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幸せの花を君に捧ぐ  作者: 綴 朔哉


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胡蝶之夢


 ある時、生きる気力を完全に失った僕は、自暴自棄に陥った。


 めまいによってふらつく頭を、手で支えながら体を起こし、鳴り止まない耳鳴りに顔を歪める。


 こんなにも辛い毎日ならば、いっそこの手で終わらせてしまおう。


不意に、そう思い至る。


 ベッドから降りて、着の身着のままにふらっと、外へでた。

 久々に出た、外の世界は暗かった。今が何時なのかもわからなくて、時間の感覚すらも麻痺しているのかと自嘲したが、今更どうでもよくて考えることを諦めた。


 自分の人生を終わらせるのは、一体どこがいいだろうかと漠然と夜の闇を彷徨う。


 一度壊れてしまったものは二度と、同じ形には戻らない。

 どれだけ壊れた心に絆創膏を貼って、傷を保護してもあの幸せな日々はもう、返ってくることはない。息をしている限り僕は、一生この苦しみと連れ添うことになる。


 そんなことになるくらいならば、自分から放り投げてしまおう。


 こんな苦痛から、はやく逃げてしまいたい。


 紛れもなく僕の意思によって動かしているはずなのに、誰かに体を操られているような、ふわりとした感覚。


 見ている世界にもう一枚フィルターがかかっているようで、正常と呼べる思考など、僕のどこにも残ってはいなかった。

 あてもなく、ただ歩いていた。前方に歩道橋が見えて、覚えのあるその光景に遠い日の記憶が、鮮やかによみがえる。

 

「できるだけ長く紫翠と一緒にいたいから、家まで送るよ。それに、暗くなると危ないしね」


 高校一年生の、残暑がまだ残る頃。


僕たちの関係性には「友達」ともうひとつ「恋人」という、新しいものが加わった。

 雅は恋人という関係になる前から、僕をとても大切にしてくれていた。


 できるだけ、同じ時間を共有していたいからと、よく家まで送ってくれた。


 僕だって、男だから大丈夫だよ。なんて言っていたが、雅と少しでも長く一緒にいられるのは嬉しくて、いつもその好意に素直に甘えていた。


 歩道橋の上を並んで歩く雅とその後ろにみえている景色は、僕の脳裏を焼き付いて離れない。もしかしたら雅は、そこにいるかもしれない。


 そんな希望を胸に抱き、少し段の低い階段をどこかふわふわとした足取りで、ゆっくりと進み登っていく。


不思議と、高揚感が抑えられなかった。


 記憶の糸を、手繰り寄せる。雅との関係に恋人というものが加わって初めて、ここを通った時。雅はそっと、手を繋いでくれたんだった。


 そわそわと雅にふれたい気持ちを抑えられず、手を繋ぎたい。

だけど、引かれたりしないだろうか。


葛藤を続け落ち着かない様子の僕の手を優しくとって、指を絡めるように包みこんでくれた。

 壊れてしまうのではないかと、心配になるくらい心臓は早鐘を打つ。

だけど、ふれた手のぬくもりに心の底から幸せが溢れた。

 ふと視線を上げた先に見えた、少しだけ先を歩く雅の耳は僅かに赤くなっていて、僕の体温もさらに上がってしまう。


「みやび、すき」

 こみ上げる気持ちを我慢できなくて、雅の耳に届くかわからないほどに小さな声で呟いた。


「俺も好きだよ、紫翠」

 振り返って太陽のような笑顔で、雅も優しい愛をくれた。返事のかわりに繋いでくれた手に力を入れれば、同じくらいの力が返ってくる。


 この手を離したくなくて、このまま時が止まってしまえばいいのに。

なんて切望していたことが、昨日のことのように瞼の裏に浮かんだ。

 


 ――あまく、幸せな記憶。そのページを僕は、無意識にめくる。



 会いたい。


赤い花びらが一枚、また一枚と僕の眦から舞い落ちる。

歩道橋の上まで辿り着き、辺りを見渡したが、そこに雅はいなかった。


 橋の上から見える、歩道へ植えられている木には、電飾が施されていて、その光が宝石のように煌めきを放っている。

 車道を通っている車のライトですらも、その幻想的な光景に彩りを添えている。


 ここがいいな、ここにしよう――。


 僕は歩道橋の欄干に、足をかけた。完全に乗り上げて、そこに立ったまま雲ひとつない、美しい空を見上げる。

暗い空の中に星が散りばめられていて、手をのばせば届くだろうか。右手を空に向かって、翳してみる。


 雅が手を継いでくれる時は、いつも右手だった。ある時、ふと気になって僕はその理由を聞いた。


「え? なんとなくかな……でも紫翠、左利きだから右手だったらずっと繋いでても問題ないでしょ?」

 見せてくれた笑顔を、今でも鮮明に思い出すことができる。

 

 その少し後に、男性は本能的に恋人と手を繋ぐ際に自分の利き手を開けておくというのを知った。


 諸説あるそうだが、何かあったとき咄嗟に恋人を守れるようにとか、心臓側を相手に近づけて安心感を与えたい、といったような心理が働く傾向にあるという。


 あの時、雅はなんとなくと言っていたが、もしそれが無意識下で行っている行動なのだとすれば、僕が感じているよりもっと大切にされ、愛されているのではないか。

そんな、くすぐったい気持ちと嬉しさが湧き上がったのだった。


 そんな幸せが溢れていた時は、もう遥か遠いところにあって、今見えている星の光と、どちらのほうが離れているのだろうか。

 


 ――もうすぐ、みやびに会える。



 そのまま一歩を踏み出そうとした、その時。左側から、女性の声が聞こえた。僕はそちらへと、緩慢な動きで視線を向ける。


「ちょっと、何をしているんですか!」

「危ないから降りてください、お願いします」

 女性は僕に近づいてきて、慌てた様子で左手を掴まれ、後ろへと引っ張られる。

強く引かれて左に傾き、バランスを崩した僕はそのまま横向きで倒れた。


 反射的についた手が、痛い。その痛みを認識した瞬間、夢から覚めたような、自我が戻ってきたような、奇妙な感覚を感じた。

 はっとして、目の前の女性に視線を移す。僕は今、とてつもなく恐ろしい事をしようとしていたのではないか。


「……すみません……僕、あの……」

「私の方こそ、急に引っ張ってしまってごめんなさい。お怪我はないですか?」

 そう言われ、自分の手のひらには血が滲んでいたが、ぎゅっと握って隠す。


「はい……あの、大丈夫です……」

「そうですか、よかったです」

 僕がそう言うと女性は、笑顔を見せてくれた。


「本当に危ないから、もうあんな所に登っちゃだめですよ!」

「本当に申し訳、ありません……」

「あの、寒くないですか? 凄い薄着、みたいですけど」

 そう言われ、僕は自分の格好をみた。トレーナーにスウェットのズボン、裸足にスニーカーを履いているだけの自分に気づく。

とてもじゃないが、外出できる恰好ではなくて自覚した瞬間に、体を刺すような寒さを認識した。


 吐く息が白くなるほどに寒い夜で、それを感じていなかった今までの自分と起こそうとしていた行動すべてが、途端に怖くなった。


 ここから自分が飛び降りていれば、無関係な人にも被害を出し、多大なる迷惑と損害をだしていたかもしれない。寒さに震える身体を不安ごと抱え込み、守るように自分自身を抱きしめ、腕をさする。


「あの……深月さん、ですよね?」

「え? あの、えっと……どこかで」

「あ、急にすみません。覚えておられるか、分からないんですが、看護師をしております、如月と言います」

 僕が意識不明から目を覚ました時、担当してくれたという女性に心当たりはあるものの、顔まではっきりとは覚えていなかった。

 

「そう、なんですね、すみません。全然、覚えていなくて……その節は、お世話になりました」

 深く頭を下げ、お礼を伝える。今回の事といい、申し訳ない気持ちは募っていく。


「いえ、こちらこそ気を遣わせてしまって、すみません。これ以上は、体が冷えてしまうので帰りましょう。お家まで、おひとりで帰れますか?」

 

 そんな僕に、如月さんは最大限の配慮をしてくれた。自分より四、五歳下に見えるが、僕なんかよりもしっかりとしていそうだ。


「はい……大丈夫です。ありがとう、ございました。この度はご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」

 僕は今一度、お礼と謝罪をしてから、頭を下げた。


「いえいえ、あの、これよかったら使ってください」

 そう言って、チェック柄のマフラーを差し出される。

「いえ、お借りするわけには……」

「その格好では、風邪を引いてしまいます。それに、こんなもので申し訳ないくらいなので、遠慮なく使ってください」

 有無をいわさず、肩に掛けられた。


「だから、今日はお家に帰って、ゆっくりお休みしてください」

 

 とん、と背中を押される。


 僕は言われるがまま、この場を後にし、帰宅の途についた。

 マフラーはとても暖かくて、孤独に冷え切った心に温度が灯る。

こんなにも人と話をしたのは、久しぶりだった。


 たった一人で過ごしてきた僕の心は空っぽで、その優しさと温かさが痛いほど身にしみてしまった。

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