黒猫の奮闘記 6
その日の依頼は思っていたよりもずっと早く終わった。というよりも、ロキは確固たる意思を持って、己の野望を叶えようと凄まじいスピードで国境沿いのいざこざを仲介し、途中で乱入してきた蛮族集団をねじ伏せ、海域を犯してきた魔法使いらが密輸していた海賊船を沈めた。
主人であるレオが「容赦ないな」とドン引き、サポートとしてついていたマルが「虫の居所が悪いのかしら…」と心配するほどの動きであった。
返り血を無表情で拭うと、ロキはにっこりとレオに笑いかけ、「レオ! これで半日はオフだよな?」とうきうきで尋ねてきた。
レオはまぁ確かに依頼は全部片付いたしな、と頷き、手配した羽馬車に乗って本部に戻ったのが数分前。
ロキはさっそくマルに「なぁ、この後予定あるか?」と伺った。
レオは即座にピンと来てしまう。こいつ、そのために依頼を爆速で終わらせたんだな。なんて阿呆な奴だ。レオだって、素直に使い魔が休暇申請すれば前向きに検討こそすれ無下に却下することは無いだろうに。
しかしロキは、使い魔2匹が休暇申請をすることで主人であるレオの仕事量が増えてしまうのは絶対に避けたかった。色恋と仕事は別である。ロキは真面目で真っ直ぐな猫だった。
「無いわよ。でも、そうね。せっかくのお休みだから、バスボムを入れてゆっくり半身浴しようかしら。私ね、最近お風呂にハマってるの」
にこにこと機嫌良く自分の予定を報告してくる白茶色の塊に、ロキは微笑ましい気持ちになる。あの白孔雀の一件から、ロキはマルのことが可愛くてしょうがない。そっかぁ、女の子だしなぁ。
蕩けたロキの思考はすぐに引き締まる。なぜならロキは確固たる意思を持って爆速で依頼を終わらせたからである。
「あー、その…もしあれだったらいいんだけどさ…チェスの練習に付き合ってくれねぇかな。俺、練習相手が誰も居ないんだ」
「え? い、いいけど…私、チェスが出来るなんて言ったかしら…?」
マルはギクリと身体を固まらせた。なぜならロキが『白孔雀のお嬢さん』とチェスを楽しんだと聞いて、それが何だか非常にイライラしたからこっそりチェスの練習を夜な夜な行っていることは、マルだけの秘密だからだ。
ロキはそんなマルの訝しむような視線を受けて慌てて首を降った。
「や、知らねぇけど、なんか貴族の猫ってそういうのも嗜んでるんじゃねぇかなって。ほら、お上品な遊びだろ?」
「ま、まぁね! 当たり前じゃない。私のお家にもチェス盤はあったし、1番上のお姉さんはとっても上手だったもの。私もチェスくらい造作もないわ!」
マルはどんどんと自分からハードルを上げていくことに自分自身で恐怖を覚えた。なぜか勝手にペラペラと口が動いてしまう。マルはロキに感心されたい一心で、ふふんと胸を張ってみせた。
だから、ロキが素直に「へぇ、そうなのか。すごいな」と感嘆した時は本当に得意気になったのだ。
チェスを指しやすいように人型になったマルは、小さく首を傾げた。この駒は、どこに置くべきかしら…。
本音を言うと、マルはそこまでチェスが得意ではないと自覚していた。怒りに突き動かされるままに入門書を読み漁り、借りたチェス盤を夜な夜な弄ってみたものの、正直に言うとその面白さは良く分からなかったし、上の姉がチェスを指すのを見ながら難しそうだと遠慮していた位の認識なのだ。
早くも手詰まりになったマルに、ロキはふにゃふにゃと笑いそうになるのを堪えて、「ここは?」と盤上を指さしてやる。マルはパァッと表情を明るくさせ、「そうね!」と駒を動かした。
場所は本部の中でも有数の日当たりの良いスポットの1つ、サンルームである。ガラス張りの空間には白を基調としたテーブルと椅子が置かれており、沢山の観葉植物が目に優しく葉を青々と広げている。
大体はロンメルとスミス、たまにレオとマシューがのんびりとお茶をしている空間だが、今日はロキとマルだけである。
自分の前にちょこんと腰掛けて、白茶色の髪の毛を簡単にひとつに纏めて紺色のワンピースを来た少女が、その小さな指先でチェスの駒を摘んでウンウンと悩んでいるのを眺めて、ロキは幸せを噛み締めた。
だってギデオンとマシューさんばっかりずりぃよ。俺だって一緒に遊びたい。
つまり、ロキはチェスを口実にしてマルと一緒にのんびりと過ごしてみたいだけであった。あと、こっそり練習していたらしい少女のチェスの腕前も密かに気になっていた。
「ほら、次だぜ」
「え、もう? 早いのね…えっと…ここ…かしら…?」
「うわ、やられた。まさかそこを突かれるとは」
「ふふん! 当然よ! だってガラ空きだったもの!」
ロキは自慢げにはしゃぐ少女を見て、「こいつ、ものすごくチェスが弱い!」と叫びたい気持ちになった。隙を作ればそこを確実に見つけてくることから、地頭は悪くないのだと思う。
しかし、何よりも拙く素直で、チェスだけで言えばまるで仔猫も同然だった。しかしロキはマルが喜ぶ姿を見たくて、わざとおかしなところに駒を動かしてしまう。
「ふふ、あなたって実はうっかり屋さんな所があるのね! だめよ、一度動かしたらやり直しは禁止!」
「あー、やっちまったわ。そんなの絶対あそこのクイーンで横に着かれちまうじゃねぇか…そしたらチェックメイトだ…」
「あら、本当だわ。 チェックメイトよ!」
マルは歓声を上げた。いくらロキが平常では有り得ないほどの凡ミスに次ぐ凡ミスを繰り返していたとしても、勝利は勝利である。はしゃぐマルに、ロキはにこにこと笑みを向けた。
「大戦果を上げてしまったわ…! 後でレオに自慢しないと! さて、『勝者は敗者に何でも1つ命令できる』約束は忘れていないでしょうね?」
「ああ、いいぜ。何にする? 欲しいものがあれば買ってやるし」
「あら、私だってレオからお小遣いもらっているもの。欲しいものは自分で買えるわ。でも、そうね…」
マルは悩んで、名案を思いついたとばかりに両手を合わせた。
「私、あなたを一度全力でつやつやのサラサラにしてみたいと思ってたの!」
「は?」
ロキは気の抜けた返答をした。少女の瞳が嘗てないほどキラキラ輝いて、可愛いなぁとだけ思った。
※※※
少女は黒猫を抱き抱えながら、浴槽にピンク色のバスボムがしゅわしゅわと音を立てて溶けていくのを鼻歌交じりに見つめていた。マルは黒猫の頭を撫でながら、思えば自分が人型になってロキが元の姿で居ることはこれが初めてなのではと記憶を掘り起こす。
「…本当にこの中に入るのか…?」
「当たり前じゃない! ミュンクルの新作のバスボムで、なんと緑星樹の朝露が入っているのよ。あなたのために特別に1番良いのを出してきたわ!」
「…それは、光栄だぜ…」
ロキは少女に撫でられるのはやぶさかではないと思いつつも、どうしてこうなってしまったのかと天を仰ぐ。
チェスを口実に一緒に過ごしたかったし、負けたとしてもマルの欲しいものを買い与えたり、あわよくば一緒に買い物に出たりして、目一杯わがままを聞いてやろうと期待していたが、結果はこの甘い花のような香りのするピンク色の液体に浸けられようとしている。
ロキはもう一度強く思った。なぜだ。
「お風呂は苦手? たしかに猫の使い魔に水嫌いの子が多いのは知っているわ。あなたもそうなのね? でも安心して。大丈夫よ、私がちゃんと支えてあげるわ」
「いや、別に水は好きでも嫌いでも…」
「不安なら、私が猫になって一緒に入ってあげても構わないのだけど、そうするとあなたを洗ってあげられないでしょ? だからそれは止めておくわ」
「えっ、止めんなよ…どちらかといえば俺はそっちの方が…」
マルはバスボムが完全に溶けきったのを確認すると、お湯を片腕でかき混ぜた。湯加減も丁度よく、見た目も最高に綺麗である。マルはにっこりと笑って、ロキの両脇を抱えてバスタブの中にゆっくりと浸した。黒猫の毛がフワフワとお湯を漂う。
「どうかしら? 熱い?」
「…とても良い湯加減です…」
「そう? よかったわ。あなたの毛にたっぷりと美容成分を浸透させましょうね」
マルは片手で黒猫を支え、もう一方の手で脚の先から耳の先まで、余す所なくマッサージをする。ロキは少女に全身をまさぐられ、何とも言えぬ気まずさと本能的な心地良さに微かに喉を鳴らしてしまう。
するとマルが嬉しそうに「気持ちいい?」と尋ねるから、ロキは両耳をぺしゃんと下げた。これはこれで危なくないだろうか。
「猫の時には気付かなかったけど、こうして触ってみると結構筋肉質なのね。私ももう少し筋肉をつけようかしら」
「いや、お前はそのままでいいだろ。柔らかい方がレオも触ってて癒されるんじゃねぇの」
「そう? あなたが言うなら、そうかもしれないわね。じゃあ、次はシャンプーしましょうか」
ロキは為されるがままに泡もその後に付けられたヌルヌルも、そしてパックとかいうよく分からない半固形の白いものも全て文句を言わずに受け入れた。
なぜならマルがとても楽しそうにしているからである。
全身から甘い香りを漂わせて、ロキはタオルドライも魔法の温風も従順に受け入れてみせた。雄猫としては空気乾燥一択であるが、やはりマルが上機嫌に色々と話しかけてくるから、言われるがまま身を差し出した。
「さいっこうだわ…! つやつやよ…! 最高傑作だわ! 羨ましくって、むかつく位のサラサラよ!」
「…喜んでもらえて何よりだぜ」
仕上げのブラッシングを終えて、マルは日当たりの良いサンルームに黒猫を抱えて戻ってきた。そして、自分も猫の姿に戻るや否やロキのいくらかボリュームアップした胸元の毛に顔を突っ込んだ。
「すごく良い香り…はぁ、やっぱり私、あなたの毛が羨ましい…いいなぁ、とっても光っているわ…」
「そ…んなに、擦り寄られると…あれなんだけど…」
僅かに身を引く黒猫に、白茶色の猫はますます頭を擦り付けた。ロキは久しぶりのマルからのスキンシップに、無意識に尻尾を上機嫌に揺らしてしまう。おまけに、マルの尻尾が嬉しそうにゆらゆらと揺れているのを見て更に照れくさくなった。
「ふふ、甘くてほんのりとお花の香りがするわ。それに、あなたの毛の色は日向を集めるから、すぐにぽかぽかして気持ちいいのね。ねぇ、このままお昼寝しましょうよ」
「…いいぜ。寝ようか」
「午後からとっても贅沢だわ。最高のお休みね」
「…ほんとにな、最高…」
ロキは自分の腹部の辺りで寝そべったマルの耳元を舐めながら、蕩け切った顔をして笑った。
自分が全身から雌猫のような香りを漂わせ、なおかつ毛並みをサラッサラにされてしまったことを除けば、何時間もマルとお喋りをして、全身を撫でられて、べた褒めに次ぐべた褒めをされ続けたのだ。そして今はロキにぴったりと寄り添うようにマルが無防備にお腹を晒して寝ている。これが最高と言わず何と言おうか。
「あー、可愛い…ずっとにこにこしてたなぁ…これが俺からする匂いじゃ無ければなぁ…」
ロキはすりすりと寝こけたマルの頭に自分の頭を擦り付ける。
ふと、サンルーム入口のガラス張りの窓を見上げると、ニヤニヤと笑う蝙蝠とトカゲとハムスターが窓にへばりつくようにしてじっと2匹の猫たちを観察していた。ロキは瞬時に表情を引き締めると、窓硝子すれすれに業火を放った。
※※※
「あのエロ猫ッ! ほんっとありえねぇ! ひとのことを焼き鼠にする気かッ!!」グリムがチリチリになった髭を両手で弄った。
「でもぶっちゃけ主人に相手用意してもらうってどうっすかね? 僕ら誇り高き使い魔っすよ? そんなんで本当にいいの? ふぇぇん、ヒューゴ〜僕も浮気に寛容な美人で翼の大きい奥さんが欲しいよぉ〜」ジェイクが翼で顔を覆い隠しシクシクと鳴き真似をする。
「俺ずっと気になってたんだけどさぁ…あいつ、ロキがそこまで言うほど可愛いと思う? 雰囲気じゃなくて見た目の話ね? ねぇグリムどう思う?」ギデオンが隣を歩くハムスターに話を降った。
グリムは暫く考えてから、「いや、可愛いでしょ。普通に」と真剣に呟いた。ギデオンとジェイクが難色を示す。
「え? 何その反応。だって毛並みとかめちゃめちゃ綺麗じゃん。まぁ、頬袋が無いのはあれだけど」グリムが慌てて抗議をする。
「出たでた。お前ら有毛種は二言目にはすぐ毛並み。普通は肌触りと翼の大きさっすよ」ジェイクが鼻で笑う。
ギデオンが「いや鱗の色と艶でしょ?」と突っ込む。
ジェイクが再び「鱗! お前マニアックっすね」と馬鹿にしたように笑った。
「なになに? なんの話? あたしもまーぜて♡」
ひらりと降りてきたのはロンメルである。グリムから粗方の話を聞くと、「それを言うなら羽根の艶と、嘴の輝きかなぁ。あとお金持ちかどうか♡」と呟いてから、傍を通りかかった三毛猫を呼び止めた。
「ねぇねぇ、ルーク君は? 好みのタイプとかある〜?」
ルークは明らかに面倒くさそうな顔をしたが、4人の使い魔としての先輩に囲まれ渋々「肉球まで…きちんと手入れの行き届いた子が好きですね…」とボヤいた。
ジェイクが「あの子とかまさにそうじゃないっすか?」と突っ込むと、すかさずルークが「止めて下さい縁起でもない…」と却下した。
「お、使い魔勢揃いじゃん。なにしてんの?」
ひょっこりと顔を出したフェイがグリムに近寄った。事のあらましを聞くと、「まじ? 使い魔ってそんな感じ? じゃあ人型になった時の好みってあんまり無いの? 脚とか胸とかさぁ」と驚いた声を出す。
「言っても、人型ってそんなに重要じゃないよな?」グリムがギデオンに同意を求める。
「結局アレする時は原型だしねぇ」ギデオンが突如ぶっこんだ。
グリムが「ていうかトカゲってどうすんの? ちんこ無くない?」と首を傾げる。
ギデオンも「そもそもハムスターってできんの? ちっちゃすぎて見当たらないんじゃない?」と言い返した。
「いやいや、お前ら遅れすぎ。今そんな意識じゃ化石同然。最近は人型でのエッチが人気爆発中っすよ」ジェイクが人型に変わり、その他使い魔たちを見下ろした。えっ、と三者三様の驚きの声が上がる。
「これだから仕事ばっかりの奴らはだめっすね。人型の魅力はなんと言っても種族関係無いところよ。使い魔界でも多様性ブームだし。その内キメラ生まれたりしてね」
ジェイクの発言にロンメルが首を傾げた。
「んー? でも、普通に遺伝子配列違うしそれは無理じゃなぁい? まぁでも、人型の方が気持ちいいらしいわよね♡」
「えっ、そうなの?」ギデオンが早速食いつく。
グリムが「えぇ? でも人型ってちょっと視覚的に…」と目を細めた。
「なんで? 羽とか鱗よりよっぽど興奮するじゃん」フェイの発言に「それはお前が人だからだろ」と数人が突っ込んだ。
「…ちょっと待って。人型になってするのが流行ってんならさぁ、魔法使いのお姉さんと…とかっていうのは…?」いつのまに人型になったギデオンが、ジェイクの隣に寄ってくる。ジェイクはニヤリと笑うと、ギデオンにボソボソと耳打ちをした。
「やっばい…下克上…」ギデオンが頬を紅潮させる。
「いや、魔法使いとはそれこそ無いでしょ…」グリムが更に渋い声を出す。
「無法地帯…」ルークがボヤいて、その場をあとにした。
※※※
日当たりの良いサンルームで寝転がっていたマルは不機嫌そうな三毛猫がやってくるのを眺めていた。ルークはマルを見つけると溜め息をつき、「あんたは…能天気で良いっすね…」といつもよりも少し刺々しく毒を吐いた。マルはムッとなって起き上がる。
「……なんか、変な匂いしません?」
「え? そうかしら」
ルークは鼻をヒクヒクと鳴らして、匂いの元を辿る。発生源はすぐに分かった。おまけに、その匂いが発情期を迎えた雌猫の匂いと極似していることにすぐさま気付く。ルークはゲッと顔を顰めた。
なぜこの猫は平然とこんなところで昼寝なんぞしているのか。
そのまま放って逃げてしまおうかと思ったが、一応同僚であるという義理で忠告してやることにした。
「…毛玉先輩、あんた…発情期が来てませんか…」
「ハァッ? ななな、何言っているのよ! せ、せ、セクハラっ! 分かってないようだから言いますけどね、私は女の子なのよ? そんなの来るわけ無いじゃない!」
「………はぁ? あんた、今までどういう教育受けてんですか…」
声をひっくり返して戦慄くマルに、ルークは突然面倒になった。義理以前の問題である。
レオはちゃんと把握してんのかな。してないんだろうなぁ、あの人結構うっかりしてるから。
間違いを起こすことの無いように、ルークはできる限り匂いを嗅がないようにマルから距離を置いて、「雌猫にもありますよ…普通に…」と親切にも教えてやった。マルは驚いた顔をした。
「……そうなの?」
「毛玉先輩…友だちとか居ないんですか? そういう情報って大体は友だちとの猥談で何となく得られますよね…」
「わいっ……まぁ、いないことも無い…とも言えなくもない…けど…」
「あぁ…いないんですね…。先輩って友だち付き合いめちゃくちゃ下手そうですもんね…」
マルは図星をつかれ押し黙った。そして、今更気になったのか、ふんふんと周囲を嗅ぎ始める。やがて、おずおずとルークに尋ねてきた。
「その…それって、どうやって終わらせるの…?」
「レオに病院連れて行ってもらって…抑制剤を注射してもらうか、相手見つけるかじゃないですか…」
「ち、注射は嫌よ。痛いもの…」
「じゃあ…相手を調達してくれば良いんじゃないですかね…」
マルは暫く唸ってから、ちらりとルークを上目で見つめてきた。ルークは「断固拒否です…本当に勘弁してください…」と顔を歪める。マルは露骨に機嫌を損ねた。
「じゃあ、他に誰に頼めって言うのよ。猫のお友達なんて、あなたとロキさんしか居ないわ」
「…じゃあその、ロキさんに頼んでみたらどうですかね…」
「嫌。だってそれはなんだか……違うもの」
途端に語尾を小さくしたマルに、ルークは「なら…もう主人に何とかしてもらう他無くないですか? 俺用事あるんでそろそろ行きますね…」とすげなく言ってサンルームから出ていってしまった。
ルークとて一応雄猫なのだ。これ以上の長居はより面倒なことになる。
残されたマルは、「それもそうね」と頷くと、手早く姿を人に変えた。
※※※
ロキと入れ違いになるように飛び込んできたマルに、レオはもう書類に手を付けるのを諦めた。元々休暇の予定だったのだ。もうこれ以上は非効率だ。
「どうした?」と苦笑い気味に尋ねると、白茶色の髪をふわふわと揺らしながら、少女は元気一杯に、「私、どうやら発情期になってしまったみたいなの。注射は嫌だから、あなたが相手になってくれないかしら!」とレオの書斎机から身を乗り出してきた。
レオは言われたことを正しく処理するために、いくらかの時間を要した。
「…待て待て待て。なんだって?」
「だからね、私、発情期になってしまったみたいなの。注射は嫌だから、あなたが相手に…」
「ふーむ、聞き間違えの可能性は潰れたか。ならそれに対する返答だ。断る。言っておくが俺にそんな趣味は無い」
「でも、注射は嫌よ。相手も見つからないわ。どうすれば良いの?」
少女の下敷きになった数枚の書類を抜き取り、レオは魔法で棚に収めた。使い魔の発情期が魔法で抑えられれば手間は掛からないものの、それが出来たらわざわざ病院に出向いてまで注射をしてもらう必要も無いのだ。
レオはふむ、と神妙に頷き、「よし、注射行くぞ」と少女の腕を掴んだ。
途端に少女はワァワァと暴れ始める。少しは大人になったかと思えばこれか。レオはするりと猫になって間から抜け出そうと画策した少女の先手を取って、魔法でつくりあげた使い魔用の檻にさっと放り込んだ。
「イヤーーーッ!! 出して! 注射は嫌ッ! ちょっとくらい、相手してくれたって良いじゃない! 意地悪! ケチ!」
「おいおい…お前、そう簡単に言ってくれるが、相手ってどういうことか分かってるのか」
「知ってるわよそれくらい! ギュッてして、魔力をたくさん交換して、お互いに『好き』って言い合いながら一緒に寝るんでしょ!?」
「注射一択だな。そうだ、今度俺の知り合いの魔法使いを紹介しよう。使い魔がお前と同じく雌の猫らしいから、いっそ暫く滞在させてもらうのはどうだ。色々と知識を身につけてくると良い」
散々暴れ檻の中で喚いていたマルがピタリと動きを止める。「その子と…お、お友達に…なれるかしら…」檻の隙間からちらりと見上げてきたつぶらな瞳に、レオは「さぁな。なれるんじゃないか」と答えてやる。
たまにジェイクがちょこちょこと出入りをしているらしいことも聞いているし、預け先としても安心だろう。
マルはそわそわと嬉しそうに檻の中で尻尾を揺らしながら、「なら、注射は頑張るわ」と頷いた。
※※※
アルハバという魔法使いは、魔法界きっての変わり者であるというのはあまりにも有名だ。レオもある意味ではその名を轟かせてるのだが、アルハバは魔法使いでありながら人間の『医学』に心を奪われ、年がら年中研究室で怪しげな実験をしているらしい。1度、実験材料として希少な魔物の体液や牙などを提供してから、レオとアルハバの交友関係は良好に続いている。何せ結構話が合う。
そのアルハバの使い魔である雌猫のローズマリーも主人と似て変わり者らしいが、レオもあまり詳しくは知らない。ただ、ジェイクからの話を聞く限り特に問題は無さそうであるし、大丈夫だと思う。念の為、預ける際にはいくつか約束事をしてきた。
──使い魔の、年頃を迎えた雌猫に性知識を与えてやってほしい。
レオは適材適所だと割り切り、薄紫色の毛並みが美しいアルハバの使い魔であるローズマリーにこっそり依頼をした。ローズマリーは数点のブランド品と引き換えに、「構いませんわよ」とあっさり了承をしたのだった。
それから約5日間、マルはアルハバの元で表向きは手伝いとして住み込みの仕事を行うことになり……そして本日が帰宅の日である。
既に1日目から落ち着きなく「あいつ向こうで上手くやれてるんだろうか」だの「虐められてないよな」だの「寂しくて夜鳴きしてるんじゃないか」だのと落ち着きなく徘徊を始めた相棒の黒猫は、3日を過ぎた頃から「あれ、俺今呼ばれたか?」だのとマルの幻聴が聞こえ始め、5日目になると「あいたい…」と語彙が溶け始めた。
レオは、我が使い魔ながらこいつ割と気持ち悪いなと若干引いた。
レオがアルハバ宅へマルを迎えに行った時に、いつもならば弾丸の様に飛び込んでくる白茶色の塊が来ないことにまず首を捻った。
「……マル?」
薄紫色の美しい毛並みの猫の後ろに隠れるように、控えめに顔を見せた5日ぶりの自身の使い魔の顔は、困ったように両耳が垂れ下がっている。レオは「具合が悪いのか?」としゃがみこんだ。マルはローズマリーに何事かを耳打ちされ、ぶわりと毛並みを逆立てた後に気まずそうに近寄ってきた。しかし、一定の距離は保たれたままである。
「照れていらっしゃるのよ。思春期の女の子ですものね」ローズマリーがケロッと言った。
アルハバがそっと「ローズマリーちゃん、この5日間でどんなことを教えたの?」と囁くと、ローズマリーは「うふふ、色々とね」と優雅に微笑み尻尾を振る。
「そうか。なら無理をするな。籠を持ってきたからそこに入るといい」
レオが籠の入り口を開けてやる。マルはちらりとローズマリーの方を振り向いて、「ローズマリーちゃん、とってもとってもお勉強になったわ。ま、またね」とはにかむように笑う。
ローズマリーは「いつでもいらっしゃい。次はもっと凄いのを教えて差しあげる」と僅かに目尻を和らげた。レオは双方に礼を言い、手配した羽馬車に乗り込む。
マルが小さな声で「ただいま、レオ」と控えめに囁いた。
※※※
本部に戻ったマルをいち早く出迎えたのはロキで、籠から出てきた5日ぶりの再開に尻尾を上機嫌に揺らした。
「おかえり。どうだった? ちゃんと3食しっかり食べたか?」
跳ねるような声色で喜色を全面に押し出して、そのままマルの匂いを嗅ごうとしたロキに、マルは慌てて距離をとった。両耳が垂れ下がっている。ロキは「えっ」と傷付いた声を出した。
「え、ええ。ローズマリーちゃんに、色々とお料理も教えてもらったの。とっても優しくしてもらったわ」
マルはそわそわと落ち着かない様子である。ロキは距離を取られたショックから何とも言えない顔をして、「そっか、良かったな…」と若干耳を垂れさせた。
その横から顔を出したのはトカゲのギデオンである。マシューもマグカップを片手に「おや、マルさん。おかえりなさい」と微笑んだ。
「ねぇねぇ、アルハバ先生のとこ行ってたんだって? どう? 実験とかされたの?」身を乗り出すように顔を近付けてきたギデオンに、マルは再び不自然に視線を逸らせる。
ギデオンが首を捻った。
「え、なに?」
「あっ、いえ、違うの。なんだかその…なんでもないわ…」
「なに、実験されて性格でも変わったの?」
「お…毛玉先輩じゃないですか…。拾い食いですか?」マシューの後頭部を攻撃しながらルークが顔を出すと、マルはますます困った顔をした。
照れたように何度も前脚で顔のあたりを擦っている。そして、蚊の鳴くような声で呟いた。
「わ、私、色々と…自覚が足りなかったの…今まで…」
一同が首を傾げる中、レオだけがローズマリーの言葉を思い出していた。なるほど、思春期ってそういうことか。だいぶ遅かったな。これ以上注目を浴びるのが恥ずかしくて堪らないとばかりに俯いてしまったマルに、レオは助け舟を出してやることにした。
「マル。戻ったばかりで悪いが、俺のコートを部屋に持って行ってくれないか」
「ええ! もちろん! 任せて!」
渡りに船とばかりにマルは頷き、レオのコートを銜えて駆け出していった。残された面々に「思春期だそうだ」とレオが教えてやると、マシューが微笑ましそうに「へぇ、そういうのもあるんですねぇ」とにこにこと笑い、その肩によじ登ったギデオンが「いや、キャラ変わり過ぎでしょ」と呆れたようにボヤく。
ルークが「はぁ…そうですか」と興味が失せたように大広間のソファーまで歩いていってしまった。
一方、ロキは目を真ん丸にしながらレオを見上げる。レオはロキに片目をつぶって「ここからはお前の腕の見せ所だな」と応援してやった。
※※※
マルは困っていた。何せ今まで全く意識をしてこなかった様々なことが、一気に気になり始めたからである。もう大広間やサンルームでお腹を出しながら寝ることなんて出来ないし、挨拶代わりにグルーミングをするなんてとんでもないことだ。顔を近付けるのも恥ずかしい。
レオに身体を撫でられることすら恥ずかしくて堪らなかった。今まで以上に見栄えが気になるし、体型も気になる。気軽にルークにじゃれつくことも、もう出来そうにない。地下街散策から一気に仲良くなったギデオンとだって、話しかけられるとドギマギしてしまう。
それに何よりも、マルはロキを見ると心臓がおかしな程に跳ね上がるのが止められなくなってしまった。今のところ任務では平常を装えているが、ふと距離が近くなってしまえば途端に挙動不審になってしまう。マルは今日もドレッサーの前でしきりに毛並みを気にしていた。
「…ローズマリーちゃんはとっても細くて、毛並みがサラサラのつやつやで、おまけに博識で、魔法も沢山覚えていたわ」
あの5日間で、マルにとっての憧れの猫像はすっかり薄紫色の美しい猫になっていた。
「人の姿も、白くて細くて良い匂いでふわふわだったわ…」
マルはあの美しいひとの、豊満な胸部からキュッとくびれた腹部、そして小さい臀部へのラインを思い出した。マルにとってローズマリーは猫でも人の姿でも理想の存在であった。
「私、ダイエットをするわ!」
マルはお世辞にも細いとは言えない、どちらかというとぽちゃっとした体型であると自覚していた。確かに毛並みは自慢できることの一つであるとは自負しているが、柔らかい方が触り心地も良いしレオも喜ぶと、以前ロキに言われたことが嬉しくて沢山食べるようにしていたのだ。
しかし、マルはどうしてもあのローズマリーのようなプロポーションに憧れていた。思春期あるあるであった。
早速マルは食生活から改善することにした。美味しいからいつでも食べられるように買い溜めしていたマカロン等の大好きな洋菓子は全てロンメルにあげて、代わりにナッツ類をお菓子替わりにすることにした。
これも、ローズマリーがやっていたことである。そして、食事は野菜を中心にしてカロリーカットを、体力づくりの一環で毎朝本部の周りを走り込むことにした。
その成果があってか、最近マルは段々と身体が引き締まってきたことを感じるようになった。なにより任務で俊敏に動きやすい。そうなると、今までどれだけロキが自分のフォローをしてくれていたのかを悟った。マルはまた胸の中がそわそわとする。
そしてついに、伸ばしていた髪を肩口まで切ってもらった。いくら手入れを欠かさずしていても、毛先はどうしても枝毛になってしまう。そこで、いっそのことバッサリと切ってしまおうと思った。もちろん、ふわふわのつやつやは今まで以上にキープするつもりだし、毛並みはマルの1番の自慢であるから妥協するつもりは全くない。
ただ、魔法の練習や魔導書を読む時や、朝の走り込みの時などに長い髪が億劫になったのだ。人型を保つ練習として、寝る時以外は殆ど人の姿になっていたから、マルは身長が伸びたことにすぐに気付いた。今ではレオを見上げるのもそこまで苦ではない。
「ん? あぁ、マルちゃんか。一瞬誰かと思ったよ。今日も人の姿なんだね……雰囲気変わった?」久しぶりに顔を合わせたグリムの反応に、マルは気を良くした。
まだ雄と会話をするのに少し照れてしまうが、多少はなんでもないフリができるようになっていた。
「ええ、最近人型の練習をしているの。雰囲気は…髪を切ったからかしら」
マルはダイエットのことは伏せて、まるでさも髪を切ったくらいしか努力はしていないのだという体を装った。小さな見栄である。
グリムは素直に「あぁ、だからかぁ」と納得した。その主人であるフェイが「ショートヘアって俺結構すき〜」と下の方にあるグリムの頭に両手を乗せて、にっこりと微笑んできた。
「いつも猫の姿だったから気付かなかったけど、マルちゃん最近可愛くなったよね」
基本的に人当たりがよく、女性の魔法使いにはすぐにお世辞を言うフェイの発言であれ、マルは褒められて嫌な気はしなかったのではにかむように笑い返す。
「そうかしら…? ふふ、嬉しいわ」
指先で緩くウェーブがかかった毛先を弄ってしまうのは、髪を短くしてからのマルの新たな癖になっていた。
「え〜めっちゃ女子じゃんその仕草。いいなぁ、俺も雌の使い魔欲しい…なぁ、グリムお前どうにかなんないの?」
「ちょっと〜やだぁグリムちゃん困っちゃう〜♡ってオイ、いい加減にしろよ? やらすな」
「アリかナシかで言えば余裕のナシだな。出直してこい」
「前歯でその口抉ってやろうかなまじで」
軽快なやり取りを眺めるマルを呼んだのはレオである。マルはすぐに大広間へと飛び降りた。一階程の高さならばどうってことないのだ。
「なぁに? お仕事?」
やや照れたように視線を逸らせながら、マルはもじもじと指先を弄った。レオは既に慣れていたので気にせず書類を見せる。
「悪いが、この書類の此処に、中央の役所から至急印を貰ってきてくれないか。完全に忘れてた」
「分かったわ。でもあそこって窓口が沢山あるわよね。どこの窓口?」
「あー、いや、窓口じゃないんだ。正面から左に行った先の…グリフォンの像があるだろう? あそこの上あたりに、緑の旗があるんだが…あれ、今って白だったかな…その…右の廊下を突っ切って…あー待て待て、名前ド忘れした」
レオが目の下の隈を指で擦り、ぐっと両目を硬く閉じた。最近は殆ど寝ずに書類仕事に勤しんでいるレオに、マルとロキはどうにかして睡眠をとってもらいたいのだが、如何せん、ここ最近はずっとレオが目を通さないといけない書類ばかりが山のように舞い込んでくる。
せめてもとロキもほぼ不眠不休でその他の書類を一手に引き受けているので、その分マルは脚を使った雑用仕事を引き受けていた。
「だめだ、頭が働いてない。ちょっと待っててくれ、今地図描くから…」
「いいよレオさん。僕が一緒に着いてくから。たぶん管制塔の上のとこっすよね? 他に持ってく書類あります?」ひょっこりと顔を出したのは蝙蝠のジェイクだ。
「助かる。お前がいるんだったら安心だな。他は…明後日までのやつがある。……そうだ。使い魔の更新っていつまでだった?」
「証明写真? たしかあと一週間っす」
マルが手帳を捲る前に、ジェイクがほぼ間髪入れずに答えた。
レオは「じゃあついでに撮ってきてくれるか、写真」と空中から取り出した1枚の用紙をジェイクに渡した。
そして、落ち着きなくジェイクとレオを交互に見返していたマルに気づくと、「帰りに珈琲豆を買ってきてくれ」と薄く微笑んだ。マルも間髪入れずに頷いた。ついでにレオの好きなケーキ屋にも寄っていこうと今決めた。
※※※
人型のまま羽馬車に乗るのは新鮮だ。それに、あのジェイクと2人で乗っているというのも新鮮さが増すひとつの要因だと思う。マルは目の前で煙草を吸おうとして、思い直したように胸ポケットにしまいこんだジェイクをじっと見つめた。
「…なんすか? 僕の顔になんかついてる?」
「えっ! い、いいえ、なにも…」
へらりと笑いかけられ、マルは思わず頬を赤らめ目を逸らした。普段ならこんなにドギマギしないのに、それもこれも思春期に突入したせいであった。異性と二人きりという状況がやけに気になってしまう。
「そういえばこの前、ローズマリーちゃんとどんなこと話したんすか?」
「え、えぇっと…色んなことをお話したわ。お料理とか、魔法とか、科学についても。あと、お化粧品とか、美容品についても色々…」
「他には?」
「……それだけよ」
ジェイクがにやにやと含み笑いで見つめてくるのが、マルにはやけに癪に障った。そういえば、ジェイクとローズマリーは付き合いが割と長いのだとマルは気付く。視線から逃れるようにわざと顔を背ければ、ジェイクが小さく笑った。
「そんな分かりやすく不機嫌にならないでよ。ちょっとした雑談っすよ。 ほら、最近マルちゃん綺麗になったし、恋でもしてるのかなって話題になってるんすよ」
「き、きれいかしらっ? え、ほ、本当に? 私、ジェイクさんから見てもそう思う? 最近みんなが褒めてくれるから、もしかして実は本当にそうなんじゃないかって、私、薄々思っていたの!」
両頬を抑えてキャアキャアと喜ぶ少女に、ジェイクは一瞬呆気に取られて「あ、そっちに食いつくのね」と呆れてしまった。
たしかに嘘では無いのだ。グリムがしきりにマルを褒めるから、まぁ確かに最近雰囲気変わったよなぁとジェイクも密かに思ってはいたのだが、この様子では中身はあまり変わっていないみたいである。
こりゃあその内しおらしさもどっか行くな。ジェイクは未だに喜びを噛み締めているマルに、「そろそろ目的地に着くっすよ」と教えてやった。
※※※
中央都市の役所に着けば、ジェイクが案内役をかってでてくれた。マルはその背中を追いかけながら、次は1人でも来られるようにと道を頭に叩き込む。そのまま使い魔としての契約更新に必要な証明写真を撮ってきて、あとは珈琲店とケーキ屋に向かう。
珈琲店の男性店員が焙煎中に世間話を振ってきたから、マルもそれに対してにこやかに応えた。すると、おまけとして珈琲豆を数種類か包んでくれて、さらに連絡先が書かれた紙をこっそりと紙袋に忍ばせてきたのだ。マルは目を真ん丸にして、目を輝かせて即座にジェイクに自慢した。
「見て…! 私、ナンパされてしまったわ…! すごいわ、人生で初めてよ…!」
「ちがうよ、マルちゃん。ナンパは初心でちょろそうな女の子引っ掛けるためにするんすよ。本当の美人には恐れ多くて声掛けられないっすもん」
「そ、そうなのね。残念だわ…」
「あれ、マルちゃんモテたいんすか?」
ジェイクがまた揶揄うようにマルを覗き込んできた。マルは再び視線を逸らすと、素直に小さく頷いた。
笑いを噛み殺したジェイクが、「なんでモテたいんすか? 彼氏欲しいの?」と興味本位の追撃をする。これはロキを揶揄う絶好のネタになると踏んだ。
マルは耳まで真っ赤にして、「ローズマリーちゃんみたいになりたいの」と小さく零した。
「え? 男を手玉に取りたい的な方向? モテたいって、そっち?」ジェイクがポカンと口を開けると、マルが慌てて首を振った。
「ち、違うわっ…! 色んな人から好意を寄せられれば、それって綺麗ってことでしょ? だから、自分にもっと自信が持てるようになるかもしれないし…。それに私、ローズマリーちゃんみたいに綺麗になって、き、気になる人に…振り向いて欲しくて…」
「気になる人」ジェイクがオウム返しをする。
マルは今や全身を紅潮させ、「これ以上は内緒よ!」と駆け出してしまった。ケーキ屋に飛び込む小さな背中を見送って、ジェイクは1本煙草を銜えた。
これは中々面白いことになってきた。
※※※
レオはノックの音に漸く顔を上げた。書類と向き合い続けて乾燥した目が痛い。ジェイクが珈琲豆の入った紙袋をレオの前でガサガサと揺らした。その音から、数種類の豆を買ってきたことに気付く。
「何種類か買ったのか。いつものでいいのに」
ふ、と呆れたように小さく笑ったレオに、マルが誇らしげに胸を張った。久々に見た仕草である。
「ふふん、これは店員さんにおまけで貰ったのよ。小さい袋に、挽いたのを少しずつ入れてくれたの。試飲して、好きな味を見つけたらまた買いに来てって」
「ほう。気前が良いじゃないか。……ん? レシートか?」
あっ! とマルが声を上げる。革張りの椅子の上で書類と睨めっこをしていたロキがちらりとマルを見た。マルは顔を真っ赤にしてレオが持つ紙を取り戻そうとする。咄嗟にひょいと高く上げてしまったレオに、ジェイクが思わず吹き出した。
「レオさんレオさん、意地悪したら可哀想っすよ。マルちゃんの人生初のナンパの勲章なんすから」
「…ナンパ?」レオと見事ハモった声はロキのものである。
マルが真っ赤な顔を両手で隠した。
「ち、調子に乗ったのは謝るわ。でも、こんなところでバラさなくたっていいじゃない。わ、私、ジェイクさんだけにしか言わないつもりだったのに…」
ジェイクが驚いた顔をした。「えっ、そうなんすか。ごめんね? はしゃいでたから、てっきり自慢したかったかと…」
「はしゃいだのか」
レオがくつくつと笑い、マルが泣きそうな顔をした。
みんな揃って馬鹿にして。
レオは紙をそっとマルに握らせて、「すまない、俺らもついはしゃぎすぎた。美人な使い魔を持てて光栄だ」と微笑んだ。
マルは爪の先まで真っ赤になって、「美人だなんて…」と満更でもなさそうな顔をした。
ジェイクは横目で「レオさん揶揄ったの咄嗟に誤魔化そうとしたっすね」と彼の真意を悟った。
ロキは連絡先の書かれているであろう小さな紙を大事そうにポケットにしまったマルを食い入るように見つめていた。彼の握る万年筆の筆圧がえらいことになっている。
「あ、そうだわ。レオにお土産を買ってきたのよ。お仕事が煮詰まったら食べてもらおうかと思って…」
マルはいそいそと持っていた小さな箱を開いた。
「お、ショートケーキか」レオが嬉しそうな声を上げる。
マルは頷いて、もじもじとロキをチラ見した。中々言い出そうとしないマルに、いっそ全てを悟ったジェイクがナンパの件をバラした贖罪として助け舟を出してやった。
「マルちゃん、このチョコケーキはもしかしてロキのっすか?」
マルは頷いたか頷いていないかの中間くらいの動きをした。
ジェイクは「そっか。ロキ、マルちゃんがお前のためにチョコケーキ買ってきたっすよ」と破壊した万年筆の先端を魔法で取り替えていた男を手招いてやる。
ロキは目に見えて嬉しそうな顔をした。
「へぇ、俺のもあるのか?」
上機嫌でレオの隣に寄ってきたロキが、目にも止まらぬ速さでマルのポケットに入れていた例の連絡先を魔法で取り出し、跡形もなく燃やしたのをジェイクは偶然見てしまった。
見なければよかった。
マルはそんなことは梅雨知らず、にこにこと珈琲の準備をし始める。ジェイクは天に願いを捧げた。どうかマルちゃんが、ロキに店員からもらったおまけ珈琲を出しませんように。




