深淵の涙
眼前に広がる、花の海。無数に広がり、一面を埋め尽くす。残酷なほどに美しいそれらは、すべて僕から零れ落ちたもの。
お伽噺のような奇怪な事象は、変えることのできない現実を突きつけてきて、僕を苦しめる。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。
元々は海外の詩人が使った言葉を元に日本語へと訳され、それ以降から使われるようになったことわざである。
現実世界において実際に起こる出来事は、空想によって書かれた小説よりも複雑で、時に奇妙で不思議である。といったような意味合いを持ち、現実で起こる事象の奇妙さを表現する言葉だ。
人生において一番大切なものを失ったあの日を境に、僕から零れ落ちる涙は、美しい花びらへと変貌を遂げた。
その花びらは罹れば最後、致死率百パーセントの不治の病によってもたらされ、治療方法すら確立されていないその病から、逃れる方法はない。
僕はずっと絶望と共に、緩やかに死が迎えに来るのを待ち侘び、焦がれている。
――いつかまた、愛する人に会えることを信じて、今日も僕は花の涙を流す。
「検査の結果ですが……」
よく耳にする前置きの後、その場に暫しの沈黙が流れた。
病室のベットで右腕に点滴が刺さった状態で座っている僕は、静かに耳を傾ける。
十分すぎるほどに広々とした個室空間には、先程までは穏やかな時間が流れていた。
だがそれは、目の前のこの白衣を着た男性の登場により、一瞬で糸が張り詰めたような、緊張が支配する空間へと様変わりを見せる。
この重苦しい雰囲気の漂っている部屋へ雨が降るように、男性は静かに言葉を落とした。
「まず血液検査などの検査において、特筆した異常は見られませんでした」
冒頭、明瞭な口調で話していたはずの男性は、ある所を境に一変し、途端に言いづらそうに言葉を喉へと詰まらせ始める。
「それで……涙が花びらになったという症状についてなのですが、恐らく深月さんは涙零花弁症という、大変稀な疾患に罹患していると考えられます」
躊躇うような素振りの後、僅かに間を置いて、医師は重い口を開き耳慣れない病名を、僕に告知した。
「この疾患はその名前の通り、目から零れ落ちる涙が花びらへと変貌する病気です。発症率そのものが極端に低く、稀で症例自体も報告されているものはほとんどありません」
「ですので不明な点が多く、どの箇所で異常が起こり、何が原因で症状が出るのか……医療技術が革新的に進歩していると言われている現代でも、未だに解明されていません」
「そのため明確な症状が現れているのにも関わらず、検査で異常な箇所を見つけることはできず、涙の生成や性質に関しては解明されていない部分も多いので、どのような原理で涙が花びらに変化するのかも依然としてわかっていません」
「私自身も直接、罹患された方を診察した事はないので、お伝えできることはそう多くないのが現状です」
「そう、ですか……」
あまりにも浮世離れした、お伽噺にでも出てくるかのような病気に困惑を隠せない。
ついに虚構と現実の区別すらできなくなってしまったのかと、考えてしまうほどには現実味がなさすぎる。
「推測の域を出ませんが恐らく、脳が処理できるストレス上限を大幅に超えることにより、何らかの異変に繋がって、発症するのではないかと考えられています」
続々と告げられていく病状に寄る辺のない気持ちは増し、不安は積み重なる。
「深月さんの場合は、先般の事故が引き金になっているのかもしれません」
事故と言う言葉に心臓は大きく脈打ち鼓動の音が速く、大きくなったような気がした。
それゆえの動揺を僕はうまく隠し通すことができず、徐々に呼吸も荒くなり始める。
それを気付いた医師に背中を優しくさすられ、安心させようとするそのリズムに少しずつ僕は、落ち着きを取り戻す。
息を吐くことを意識しながら、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
「お話を続けても大丈夫そうですか? それとも日を改めましょうか?」
「……いえ、このまま続けてもらって、大丈夫です」
「わかりました。でも無理は、絶対にしないでください」
「はい……」
今ここで聞いておかなければ、僕はこの先を怖くて聞くことができないだろうと、直感的にそう思った。
「では続けますね。涙を花に変えるという過程で身体の細胞からエネルギーを大量に消費し、本来必要な部分から奪い取ってしまうために、多臓器において進行性の機能障害や、不全が起こるようになります」
今回倒れたことも、おそらく関係していると考えられます。医師は、そう付け加えた。
「その影響により徐々に身体は衰弱していき、最終的には老衰に近い、自然死という形につながります。遺憾ながら疾患自体の発症例も少ないため、有効な治療方法や治療薬は、現段階では見つかっていません。基本的には苦痛を少しでも取り除き、和らげるための対症療法が主な治療方針になるとお考え下さい」
僕の頭は死という言葉を聞いて、何故か先程までの動揺が嘘かのように冷静さを取り戻す。
僕の心はひび割れた硝子のように、あの悲惨な事故によって大破し見る影も無くなってしまったのだろうか、そんな自嘲的な思考すら浮かんでくる。
「それは、実質の余命宣告ということになりますよね?」
「……はい、そうなります」
「僕は、どのくらい生きられますか?」
不思議と恐怖は、感じなかった。寧ろ、歓喜する感情が湧き上がり、これで僕も雅のもとへ行けると。そう、思ってしまった。
「発症した大半の方はいずれも、五年以内に亡くなっているケースがほとんどです」
「五年、ですか……」
しばしの沈黙が、流れる――。
「それともうひとつ、お伝えして置かなければならないことがあります」
勿忘草色の美しい両翼を広げ、風に乗り自由に空を飛び回る鳥の体から一枚、羽が抜け落ちていくのが見えた。
青い鳥というのは実在するのだなぁ、なんて現実逃避にも似た思考が僕の脳裏には浮かんでいて、気ままに飛翔するその姿は見た目の儚さとは好対照に、力強く生命力に満ち溢れている。
それとは対照的に、その鳥の囀りくらいしか聞こえないほど静寂に包まれているこの空間は、ひどく物悲しい気持ちにさせてくる。
僕は少し考える時間が欲しいと、医師にお願いをした。
広い病室の窓から見える景色は、僕にはひどく眩しくて、目が霞んでしまう。
あの後、医師から伝えられたものは衝撃という言葉では、足りないものだった。
――涙零花弁症の患者は息を引き取ると、約二時間程で人としての実体は消失し、自分の体重からきっかり二十一グラムを引いた重さの花びらへと、姿を変えてしまうというものだった。
始めはそんな小説のような絵空事が、現実に起こり得るのかと、にわかには信じがたいものだった。
患者がいたはずの場所には誰もおらず、そこには大量の花びらが散乱し、残されていたという。
そういった事例が、数少ない症例の中でも幾つか報告されている。
それだけでは患者が花びらを自ら散乱させ、行方をくらませただけなのでは? とも思い至ったが、いずれも患者自身が自力で動くことは不可能なまでに衰弱しているケースが大半で、その状態でそんなことが出来るとは到底考えにくい。
それに患者自身があえてそれを行う利はなく、複数の症例で確認されておりその場所も、年代も区々であるためにそう結論付けられたそうだ。
直近の十年間でも、たった一件だけではあるが、その症例報告が存在しているという。
「二十一グラム」と聞いて学生時代に、何かの物語で読んだ記憶が呼び起こされる。
それは恐らく、魂の重さの事だろうと推測できるが科学的に証明はされておらず、疑似科学の類だと思っていた。
実際に僕の記憶が正しければ、信頼性のある証拠だとは、今もみなされていなかったはずだ。
仮に本当にそれが魂の重さだとするのならば、その二十一グラムの質量は一体どこへと、消えてしまうのだろうか。
話が本当なら、僕もいずれ大量の花びらとなって生涯を終えるということになる。
そこに恐怖の感情はないが、一般的な死とは違う死を迎えるであろう僕の魂は、みんながいる所と同じ場所へと無事に辿り着くことができるのだろうか。
迷子になってしまったりは、しないだろうか。
もしそうなれば、あの自由に空を飛び回る美しい翼を持つ鳥が、僕の欠片をくわえて雅のところまで連れて行ってくれたりはしないだろうか。
そんな夢想を浮かべ、僕はゆっくりと目を閉じた。
医師は解明されていない理由の1つとして、自死を選ぶ患者が多いことも挙げていた。
精神的に辛い現実をうまく消化できないままに、聞かされる前代未聞の病気に自分の体がどうなってしまうのかと、不安を抱え続けないといけない。
そんな苦しい日々は容易に想像がつき、人によっては死を選ぶだけの要因へと、十分になりえるだろう。
死の誘惑というものは酷く甘美で、魅惑的なものだと思う。
こんなにも生きていることが辛く、苦しいのであればいっそ、自らの手で終わらせてしまうことができれば……。
それがどんなに楽なのかと考えてしまう思考を、僕は否定することができない。
――あんなにも愛した恋人を失った僕には、生きる希望などもう一欠片だって残ってはいない。