこちらに向いたことにより、驚いた僕はしどろもどろになり、返答に困る。
「えっと、僕は……」
聞かれたことに対する答えを言わなければ、と視線を動かし考えるが言葉は出てこない。周りの視線が怖くて、顔を上げられない。
「じゃあ、俺と一緒に美化係をやるとかはどうかな?」
「え……?」
この時に話しかけてくれたのが、僕の右隣に座っていた陽向雅だった。
控えめに覗き込むようにされて、顔を少し上げた僕と視線が合った刹那、彼に優しく微笑まれた。
「美化だったら、掃除くらいしか役回りないし、二人編成だからやりやすいんじゃないかな」
心臓の鼓動が早まる。どう? なんて聞かれて僕は言われるがままに頷いた。
気付いた時には必要な事は全て決まっていて、その日は解散となった。
「あのっ! さっきはありがとう。陽向くん」
帰り支度をしていた雅に、お礼を言うため僕は声をかけた。
「ん? あぁ、いえいえ俺の方こそ余計なお世話になってなかった?」
「全然、そんなことないよ! 正直、凄い助かりました」
僕は、軽く頭を下げ、笑って見せる。
「あっ! やっと笑ってくれた、よかったぁ」
それは、太陽のように暖かくて優しい笑顔だった。一日中、緊張で強張っていた体から力が抜けたのがわかる。
「ねぇ深月くん、紫翠って呼んでもいいかな?」
俺と、友達になってほしい。顔をくしゃっとして笑うその表情に、心には小さな波が打ち寄せた。
「いいよ、僕も雅って呼んでもいいかな?」
初めて、自分から仲良くなりたいと思った人に名前で呼んでもらえるのは、素直に嬉しくて。
「もちろん、紫翠に呼ばれるの嬉しいなぁ、いっぱい俺の名前呼んでね」
ふわふわと優しい笑顔で言われ、心臓がどきりと音を立て脈打ち、波は大きくなる。
今の感覚はなに? 僕はその意味を理解することができずにいた。
一緒に歩く、帰り道。会話に花が咲いた僕たちは、公園に寄り道をして色々な話をした。
好きなもの、よく聞く音楽、最近笑ったこと。そんな何気ないことを知れるのが楽しくて、嬉しくて。
僕たちはすぐに意気投合し、打ち解けるまでにそう時間は掛からなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、帰らなければいけない時間が近づいてくる。
少し暗くなってきたから、気を付けて帰ってね。なんて言葉に、僅かな寂しさが募る。
明日、学校に行けばまた雅に会える。今しがた別れたばかりなのに、もう明日が来るのが待ち遠しいなんて。
雅は優しくて、困った時に助けてくれるヒーローのような人。
人見知りで相手の目を見て会話をするのが苦手な僕とは正反対の所にいる、まるで別世界の住人のような人。
そんな印象を僕は当初、雅に対して抱いていた。だけど、それは少し違っていたことを話してみて知った。
物事にきちんと一本筋を通し、誠実で寡黙な人。だけど笑うと涙袋がくっきりと浮かんで、年齢の割に落ち着いて見えるその雰囲気が和らぐ温かい人。
本人曰く、人と話すことはあまり得意ではないそうで、聞いた時は驚いたが、もっと親しみが湧いた。
僕は会話となると相手がどう受け取るか、解釈しにくい表現になっていないかと心配になり、しっかりと考えてから言葉を発したい。
そんな僕のことを雅は急かすことなく、待ってくれる。こんなにも気の置ける友人ができた事は、初めてで。
苦手意識の強かったオリエンテーションの宿泊授業も、雅がいてくれたおかげで無事に乗り切ることができ、小さな事かもしれないが、少しだけ自分の自信になった。
それ以外にも、日常の授業や移動教室に始まり、体育祭や文化祭、校外学習に至るまで一緒に過ごさない時はないくらいずっと一緒にいたと思う。
幸い三年間クラスが離れることもなく、出席番号も名字の関係上で前後だった為に、クラス替え直後の行事ごとも一緒になる事が多かった。
僕にとって雅の存在は、かけがえのないものになっていく――。
高校受験の時、志望校を選ぶ際に雅から同じ学校に行かないかと話を持ち掛けられた。
僕としても嬉しいその提案に、僕は心の中で舞い上がってしまう。
ブレザーの制服を着たいという憧れがあったらしい雅の話を思い出し、調べれば諸々の条件に申し分なく且つ、制服がブレザーの高校は受験したこの一校しかなかった。
校風も比較的自由を尊重している学校で、無事に合格を勝ち取った僕は入学を楽しみにしていた。
制服の採寸、教科書等の入学準備は着々と進んでいき、出来上がった制服が届く。
家族へとお披露目する為に腕を通していた時、問題は発生した。
中学校の時は学ランだったので必要なかったが、ブレザーとなるとネクタイを着用する必要がでてくる。
その点は特に問題ないが、最初から形の出来上がっているワンタッチネクタイではなく、自分で結ばないといけないタイプのネクタイを、僕が通う事になる高校は採用していた。
手先のあまり器用でない僕は綺麗な結び目をつくる事に苦労するのを余儀なくされ、かといって妥協もできない性格が災いし、綺麗に出来ないと納得できない。
それが悔しくて、僕はたくさん練習した。ようやく形に出来るようにはなったが、苦手なことには変わりなかった。
高校生活にも慣れてきた、ある日の体育の授業後。体操服から制服に着替えていたときに、手際よくさらっとネクタイを締めている雅を見て、僕は尊敬の眼差しを向ける。
「雅は、ネクタイいつも綺麗に結んでるよね」
僕は自分の鎖骨のあたりを指しながら、雅に言う。
「俺、父さんがネクタイしてるのに憧れてたから、小さい頃からよく借りて遊んでたの」
ありがとう、なんて雅は嬉しそうに笑う。
「僕は苦手意識が凄くて……うまくできない」
ひとり言のようにネクタイをさわりながら、愚痴る。何なら今も進行形で絶賛、手こずり中だった。
「俺がやってあげようか?」
苦戦している僕を見かねたのか、そう言ってくれる雅。
「え、いいの? ありがとう! よろしくお願いします!」
僕はその言葉に甘えて、雅にネクタイを渡した。
「はーい、失礼しますよ……」
ネクタイを受け取った雅は僕の正面からそっと首元に回しクロスさせてから、てきぱきとした動作で結んでいく。
ネクタイを結んでもらうのだから当然ではあるが、雅との距離は縮まる。
近づいたことにより、雅からふわっと甘い香りがした。
この香りは、雅が高校に上がってから纏い始めた香水によるもので、その少し甘めな香りは雅にとても似合っている。
この匂いを纏ってる雅、好きだなぁ……。
「人のやつ結ぶの意外と難しいな……もうちょっとまってねぇ……」
僕は今……何を、考えていたのか。雅の発した言葉によって、彼方へと浮遊していた意識が戻ってきた。
その思考を自覚した瞬間、顔に熱が集まる。雅に赤くなった顔を見られないよう、口元を手の甲で覆いそっと横を向いた。
「香水の匂い」ではなく「その匂いを纏っている雅が好き」なんて、僕はどうしてしまったのだろうか。
今までだってこのくらい距離が近づくことはあったはずなのになんで。
これ以上動揺しないようにと僕はぎゅっと目を瞑り、この空間を耐える。
「紫翠、できたよ」
そう声をかけられて見た僕の首元にはお手本のように、綺麗に結ばれたネクタイが締められていた。
「あ、ありがとう雅、助かった」
動揺を僕はうまく隠せていただろうか、不自然じゃなかったかな。
「ほら、早く戻って次の授業の準備しないと……」
「そうだね、戻ろうか」
赤くなった顔を見られてしまわないよう、僕は雅の方を見られないまま、荷物を纏めて逃げるように更衣室を後にする。
少し早歩きになってしまう僕に、雅はちゃんと後ろからついてきてくれた。
「紫翠、もしかして照れてる?」
なんてからかいの言葉が、後ろから飛んでくる。普段そこまで遠くないはずの距離が、何倍にも長く感じる。
「全然そんなことない、照れてないもん」
至近距離にいたから、やはり気付かれていて。その事実が恥ずかしくてつい、拗ねたような口調になってしまうのにさらに居た堪れなさは増す。
やっとの思いで自分のクラスの教室が見えて、扉に手をかけようとしたその時。
僕の左側から、ゆっくりと顔を覗き込まれる。
「柴翠が喜んでくれるならネクタイくらい、いつでも結んであげるから俺の事、頼ってね」
ピシッと音がしそうなくらいの衝撃が走り、僕の体は硬直した。
衝撃が大きすぎて雅がどんな表情をしていたのかは見られない。顔が熱くて、くらくらする。
固まってしまった僕を置いて、颯爽と教室へと入っていった雅を追いかける。
「ちょっと雅、からかってるでしょ……でもまたお願いする、かも……」
ネクタイを結んでくれたのが嬉しかったのは本当。でも言いながら恥ずかしくて目を合わせられず、少しずつ小さくなってしまう語尾に、全身が赤くなっているのは想像に容易い。
「耳まで真っ赤だよ」
羞恥で顔を見られない僕とは対照的に、余裕そうな雅はくすりと笑いながら、まだ僕のことをからかうのをやめてくれる気はないみたいだ。
「もう、そんなにいじわるしてくる雅なんて知らない」
ふいっと顔を背けたが、そこから何も言わなくなった雅にさすがに怒らせてしまったのかと、少し不安になり様子を窺うようにして一瞥する。
「ふふっ、紫翠はほんとうに、かわいいね」
表情を窺いみるために視線を向け見えた雅の顔は、なんというか……とても優しい笑顔を浮かべていて。
愛おしいものを見るような……そんな表情で。
一瞬、引いていた顔の熱がぶわぁっと一気に戻ってきたのがわかった。
まるで大切なものを見るかのような、そのあまい視線に僕は、思わず息をのんだ。
胸は締め付けられるように苦しくなり、心臓は高鳴って落ち着かない。
それは僕に向けるものであってるの? そんなこと聞きたくても、聞けない――。
出会った当初から僕はよく、雅に「かわいい」と事あるごとに言われていた。
だけど、口癖なのだろうとしか思っておらず、日常的に言われすぎて慣れてしまっていたくらいだ。
なのに今回のやつは今までのものと表情も、声音も全然違う。
頭の中は、完全にパニックを起こしていて、考えられる容量を超えた僕の足は、地面にくっついたみたいにその場から動かない。
予鈴の音が遠くで聞こえ、早く自分の席に戻らなければ授業が始まってしまう。
なのに体は、言うことを聞いてくれない。
「柴翠? 授業始まっちゃうよ?」
「え、あ……うん」
雅の声に魔法が解けたかのように、足が動くようになった。
そうだね、なんて言いながら持っていた荷物を抱えなおし、席へと足を向ける。
「柴翠! また後でね」
名前を呼ばれ振り返ると、笑顔で手を振ってくれる雅にまた心臓がきゅうーっとなる。
胸を押さえたい気持ちを我慢し、ゆるく手を振り返して何とか自分の席へと戻る。
そのあとの授業は何ひとつ、耳に入ってこなかった。