時に信頼関係は恋愛より優先される。
「私とミハエルは愛し合っているのよ。ねー、ミハエル?」
女が甘えた声で、ミハエルにしなだれかかる。
ミハエル・フィルス・フィルフォリアは、愛しい恋人に微笑みかけながら……ーー
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伯爵家令嬢アリョーナ・タージ・ノクリスはドライな人間だった。
何故かというと、この剣と魔法の異世界では『まあ珍しいかな』という程度には居る『前世の記憶』の持ち主だったからだ。
前世、地球という星の日本という国では貧しい方に入る家庭に生まれて、仕事と家庭を頑張って70歳前後でぽっくり逝った記憶がある。衣食住、かなり苦労した記憶がある。娯楽も我慢する毎日だった。
かなりその記憶は朧げだけども。
そうすると、まあ、なかなか異世界に生まれたって物事を新鮮には感じられないものだ、と思っていた。
だって、何をするにしたって『以前経験したなぁ』と思ってしまうのだから。
でも、異世界では貴族に生まれた。
貴族だからなのか、銀髪に菫色の目で顔もなかなかだ。
しかも、長子だから伯爵家を引き継ぐという大事なお役目も与えられている。
これは貧しかった前世からは進歩だろう。
アリョーナは貴族に生まれたことはありがたく思って、日々を大事に暮らしていこうと思っていた。
前世貧しかったから、すべての事に感謝する気持ちは自然と強く湧いてくる。
「先生、今日も分かりやすい授業をありがとうございます」
伯爵家を継ぐものとしての教育にも感謝して精いっぱい取り組み、毎回付けられた教師にお礼を言った。
「こんな美味しいものを食べられて幸せね」
毎食自然と感謝のつぶやきが零れる。
「こんなに私を綺麗に整えてくれて嬉しい……ありがとう」
身支度を整えてくれる侍女にもそう言って笑顔を向けた。
「お父様、お母様。アリョーナはお二人に感謝しております」
そう言って、両親にもこの溢れる感謝の気持ちを伝えようと、自然と頭を下げるのだった。
そうしてアリョーナは、毎日に新鮮な驚きは無いながらも日々感謝して生きていた。
そんなドライである意味達観しすぎなアリョーナだったが、アリョーナの感謝の対象がさらに増える時が来た。
13歳と貴族としては少し遅めに持ち込まれた縁談である。
お相手はミハエル・フィルス・フィルフォリアと言って同じ伯爵のフィルフォリア家の次男だった。
今をときめく美貌で、すらりとした伯爵令息である。
きらめく銀髪に海のような深い青い目をしたミハエルが微笑めば、どんな令嬢もイチコロとの噂である。
アリョーナの両親が、いつも穏やかに微笑んでいるだけの娘の為に、恋愛でもして何か年頃の娘のような喜びを得られればと頑張った良い縁談であった。
「よろしくお願いします、アリョーナ嬢」
しかし、そんなミハエルと顔合わせしたアリョーナは、前世の記憶もあってミハエルの美貌にさして感動はしなかった。
前世のテレビで散々アイドルやら海外の映画俳優やらを見たせいである。
「こちらこそ末永くよろしくお願いします、ミハエル様」
アリョーナは、ミハエルの真面目そうな所、優しそうな所、賢そうな所に感動した。
身なりも貴族らしくピシッとしているし、アリョーナに丁寧な言葉でほほ笑んで頭を下げてくれた。
前世の夫は結婚してもなかなか定職に就かず、時にはふらふらと女遊びして困ったものだった。
きちんとした伴侶になりそうな人はアリョーナには新鮮で感動できる事柄だったのだ。
これは前世を含めて長い人生の中で初だった。
そんなこんなでアリョーナとミハエルは、政略結婚でトキメキはないけれど穏やかな出会いを果たした。
スムーズすぎるほどスムーズに二人の婚約は結ばれたのである。
博識で穏やかなアリョーナと、派手な外見に反して勤勉で真面目なミハエルはまるで長年連れ添った夫婦のように気が合った。
そして、度々計画される二人のお茶会の時間などでは、本や政治や領地経営等で話題が尽きることはなかった。
時に盛り上がるお茶会の最中、アリョーナはしみじみとミハエルに告げる。
「ミハエル様、あなたと婚約できて良かったです。あなたとなら領地経営もうまくやっていけそう」
「アリョーナ嬢、私も同じ気持ちです。二人で両家を更に盛り立てていきましょう」
「ええ」
恋愛のような盛り上がりはなかったが、確かな信頼感があった。
そんな二人も15歳で貴族たちが通う王都の学園に通う時がやってきた。
アリョーナとミハエルは同じ学園に通い同じクラスでありながらも、月何回か開く二人のお茶会の時間を大事にした。
そしてそれは女子にその美貌で人気過ぎるほど人気でモテモテの状態でも続いたし、なんなら学園一の美少女と噂されるアンナ・イワノワ男爵令嬢にミハエルが言い寄られている状態でもそれは変わらなかった。
やがて、ミハエルにアンナ・イワノワ男爵令嬢が引っ付いている様子が見られるようになる。
ミハエルは理由なく婚約者以外の女とくっつくような不誠実な男ではない。
学園の生徒からは何かがおかしいと噂され気づかわし気な視線がアリョーナに向けられる。
だけれど、アリョーナとミハエルの仲のいい関係は変わらなかった。
アリョーナを心配した同級生が声をかけても、
「ありがとう。でも特に気にしてませんの。ミハエルとも変わらず良い婚約者ですわ」
というアリョーナののほほんとした返事が返って来る。
アリョーナはミハエルを信用している。
まだ結婚してないし学園の間ぐらいモテていても問題ない、それが若者の青春というものだろう、ぐらいに考えてるのがアリョーナだった。
もちろんミハエル狙いだったアンナは、何も変わらない現状に腹を立てた。
まずはヒロイン気取りで、アリョーナに突撃する。
「ねえ、あんた。ミハエルと別れてくれない?」
アンナは学園の人通りが多い廊下でアリョーナに突然声をかけた。
いくら身分平等の学園内と言っても礼を失した言葉遣いだった。
そんな声をかけられたアリョーナは、穏やかにニコニコとほほ笑んだままアンナを振り返る。
「ごめんなさいね。そればっかりは家同士の契約ですから私の裁量では何もできないのですわ」
無礼な物言いに、アリョーナは天使のような優しい言葉を返す。
「あんたが親に別れたいって言えばいいのよ」
「私、個人の問題ではありません。私は代々続くノクリス伯爵家の途中にすぎません」
「ふんっ……」
アンナは、アリョーナの堅苦しい言葉に鼻を鳴らして引き下がった。
ある日、アリョーナはアンナに学園の東屋に呼び出された。
そこには、婚約者であるミハエルとニヤニヤと笑うアンナが居た。
「現実を見せてあげた方がいいと思って」
アンナが東屋のベンチでミハエルにしなだれかかっている。
「現実……ですか?」
「私とミハエルは愛し合っているのよ。ねー、ミハエル? イケメンで頭も良くてお金持ってるミハエル超好きなんだから」
「うん、アンナ。愛しているよ」
ミハエルはアンナの言葉にほほ笑んだ。
アンナはミハエルとの仲に絶対的な自信を持っているのか勝ち誇った表情をしている。
アリョーナはミハエルの決定的なアンナへの愛の言葉を聞いても、老人のような落ち着いた和やかな顔をしていた。
「じゃ、ミハエル。この女と別れてよ!」
アンナはアリョーナを指さした。
ミハエルはその指を、
「アンナ、こんな可愛い君がそんな事をしてはだめだよ」
と手で包んで下に向けさせる。
「うるさいわね! 別れて!」
アンナが大きな声でミハエルに詰め寄る。
少し困ったような顔をしたミハエルは、
「それをすると、多分君が好きであろう僕はいなくなってしまうけれども、それでも僕を好きでいてくれるかな?」
と、予想外の事を告げた。
それを聞いていたアリョーナは、うんうんと軽くうなずく。
「君の事は好き。でも、アリョーナが大事だ。君は僕が好きなら右腕を切り落とせって言ったら切り落とせるの?」
ミハエルは真顔でアンナに告げる。
今をときめく最高の美貌が真顔になる事はなかなかに怖い。
「な、何よそれ! 怖い! 言ってること分かんないわよ!」
「僕が僕でなくなるってことだよ。アリョーナと別れたら家から勘当されるから金がなくなる。だから、君が褒めてくれる僕の美しさがなくなる。僕はね、頭も悪い。だって今君とこうしてるんだから一目瞭然だよね。後ね、僕自身には商売を新しく始める才能は無くて、次男だからずっと婿入の勉強しかしてないから金も自分では稼げない。アリョーナとの信頼関係もなくなって、僕は自分に自信が持てなくなる。めんどくさい人間になるだろう。それでも良い? って事だよ」
「ダメに決まってるじゃない! そこは愛してるんだからなんとかしてよ」
「さあ、どうしたもんかな……」
ミハエルはまるで迷える幼子のように途方に暮れた顔をした。
『何故、自分はここでこうしているのか分からない』というような顔だ。
アリョーナが首を傾げ、ミハエルが困った顔をして、アンナが事態が思い通りにならない悔しさで震えている。
と、そこに騎士たちが数人乱入してきた。
「ここに居たのか! アンナ・イワノワ男爵令嬢! 魅了魔法を使用した罪で逮捕状が出ている! 来てもらおう!」
「な、なによいきなり! そんなの知らないわ!」
「もう証拠はそろっている。大人しくしろ」
「い、いやぁ! ミハエルー!」
アンナは素早く騎士たちに連行されていった。
「ア、アンナ! うっ、何をするんだ!」
ミハエルにも騎士が一人取り付いて、
「失礼。現状の体の状態を記録する器具を当ててから、魅了魔法を解除します」
と説明してから、手際よく仕事をこなした。
「ん? あー、なるほど?」
ほとんど喋れていなかったアリョーナが、いまいち事態を呑み込めていない様子で頷いた。
そんなアリョーナに騎士に魅了魔法を解除してもらったミハエルは、
「申し訳ない!!」
そう言って額を庭の土に擦り付けて土下座した。
「……もちろん、分かってましたわ。魅了魔法なら仕方ないですわね。魅了魔法なら」
そう言ってほほ笑むアリョーナだった。
もちろんおっとりしたアリョーナは少しも分かっていなかった。
後でしっかりとミハエルが説明した。
リーンゴーン……
教会の鐘の音が街に響く。
今日はこの街を治める次期伯爵家当主アリョーナ・タージ・ノクリスの結婚式だった。
街はお祭りムードで湧いている。
「……病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も、貧しい時も富める時も、互いに助け合い愛し合う事を誓いますか?」
神父の言葉に、アリョーナとミハエルがそれぞれ、
「誓います」
と答える。
「では、誓いの口づけを」
神父の言葉に白い婚礼衣装を着た新郎新婦が近づく。
ミハエルがアリョーナのベールを上げると、アリョーナは貴族らしくなく真っ赤になっていた。
そう、アリョーナは朝から初めての経験だった。
前世は貧しかったため、前世の夫とは結婚式も上げてないし、なんならなんとキスをしたことがなかった。
夫は子づくりだけして他の女と遊び歩いていたし、そんな甘い雰囲気になったこともない。
しかし、親に言われた結婚とはそういうものだと思っていた。アリョーナの前世は国の政策で好きとかそういう事でくっつく者たちは少なかったのだ。
それが今世はどうだ。イケメンで頭もよく誠実だ。
学園でちょっとしたゴタゴタがあったものの本人のせいじゃない。
そんなミハエルが、微笑んでキスをしようと迫って来るのだ。
『こ、これがトキメキ?』
アリョーナはようやく長い悠久の時を経て『トキメキ』を実感していた。
止めようと思っても心臓がバクバクと音を立てるし、貴族で表情を消すことには慣れているはずなのに顔の火照りが止められない。
そんな照れているアリョーナをミハエルは好ましく思ったのか、小さく微笑んで囁いた。
「君の事、好きかもしれない」
二人の唇が静かに柔らかく重なった。
読んで下さってありがとうございました。
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また、私の他の小説も読んでいただけたら嬉しいです。