第二十話 若葉の季節のはじまり~二人の漫画家さんとの和やかな雑談~
部長に戻って来て欲しい、とは誰も言わなかった。
疲れて病んだ彼に対する哀れみ。
得られるものが減るかもしれないという不安。
加賀見さんは全く見かけなかった。
「たまに出かけてはいるみたい。時々様子は見に行くけど、あの子は相変わらずだにゃぁ」
沙汰んちゃん(猫耳ver)が呆れたようにぼやく。
あの人のことは何も知らない。
一瞬だけ出て来て、すぐに退場した人。
ただ毒を振りまいて、泣きそうだった人。
短い遭遇だったが、彼の絞り出すような絶望が、何度も蘇る。
親に捨てられたと叫んだ彼。
オレは両親から愛情を持って育てられた。
今はあまりに状況が混沌としてしまったので、幸せだと言うのは難しい。だけど少なくとも、オレは親に捨てられていない。
もしも彼が戻って来て何かを頼まれたら、果たしてオレは断れるだろうか。譲歩してしまうかもしれない。でも、度を越して譲れはしない。
後に残るのは火種だ。
果たしてうまくやっていけるだろうか。
気が重い、というのが本音だった。
今は入って来たばかりで記事の配分を融通してもらっている。毎月百万から三百万と仮定して、最大で一億円弱は稼げるのだろうか。さすがに現実味がない。お金が入るのは本来ならうれしいことのはずなのに、得体が知れない不安が常に付き纏う。
そこまで巨額の報酬を一生徒に与える理由は何だろう。
大人の意図か、黒い出所のお金か。
あるいは、オレ達自身に何かそれだけ支援を与えられる理由があるのか。
答えは出ない。
これは援助だ、そう思うことにする。
お金のある学校関係者が、何らかの事情と都合と同情や、様々なものを塗り固めてたまたま利益を与えてくれている。そんなところだろう。
しかし、それだけの報酬を得ても在学中の借金完済は難しく、オレの場合は甘く見積もっても、数千万以上の借金が残る。オレより長く在籍している先輩たちから滲むあの疲労感。終わりの遠い日々への疲れ。
だからこそ、「総取り」という禁じ手に気持ちが向かった加賀見さん。わずかな計算が狂っただけで乱れてしまった岩永さん。
手段を問わずの報酬の独占。順番の厳守。
追い込まれたとき、オレは彼らのようにならずに済むだろうか。なんだか、だんだん嫌な人間になっていくような気がした。
目的と手段、そして夢、か。
それが上手く噛み合うなら、こんなに苦しいとは感じないのだろう。
琥里きららと話すのは、そんな憂鬱な日々を少しだけ明るくしてくれる。
「それでね、今は前に作ったプロットを元にして新作を描いてるの」
「どんなお話か、すごく楽しみです」
「えへへ、もうすぐ締め切りだから、あとちょっと頑張る。この学校に入れて、本当に良かった。毎日がすごく充実して楽しくて、気持ちがわくわくしてくるよ」
「本当にきららは前向き少女漫画ヒロインだね。フェス様降臨前の古典から続く伝統」
みすずさんが少し呆れたように苦笑いする。
彼女とも食堂ではよく一緒になるので、多少は会話するようになった。
「昔の少女漫画なら、オレも好きな作品があって」
オレは過去の名作のタイトルを挙げる。
二人はそれぞれに反応する。
「王道だね。私も好き。おばあちゃんの家でも小さい頃読んだなぁ。なんかもう、懐かしいレベル」
少しだけ思い出に浸るような様子のみすずさん。
「私も大好きな作品だよ。主人公がすごく前向きで、困難もいっぱいだけど、だからこそ逆境に立ち向かう強さが輝くんだよね。それから、日常の楽しさ」
琥里先生はにっこりと微笑む。オレ達の会話が捗ったのが嬉しいのかもしれない。
「デジタル作画も素晴らしいですが、何百年も前に紙とインクやトーンだけであれだけの世界を表現したところが痺れます。なんと言うか、芸術ですよね」
お母さんも漫画好きで、往年の名作などを多数コレクションにしていた。オレも様々な気持ちを慰めるために読んでいた時期もある。
よって、話が出来る程度の知識はあった。
「あの年代の少女漫画って本当良いよね。時代性を反映した物語や、絵柄の味わい。紙とインクのペンの時代にあれだけ精緻で精妙な描き込みってすごいよ」
みすずさんも熱心に語る。
さほど仲良くなったとは言えないが、漫画の話題は自然と捗った。
「わかります。描き込まれた作者の尋常ではない熱量と魂を感じますよね」
「宝石みたいな瞳や、きらきらの髪とか素敵だよね。なんだかとても、幻想的」
その生きた化身のような琥里先生が言う。
物語の中から出て来たような少女。
みすずさんと顔を見合わせ、二人で彼女をじっと見つめてしまう。
「どうかした?」
彼女はきょとんと首をかしげる。
存在自体がもはやファンタジー。
四六時中、輝いているわけではないが普段から存在感は強い。
あまりに目を惹く人だ。
「それはそれとして。アナログ作画も憧れるよね」
みすずさんは気を取り直して言う。
「あんな絵描いてみたいなぁ。こだわるなら紙とペンだよねとは思うけど、難しいよ」
Festivals様の降臨後はアナログ方向への回帰ブームもあった。彼らが好むのは人類が主として生み出した娯楽。生成AI使用への危機感もあり、様々な動きがあった。
とは言え、デジタルで執筆・仕上げを行ってもフェス様の寵愛に大きな変化はなかったそうだ。現代ではどちらかと言えば、縁起を担ぐ意味の方が強い。
「たまに描くけど、紙とインクはやり直しが利かないのが辛いよね。今のところやり直したい、ってなる。アナログで言うと、上級生の人の作品ですごいのがあってね」
琥里先生が挙げた作品は読了済みだ。これは目に入れておいて損はない、と先輩に言われて。
「三年の他言先生の作品ですね。完全アナログの方で、読みましたがひたすら圧倒されました」
最高学年の首席。
文字通りの、漫画学科における頂点。
「重厚すぎる超絶技巧の描き込みに、壮大なストーリーと完璧な物語構成。あれで学生って、ほんとにすごい。もうプロにしか見えないもん」
「あそこまで行くと本当に天上人だよね。嫉妬する気にもなれないや」
みすずさんも感嘆を滲ませた声で言う。
この高校で最も優れた漫画家、と言うと、最上級生のランキング一位だろう。
オレは担当していないが、余裕があれば別に書いても良いらしい。
ただ、順番は守る。利益は正しく分配する。
ゲームにおける基本ルール。
そしてお互いに無理はしない。責め合わない。そんな空気もあった。
万が一、また首を吊られてはたまらないし、暴走されてもたまらない。誰もがそんな内心を滲ませていた。
授業を受けるのは短い時間だけで、あとは全て記事に費やす。
順番にランキングを消化すると、少しだけ気持ちが楽になった。
ノルマをこなした達成感。書けば書くほどに、こなれてきているのがわかる。
暇があれば、好きな漫画の話をする。
琥里先生たちや、部の皆とも。その瞬間だけは、何もかもが忘れられる。
記事の執筆については、残念ながらそこまで捗らなかった。ランキングを順番にこなして、更に数作品程度。気を引き締めなくては、全てが水の泡だ。
月初めに新作が一斉に更新された。
「ここからまた仕切り直しだね。行けそう?」
「頑張ります」
篠崎さんに問われて、拳を握り締めた。やるしかないから、やる。在籍している間に少しでも借金返済を進めるんだ。
気持ちを奮い立たせ、明るい目標だけを見据える。
借金を返済し終えたら、生活も安定する。お父さんもきっと元気になって、製作途上で頓挫したあの映画も完成して、そうしたら。大事なものを取り戻せるような気がする。
今はそのために、ただ前を向くしかないんだ。




