第十九話 錆びつき讃えロボット~壊れた彼の事情と重なる誰かの影~
一度、岩水部長のお見舞いにも行くことになった。
竹平さんは同席を見合わせると決めたらしい。
「悪いことをしてしまいました。無頼先生は毎回岩永さんへの感想に反応されていて、プレッシャーや、思い入れや、色んなものを抱えていた」
深い溜め息を吐き、様々な感情を吐露していく。
それは、誰かへの思い入れの話だ。
「だけど、そこに変な手出しをしてしまいました。僕もあの人の立場なら何らかの怒りに駆られたでしょう」
岩永部長が自殺未遂へと至る直前のやり取りの話だ。
彼が記事の投稿の順番を守らなかった。
それゆえに起こったトラブル。
先着順で報酬の差が生じる、不可避の仕様。
それゆえに定めた部内ルール。
漫画の感想を書くというだけで起こった悲惨な出来事。
途中参加のオレにはわからない細やかな背景があったらしい。
「お互いに疲れていたんだよ。そりゃそうでしょ。こんなことやってたらさ。どっちも悪くない」
ミニ先輩が竹平さんの方に手を置いて、言う。
「でも、岩ちゃんがキレたのは悪い。怒鳴ったのも悪い。作家さんへの暴言も絶対ダメ」
淡々と、それでも念を押すように続ける。
「お金なら調整できた。魔が刺したって言っても、ケアレスミスに近い何かで、悪意なんてないのはわかるよ」
「でも、ギリギリの彼を追い込んだ」
「予定を組み過ぎて一つ崩れただけで発狂しちゃったんだよ。この場合は竹くんが被害者だよ」
思いやりを滲ませた声音で、唯賀美二は彼を慰める。
この環境の中でも彼女は常に落ち着いていた。
「ミニ先輩、僕は」
「大丈夫、岩ちゃんもそれは十二分にわかってる」
「すいません」
彼は俯いてそれ以上は何も言わなかった。揉めたきっかけは竹平さんだが、オレも岩永さんに食って掛かってしまった。会話にもなっていない感情的なだけのやり取り。
ただ、竹平さんと違い、強い責任までは感じていない。
冷たいようだが、現実感がなかった。
事態が一足跳び過ぎて、気持ちが付いていかなかったのだ。
嵐の渦に呑まれたような一件だった。
どちらも疲れていた、間違いなくそうなのだろう。
巨額の報酬のほとんどが借金返済に消える。
それぞれの額にもよるが、加賀見さんの発言があった。
何をどうしたって、相当な額が残る。
自分の懐事情は、彼が一番知っていたはずだ。
つまり他の部員も同様の額があると考えるのが適当。
三年間で完済は出来ない可能性は高い。
そんな中で、たとえ好きな作家さんを讃えるという仕事であっても、どこか無理が来ることは想像に難くない。琥里先生の作品を讃えるだけで、これほどまでに疲弊しているから、わかる。
まだ最初だからいい。
でも、これがずっと続いたら?
三年間、彼女を騙し続けることが出来るのか。
知らないふりをして讃え続けることが可能なのか。
更に岩永さんに迫るのは期間限定の待遇の終焉、卒業だ。
どれほどのストレスを抱えていたかは想像するに余りある。
翻っては、彼の家庭事情にも連なる問題だ。
どこへ行っても、逃げ場はなかい。
病室の岩永文久は思いのほか落ち着いていた。
髪を短く切り、別人のような様子だった。
「色々悪かったな。余計なことをしたし、要らんことを言った」
「オレは大丈夫です。でも」
「作品に当たるのは間違っているよ。そんなことわかってる。いや、わかっていた、かな。俺はもう過去形なんだよ、何事もな」
「部長はまだ一年あるじゃないですか」
友安さんが控えめに言う。
借金の残りと返済のために報酬を得られる期間。
それがまだ残されているのだと、暗に告げていた。
「俺はどうすればいいんだろうな。長年の活動ですっかりあの作業が染みついてる」
疲れ切った者に特有の、灰色の溜め息。
「今すぐにでも戻ってやらなくちゃと思う。反面、もう疲れた何もしたくねぇとも思う。そして報酬額を四六時中眺めているんだ。あぁ、じりじり減っていく。もうすぐ終わりだなって」
あまりに生々しく、こちらにも響く。
「何も考えない方がいいよ、岩ちゃん」
「無理ですよ。そんなの」
ミニ先輩に対しては敬語の岩永さん。
二人きりの三年生組。
これまで何があったんだろう。
「戻りたい。戻るべきなんだ。でも戻るのが怖い。でもやらなきゃ、やらないと、な」
窓の外を見ながら一人ごちる。
誰もそれ以上の口を差し挟めない。
これがオレたちの今後なのではないか。
無言の空気が物語っている。
「あの、岩永さんは何故あんな風に」
少し話を聞きたくなった。
だけどうまく言葉が出てこない。
「あの場所に居る人間の事情は誰でも同じ。わかってるだろ」
彼の口調はどこまでも落ち着いていた。
「でも、どうしてあそこまで?」
「さぁ、どうしてだろうな」
あの豹変した態度は何だったんだろうと思うほどに。
岩永文久は冷静に語る。
「オレの父親は、クリエイターで、兄もその夢を追いかけていました」
自分のことをポツリと口にしてみた。
一度こぼれだすと、止まらない。
「その影を追いかけてみたくて、オレも小説家を目指しました」
「綺羅星を、黄金の階段を、目指さない者はいないだろう」
彼はそんな風に例える。
人類最高の栄誉と言われる「あるランキング」の通称。
誰もが憧れる。フェス様の寵愛を得た、クリエイターという称号。
「でも今は、ライター部で漫画を讃える仕事をしています。オレも、あなたに何も言えません。気持ちはほんの少しだけ、わかるから」
岩永部長は、しばらく沈黙してから口を開く。
「俺の母親は小説家だった。フェス様からの押印を、貰ったことがある。不完全のな」
「オレの父親も、それを貰いました」
心臓がドクンと音を立てる。
岩永さんはこちらに虚ろな目を向けた。
「不完全の奴か」
「はい」
超越者のお気に入り。
フェイバリットマークには等級がある。
その点でも、同じ。あまりに重なり過ぎる。
「母親はそれでおかしくなった。父親も別業種だが、やはりフェス様の降臨に固執した」
「ご両親、どちらもですか」
「彼らはおびただしい借金を重ねた。子どもを顧みることなく」
他人行儀な言い方だ。
誰もが親に対して深い親愛の情を寄せるわけではない。
「疲れたよ。残された借金を背負い続ける日々に」
両手で顔を覆う。
大人のような彼の、疲れ果てた仕草。
口ぶりからするとご両親は亡くなったか、失踪されたか。
とても細やかな事情を聞ける空気ではない。
オレにしても己の事情を詳しく聞かれても答えられないだろう。
「最初はあんなに、一生懸命書いていたのに。漫画家さんにも嬉しいと言ってもらえたのに」
絶望を感じさせる、涙交じりの弱々しい言葉だ。
彼は体格が良く、既に大人に近い。
だからこそ、自分と言うよりも父親を重ねてしまう。
父さん。お父さん。
「岩永さんは何かを目指していましたか?」
「文章で食って行ければと、思ったよ」
顔から手を外し、溜め息と共にそれを吐き出す。
「なら、ライター部は悪い仕事ではなかったですか」
「そうだな。ただ、俺はファン失格だから」
例の名言に連なる、人類からの返礼。
一連の発言と、仕事の実態を知れば、その言葉の意味もわかる。
彼の胸の内を、詳しく追求できる者はこの場には居ないだろう。
どこまで行っても同じ穴の狢。
だから、余計なことには触れない。だって、何より背負えない。
自分のことで、もう沢山。
ただ、オレには言いたいことがあった。
「岩永さんの記事、物凄かったです。どれも既定の文字数の何倍の長さで」
ただノルマをこなすだけなら二千文字でいい。
岩永文久が執筆可能な、月に約六十万文字。
理屈の上では、漫画学科の全生徒三百人に二千文字ずつの記事を書ける計算になる。
つまり、彼は一人で全てをこなせるスペックがあった。
しかしライター部には報酬がある。
当時の人数で割るなら、月ごとの担当は約五十作品ずつ。
ランキング作品の担当は厳密に決める。
先行者報酬と閲覧において優位な場所は必ず譲る。
二番目以降ならば条件なし。
そんな約束があったそうだ。
よって彼は、およそ五十記事に六十万文字を費やしていた。
平均して、一万文字を超える。
並々ならない思い入れと、尋常ではない執念を感じた。
「一度頑張ると、それを維持しなくちゃ、って思えるものなんだよ」
「それは、漫画が好きだから?」
「今の三年の無頼先生がな、すごい感動したとかでな。よくSNSで言ってくれたんだ。俺の言葉を引用したりしてな。ありがたいことだよ」
とても嬉しそうな表情ではない。
かすれかけた、疲れた目だ。
「無頼先生と言うと、三年生のトップスリーの方でしたか」
最高学年の上位三名、名だたる綺羅星。
漫画学科における頂点の一角と言えた。
「うん。凄い人だよ。竹平に、悪いことをした」
竹平さんが最初の投稿を奪ってしまったという作家さんだ。
つい魔が刺してしまったらしい。
岩永さんへの反感と言うよりは、現状への疲れ。
無頼先生の作品に絡んで、岩永さんが何がしかの重責を感じていた。
知っていたのに、頭から一瞬抜け落ちたと。
気持ちがどこかブレて、調子が悪い日だった。
だから、最初に書けた推し作家さんへの感想を投稿してしまった。
ミニ先輩の言う通り、それは悪いことでも何でもない。
ライター部の環境や、細やかな決まりごとが複雑すぎただけだ。
普通に感想を書くだけなら、誰も苦しまなくて済んだ。
借金返済という労苦。巨額の報酬。
ファンとしての感情、思い入れ。熱心な感想記事。
どれも「悪いことではない」のが恐ろしい。
特に、お金だ。
あの巨額が雪崩れ込んでくるのを見れば、誰もがおかしくなる。
借金に縛られたオレたちにとってはなおさらだ。
人生を支配し、一生を左右する借金を帳消しにし、自由を与えてくれる。
あれは、文字通りの救いなのだ。
同時にそれはおぞましい恐れを抱かせる。
気を狂わせる。おかしくさせる。
漫画家さんへの奉仕で、金を貰っている。彼ら以上に。
これほどまでに、何かを壊すルールはない。
誰も、悪くないのに。
そして一番、罪なき者は誰か。漫画家さんだ。
彼らの輝きを汚している金の亡者。
何より自分の心を歪ませる。
恐らく「ファン」であればあるほどに、どこか狂う。
ただの仕事と捉えるのが本来的には正解なのだ。
人によっては、美味しい仕事でしかない。
でも、岩永さんは徹しきれなかった。
自分の感情に照らし合わせてみれば、わかる。
「無頼先生の作品はぼくに任せてください。一生懸命讃えますから」
竹平さんは無頼先生の作品は担当しない。
自ら辞退した。
歪んでしまった何かの話だ。
「ありがとう。友安なら安心だな」
まるで兄のような穏やかさで、彼に言う。
「お前らは、俺のようにはなるな」
まるで別人のようだった。
これが彼の本当の姿なのだろうか。
「あの、もう無理はしないでください」
その横顔を見ると、それしか言えなくなった。
「岩永さん。これ、洗っておきました」
友安さんが差し出したのは、桜色のハンカチだった。
見覚えがある。岩永さんが首を吊った際に握っていた気がする。
「ありがとう。悪いな」
ビニールに包まれたそれを恭しく受け取る。
「いいえ、大事なものですよね」
「うん。俺の憧れの人がくれたものだ」
どうしてか、幼い子どものような顔になる。
とても柔らかく、聞いたことのない位の優しさで。
「岩永さんのフェイバリット?」
友安さんはどこか稚い調子で聞く。
お気に入りと言う意味。
フェス様の印になぞらえているのだろう。
「そうだな。史上最大の綺羅星だ」
どこかユーモラスな言葉で彼はそれを讃えた。
彼は手の中にあるハンカチを見つめていた。
それは不思議と、綺麗な眼差しだ。
「あの人は、元気で居るかな」
岩永さんは遠くを見つめるような目を窓の外に向けた。
岩永さんの事情に関しては、既にシナリオと外伝が完成しています。
彼のお話は本作の象徴の一つとなるエピソード。
漫画学科の学生さんについても、それぞれ設定が存在します。
ファーストシーズンは、きららちゃんを主軸としたお話になります。
岩永さんのお話は、またいずれ。




