瑠璃色の邂逅
帰りの道中、通りがかった風景には見覚えがあった。
そこから少し進んだ先に、先ほどとは違って春を象徴する桜の木が街路を彩っていた。
ここは昔、雅と一緒に通ったことのある桜並木だと、脳裏に追想がよみがえる。
自然と足は止まり、魅入られるように七分咲きほどの並木を見ていた刹那、目を開けていられないほどの突風が僕の体を吹き付けた。
反射的に、ぎゅっと目をかたく瞑ってしまう。
風が止み、恐る恐る目を開けて見えたその光景に、僕は息をのんだ。
――視線の先、五十メートルくらい先の桜並木の中、舞い散る桜の花びらと共に、恋焦がれてたまらない姿が見えて思わず手をのばす。
「みやび、まって……」
視線は釘付けになり、右足を前に走りだそうとした、その時――。
「……深月さん?」
不意に僕の名前を呼ぶ声が、聞こえた。その声がした方へと咄嗟に振り向けば、あの夜に助けてくれた女性が立っていた。
「えっと……、如月、さん」
「こんなところで、お会いするなんてびっくりです」
僕は、はっとして桜並木の方へ視線を戻した。そこには誰もおらず、雅の姿もなかった。
「そう、ですね」
「どうかされたんですか?」
今のは、気の所為……だったのだろうか。
「……いえ、何も、ないです」
耳に心臓があるのではないかと錯覚するほどに、鼓動は早く大きくなる。
如月さんの声をあまり上手く拾えなくて、何とか落ち着けようと、深く呼吸を繰り返す。
「お元気そうでよかったです」
「あの時は、本当にご迷惑おかけしてすみませんでした」
何とか平静を取り戻した僕は、深々と頭を下げ謝罪の言葉を重ねた。
「いえいえ、そんな……頭を上げてください、その後お怪我は大丈夫でしたか?」
「はい、大した怪我ではなかったので……」
こういう時、何を話せばいいのかわからず、暫し沈黙の時が流れる。
その沈黙を破ったのは、如月さんの方だった。
「……あのもしよかったら少し、お散歩しませんか?」
如月さんの意表を突く提案に、驚き少し動揺してしまう。本当はあまり人と話す気分にはなれなかったが、少し悩んだ末に、僕は了承した。
二人の間に会話はなく、気まずさを感じどうしたものかと胸中で少し戸惑っていれば、如月さんが口を開いた。
「急に変なお誘いをしてしまって、すみません……実はついさっき彼氏と喧嘩して、逃げてきたんです」
「喧嘩、ですか……」
お恥ずかしい限りなんですが、なんて言いながら困ったように笑う如月さんは、悲しそうな面持ちをしている。
なのに会話下手な僕は当たり障りのない事しか返すことが出来ず、歯がゆい気持ちに襲われる。
「彼氏が少し時間にだらしなくて、遅刻が多いんです。いつもならどこかで時間潰してればいいや、くらいに思えるけど、今日はなんかだめで。最近どこか上の空というか……そういうのが増えて、今まで大丈夫だと思ってたのが、急に分からなくなって」
状況を自分の中で整理しながら話しているのか、呟くようにして途中に何度も間を置きながら話してくれる。
「いつもみたいに遅れてきた彼氏につい、言ってしまったんです。私の事なんてどうでもいいと思ってるから、平気で遅れてくるの? って」
遅刻と言っても、長くても三十分くらいのことなんですけどね……。そう、如月さんは言った。
「言ってからこの言葉をもう引っ込めることができないんだって、なんでもっと考えてから言葉にしなかったんだろうって、凄い自己嫌悪に陥ってしまって、彼氏の顔も見ずに逃げてきちゃったんです」
如月さんのどこか自虐めいた言葉に、僕も胸が締め付けられた。
潜在的に感じていた不安の感情が、この出来事をきっかけにして思いがけず、表に露呈してきてしまったのかもしれない。
似た感情は、僕にも覚えがあった。
「本当にどうでもいいって言われちゃったら、どうしようって考えながら歩いてたら偶然、深月さんをお見かけして……ひとりで抱えてられなくて、つい話しかけてしまいました」
すみません、なんて言う如月さんはどこか悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべていた。
「ほぼ初対面で、急にこんな話されても困りますよね……ごめんなさい」
こういう時、僕は何と声を掛ければいいのか、わからない。
困った様子で話をしてくれたのに、うまく返答できない自分にもどかしくなる。
思い返せば雅はいつも先回りして、僕の気持ちを考えてくれていた。
その上で一番に確認してくれて、考える時間もたっぷりくれて、返答を急かされることもなかった。
あまりにもその事に僕は慣れすぎていて、甘えすぎていたのだと今更ながらに気づかされる。
不意に頭を過ぎる、雅との忘れる事の出来ない記憶。その気持ちに懸命に蓋をする。
「うーん、じゃあ、僕とお友達になってくれませんか?」
はじめ、如月さんは不思議そうに頭の上へ大量の疑問符を浮かべているようだった。
僕も突飛なことを言った自覚はある。
「え? それは……楽しそうなお誘いですね!」
如月さんはすぐに、笑顔を見せてくれた。その笑う時の雰囲気がどことなく、雅に似ているような気がして、つい警戒心が薄れてしまう。
「僕は、柴翠と言います。如月さんのお名前は、なんていうんですか?」
人に自分の名前を名乗るのは、いつぶりだろうか。照れの感情がじわっと、広がる。
「私は瑠璃って言います……少し、気恥ずかしいですね」
二人向き合って、何とも形容し難い空気が流れる。その雰囲気を霧散させるように如月さんは、続けた。
「柴翠さんは、ラピスラズリという石をご存じですか?」
「青色の宝石のこと……ですよね?」
「そうです、そのラピスラズリの和名が瑠璃って言うんです」
ラピスラズリの宝石言葉の中には「幸運」というものが含まれていて、それを知った母がつけてくれたんです。
如月さんは立ち止まって、ふわふわと柔らかな風に揺られている桜を見上げている。
名付けた後に私の誕生月である九月の誕生石だというのを知ったみたいで、それも運命的でしょ? なんて言うんですよと、とても楽しそうに教えてくれた。
「素敵なお名前ですね」
名前は両親からの一番初めの贈り物だと言うが、きっと素敵な親御さんなのだろう。
如月さんを見ていて思う。名は体を表すとは、こういう人の事を言うのだろう。
「しすいさんって綺麗なお名前ですよね、どんな漢字を書くんですか?」
「色の紫に翡翠の翠って書きます。祖母がつけてくれたもので、紫幹翠葉という四字熟語からきているそうです。僕にも言葉の意味の通り、山にある木々のように広く、美しい心を持った子に育ってほしいと願いを込めたらしくて」
「すごく綺麗で素敵なお名前ですね。響きが深月さんのイメージに凄くお似合いです!」
それは僕にとって、聞き覚えのある言葉だった。
雅と付き合うことになって初めて一緒に帰った日――。
もう少し一緒にいたいからと、少し寄り道をした公園のブランコを漕ぐ。
久々に体感するふわふわと空を飛んでいるような感覚は、気持ちがよくて夢中になってしまった。
その時、僕の名前の話題が上がったのだった。
「紫翠」という名は祖母がつけてくれた大切な名前だが、変わった響きだと言われる事も多く、家族以外には呼ばれたことがなかった。
「漢字の並びも、響きも綺麗で紫翠に凄く似合ってるね」
あの日、雅が「柴翠」という名前を呼んでくれたとき、それは僕の宝物になった。雅に呼ばれる只、それだけで僕の名前はいつも特別なものに姿を変える。
――またひとつ鮮明に甦る、雅との記憶。
今の僕には苦しくて、どうしようもないほどに、会いたくなってしまう。
こうした日々の端々にたくさんの記憶が溢れていて、その度に僕の心はざわざわと音を立てる。
その寂しさがこぼれ落ちないように、僕は一度唇を噛み締め、声が震えてしまわないように「ありがとう」と伝える。
僕は、違和感なく笑えているだろうか。今は目の前にいる如月さんとお話をしているのだから、そちらに集中しないといけないことは頭では理解している。
だけど一度切り替えられてしまった心のスイッチを、うまく切り替えることができない。
元々得意ではなかったそれが、今の僕にはさらに難易度が高い。
心の中に張り巡らされている感情の糸が、複雑に絡み合って解くことが出来ずさらに絡まり、その糸は次第に全身を拘束し始める。
息がしづらくて、苦しくて仕方ないのに、その糸は他人からは視認することが出来ない。思考のループに嵌り、抜け出せなくなる。
背後から、男性の声が聞こえた。
「瑠璃っ!」
その声がした方につられて振り返ると、一人の男性が走ってくるのが見える。
「時雨……」
「やっとみつけた、よかったぁ……」
近づいてきた男の子はよほど探し回っていたのか汗が顎を伝い、地面に染みを作るのが見えた。
呼吸を整えるために膝へと手をついているので、表情はわからない。
ただ、様子から察するに如月さんのことを、とても心配していたのは明白だと思う。
本当にどうでもいいと思っていたら、ここまで必死に探すことなんてしないのではないか。
「あの……そちらの方は?」
落ち着いたのか、男性は視線をこちらへと向け声をかけてくる。その顔には、困惑の色が見えた。
「ご挨拶が遅れました、僕は深月柴翠と申します。先日、如月さんに助けて頂いて……」
僕は自分の名を名乗り、軽く頭を下げた。
「あぁ、はじめまして。瑠璃から少し話は聞いてますよ」
男性は先程までの表情とは打って変わって、人懐こい笑顔を見せてくれる。
標準語にはない独特のイントネーションの話し方は、関西特有のものだろうか。親しみやすい雰囲気があって、好感を抱く。
「結城時雨といいます。僕のことは時雨とでも気軽に呼んでください」
時雨君は、ふっと笑う。背は僕よりも十センチ近く高いだろうか、百八十センチは超えてそうだ。
細身の体格ではあるが、細すぎるわけではなく所謂モデル体型といった感じで、はっきりとした目鼻立ちをしている端正な顔立ちの男性だ。
一方の如月さんも暗めのミルクティーのようなカラーの髪を緩く巻いていて、身長は一般平均よりは高そうだと思う。
可憐という言葉がぴったりな女性なので、二人が並ぶと絵になる印象だ。
僕との会話もそこそこに、時雨君は如月さんのほうを向いて、真剣な面持ちで話し始める。
「瑠璃、ごめん。瑠璃の事がどうでもいいんやなくて……言い訳になるかもしれんけど、これを見てほしい。……ほんまは完成させてから見せたかったんやけど、大事な瑠璃に嫌な思いをさせてまで隠すことやないから」
そういって時雨くんは、如月さんにタブレットを渡した。僕にも少し見えたそこには、リングのデザインのような物のスケッチが描いてあって、その周りにはたくさんの文字が書かれてある。
「次の瑠璃の誕生日に渡したくて少しずつ準備してたんやけど、ついついデザインに集中しすぎてもて、時計を見てへんかった。本当に、ごめんなさい」
時雨くんは勢いよく頭を下げて、如月さんに謝っている。
僕はふと、自分の右手で静かに輝く指輪へと視線を向けた。
雅もこうして、たくさん考えてくれたのだろうか。
あまり、詳細を言う事はなかったが「紫翠の事を考えてる作る時間は、とても楽しかった」とだけ教えてくれた。
何かに夢中になると時間を忘れてしまうというのは、少しわかる。
僕も一度、何かを始めると周りの音が聞こえなくなってしまうほどに熱中してしまう。
だが、そんな僕を雅はいつも少し離れた所で、静かにそっと見守ってくれていた。
そして僕の集中が切れる頃を見計らって、少し甘めのコーヒーをそっとそばにおいてくれる。
雅がこだわって選んだ豆を使い、丁寧に淹れたコーヒーを飲みながら、一緒に過ごす時間が大好きだった。
――またひとつ、幸せで優しい記憶を思い出してしまった。
「……あんな嫌なこと言っちゃった私の事、嫌いにならないの?」
少しの沈黙の後、如月さんは小さな声で不安そうに時雨君に問う。
「なんで僕が瑠璃の事嫌いになるん? 悪いことひとつもしてへんやん。どちらかといえば、僕がそれを聞かなあかん方やろ?」
時雨くんは、そっと如月さんの腕にふれた。
「不安にさせてほんまにごめん。これからは絶対、遅刻せえへんように気を付けるから、愛想尽かさんといて……瑠璃がおらんかったら、僕は死んでしまう」
懇願するようなその口調と、時雨君の如月さんへの愛の重さは本物なのだろう。
必死な表情からは犇々と伝わってきて、運命の赤い糸というものが存在するのならば、きっと二人は繋がっているんじゃないかと思う。
それがぼくにはうらやましくて、まぶしい――。
「時雨、私の事めっちゃ好きなんやね?」
いたずらっぽく言う如月さんのこういう笑顔に、時雨君は骨抜きにされてしまっているのかもしれない。
「そうやで、好きどころでは足りんのやからなぁ、めっちゃ愛してんで瑠璃」
抱きつこうとする時雨君を、一生懸命押して嫌がっている如月さんの表情は全く嫌そうには見えなくて、二人が醸し出している幸せな空気が辺りを支配している。
「恥ずかしいし、深月さんが見てるからやめて」
如月さんは真っ赤に染めた顔で口では嫌そうにしつつも、とても嬉しそうで、そんな彼女を可愛いと思う。
それに時雨君の関西弁のイントネーションが、所々自然にうつっていて、きっと二人は今まで多くの時間を共有していて今も尚、同じ時間を過ごしている。
あの日強制的にその機会を奪われ、時計の針を止めてしまった僕とは違って、二人には未来がある。
僕はそれがひどく羨ましくて、ずるいと感じてしまう。
そんな理不尽で、自分勝手な醜い思いが僕の中で生まれてしまった。
「あの深月さん、紫翠さんって名前で呼んでもいいですか?」
そっと、伺うようにして聞かれる。
「大丈夫ですよ。僕も……お名前で呼んでもいいですか?」
「はい、もちろんです、紫翠さん!」
瑠璃さんは、輝くような満面の笑みを見せてくれた。
「ちょっと、柴翠さん瑠璃の事可愛いからって狙わんといてくださいよ」
時雨君は、なぜか少し焦ったように言う。
「確かに、瑠璃さんはとても魅力的な人だけど、僕には大切なひとがいるからね。浮気はしないし、するつもりもないですよ」
僕は上手く笑えているのか。涙の膜が薄く滲み、震えてしまいそうになる声を抑えることが出来ていただろうか。
僕には、雅以外あり得ない。だから違う人となんて考えたこともないし、そんなこと考えたくもない。
少しでも強がって自分の事すら騙していないと、僕はまっすぐに立っていられない気がした。
「ほな、安心ですね。柴翠さんほどの美人さんにそこまで言わすんやから、お相手の方も素敵な方なんでしょうね」
雅の話に心臓の音が大きく、早くなってくる。そう言ってもらえること自体は嬉しく、誇らしいことだ。
でも、その言葉は今の僕にとっては苦しい言葉でしかない。
どれだけ考えないようにしても記憶の蓋は開き、気が付けば僕の思考は雅との記憶で埋め尽くされている。
「柴翠さん?」
瑠璃さんが心配そうに顔を覗き込んできて、それにより我に返った僕は、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「そうですね、僕にはもったいないくらい素敵な人です」
あぁ、僕も雅に会いたいな。確かに存在していたあの幸せな日々のように何気ない日常を共有し、一緒にご飯を食べて、お風呂に入り、同じベットで眠る。
当たり前にあった幸せには、今はもうどれだけ手をのばしても届かなくて、苦しい。
月日が経てばこの苦しさも、少しは和らぐのだろうか。でもそれは同時に、雅の事を忘れてしまっているという事になるのではないか。
忘れるのがこわくて、雅への気持ちは僕の心に積り続ける。
「今度、柴翠さんの大切な人にもよかったら会わせてください」
瑠璃さんが、そう言った。みやびに会えるのなら、僕も会いたいよ。
「それは、ちょっと難しいですかね……」
「お仕事が、お忙しいとかですか?」
何と言ったらいいのか迷い、言葉を選んでいる僕の曖昧な言い方に、二人とも不思議そうにしている。
雅の事を話してしまえば、目の前の優しい人達はきっと、心を痛めるだろう。
だけど、他の理由も思いつかなくて口ごもってしまう。
「そうではなくて、その、もうこの世にいないんです……」
あの後二人は案の定、絶句した表情を浮かべていた。こんなことを聞かされて、上手く答えらる人なんてごく僅かだと僕は思う。
その顔を見てやはり言うべきでなかったと、後悔の念に駆られた。
あんなに幸せそうにしている所に、水を差してしまいその場の空気を濁してしまった。
いたたまれなさから逃げるようにして別れを告げ、二人から離れ家路を急ぐ。
せっかく友人になれそうだったのに、自分でその機会を棒に振ってしまった。
本当に僅かな時間ではあったが、その中でも二人はお互いを大切にしていて、愛し合っているのが分かった。
二人には、どうか幸せになってほしい。
僕のように、愛する人にどれだけ手をのばしても届かない。
そんな寂しさを二人は感じなくていいようにと、切に願う。
どれだけ泣いても、叫んでも、僕には幸せというものがこの先訪れることは二度とない。
僕はこの先、大量の花と姿を変えるまでたった一人で苦しみを抱えていかねばならないのだから。




