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第6幕:「青玉の瞳の王女」


第6幕:「青玉の瞳の王女」


◇七王国暦274年 炎熱季45日



朝。

ラズバンは余りの息苦しさに目を覚まし、実際に息が吸えず顔を青くしてもがいていた。

視界は太く大きな脚と見るからに重厚な蹄が大半を占めており、その下に見える自らの胸など簡単に潰れてしまいそうである。

いや実際、胸にかかる圧迫は倒木に巻き込まれたかの様な状態で、体は軋み血は流れず空への旅立ちを意識するレベルで焦りが加速する。

うまく声も出ない中、非力な腕で必死に目の前の倒木を叩きまくった結果、どうやら旅立ちの日を先延ばしにする事は出来た様だ。


「… …… …、っは、生きてる…、助かりました…」

「ぬー、うるさいぞ見習いのー…あんまりうるさいと踏み…ぬー」


昨晩、自分用の天幕を追い出され部下の戦士達にも相部屋を拒否されたラッシルトは、紆余曲折の末ラズバンの天幕に押しかけた。

戦士達の雑魚寝用の大天幕と違い、手狭な個人用の天幕に大柄なラッシルトが入れば、途端に空間は目減りして暑苦しい事この上ない。

夜の寒さの中、ゴワゴワだがモフモフのラッシルトの隣で寝る利点やその経験の貴重さを「他を当たってくれ」の台詞と天秤に掛け、興味が勝ったのはラズバン自身だが早くも後悔が逆転しつつある。


「鹿の民と過ごす際には、その毛の温かさばかりに目を奪われてはならない、その下には鎧を着た人間と同じくらいに頑強で重厚な肉体が備わっているのだ…」

「なに?その感想。少なくともシルガットはモフモフで柔らかくて軽かったわよ」

「っレダリア様!?ああおはようございます、寝坊してしまったでしょうか」

「丁度起こしに来たところよ、朝食も作り始めてるからそこのデカいのも起こして準備なさい」


はーい、と答えはしたものの、果たしてこの眠れる巨獣の機嫌を損ねずに起こせるのか。

未だにズキズキと痛む薄い胸板をさすりながら、ラズバンは一日の始まりと同時に途方に暮れるのだった。



ここから村までは数刻の距離であり、陽が真上に来る頃に村に到着出来るようにと考え、朝食の準備と野営の撤去はのんびりと進められていた。

村の方でもきっと朝から“歓迎”の準備をしているだろうから、あまり急いで行かない方がいいと言うのがシルガットの言である。

そもそもシルガットがやって来たのは、遠く人の大地との境界を監視していたはずのラッシルトが村から見える位置までやって来たから、一体何事かと様子を見に来ただけだったのだ。

当然村の方でも人の部族の使節が来ている事を事前把握はしておらず、今頃は村人達が右往左往しているだろうと楽しそうに言う。

そう言う事なのであれば確かに昨日、ラッシルトが無理に進まず野営の判断をしたのは掟を守る意味だけに止まらず英断だったのだろう。


「おはようございますシルガット様」

「おはようレダリア。ねえレダリア」

「はい?シルガット様」

「ねえ“レダリア”、ねえ…」

「…よく眠れたかしら、シルガット」


ニッコリと笑って大きく頷くのは可愛い可愛い妹の様なシルガット、きっとこの場にはレダリアが鹿の姫を呼び捨てにしても怒る者はいないだろう。

ラッシルトはよく“見えている”し、彼の若い戦士達は人間と直接戦った事の無い世代だから。

だがこの先の村ではそうはいかないだろう、100年の長きに渡り部族を率い人間との戦いと悲劇も経験した偉大な族長と、その悲劇を間近で見て来た世代が多く暮らす村なのだ。


「シルガットは先に戻らなくて大丈夫ですか、心配されていませんか」

「いいよ大丈夫、ここだけの話、鹿の民のラッシルトへの信頼は私へのそれより大きいから」

「話を聞く限り、ラッシルト殿は数いる語り部の中の一人では無く鹿の部族の中で大きな存在の様ですね、…あんな感じなのに」

「そうだね、おおばば様に一番信頼されてるからね、あんな感じなのにね…」


スープが煮込み終わるまでの待ち時間にと渡された白湯を啜りながら、レダリアとシルガットはそれぞれの同行者を眺める。

天幕から出て来たラズバンは既に疲れ果てていて、機嫌の悪そうなラッシルトはどうやら寝起きがあまり良くないらしい。

だが見た目にも凸凹なこの二人が、まるで疲れ果てるまで飲み歌った夜会の翌朝にのっそりと散らかった広間で起き上がりくだらない言い争いをしている旧知の仲の様に見えるのは何故なのだろうか。

入れてあげたのに足を乗せて来るなとかその程度で潰れるお前が悪いだとか、至極どうでもいい。


「どうでもいいけど、あんなに仲が良かったかしら、あの二人」

「仲がいいのは良い事だ、何か問題なのか?」

「ほら、一応私達人間と鹿の民とは歴史上敵対している訳だし?」

「そうだな、おおばば様もその認識だ、ラッシルトに至っては最前線で戦っていたと聞くぞ」


だが当のラッシルトはラズバン如き相手に大地を踏み鳴らして大仰に威嚇して見せ、いつもなら奇声の一つでも上げて震え上がるラズバンは薄い胸を張って一歩も引かず面と向かってあーだこーだと説教を垂れている。

鹿の若い戦士達はラズバンの勇気を褒め称えいいぞ言ってやれなどとどちらの味方か分からないし、騎士や兵士もこれは見物とまるで酒でも飲んでいるかの様に白湯の杯を振り上げ指笛を鳴らす。

ここぞとばかりにどちらが勝つか賭け事を始めようとした商人は、流石にレダリアに睨まれ朝食の準備に戻って行った。


やや曇っているが穏やかな空と風、見渡す限りの雪原で振る舞われた塩と香辛料で味付けされたスープは、芋も玉葱もホロホロとくずれる程に良く煮込まれており、乾燥豆も柔らかな歯応えを取り戻していてシルガットの目を輝かせた。

一度口を付けると顔の前から器を離さず、木の匙で具をかきこんで一気に飲み干す。

その様子に誰もが笑顔になったし、そっと大鍋の方に視線が向けば誰もが道を空けた、二回お代わりをした所で大鍋の底が見え、下がった眉は商人から貰ったレシピのメモで再び元気を取り戻した。

上機嫌なシルガットに先導されて、外交使節一行とラッシルト達が移動を開始したのは、それからゆっくりとお茶も楽しんだ後である。



開けた雪原での事なので遠目ながら互いに行動は見えていただろうし、既に昨日の護衛が報告に戻っているので状況も伝わっている。

真上から照らす陽の光に若干の眠気を誘われつつ、のんびりとした速度でクラガットの村を目指す一行にもその飾り槍が掲げられるのが見えた。

村までもう少しの所まで来ていて、大声を上げればギリギリ何と言っているか伝わりそうな距離だ、村の門は朝から開け放たれていたが、その一番手前側のレダリア達が通る事になるであろう門に花冠をモチーフとした様な飾り槍が姿を現す。


「見えるか?あれがクラガット様の槍だ、門にああして掲げられるのは現在村に本人が居て、客人を迎え入れる用意がある事を示している」

「良かった、それでは少なくとも門を挟んででは無く、しっかりと対面してご挨拶が出来そうですね」

「でもどうしましょう、様々な詩や物語ではこういう場合、中に入った途端に門が閉められ囲まれてしまうなどといった展開も…」

「ねえラズバン?」

「おいこら記録係?」

「鹿の民はその様な卑怯な手は使わないぞ!」


一斉に非難の声を浴びせられ朝の強気はどこへ行ったのかと思う程にいつも通りの奇声が上がる、あひぃ。

どうやら先程の軍配はラズバンに上がっていたらしく、ラッシルトはここぞとばかりに言いたい放題で執拗な口撃を続け失われた威厳を取り戻そうとするも、流石に調子に乗り過ぎたのか若い戦士達の視線は語り部への尊敬では無く面倒臭いおっさんを見るそれであった。


「まったくもう、村の大人達が聞いたらそれこそ門を閉められ武器を手に取り囲まれかねないぞ」

「彼は記録する為の観察眼には優れているのですが…」

「観察にしか目が向かなくて足を踏み外して落下死するタイプだな」


このシルガットの言には皆が頷いた。

ラズバンとは、“よく見ている”が“何も見えていない”というのが人と鹿の共通認識となった瞬間である。

そう、ラズバン・グレイアとは優秀で残念なのだ、今も昔も、きっとこれからも。


うるさい人間を背に耳を伏せながらも淡々と歩みを進めていた馬は、やがて脚を重くさせていた雪原を抜け雪がかき分けられた地面の見える道へと出た。

後は道なりに進めばすぐそこは村であり、開け放たれた門からは村の中の様子も伺える。

門の前には昨日のあの護衛達が立っており、その中では多くの鹿の民が一行の到着を待っていた。

丸太で作られた塀の上には焚き火の黒煙と炊事の物と思われる白煙も上がっており、その横では見張り台で目を凝らす者もいるがその手に弓などは握られていない。


「どうやら本当に歓迎して頂けそうですね?」

「まあな、歳を重ねた奴らは複雑だろうがそれ以上に鹿の民の本質は穏やかだ、昨日の護衛にも友好的な話し合いの為にあんたらが来てるってのは伝えたから大丈夫さ」

「何から何までありがとうございます…」

「言っただろう?俺はとっとと平和になってもらってのんびり暮らしたいんだ、それだけだ、だから」

「だから?」

「ヘマするんじゃねえぞ、クラガット様は手強いぞ」


一つトーンを落として、とても真剣な表情で言ったその言葉には彼の願いが込められていた。

“踏み抜く蹄のラッシルト”は本気で和平を望んでいる、そしてただの“面倒臭いおっさん”になりたいと願っている。

その為にも鹿の大族長クラガットとの話をなんとしてでも穏便に済ませなければならないのだ、アズベリアを、人間を代表して。

彼女からすれば自分など小娘に過ぎないが、それでも正面から向き合い彼女を説き伏せねばならない。

…剣を握り殺し合いをするよりもよほど怖いじゃない、そう思ったレダリアは奮える手を誤魔化すようにギュッと握りしめる。

そして恐らく会談の行く末を握るキーマンはレダリアでもクラガットでもラッシルトでも、ましてやラズバンでも無いのだ。

革手袋がギシギシと音を立てる程に握り込んでいたその手を、小さな手がそっと包み込んだ。




「おうラッシルト、久しいな」

「なんだまだ霊峰に旅立って無かったのかよ、とっくに準備は出来てんだろ」

「おいラッシルト、うちの子は少しは強くなったか」

「あいつは鍛えがいしかないよ、ひよっこすぎて何から何まで鍛える余地しかないからな」

「やあラッシルト、そちらの備蓄はどうだい」

「すまねえが豆を少し送ってくれ、若い奴ら農作業も下手くそでよ」

「ねえラッシルト、うちの娘…」

「いらねえっつってんだろ、こんなじじいに若い娘を寄越そうとするな」


昨日に引き続き護衛としてシルガットの側にやって来た二人の大男に先導され、村へと足を踏み入れた一行は早速困惑していた。

ラッシルトの人気が凄いのだ。


「え、ラッシルトって実は本当に凄い人だったりする?」

「ん、そうだよ。だってもし私が死んだら大叔父様が族長になるだろうし、そもそも鹿の戦士で虎とか熊の戦士と正面から互角に渡り合えるの大叔父様を含め数人だし」

「呼び名は飾りでは無いという訳ですか、いやはや凄いんだなあ」

「…そのラッシルトを凹ませたあなたも大概だけどね」


自覚の無さそうな顔で首を傾げるラズバンはその偉業に気付いていないが、シルガットが知る限りラッシルトにもう勘弁してくれと頭を下げさせたのは、族長クラガットと泣き落とした自分、そして部族の若い娘達くらいなもので、男でしかも正面から罵り合って言い負かしたのはこの男が初めてであった。

まだまだ他の部族との交流も少なく井の中の蛙で世界を知らないという自覚があるシルガットだが、その少ない知識や経験則から見ても…


「(レダリアはきっと十分な戦士と食べ物があればとっても上手に戦える人、ラズバンはとっても残念だけど上手く使いこなせる語り部がいれば実は凄そうな人)」


あれ、もしかしてレダリアが族長になってラズバンとか人の戦士達を大勢率いて来たら大変なんじゃない?

シルガットはふとそう思ったが人の部族も霊峰の民と同じで一枚岩では無い事を思い出した、きっと人の部族にも色々な苦労があるのだろうと。

霊峰の民とは同じ霊峰を崇める仲間ではあるが、決して仲良しこよしでは無いのだ。

その結束は対人間という共通の目的によって緩く結ばれているに過ぎず、その結び目すら100年の小康状態で解けつつある。

狼の沈黙、虎の暴走、そしてそれらを繋ぎ止めている大族長クラガットの寿命がいずれ尽きる事は誰の目にも明らかなのだ。

だからこのタイミングで、まだ繋がっているこのタイミングで、レダリアと出会えた事にはきっと意味があるのだと信じたかった。


「ねえレダリア」

「ん?」

「頑張ってね、おおばば様は手強いよ」


レダリアは一瞬キョトンとした後、とても良い笑顔で少し乱雑にシルガットの頭を撫でまわした、ワシャワシャと、“面倒臭い妹”を。

その様子をラズバンと周囲の村人達がハラハラと見守っていた事を姉妹は知らない。


“やがて門を抜ければそこは鹿の民の聖域とでも言うべき村であった、黒曜の王女に導かれ進むその先には、西の民が戴く黒曜の女王が待つのだろう、その瞳に映る青玉の瞳の王女は果たしてどの様な歴史を紡ぐのか…”




ラッシルトによって分厚そうな毛皮の幕が持ち上げられると、すぐに目が合った。

大族長の家ではあるが、基本的に西の民の家とは木造か未加工の石を積み上げた石造に毛皮を組み合わせた平屋で、恐らく個室という考え方も無いのだろう、必要なら出入り口と同じ様に毛皮の幕で空間を区切るのみであった。

だから家に一歩踏み入れば、大きな部屋の正面には彼女が居た。

その節くれだった手足と、やや長く伸びた毛は少しだけゴワゴワとしていて、長い年月を積み重ねた風格を感じさせる。

そしてその目は、シルガットにも勝る美しい黒曜の瞳は、異様なほどの力強さを帯びてレダリア達を見つめている。

小柄なのに一目で大族長クラガットその人だと分かる圧倒的な存在感は、なるほど西の民を数十年にも渡ってまとめ抑えていたのはこの人なんだと納得させた。


そして…

ラッシルトもシルガットも揃ってあんな事言ってくれちゃって、と思っていたがレダリアにもその決意と理由が分かった。

二人はクラガットの家にレダリア、ラズバン両名を迎え入れると、そのまま無言で奥へと移動し、当然の様にクラガットの左右に空けられていたスペースに腰を下ろす。

そう、つい先程まであんなにも気安く笑顔で会話をしていた二人は鹿の部族のナンバー2とナンバー3なのだ、そして彼等のナンバー1は二人を合わせてもなお余りある発言力を持っている。

ここから先は王女レダリアと大族長クラガットの一騎打ち、一瞬の油断が…


「いやはや、毛皮で覆った家と言うのはこんなにも温かいんですね、素晴らしい、とても興味深いです」


懸命に集中力を高めていたレダリアは思わずラズバン!と大声を出しそうになり、寸での所で思い止まったが霧散した集中力は戻って来そうに無い。

この流れで、この雰囲気で、この空間で、初めに言葉を発するのが彼で良いはずが無かったし、しかもその言葉がクラガットへの挨拶ですらないとは。

味方に後ろから刺されたレダリアは致命傷で、この時の為にと考えていた挨拶の文言は綺麗さっぱり消し飛んだ。

その様子にクラガットは目を細め、ラッシルトとシルガットは目を見開く。


「…気に入っていただけたかしら、この家を」

「はいとても!屋内に火元は無いにも関わらずこの温かさ、保湿性、少しでも薪の消費を抑えようと寒さを我慢している農村に伝えたい技術です!」

「まあそうなの、毛の長い毛皮を一度しっかりと乾かして皮面に樹脂を塗り込んで、張ってからは定期的に毛に油を馴染ませるのがコツなのよ」

「ああお待ちください記録を…乾かして樹脂…油を…」

「ラ、ラ、ラララララ…」

「いやはや思わず歌いたくなる程の貴重な情報ですね、レダリア様」

「ラァ↑ズバン!!」


声も裏返るほどの悲鳴の様な大声に、発したレダリア自身も驚き口に手を当てるが時既に遅く、クラガット達の後ろに座っていた他の古老達は腰を浮かせ、壁際の戦士はいつでも斬りかかれる体勢を取り、家の前で待機していた例の護衛達も何事かと顔を出す。

それとは別に今のレダリアの声が聞こえたからだろう、外交使節一行の騎士や兵士達も何事かと押しかけている様で、一気に家の外が騒がしくなってしまった。


「申し訳ございませんクラガット様!と、とにかくご挨拶を、あ、その前に外で待たせている配下の者を落ち着かせて参ります!大事になる前に!」


そう言うや否や返答も待たずに立ち上がって外へと走るレダリアは恐らく今、人生で一番混乱しているだろう。

それもこれも全てラズバンのせいであるのだが、当の見習い宮廷詩人はレダリア様の貴重な一面が見れたと喜びこれまた熱心に記録を付けている始末。

流れから完全に置いて行かれたラッシルトとシルガットは、ただただ呆然としていた。


「…族長、この男を捕らえますか?」

「いいえ、そのままで結構よ、貴方達もそんなに角を向けてないで座りなさい」


この偉大な大族長を自らの命に代えてでも守る、そういう役目と決意を持った戦士達であったが、件の客人は今も嬉しそうにペンを走らせており、彼等の主も落ち着きを払っている。

何とも釈然としないながらも主がそう言うならばと角と武器を収め、落ち着きを取り戻したクラガットの家にはしばしの間、カリカリと紙を擦る音と下手くそな鼻歌が響いた。



「ねえ、物書きさん?」

「いやはや書士も見習い止まりでして」

「あらそうなの?」

「おいバカ!記録係!名を名乗れって言ってんだ!」

「ああ、これは名乗りが遅れ失礼しました、私はアズベリアの見習い宮廷詩人でラズバンと申します」

「まあ詩人さんなのね、私は鹿の族長クラガット、見ての通りの老いぼれよ」

「いえいえ、その艶やかな朝露の如き瞳は正に“麗しき新芽のクラガット”と呼ぶに相応しい輝きです、はい」

「まあお上手ね、詩人さんなら歌も得意なのかしら?」

「うわああおおばば様!歌はまた次の機会にしましょう!ね!この後宴も開かれるのでしょう!?」

「まあ、それもそうね」


とても心臓に悪い。

一言一句、一挙手一投足にハラハラしながら、何故自分達がこんなにもドキドキしなければならないんだと内心思いながら、口を出さない予定であったラッシルトとシルガットは全力でラズバンをフォローする。

確かに上手く話しが進む様、そして最終的には良い形でまとまる様、それとなくレダリアのフォローをするつもりではあったのだ、だがこんな展開は完全に想定外である。

そもそも何故レダリアが居なくなる必要があったのか、何故平然とクラガットとの会話を始めてしまえるのか、全てはこの見習い宮廷詩人が問題なのだ。


「宴ですか?光栄です、いやあこんなにも歓迎していただけるなんて」

「その宴に貴方達の席を用意するかどうかは、貴方の主との…」

「鹿の部族の宴がどんなものなのか、とても興味深いです、しっかりと見て食べて飲んで記録しなくては、ああそうそう王様にも特にそういった部分をしっかり記録して教えて欲しいと言われているんです、いずれ王様同士で、ああいやこの場合は族長同士と言うべきでしょうか、直接会って杯を酌み交わす事もあるだろうからと」


この男はペンを握っている間はあんなにも視野狭く黙々と書き続けるのに、口を開けばこんなにも喋るのかと変なところに感心してしまった。

深々と腰を下ろし直したラッシルトは既にフォローを諦めたし、シルガットは何とかしようと思案するも彼女の少ない経験ではこんな状況に対応する術が無かった。

歓迎するかしないかはこれから決める、クラガットはそう言ったはずだが果たしてこの男は何を聞いていたのか、いやそもそも他人の話を聞いているのか、聞こえているのだろうが聞いていないのだろう。

そんな自由奔放すぎる男の姿に、クラガットはニタァっと笑みを深め目を細めた。


「ラズバンさんだったかしら、貴方の人の部族での地位はどの辺りなのでしょう」

「地位ですか、難しいですね…と言うのも正式な役職は見習いの宮廷詩人なので有って無い様なものなのです、部下も居ませんし何ら権限もありません」

「まあ、それなのに王様にこの旅の記録を教えられるの?それに貴方の主は先ほどの王女なのでしょう?」

「王様にはよく私室にお呼び頂いて詩や詩文を披露しておりますので、お前の詩は面白いとお褒め下さるのですよ、レダリア様にもよく私室にお呼び頂いて王都での民の生活に関する情報や記録をお伝えしております、レダリア様は北軍も預かっておられますので王都にいる時間が少ないからでしょうか、ああエドルト様にもよく私室にお呼び頂いて各地方の軍に関する歴史や不満の声の噂などを聞かれますね、エドルト様はまだ王都を離れられないのできっと外の事に興味がお有りなのでしょう」

「まあそうなのそれぞれの私室に、それは大変そうね…さしずめ今回の同行理由は王女の監視、かしら」

「ああそうなんです!目を離すと何をしでかすか分からないからとずっとレダリア様に監視されてまして…いやはや信用が無い」


クラガットをもってしても想定外な回答の数々に若干の頭痛を覚えたが、彼女はその老いを知らぬ頭をフル回転させて状況を整理していた。

この目の前のつかみどころのない男は何者なのか。

一見無能そうに見えて人の族長と繋がりがあり直接使命を与えられるほどの関係性があると言う。

話の流れからレダリアというのが先程の王女の名なのだろう、それと並列で語られたエドルトというのもそれなりの地位にいる者と推察され、それらとも親密な関係性が伺える。

要人に仕える密偵や間諜の類かとも思ったが、それにしては口が軽すぎる、いやそもそも全ては芝居で道化を演じているのか。

…分からない、とんでもない切れ者かと思ったが勘違いなのかもしれない。


いやはやと頭をかく男の前で鹿の大族長はじっと彼を見たまま押し黙り、横に控えるラッシルトとシルガットは生きた心地がしない。

少なくともラッシルトはクラガット相手にこれだけズケズケと話す者に久しく会っていなかったし、シルガットは物心ついてから初めて彼女の憧れる偉大なおおばば様が話のペースを握れていない状況を見たのだ。

アズベリアのラズバン、ラズバン・グレイアの名が鹿の民に広く知れ渡るのはその後すぐの事であった。


「ラズバンさん、人の部族は本当に和平を望んでいるのかしら、本当に」

「どうなんでしょう?少なくとも今の王様とレダリア様はそうお考えだと思います」

「…それでは他の方々は?」

「エドルト様は虎の部族の侵攻に対し応戦を唱えています、それに呼応する諸侯もいて王国の西軍は既に集結して虎の部族と対峙しており南軍でも戦いの準備が進んでいると聞きました、ですが北軍はレダリア様の管轄で東軍も腰が重く、王都の王軍もレダリア様がこの会談を終えて戻るまでは動かない、のではないでしょうか?」

「それでは虎の部族が引き下がれば、和平はあり得ると言う事ね」

「そうですね、後は奪われたランデラ一帯で空に還った者達の周囲が納得すれば良いのですが」

「確か虎の部族が行った先がランデラ城という村だったわね、空に…」

「クラガット様、霊峰に旅立つという意味です。人の部族ではそれを空に還ると表現するそうです」

「なるほど、ラッシルトは私より物知りね」

「何を仰られますか!私はただ、戦場で出会った人間からその言葉を聞く機会があっただけですので…」


再びの気まずい沈黙が流れる。

戦えば必ず犠牲が出る、そしてその犠牲者には必ず家族や繋がりのある者達がいて、戦いが終わればその記憶が消える訳では無いのだ。

過去の辛い記憶はそう簡単には消えない、この場で何よりもそれを知っているのが、クラガットでありラッシルトなのだから。

それにしても果たしてこの男の言った内容は本当なのか、そんなにほいほいと内情を漏らしてしまっていいのか、敢えて言う事で牽制する気かそれとも偽の情報で混乱させようとしているのか、はたまた何も考えてなどいないのか。


「ねえラズバンさん、貴方はどうお考えなの」

「いやはや私では何をどうしたら良いのか全く分かりませんが、もし自由に霊峰やこの地で暮らす西の民の生活を見て回る事が出来る様になるとしたら、それはとても興味深いですね!」

「ぬふふ、なるほど。確かに私も人の部族が暮らす石の家というのは興味深いかもしれないわ」

「そうですよね!それに…」

「それに?」

「…レダリア様はこの会談に向けて本気で準備を整えてらっしゃいました、王様への繰り返しの直談判も、エドルト様との確執を恐れぬ話し合いも、諸侯への説得も、騎士や兵士達との意思疎通も、民を納得させるための根回しも、商人達との交渉や利権の説明も、西の民の事を学びそれに合わせた話題や贈り物の選定を行われたのもレダリア様ご自身です、私はその様子をずっと近くで見て記録していました、だからその努力が報われれば良いなと思っています」


聞こうと思っても聞けなかったのに、別の質問をしたら聞きたかった答えが返って来た。

若い頃に狐の部族に化かされた時の様な懐かしい感覚に、自然とクラガットの口角が上がる。

右を見ればキラキラと瞳を輝かせる愛しき新たな新芽が居て、左を見ればフンと鼻息荒く頷く古き(ゆう)が居る。

どうやら自分の家族は既に懐柔されていたらしいと思えば、ポカンと開いた口から笑い声が漏れた。


そこへドタバタと、入り口に立つ護衛の二人にゴメンナサイゴメンナサイと頭を下げながら戻って来たレダリア。


「申し訳ありませんでしたクラガット様、っはぁ、外はもう問題ありません、改めてご挨拶と今回の…」

「落ち着いて、お水をどうぞ、果汁を絞ってあるわ」

「ありがとうございます…んぐ、ん、それでは、まずは…」

「それでは始めましょうかレダリアさん、和平に向けた具体的なお話しを」

「…はぇぁ?」



それはアズベリアのラズバンが歴史の語り部に気に入られた日、炎熱季でも快適な鹿の部族の伝統に迎え入れられた日の出来事。

知らぬ間にその稀有な魂を見出された、争乱の嵐が吹き荒れる前の出来事。




◎続く◎


ぎゃーお待たせしました第6話です。(待ってる人いない説)

どうにも細かい整合性に苦労した結果、現時点で第12話を書いているにも関わらず数話巻き戻って微修正を加えたりと、そんな感じで書いております。


霊峰の民を統べると言っても過言では無い鹿の大族長クラガット様登場!

なのに始まらないクラガットVSレダリアの頂上決戦…

美味しい所をもっていったラズバンは完全に無自覚です、無自覚ですが本当に察しが悪いだけなので「あれ、僕また何かやっちゃいました?」すらもありません。

なので(レダリア達から見た)ラズバンの株は上がらず功績にもカウントされず、鹿の民からの株だけ爆上がりです。

まぁラズバンなので。


そんなこんなで和平の道が開かれた霊峰の民と人間の王国との関係、

次話では少しだけ時間をさかのぼり近年両者間の火種になっている“人の部族”についてのお話です。

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