悪魔との契約
ガートンはうだつの上がらない男である。自分にはもっとふさわしい地位や生活があるのではないかと、そんな悶々とした気持ちを抱えながら毎日を過ごしていた。ある日やけ酒により酔っぱらった彼は、道の端にしゃがみ込んだ。そして赤く火照った顔を自分の腕にうずめてそのまま動かなくなった。
「おい大丈夫か?」
ガートンの肩を揺さぶった男がいた。
「親切にどうも」
ガートンは顔を上げた。それとともに悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。目の前に立っていたのは、全身真っ黒で不気味な笑みを浮かべた怪物だったのである。
「驚かせて悪かったな。俺は時々地上に降り立っては、人生に悩んでいる人間を見つけてその救済をしているんだ」
その怪物は低い声で淡々とそう話した。
「じゃあお前は何者なんだ?人間ではないということだな?」
「お前たちの言葉でいうところの悪魔というやつだな」
「悪魔が人助けをしようってのか。信じられるか」
ガートンは目の前で起きた怪奇的な現象を受け入れるのに時間がかかったが、いずれにせよこの悪魔と名乗る男からは一刻も早く離れた方がいいと判断して、重い体を何とか立ち上げた。
「人助けなんて俺はしないさ。目的はただの暇つぶしだ。俺のいる魔界っていうのは退屈なんだ。たまに地上に降りてそういうことでもしないとやってられないんだ。とはいえお前の悪いようにはしない。お前の望みを叶えてやるさ」
「いよいよ胡散臭いな。それになんでお前の暇つぶしに俺が付き合わないといけないんだ」
「じゃあお前は今の人生のままでいいというんだな。魔界での力を使えば人間一人の人生を操作することなんて簡単なことだ。それでも興味がないというのなら別にかまわないが」
そう言われるとガートンは体を再びその悪魔の方へ向けた。たしかにこの男は信用ならない。とはいえこの男の言うように、自分の人生はこのままでいいのだろうかと思い悩んでいたところだ。魔界の力というのを使えば、本当に俺の人生は好転するのだろうか。ガートンはこの機会を逃すと一生後悔するのではないかと思ってきた。
悪魔は提案した。
「俺と契約を結んでしまえば3つのうちのどれかを手に入れることができる。1つは世界最高の地位、2つ目は世界最高の美女、そして世界一の富だ」
それでも警戒心を薄めないガートンに対して悪魔は、
「お前は今この地上で一番の幸福者だぞ。分からないのか。俺の提示した中から1つを選ぶだけで、明日からお前の人生はまるっきり変わるというんだ。のらない手があるか」
と告げた。
「話がうますぎるじゃないか。どうせ何か代償を払わないといけないんだろう」
「言ったはずだ。これは暇つぶしだと。魔界には何でもあるからお前に対して望むものなんて何もない。ただ1つお前が守らなければならないことがある。それは俺や魔界の存在を誰にも話さないことだ。誰か1人にでも話したらその瞬間に契約は終了して一切がもとに戻る。それだけではなく俺は二度とお前の前に姿を現さない。ただそれだけだ。さあ選べ。3つのうちのどれが望みだ?」
ガートンは根負けした。たしかにこの悪魔は怪しいし、今の状況は現実とは思えなかった。それでもこの悪魔の提案は今の自分にとってあまりにも魅力的だったのである。
「では世界最高の地位がほしい」
「分かった。今日は帰って眠れ。明日から契約が開始する」
ガートンはその後いつも通り帰宅して眠りに就いた。
翌日目を覚ますと、彼は巨大な宮殿にいた。きらびやかな黄金の彫刻が部屋中を輝かせている。そして多くの従者が彼のもとへ来ては指示を仰いだ。ガートンは現実を受け入れるのに時間がかかった。どうやら昨日の悪魔が言っていたことはすべて本当だったようだ。
ガートンは人生の絶頂にいた。今や自分に従わない人間はいないのだ。だがそれはかたちだけのものであり、自分の座を狙う者たちは幾人も存在した。当然権力とは誰しもが欲するものであり、ガーデンの居座るその椅子は必ずしも安泰とはいえなかった。
契約が果たされてから数か月経ち、ガートンは自らの座を狙う者たちとの権力闘争に疲れ果てるようになった。そんな時にまたあの悪魔と出会うことがあった。
「どうだ最高の権力は?」
相変わらずの不気味な笑みを絶やすことない悪魔は、ガートンに問いかけた。
「権力を持っていると何不自由なく暮らすことができる。だが同時に敵も多い。常に自分の地位を守らねばとビクビクしないといけない。そこでだが、あと2つ契約が残っていたな?そっちの契約に切り替えることはできないのか?」
「構わないさ。残りは最高の美女と最高の富だ。さあどっちにする?」
ガートンは最高の美女を選んだ。翌日から彼は一切の地位を失う代わりに、この世のものとは思えないほど美しい女性を妻として迎え入れた。名をラレムという。瞳は大きく鼻筋や口元は人形のように整っている。彼女に惚れきったガートンは、自らの全てを捧げるつもりで彼女に接した。
それから3ヶ月ほど経ったある日、ラレムはガートンに対して普段からの不満を並び立てた。
「あなたは本当に不甲斐ない男ね。私にはあらゆる男が言い寄ってくるのよ。その中であなたを選んでいるというのに、もっと男らしくいてもらわなくちゃ嫌だわ」
「どうしたんだよ、急に。俺がお前に何かしたというのか?それになんだ?お前にはいろんな男が言い寄っているのか?」
ガートンにとっては衝撃の事実だった。目の前にいる世界一の美女は自分だけのものだと信じて疑わなかった。そう思ってこそこの女のために生活のすべてを捧げてきたのだ。それなのにこの女は自分に文句を言い、さらに別の男をちらつかせてくる。
それからというもの、ことあるごとにラレムはガートンが自分には似つかわしくない男だということをさまざまな表現を使って責めてきた。ある日ガートンは腹が立って、
「そこまで言うなら別の男のもとへ行けばいいだろう」
と怒鳴り立てた。するとラレムは意外にも冷静に、
「ならそうするわ」
とだけ言ってそっぽを向いてしまった。
これにはガートンは焦った。自分にとって人生の楽しみはこの女が隣にいてくれるということだけなのである。惚れた弱みというべきか、ガートンはすぐに前言を撤回して素直に謝るしかなかった。
だがこんな日々は、ガートンにとって耐えられないものだった。ラレムは毎日のように小言を言って自分の不甲斐なさを責めてくるうえに、常に男をちらつかせて優位な立場をとろうとする。ガートンはついに決断してあの悪魔を自分のもとへ呼んだ。
「世界一の富をくれ。最高の権力も女も自分にとってはこりごりだ。もはや信じられるものは金しかない」
「ならばこの契約は終了して世界一の富をお前に与えよう」
翌日から彼は独り身になったが、代わりに世界一の富を手に入れた。何もしていなくてもどんなものでも手に入れることができた。彼は大豪邸に住み、その車庫には高級車を何台も並べた。部屋はあらゆる宝石やアクセサリーで埋め尽くされた。
何か新しい商品が発売されればすぐに買った。欲しいかどうか悩むことすらしなかった。欲しくなければ買ってから捨てればよいと思っていたからだ。さらに行きたいと思ったところにはすぐに行った。彼に手に入らぬものなどなかったのである。
だがそんな日々でさえ彼には虚しく感じられてきた。手に入れても手に入れても、この世界は尽きることなく欲望を満たすもので溢れている。誰よりも欲望を満たせる手段を持っているにも関わらず、彼の欲望は永遠に満たされることはないのである。
それに目の前にあるありとあらゆるものは、すべて自分の努力によって得たものではない。わけの分からない悪魔と結んだ契約によって偶然得られたものであり、今自分が得ているものはいわばすべて虚構なのである。虚構といえばこれまでの世界最高の権力や美女だってそうだ。
思えばあの悪魔に会うまでの自分の人生は散々であり、鬱屈としていた。そんな日々を悪魔との契約が一転させてくれるものと信じていた。だが蓋を開けてみると、あの悪魔がもたらしたものはただの虚しさに過ぎなかったではないか。逆にこれまでの人生は上手くいかないことだらけでどれだけ手を伸ばしても手に入らないものだらけであったが、それだけリアリティがあった。リアリティのある世界の中でしか本当の満足感は得られないのであろうか。
そうは思っても自分はあの悪魔と関係を結んでしまっている。あの悪魔がもたらした甘い誘惑の中で自分は生きていくしかないのだろうか。ガートンは悪魔のもたらした夢に飽き飽きしながらも、それを断ち切る勇気を持てないでいた。
ある日ガートンの豪邸に数人の知り合いが来ることがあった。そのうちの1人が
「これほどの財産があるとは羨ましい限りですねガートンさん。教えて頂ける範囲でかまいませんが、一体どういう経緯でこれほどの財産を手に入れたのですか?」
とガートンに対して尋ねると、別の1人も
「たしかに知りたいですね。どのようなことをすればこれだけの富が手に入るものなのでしょうか」
と囃し立てた。それを教えるわけには、とガートンは言いかけた。当然悪魔との契約のことを話すわけにはいかない。それを話すとあの悪魔との関係は完全に絶たれて目の前の富も消滅する。
だがガートンの中で迷いが生じた。それを洗いざらいこの場で話してしまったら楽になれるのではないか、そんな気がしたのである。この作り出された虚構の世界から解放されるチャンスは今ここしかないのではないか、そんなことを考えている間にガートンは全てを話していた。
その瞬間に目の前の世界は一気に消滅した。偶然手に入れた富で得た数えきれないほどの贅沢品が、指の間を伝う砂のように流れ落ちて消えていった。その後に現れた世界はただただ静かで平凡なものであった。雲の隙間からはわずかに光が差している。ガートンはたしかに大地を踏みしめていることを確認し、その上を歩き始めた。