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断罪された悪役令嬢は竜王に溺愛される

作者: 長野 雪

「レティナシア・ユルゲンヒルト!」


 その声は朗々と響き渡り、大広間に溢れる盛装の紳士淑女たちの視線を集めた。

 声の主は本日の夜会の主催者の嫡子であり、この国の次期国王たる存在なのだから、それも当然と言える。


「まぁ、ご覧あそばして?」

「王太子殿下の隣に立っているのは……」

「では、やはりあの話は本当でしたのね」

「殿下もあのようなヒステリーを相手にするのは……」

「だがしかし、あの令嬢では務まらぬだろう」

「そこは若さがカバーするのでは?」

「そもそも家格が」


 好き勝手に囁き合う貴族たちの中、名を呼ばれた令嬢がカツン、カツン、と足音も高らかに歩く。繊細に編み込まれたシルバーブロンドの髪を王太子殿下の金と青の髪飾りでまとめた彼女の顔は、怒りで赤く染まっていた。


「お呼びでしょうか、サフィス王太子殿下」


 畏れ多くも王太子を……その隣にいる令嬢を睨みつけたレティナシアは怯むことなく真っすぐに立っていた。好奇の視線に晒されていることは理解している。だが、ここで退くわけにはいかなかった。


「相変わらず不遜な目つきだな」


 王族に相応しからぬ悪態は、小さい声ながら居合わせた紳士淑女の耳に届く。ある程度距離の近い者にしか聞こえなかっただろうが、それでも「悪態を聞かせてしまった」ということそのものが致命傷なのだと王太子は気付かない。噂の伝播など考えたこともないのだろう。

 ここにいる貴族たちは、王太子を王太子のままでいさせることにとっくに懐疑的なのだと、当人だけが知らぬままなのだ。王族として幼い頃より叩き込まれた礼儀や知識はしっかりと身についている。だが、それだけだ。その品性はとても褒められたものではない。逆に礼儀も知識も覚束なければ早々に王太子としての地位を剥奪されていたに違いないのだが。

 そんな王太子に庇われるように隣に立つ女性は、ピンクブロンドの髪をまとめることもなくふわふわと自由にさせていた。このような髪型が許されるのは社交界にデビューする前の子どもぐらいである。そんな髪型も相俟って年齢より幼く見える顔立ちは、甘えることに長けた証拠だ。王太子の承認欲求を満たすことに特化した彼女は、一部の貴族からは「駄目貴族製造機」などと仇名されているアンシャーリナ・ギルト男爵令嬢だ。幼い頃より、厳しく躾けられてきた貴族男性を、やたらと持ち上げヨイショし、褒めて慰めて自分への好感度を上げる一方、男性たちの向上心をぐずぐずに溶かしてしまうのだ。まだ周囲と切磋琢磨し、更なる高みへと努力すべき彼らに「すごい」「頑張った」「すてき」という言葉で甘やかし、「わたしだったら、そこまでできない」と自分を下げることで彼らの優越感を満たし、もう十分なのだと堕とす。それまで厳しくされてきた反動もあるのだろう。かなりの数の青年貴族が彼女にやられてしまっていた。


「本日は陛下の即位15年を祝う式典であることは、殿下も重々承知のことと思います。そういった場であるにも関わらず、わたくしをエスコートせずにいらっしゃる理由をお聞かせいただきたいですわ」

「貴様など、隣に連れて歩けるものか」


 冷たく切り捨てるサフィス王太子のセリフに、レティナシアはぎり、と歯噛みする。その口元を扇で隠し、目線をついと隣にスライドさせた。


「そちらのご令嬢を、またお連れになっていますのね。家格に合わないドレスは、どなたからの貢ぎ物ですの? 背伸びにも程がありますわ」

「っ! ひどいです……っ、わたし、貢ぎ物だなんて……っ」


 瞳を潤ませる男爵令嬢に、レティナシアは冷ややかな視線をくれてやった。すると、その視線上にサフィス王太子が割り込む。


「シャーリィに何ということを言うんだ! 憶測を妄想で膨らませて侮辱するのもいい加減にしろ!」


 王太子の反論に、レティナシアは目を丸くする。


「驚きましたわ。まさか王太子殿下、ギルト男爵家にそのような値の張るドレス、大きな貴石を使った装飾品を用意できる程の財力があるとでも思っていらっしゃいますの?」

「値段など問題ではない! 彼女に似合っていればそれで十分だろう!」

「まぁ、本当に驚きましたわ」


 言葉通り、レティナシアは本当に驚いていた。地位ゆえか傲慢さが目立ち、人付き合いや交渉事に不得意であるとは思っていたが、服飾費についての知識が抜けていたのは盲点だった。これは、王妃に進言して勉強の場を設けてもらわなければならない、とそこまで考える。


「驚いた、だと? それはこちらのセリフだ、レティナシア・ユルゲンヒルト! お前はシャーリィに対し、数々の嫌がらせをしてきたそうだな。この俺の婚約者という立場を振りかざして!」

「何のことですの?」


 レティナシアの問い掛けに、サフィス王太子が鋭く睨みつけた。


「王城の図書室から追い出すどころか、馬車も呼ばずに城下に放り出したそうだな?」

「男爵家という家格では当主はともかくその縁者が王城の図書室に入ることは禁止されておりますもの、当然ですわ。それに馬車を呼ぶも何も、そちらのご令嬢本人の口から、男爵家の馬車は使えないと聞きましたもの」

「そのようなしきたりに囚われ、学を志す者を図書室から追い出すとはどういうことだ! 俺はシャーリィの向学心からくる願いに、彼女の家まで馬車を遣わせて呼び寄せていたのだぞ!」

「は……」


 レティナシアは言葉を失った。王城の図書室を令嬢が使えないのは警備の観点からだ。そもそも、城下に王立の図書館があるのだ。そこを使うべきだろう。いや、問題はそこではない。王太子殿下が男爵令嬢ふぜいに馬車を遣わせたことの方が問題だ。


「それに先程の侮辱もなんだ! 男爵令嬢だからと着るドレスを自由に選べないのはおかしいだろう!」

「わたくしが指摘したのはそこではありませんわ。誰からかは存じ上げませんが、一方的にドレスや装飾品を貢がせていることが問題なのです」


 主張を述べながら、レティナシアは焦っていた。こんな言い合いを繰り広げていれば、王太子と自分の評価が下がってしまう。なんとか鎮静化させることを考えなければ、と。


「貢がせているだと? いったい何を証拠にそのようなことを決めつける! もう良い! お前のくだらぬ妄想に付き合っている時間も惜しい!」


 サフィス王太子は隣に立つ男爵令嬢の腰を抱く。


「レティナシア・ユルゲンヒルト! 俺は貴様との婚約を破棄する! やたらと嫉妬深く口うるさい貴様となど、この国を治めていけるはずもない! 俺の隣に立つべきはアンシャーリナ・ギルト男爵令嬢ただ一人だ!」


 サフィス王太子の発言は大広間に激震を走らせた。無理もない。レティナシアが彼の婚約者となって7年あまり。その7年の間に、彼女は次期国王の婚約者として相応しいのだと示し続けてきたのだ。王族に入るための教育にも勤勉に取り組み、放っておけば傲慢な発言を繰り返しかねないサフィスをフォローすることで。

 サフィス王太子をよしとしない勢力が、隣にレティナシアが立つのでは追い落とすのは難しいと諦める程だというのに、それを察していないサフィス王太子の程度が知れるというものだ。

 これまで、現国王の後継者としてサフィス王太子を推していた面々の何割かは、泥船と化した派閥から抜け出す算段を立て始める。侯爵令嬢でもあるレティナシアならともかく、男爵令嬢でしかないアンシャーリナーー「駄目貴族製造機」では王太子妃として不足なのは明らかだった。

 サフィス王太子の対立派閥はと言えば、レティナシアの反応を息を潜めて見守った。こんな状況になってもなお、彼女がうまく場を切り抜けてしまうのなら、また次の機を窺わなければならない。そうでなくとも王太子妃として満足な教養を持つレティナシアを、自分たちの推す王太子候補に添わせられないかと考えているのだ。


「婚約破棄……ですか」


 レティナシアの手の中の扇が、軋んだ悲鳴を上げる。


「祝賀式典に相応しくない話題ですわ。改めて正式に文書で通達をくださいませ。内容を確認の上で、侯爵家として対応を判断させていただきますわ」

「はっ、そんな時間稼ぎに付き合う気は毛頭ない。この俺の婚約者という地位を笠に着て、さぞや高みに立った気分だったのだろうな!」


 どの口がそれを言っているのか。サフィス王太子の発言に、居合わせた貴族たちが思ったとか思わなかったとか。


「何か勘違いをなさっておいでのようですわ。ともかく、この話は一先ず終わりに――――」

「くどい! このような場だからこそ、貴様との婚約破棄をする場に選んだのだ!」


 横暴極まりないサフィス王太子の発言に、レティナシアは自分の頭のどこかで「ぷちん」と何かが切れる音を聞いた。


「っっ冗談じゃありませんわ! そこの頭空っぽなアバズレに殿下の隣が務まるとでも思っていますの!」


 レティナシアは、元々あまり気が長い方ではない。自国だけならともかく、他国からの来賓も参加しているこの夜会において、短気を晒すわけにはいかないと、必死で自分をセーブしていたのだ。

 事実、王城に出入りする貴族の口にはたびたび「ヒステリー令嬢」などという不名誉な仇名を付けられている。他人の思惑を汲み取ることのないサフィス王太子にギャンギャン噛みつくのを目撃されたこともあれば、目の前で優越感に浸っている男爵令嬢に対して怒鳴りつけている姿も見られているのだ。それでもレティナシアの評価が下がり切らないのは、ひとえに王太子妃として十分な働きをしているからなのだが、それに残念な王太子は気付けていない。


「とうとう本性を現したな。やはり貴様が執着しているのは王太子妃ひいては王妃の座だけなのだろう? そのような貴様をいつまでも隣に置くとでも思っているのか」

「そういう話ではございませんわ! そもそも男爵令嬢ごときが――――」

「くどいと言っているだろう! 貴様にはシダ辺境伯領のポポル修道院の院長の座をくれてやる! 二度と王都に戻れると思うな!」

「横暴も程々になさいませ! そのような権限は殿下にはございません!」

「次期国王に向かって何をたわけたことを! これ以上ゴネるなら、貴様の父や兄も連座させてやってもいいんだぞ! 連帯責任を負わせないだけありがたいと思え!」


 何度目かの激震が大広間に走った。

 王太子のこの発言には、さすがに居合わせた貴族の全てが危機感を持った。王太子の偏った考えによって侯爵令嬢一人が王都を追放される。それだけでも十分問題だった。それでも好き嫌いはどうしてもあるだろうから、婚約破棄まではギリギリ許せたかもしれない。このような公の場で宣言するのでなければ。

 だが、家にまで責を問おうと言っているのだ。たかが色恋の拗れ程度で侯爵家まで断罪するような次期国王に誰がついていくというのだろう。


 頭の冷えたレティナシアは、ちらりと大広間に居合わせている父を見た。澄ました顔ながら、その内側は怒りに煮えたぎっているのだと血縁だから分かる。


「――――サフィス王太子殿下」


 レティナシアの声は、自然と低く抑揚のないものになっていた。さっきまでの激昂した声とはうってかわって静かなものだったが、心の奥に燻る激情が彼女の声色を逆に冷え切ったものにしてしまっている。


「先程のお言葉は、全て、王太子としての発言と捉えてもよろしいでしょうか?」

「くどい! このような場での発言が王太子としての発言でなくてなんだというのだ!」


 レティナシアは細く長く息を吐いた。少しでも憤りを外に吐き出してしまわなければ、また声を荒げてしまいそうだった。


「婚約破棄および修道院院長就任の件、承りました。わたくしはこれで御前を失礼いたします」

「ふん、とっとと失せろ」


 吐き捨てるサフィス王太子は、自らの求心力がもはや無いものとなっていることに気付けない。気付かない。それが腹立たしくも悲しかった。


(いつから、そこまで愚かな人に成り下がってしまったのでしょうか)


 嘆きは外に出せない。レティナシアにできるのは、これ以上の波風を立てないよう、ただ従順にこの場を立ち去ることだけだ。それが王族を頂点とする身分社会というものだ。たとえ、誰の目から見ても不当な扱いであっても、王太子という身分の彼の言葉を覆せるのは、今この場にいない国王陛下だけ。その国王陛下がお出ましになるまで食い下がり時間を稼ぐことも考えたが、それは王太子も分かっていたのだろう。だからこそ、父や兄の処遇まで口に出したのだ。


(陛下には後程、手紙をしたためることといたしましょう)


 今日の不当な言いがかりに対する弁明はしっかりしておかなければ、本当に父や兄に迷惑がかかりかねない。陛下がこの件においてどのような判断を下すのかは計り知れないが、ここまでおおがかりな醜聞になってしまったのだ。どの道、レティナシアが再び王太子の婚約者として取り立てられることはないだろう。


(7年……捨てるには長すぎる時間ですわ)


 レティナシアは、王太子教育のために通った城内を、できる限り心に焼き付けながら、馬車留めへの道を歩いて行った。誰に見られているか分からない中、涙は流せない。



 ☆ ☆ ☆



 シダ辺境伯領のポポル修道院に到着してから十日余り。レティナシアは、王都とあまりに違う時間の流れに少しずつ心を癒されていた。

 夜会の翌日には、国王陛下からの遣いがやってきて、「王太子による婚約破棄は国王の承認もないもので実効力がない」とレティナシアに対して婚約継続を求める文書を届けてきたが、「他国の人間も居合わせた中での王太子の発言を白紙に戻すことは、国の権威を周辺国に疑われかねない」という表向きの理由に「信頼関係がマイナスの状態であるにも関わらず婚約を継続させることは現実的ではない」という感情的な理由を添えて突き返した。父と兄には「辺境の修道院などに行く必要はない」と止められたが、「周辺国の目もあるから、少なくとも一度は赴くべき」と修道院行きを強行した。

 そして、驚くべきことに、修道院には全く話が通っていなかった。5日もかけて辺境伯領へやってきたというのに、怒りを通り越して呆れ果ててしまった。


(本当に、王太子殿下は何を考えていらっしゃったのかしら……)


 レティナシアは院長に事情を話し、王城へ問い合わせの手紙を送ってもらうと同時に、単なる修道女見習いとして置いてもらうよう頼みこんだ。侯爵令嬢という身分を振りかざさないことを宣誓し、無事に住まわせてもらうこととなり、朝に祈り、昼に運営費稼ぎの刺繍や写本をし、夜に祈り、清貧生活を謳歌している。侯爵令嬢という身分を振りかざさないと誓ったが、あちらも気を遣ってか農作業のような体力を必要とする作業は割り振ってこないのは、正直ありがたかった。驚くほど具の少ないスープや、顎が痛むほど固いパンでは、令嬢としてしか生きてこなかったレティナシアは肉体労働できる程の気力を養えない。


「レティナシア嬢」

「はい。何かありましたでしょうか。シスター・アナニエ」


 ひどく慌てた様子のシスターに声を掛けられたのは、少し慣れ始めた写本に精を出していたときだった。


「レティナシア嬢に面会の方が来ております」

「面会……?」


 レティナシアは首を傾げた。

 家族へは少なくとも到着してから一月は放置して欲しいと話している。あれだけきっちり突っぱねた王家の遣いが来るとも考えにくい。可能性があるとすれば、王太子を引きずり落とす算段を整えている派閥だが、だとしても行動が早過ぎる。あの夜会から二十日も経っていないのだ。


「面会は主棟の方で行うのでしたかしら?」

「いえ、男性の立ち入りを許可しておりませんので、門に設けられた面会室までお越しください」

「分かりました」


 なるほど徹底している、とレティナシアは納得した。様々な事情を抱える女性が集まる修道院だ。男性は敷地にすら入れないらしい。


(門……には、確かに小さい小部屋がありましたわね。てっきり門番役の控室だと思っていましたけれど)


 伝えてくれたシスター・シナニエに礼を言って、レティナシアは写本の道具を手早く片付けた。誰が来ているのかは教えてくれなかったけれど、長時間になる可能性が高い。ペンを丁寧に拭いてインク壺の蓋をしっかりと閉める。インクの渇いていない紙は磨いた小石のペーパーウェイトで押さえておけばいい。写本の内容は誰に見られても構わない内容だ。


(どこぞの貴族か、王族の遣いか……)


 歩き出しながら、レティナシアは自分の服装を見下ろした。侯爵令嬢として、王太子の婚約者として在った頃には考えられない質素かつシンプルなワンピースだ。そこには飾り一つない。この服装を落ちぶれたと見るか、隔世と見るか。ちょっとした駆け引きになるだろう。


(……なんて、久しぶりにこんなことを考えますわね)


 王城に通っていた頃は、周囲にいる人々の思惑を考えない日はなかった。婚約者となってからの7年は、常に周囲の顔色を伺って、腹の下を読んで、表面は取り繕って、気を抜けたのは家にいた時間だけだった。ここへ来るまでの道中5日と修道院に到着してからのたった15日間だけれど、少しの休暇をもらったようなものだ。


(切り替えませんとね……)


 す、と顔に自然と力が入る。令嬢としての仮面を被り直し、お腹の下に少しだけ力を入れる。歩き方も自然と慣れ親しんだものになり、修道院の門に近づく頃には侯爵令嬢レティナシア・ユルゲンヒルトがそこにいた。


「失礼いたします。面会の方がいらっしゃったと伺いましたが」

「レティナシア嬢。ご足労をおかけします」


 門を守る兵は老年の男性と若い青年のコンビだ。だが、その両名ともに顔色が悪い。これは余程の大貴族が来たのか、と気をさらに引き締めた。


「お待たせして申し訳ございません。レティナシア・ユルゲンヒルトでございま……」


 小さな面会室の扉を開けたレティナシアは言葉を失った。


「いや、待つ時間も楽しかった。貴女に会うのが待ち遠しくてな」

「サビ=シャワン国王陛下……! 大変申し訳ございません。陛下がこのような場所にいらっしゃるとは思わず……!」


 これは門兵が顔色を変えるのは致し方がない。隣国を挟んでやや遠くにあるとはいえ、強大な力を持つ竜王国の国王陛下だ。その威圧感だけで、心弱い人ならば体調を崩してしまう。

 サビ=シャワン竜王国は文字通り竜の国だ。国土の3分の1を険しい山が占め、2分の1を大森林が広がっている。竜は険しい山々の奥底に眠る宝石を愛で、様々な猛獣が闊歩する大森林で食欲を満たし、自らに手向かうことさえなくばむやみに噛みついたりもしない。近隣諸国から式典などに招かれれば人化して列席するぐらいには周囲に対する配慮もある。ただ、その竜としての存在感が威圧となって無為にプレッシャーを与えるだけで。


「良い。こちらから取り次ぎの者に願ったのだ。誰が面会を願ったか内密にして欲しいと。――――さぁ、座るがよい、レティナシア嬢」

「失礼いたします」


 それはこんな辺鄙な場所にある修道院のシスターや門兵が断れるはずもない。隠すことのない竜の威圧と、その竜の国の王であるという名乗りだ。拒否できる者がいたら、国の重鎮としてスカウトしてしかるべきだ。


「……?」


 サビ=シャワン国王陛下の向かいに腰を下ろしたレティナシアだったが、彼が何も言わず上機嫌でこちらを見つめるだけなのに対し、首を傾げた。こんなところまでやってくるからには、相応の理由があると思ったのだが。


「あの、陛下?」

「堅苦しいのは好かん。名を呼ぶことを許す」

「――――」


 令嬢としての表面だけの笑みを浮かべながら、レティナシアの思考が一瞬停止する。


(名前を? 一国の侯爵令嬢でしかないわたくしが? 竜王国の国王陛下を名前で呼べと?)


 どう切り抜ければいいのか分からぬままに無言を貫いていると、先に焦れたのは相手の方だった。


「もしや、我の名を覚えておらぬか? 我は――――」

「いえ、ご尊名は覚えております。ライノ様」


 慌てて名前を舌に乗せたレティナシアは、すぐにのけぞった。彼女の声で名前を聞いたライノが満面の笑みを浮かべたからだ。


「うむ。良いな」

「……あの?」

「貴女の声で名前を呼んでもらえることがこんなに喜ばしいことだとは。20日と決めて待たずに、早くここへ赴くべきであった」

「それは……」


 ライノの言をまとめるなら、レティナシアの行動が監視されていたということになる。あの婚約破棄が行われた夜会の出席者に彼の名前があったことは覚えている。だが、あの場で王太子に言われたままにこの辺境伯領の修道院に来ることまでは分からないはずだ。というか、普通の貴族であれば、修道院に向かわせたふりで自領に引きこもらせるなど、別の手段を取るだろう。そうしなかったのは、レティナシアの矜持ゆえだ。万が一にでも修道院に向かわせなかったことに対し、父や兄が悪くいわれてはたまらない。王権に歯向かう姿勢など見せてはいけないと。


「さて、レティナシア嬢。我がここへ赴いた理由が気になるのであろう?」

「えぇ、一国の王が、隣国でもない、辺鄙なところまでいらっしゃる理由は、わたくしをどのように扱いたいからなのでしょう?」


 レティナシアはきゅっと拳を握った。ここでどんな無体な行動をされても、なにも抵抗せず従順に従うのが賢い在り方なのだと理解している。王太子に捨てられた令嬢など、強大な力を持つ竜王国の国王がどう扱おうとも――――


「貴女に求婚するためだ」

「きゅう、こん……?」


 レティナシアの脳裏に浮かんだのは、昨日隣室のシスターがしていた農作業のことだ。ガーリックという殺菌・抗菌作用のあるクセの強い野菜の球根を植えていたのを、彼女は室内から何とはなしに眺めていた。


(……って、求婚のことですの!?)


 レティナシアは目の前のライノをまじまじと見る。本性である竜の姿はお目にかかったことはないが、人化した姿を見るのはこれでおそらく5回目だろう。首の後ろでまとめられた艶やかな黒髪。髪が長いのはありあまる生命力だか魔力だかを髪として具現化させなければならないという話を聞いたことがある。瞳は最高級のルビーだ。その深い真紅の瞳で見つめられるだけで、背筋がぞくぞくと冷たくなる。おそらく生存本能が危険だと騒いでいるのだろう。


「ライノ様」

「ん?」


 レティナシアが名を呼ぶだけで、ライノの真紅の瞳が柔らかく細められる。


「以前、竜の方々が伴侶を選ぶ基準についてお伺いしたことがございました。確か……『魂の(つがい)』と呼ぶべき相手が存在し、一目見ただけでそうと分かるのだとおっしゃっていたと記憶しています」

「そうだな。間違いではない。ただ、全ての者が『魂の番』に巡り会えるわけではない」


 ライノは鷹揚に頷いた。


(そういう話なら、わたくしが王太子の婚約者としての教育を終えていたからこの話を持ち掛けて……? そうね、今のわたくしなら、今後、ライノ様が『魂の番』に巡り合ったとしても、離縁できる程に落ちぶれているわけですし)


 ドライな考え方をすれば、そうなる。ただ、それをレティナシアが受け入れられるかどうかはまた別の問題だ。


「どうしてこのタイミングで求婚なのでしょうか? 畏れ多くもサビ=シャワンの国王陛下です。わたくしは王太子殿下の婚約者から外れたのですもの。求婚という形ではなくとも、一時的に隣に置きたいと望めばすぐに――――」

「最初に貴女と出会ったのは、まだ貴女が13の頃だったな。初々しい新緑の色のドレスを纏い、金の鎖のイヤリングが動きに合わせて揺れていたのを覚えている」


 ライノの赤い瞳が、まっすぐにレティナシアを見つめていた。


「建国記念の式典でしたわ。まだ王太子殿下の婚約者となって1年も経たず、公式の場にも慣れぬまま失敗だけはしないように気を張っておりました」


 レティナシアは目の前の人に気付かれぬようため息をそっと逃がした。


(『きゅうこん』は間違いなく『求婚』なのですわね。初めてお会いしたときのことまで覚えていらっしゃるなんて……ドレスの色だけでなく装飾品のことまで、なんて)


 当時の彼女のことを想い出したのか、ライノは上機嫌に微笑んでいた。


「一目見たときに、理解した。我の隣にいるべきは貴女だと。貴女が――我が『魂の番』なのだと」

「……っ」


 人化をした竜はすべて美形だ。そこに男女の区別はない。竜の美意識がそうさせるのか、それとも人の顔の平均をとったらそうなったのかは分からない。そんな美形に、まっすぐに口説き文句を吐かれて平静でいられる者は少ないだろう。


「だが、これでも我は『王』だ。次期国王の隣に立つと決まっていた貴女を強引に奪おうとすれば国同士の争いに発展しかねないことは理解していた」

「そんな、サビ=シャワンに弓引く者などおりませんわ」

「普通に考えればそうだろうな。初対面のことゆえ、この国がどれほど貴女に固執するか測りかねていたこともある。それに、我が望めば、何かしら対価を払うことになるだろう。我個人ではなく、竜王国として(・・・・・・)


 最後の言葉に、レティナシアの喉がこくりと鳴った。


(この方は、王としてしっかり立っていらっしゃるんだわ)


 自分の利益よりも国の利益を優先するその考え方に心が震える。どこぞの王太子殿下に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。――――竜の爪の垢など、どれぐらいの大きさになるか分からないが。


「レティナシア嬢?」

「……ライノ様は、本当に素晴らしい御方なのですね」

「そう褒められるのは悪くないが、少しだけ誤解があるようだな」

「誤解ですか?」


 ライノの瞳が、少し困ったように揺れた。


「我の様子がおかしいのに気づいた側近に詰め寄られ、全て白状させられたのだ。その上で、国の代表であり、国民の手本となるべき我がどうして『番』を得ることを優先させないのだと懇々と説かれた」

「それだけ、ライノ様が大切だということでしょう。とても良い側近の方ではないですか」

「いや、違うのだ。国王たる我が『番』を優先させないのなら、部下の自分も『番』より『国』を取らなければならなくなると、そんなのは御免だと吠えられた」


 いい話に持って行こうとしたのに、私情がばりばりに入った反論だったらしい。少し困ってレティナシアは話の方向を少し変えることにした。


「……えぇと、それだけ、竜の方々にとって『番』が重要ということなのですよね。それならばなおのこと、国同士の交渉とした方が良かったのではないでしょうか」

「そうだな。我も側近もその方向で対応を検討する予定だった。貴女の心があの王太子にあるようなら、諦めることも視野に入れようかと観察していたのだが」


 ライノの口の端が持ち上がる。


「どうも王太子は別の女性にうつつを抜かし始め、あまつさえ貴女を陥れることさえ計画している様子だったのでな。このまま放置しておけば、容易に貴女を手に入れられると時機を待っていた」

「……」


 つきり、と胸が痛む。あの大広間の出来事がまざまざと蘇ってきた。自分たちに対する好機の目、非難の目、様々な視線を集めながら、とにかく穏便に済ませなければと頭をフル回転させていたあの夜会は、レティナシアにとってぶっちぎりの黒歴史になっている。王太子の婚約者として心を削った日々も合わせて。


「あのような浮気男に、貴女は勿体ない」


 そんな彼女の葛藤を蹴飛ばすように、ライノは断言した。


「……あのような断罪劇を上演させられて、性格が歪んだりするとはお考えになりませんでしたの?」


 少し意地悪な問い掛けにも関わらず、ライノの笑みは消えない。


「多少性格が歪もうが、復讐に燃えようが、成就せぬ恋に苦しもうが、魂の質は変わらぬよ。身の危険があれば救う段取りは整えていたが、幸いに今日この日まで何事もなかったのは僥倖だったな」


 ライノの言葉を素直に受け止めれば、どんなレティナシアでも受け止める所存だったということ。だが、斜めに構えれば、レティナシアが傷つこうが構わないというようにも聞こえる。


「性格が……」

「ん?」

「性格が悪いと指摘されたことはありませんか?」

「はっはっはっ、性格が悪くなければ、国のトップなど務まらぬ」


 笑い飛ばしたライノの言葉に、レティナシアは確かに、と頷いてしまった。


「わたくしが、ライノ様の手を取らなければ、どうなりますか?」

「レティナシア嬢が我の手を取ろうが取るまいが変わらぬぞ」

「え?」

「貴女の父や兄の承諾はもらっている。貴女が我の手を取らぬのなら、我が貴女の手を取り、このまま我が国に連れて帰って誠心誠意口説くだけのこと」


 驚きのあまり二の句がつげないでいるレティナシアの手を、ライノの大きな手が掬い取った。


「さぁ、我とともに行こう。愛しのレティナシア嬢」


 レティナシアの口から拒絶の言葉は出ることはなかった。



 ☆ ☆ ☆



(空が青いわ……、とても濃くて澄んだ色)


 レティナシアはぼんやりと空を見上げていた。

 修道院での求婚から、彼女はライノの言葉通りここサビ=シャワンへと連れて来られた。竜王の『番』ということで歓迎ムード一色の扱いを受け、特に断る理由もないままライノの隣に居る。

 サビ=シャワンへやってきたレティナシアは、カルチャーショックの数々に目まぐるしい日々を送り、故郷を思う時間もかつての婚約者を思い出す余裕もない。文化が違う以前に人と竜で種が違うのだ。生活様式から価値観から全てが目新しく、毎日何か失敗をしている気がする。周囲は気にする必要はないと優しく声をかけてくれるが、もともと王太子妃になる存在として教育された矜持がある。馴染むための努力は惜しまなかった。

 彼女を受け入れた竜王国側からすれば、まず何より国王の『番』であるし、人間を『番』としてこの国に受け入れることだって初めてではない。むしろ変に気負ったりして国王陛下との仲が悪くなっては大変だ、と、レティナシアを真綿に包むように扱ってくれていた。それになによりレティナシア自身が竜王国に馴染もうと努力している姿勢を見せているのだ。好意的にならないわけがない。

 今も、頑張り過ぎるところのあるレティナシアを周囲があれこれ宥めて休憩に追いやったとこだった。彼女自身はまだまだ学び足りないぐらいなのだが。


(それでも、随分と呼吸がしやすいわ)


 王太子の婚約者として教育を受け、他人の考えを慮らない王太子の尻拭いに奔走し、さらに某男爵令嬢の色香に惑わされた姿を見せつけられていたときには、まるで溺れる寸前のような呼吸しかできていなかった気がする。

 王太子に向かって声を荒げることも多く、ヒステリー令嬢などと陰口を叩かれていた頃が嘘のようだ。今思えば、あれは単に心の余裕がなかっただけなのだろう。無理もない。慣れぬ教育に心身をすり減らしているところに、頼りになるはずの婚約者は傲慢で独りよがりな考え方が目立ち、周囲との摩擦でトラブルを起こす。しかもそれをフォローするのがレティナシアの役目になってしまっていたのだ。そこに『駄目貴族製造機』がやってきて王太子の気持ちを簡単に奪っていってしまった。ストレスがたまらないわけがない。


「シア、こんなところにいたのだな」

「ライノ様」


 バルコニーで空を見上げていたレティナシアを、背後からライノの腕が包み込む。


(『シア』と呼ばれることにも慣れてしまったわ)


 家族や友人、そして元婚約者からは「レティ」と呼ばれていたレティナシアだったが、ライノは他人が使った愛称は嫌だと駄々をこねたのだ。その結果が「シア」である。


「寒くないか?」

「大丈夫ですわ。いただいたこのドレス、温かくて重宝してますもの」


 険しい山々の中腹にあるサビ=シャワン竜王国の城は、高地にあるためか涼しい。そこに容赦なく吹き付ける強い風が人の体温をあっけなく奪っていくのだ。事実、ここに到着してから三日目に、レティナシアは体調を崩した。

 慌てたのはライノの方だ。人間が脆弱な肉体しか持たないと知識では知っていたが、これ程とは思っていなかった。彼は即刻、人を遣わせて他国の高地で飼われているハイランドゴートと呼ばれる山羊の毛を取り寄せ、紡績で有名なまた別の国の技術者に織らせて布にし、これまた別の国の有名なデザイナーにアポを取って温かく軽く見映えのする逸品を作らせた。周辺各国に多大な影響力を持つ彼だからこそできた業とも言える。もちろん、レティナシアはそんなことは知らない。ただ、こんな軽くて明るい色のドレスがあるのもお国柄なのだと受け止めていた。その価値を知るのはまだ先の話だ。


「空が……」

「ん?」

「空が、わたくしの知る空より青い……深い色で、見惚れておりましたの」


 ライノがレティナシアを抱きしめる手に、一段と力がこもる。


「故郷の空が、恋しいか?」


 絞り出すような苦しそうな声に、レティナシアは思わず笑ってしまった。その威圧感はそこに居るだけで存在を強く印象付ける。そんな竜王国の国王らしからぬ弱々しい雰囲気に、彼女がさせてしまっているのだ。それほどまでに、――――思われているのだ。

 修道院へと迎えに来た頃こそ、その押しの強さに一歩引きそうになった。けれど、こうして竜王国へと連れて来られて分かる。ただ、彼は彼女を愛しく思っている。それだけなのだ。それが分かっているからこそ、少しだけレティナシアの心に悪戯心が芽生えた。


「そうですわね」

「っ」


 抱きしめられ、体が密着しているからこそ、その動揺が手に取るように分かる。誰もがその威に身構えてしまう竜王国の王を、レティナシアはかわいいとさえ思えるようになっていた。


「お兄様のところに、可愛らしい子が生まれたと聞いていますの。出産祝いに顔出しができたら、と」

「……そうか」


 もはや安堵のため息さえ隠さないライノは、彼女を抱きしめる腕をほどき、隣に立った。


「竜の子は、親の脱皮した鱗を玩具に力の加減を学ぶ。人の子はどうだ?」

「……そうですわね。男の子であれば木剣、女の子であれば可愛らしいお人形でしょうか。でも、まだ赤子ですから」


 レティナシアは動揺を飲み込んだ自分を褒めたかった。あまりに人間と尺度が違う。脱皮した鱗とはなんだ。力の加減を学ぶのがまず必要なことなのか、と。


「ふむ。人の子に縁のある者に聞いてみるとしよう」

「そうですわね。城内や城下に、わたくしのように外から嫁いだ人もいるのでしょう? 意見を聞いてみたいですわ」

「……だが」

「はい」


 ライノの手がレティナシアの手をそっと握る。


「竜の『番』となった貴女が人間の赤子を産むことはない。それだけは承知しておくのだな」


 予想外な言葉に、レティナシアは隣のライノを見上げた。その表情は、いつもの余裕を失い、彼女を気遣うような色を見せている。


(どうして、そんなことを今更……?)


 この城へ連れて来られてすぐ、竜の『番』がどういうものなのかは勉強した。その上で、レティナシアはここにいることを選んでいるというのに。

 竜は胎生ではなく卵生。竜と他種族の者が番った場合、生まれるのは全て竜。強い方に引きずられるのだと。


(もしかして、普通の人のように、赤ちゃんを産めないことを気にしていると思ったのかしら?)


「わたくし、生まれたばかりの子竜は姿絵でしか見たことはないのですけれど、それでも可愛らしいと思いましたわ」

「っ」

「ライノ様と同じ黒い鱗の子竜も、きっと可愛らしいと思いますわ」

「シア……っ! 貴女という人は……っ!」


 その日から一週間、国王の『番』の姿を見た者はいなかった。なお、国王夫妻の寝室を世話する使用人は、大変よく働いたので、特別給与が支給されたとか。


 ☆ ☆ ☆



「まぁ、あちらは……」

「サビ=シャワンの国王陛下でいらっしゃるわ。ご夫婦でいらっしゃるのは初めてではないかしら」

「妃殿下は確か――――」


 さざめく人の声を聞き流しながら、レティナシアは隣に立つライノの手をそっと撫でた。人より聴覚が優れていることなど知らず、きっとあれこれ噂し合っていることは間違いない。かつて王太子の婚約者であった令嬢が、ほかならぬ竜王国の王妃として夜会に参加しているのだ。話題にならないわけがない。婚約破棄の場となった3年前の夜会にいた貴族たちもいる。レティナシアとて、逆の立場であったら、同じように噂を楽しんでいたかもしれない。


「ライノ様、眉間に皺が寄っていらっしゃるわ」

「やたらとうるさいのが多い。仕方がないだろう」

「えぇ、ですからお気になさらないように昨晩も申し上げましたでしょう?」

「だが、少しぐらい威圧して黙らせても――――」

「ライノ様? 隣でこうして守ってくださるだけで、わたくしは安心できますのよ」


 隣の妻の囁きに、それまで険しかったライノの表情が一変した。例えるなら、真冬の吹雪が春の日差しになったような。それほどの激変ぶりである。


「サビ=シャワン国王妃殿下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」

「お兄様」


 ライノの表情が緩んだ隙を見計らってか、レティナシアの兄――隠居した父の代わりにユルゲンヒルト侯爵となった彼が声をかけてきた。


「お義姉様は今日はいらしていないの?」

「今日は体調が優れなくてね。――――あぁ、心配いらない。二人目なんだ」

「まぁ! でしたら、また出産祝いを見繕っておきますわ。今度は何がいいかしら」

「サビ=シャワン国王陛下。私の第一子誕生の折には素晴らしい贈り物をいただき、感謝の言葉もございません」

「構わぬ。息子は息災か?」

「えぇ、やんちゃざかりで元気なものです。おかげで風邪一つ引かぬ、丈夫な子に育っております」


 レティナシアが兄の子の出産祝いにと贈ったのは、竜王国では一般的なお(まじな)いだ。ライノの鱗に込められたそれは、病気を跳ね返し、ケガの治りをよくするものだそうで、だいたい10年から15年程効果が続く。生まれた赤子の胸元に鱗を当てると、まるで鱗が幻のように霧散したと聞いて、見てみたかったとレティナシアがこぼしたのに、ライノが逆に慌てたというエピソードも付く。なお、ライノの埋め合わせは満天の星の下での夜間飛行だったので、レティナシアの機嫌は一発で直った。


「それは重畳。シアの慕う家族のことだ。また何かあれば連絡するがよい」

「いいえ、私は妹が幸せであれば、それで十分でございます」

「もう、お兄様ったら、そんなことを言わなくても、わたくしは十分に幸せでしてよ?」

「レティ。何度も言うようだけど、家のために君が犠牲になるようなことはなかった。――――陛下、一人では暴走しがちなところもございます。どうか妹をよろしくお願いします」

「言われずとも」


 あのサビ=シャワン国王に対し、義兄と言えど友好的に会話をするユルゲンヒルト侯爵に、周囲はちらちらと視線を向けていた。どのような経緯があったかは明らかにされていないが、彼の妹がサビ=シャワン国王の溺愛する妻になったのは事実。縁を繋いでおくことに越したことはないと打算が働く。

 一方で、レティナシア自身にも、羨望の眼差しが向けられていた。そこに居るだけで威圧してしまう程の存在感を持った竜王国の国王陛下の隣にたつ女性。かつて婚約者であった自国の王太子殿下に手ひどく婚約破棄を告げられながらも、その優秀さは衰えることはなかったらしい。事実、彼女が正式に妻となってから、サビ=シャワン国王の威圧は幾分か和らいだ気もするし、王妃であるレティナシアが取り持った外交案件もある。

 実は、羨望の眼差しを向ける人の中に、かつて婚約者であった王太子も含まれていた。愛想の欠片もないと思っていたレティナシアが隣に立つライノに微笑みかけるたび、彼の心が驚きで満たされていく。

 彼女を切り捨ててからの王太子は散々なものだった。何故か思うように進まぬ交渉事。がくりと数を減らした支持派閥。運命の相手だと思っていた男爵令嬢は知識も礼節も王太子妃としての基準に遠く及ばず、挙句の果てには厳しい教育に耐えられないと去って行った。もちろん、王太子を婚約破棄させた醜聞は彼女をついて回り、社交界に姿を見せることはなくなった。風の噂でどこぞの修道院に押し込められたと聞く。行先が修道院であることを因果応報だと誰もが噂した。かつて王太子の婚約者を追い落とした先と同じ場所だと。レティナシアは自力でそこから抜け出したわけだが、おそらく例の男爵令嬢はそうはいかないだろう。

 今、周囲の信用を失った王太子の隣に立つのは、隣国の第二王女だ。男尊女卑の強い彼女の生国では女性が政治に関わるのはもっての他という考えで、そんな中、政治や経済に強く興味を持って隠れて勉強に励んでいた彼女は、王太子の醜聞を聞いて「これだ!」と売り込んできたらしい。もはや国内の貴族令嬢の中には、王太子の隣に立ちたいと思う者はいない。国王はこれ幸いと第二王女を受け入れた。もちろん、そこに愛なんてものはない。王太子は自らの地位を守るため、第二王女は憧れの政治の世界に飛び込むための打算だらけの結婚である。


「サフィス殿下?」


 隣の妻に声を掛けられ、立ち尽くしてレティナシアを見つめていた王太子は、はっと我に返った。


「ご挨拶なさらないの?」

「いや、俺は――――」

「でしたら、わたくしだけで参りますわね」


 王太子妃はうだうだ悩んで立ち止まっている夫にすぐに見切りを付けて、エスコートの手を振りほどき、竜王国国王夫妻のところへ歩き出す。そんな妻を止めることもできず、まだ王太子は立ち尽くしていた。


「……拍子抜けしましたわ」


 レティナシアは、隣のライノにだけ伝わるよう、ごくごく小さな声を落とした。人間の耳では拾いきれないほどの小さな吐息すら、隣の夫はちゃんと聞き分けるのだと知っている。


「冷静になってみたら、貴方より数段劣る人でしたのね」


 誰のこととは言わない。ただ視線でほのめかすだけの言葉に、隣のライノが彼女を包み込むような優し気な表情を浮かべた。


「その妻だけがこちらにやってくるようだが?」

「ルマシン公国の第二王女殿下のことは、何度か耳にしたことがありますの。とても聡明かつ賢明な方と聞き及んでおりますわ」

「なるほど?」


 かつての婚約者の妻、その立場に何ら思うことはないと言い切るレティナシアに、ライノはただエスコートする手を、一度だけぎゅっと握った。


「ライノ様?」

「何でもない。シアの可愛らしさを再確認しただけだ」


――――仲睦まじい竜王国の国王夫妻の姿は、その日、夜会に参加した全ての人の目に焼き付いた。取り分け、かつては王太子の婚約者であったレティナシアの堂々たる立ち居振る舞いを見た一部貴族は「彼女が王太子妃であったなら」と失望のため息をついた。そこには王太子に対する皮肉が含まれる。

 せめて、何事もなかったように将来国を背負う立場として、友好的に振る舞えれば評価も変わったかもしれないが、その日、サフィス王太子はとうとうレティナシアに声をかけることができなかった。その代わり、王太子妃が積極的に会話をしていたので、逆に彼女の評価はうなぎのぼりだった。王太子妃がいなければ、強大な竜王国の機嫌を損ねていたに違いない、と。その評価を聞いて、王太子はひどく肩を落としていたとか。


 そんな評価の乱高下が起きていた夜会も終わり、夜も更けた頃、レティナシアは滞在場所に選んだ実家の別邸で一人、バルコニーから星空でも町の灯りでもない、どこか遠くを見つめてぼんやりと立ち尽くしていた。

 心ここにあらず、といった様子だったが、ひたり、と彼女に近づく足音に、レティナシアは唇を動かした。


「それでも、好き、だったのよ」


 一筋の涙を流す伴侶を、足音の主――ライノが包み込むように背後から抱きしめる。


「それならそれで構わない。アレを好きだった貴女ごと愛そう。何、そう時間もかからず、思い出として引き出しの奥深くにしまいこめる程度に格下げできる」


 唯一の『番』が他の男に想いを寄せていたと告げられたのに、ライノの声に動揺はない。レティナシアの一挙一動に一喜一憂していた彼にしては珍しいことだった。


「『番』が他の男を想って泣いているのに、嫉妬もありませんの?」

「嫉妬など、アレの婚約者だった頃に散々味わった。あまつさえ貴女を雑に扱うのに殺意すら覚えた。その数年間の苦渋と違い、貴女はここにいる。何を焦燥にかられることがある?」


 まっすぐ前を見つめるレティナシアからは、ライノの表情は見えない。けれど、その表情は容易に予想がついた。きっと、奥に押し込めた嫉妬を覆い隠して自信に満ちた表情を浮かべているのだろう。そうと分かるぐらいには、レティナシアは彼を知っている。3年間という月日がそうさせた。


「もはや、と言っていいのでしょうか。器が違いますのね」

「当然だろう? あれは優秀な貴女の隣に立つことができない劣等感を捨てきれず薄っぺらい女に逃げた弱虫だ。比較対象にすらならぬ」


 その言葉に、レティナシアはくすりと笑う。あのとき、そんなことを考える余裕すらなかった。とにかく王太子の婚約者として相応しくあらねばと気を張るだけで精一杯だった。


「ありがとうございます、ライノ様。今の言葉で全てふっきれそうですわ。今後は貴方の隣に立つに相応しくなるべく――――」

「不要だ」

「え」

「貴女は今のままでよい。さらなる向上を目指すことは否定せぬが、我は、……レティナシア、貴女が貴女であるだけで十分なのだ」

「そういうわけにはいきませんわ。わたくしにも矜持というものがありますの。誰からもライノ様の隣に立つに相応しい人間なのだと認められたいのですわ」

「かような発言をする者を、我が許すとでも?」

「ですが、カンブテル諸国連合の盟主のご息女のような方が、また出てこないとも限りませんもの」

「あれは……なぁ」


 ライノは渋い顔をする。レティナシアが挙げたのは、何故かライノの威圧を物ともせずに、ライノの側室か妾で構わないからと特攻してくる令嬢の名前だ。


「あのような方を、わたくしの力だけで跳ねのけられるようになるのが、当面の目標ですわ」

「あれは例外でもよくないだろうか?」


 件の令嬢は、恋愛感情ではなく「竜かっこいい! その王様はもっとかっこいい!」という子どもじみた憧れだけで向かってくるだけ、と知っているライノは、扱いに困っているのが本音だ。レティナシアが蹴散らしてくれるのならありがたいが、それはそれで男として、彼女の伴侶として情けないという思いもある。


「明後日には帰りますでしょう? 明日は城下を散策してもよろしいですか?」


 これ以上、この話題を引き延ばすつもりもなかったのだろう。レティナシアは話題を変えた。既に頬にあった涙の筋は乾いている。


「何か欲しいものがあるなら――――」

「お留守番のアルマにお土産になるものを探そうと思いますの」

「それなら我も共に行こう。何、これでもお忍びの散策には慣れておる」


 その気になれば威圧も消して市井に溶け込むこともできる、と胸を張るライノに、レティナシアは「だいたい目星は付けておりますの」と告げる。

 竜王国で二人の帰りを待つのは小さな子竜。彼らの間に生まれた子は、父親譲りの真っ黒な鱗に覆われた尻尾を振って、嬉し気に迎えてくれるだろう。全く同じタイミングでその姿を想像し、二人は温かく微笑んだ。



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― 新着の感想 ―
他所と違ってツガイガーツガイガーと人権無視せず誠実な竜王様。それが当たり前なんですけどね。クズ行為を純愛で押し通す馬鹿じゃなくて良かった
2024/10/22 10:06 退会済み
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