黒猫の奮闘記 4
本部に戻るや否やするりと逃げるように姿を眩ましてしまったロキに、マルは目の奥がカッと熱くなるのを感じた。
寸でのところで涙を堪えて、「私、ちゃんと謝ってくる」とレオに宣言する。レオは白茶色の毛並みを撫でて、「まぁ、ほどほどにな」とマルに忠告をした。
マルはロキの部屋を控えめにノックをしてみたが、返事が返ってこないことに想定内ではあるもののかなり凹んでしまった。
泣いたり喚いたり拗ねたりと、部屋に閉じこもったり素っ気なくするのは専らマルの方であった。だからロキがここまで怒り、マルに対して心を閉ざしてしまったのは初めてで、それだけでも挫けてしまいそうになる。
どうすれば良いのだろう。マルは扉の前に座り込んだ。
謝罪をするといっても、どうやって謝罪をすれば良いのだろう。差別してごめんなさい? それとも、そんなつもりじゃなかった? もう一度チャンスが欲しい? 失望させてしまったのに。マルはぐるぐると悩んで、まずは自分の意識がどこから生まれたのか、そして、その意識のルーツは何なのかを探ることから始めようと思った。
今までのマルだったら、このまま無様に扉に縋り泣き喚いただろうが、マルは今までの仔猫のマルとは違った。絶対に泣かない。
歳下のマルが泣いたら、歳上の使い魔たちは大人だから、ぐっと言いたいことを飲み込んで、仔猫を慰めるために無理をさせてしまう。
そうやって甘やかされることを疑いもなく享受してしまった結果が、こうしてろくに謝罪を伝えることも出来ない現状なのだ。
マルはぐっと奥歯を噛み締めて、学者であるマシューの部屋の扉を叩いた。
※※※
マシューは仕事中であったが、快くマルを迎えてくれた。いつも通りに紅茶かミルクかと尋ねるマシューに、マルは歴史が知りたいと注文した。ギデオンが物珍しそうに猫の顔を覗き込んでくる。
「どんな歴史を御所望かな?」
「使い魔の、猫の歴史が知りたいの。出来れば…その、黒猫の…あれこれを」
「なら、いくつか本を貸してあげようか。絵本と、少し難しい本と、もっと難しいけど色々載ってる本があるけど、どれが良い?」
ギデオンは三冊を見比べて、どれも角で殴ったらそれなりに痛そうだねぇと適当にボヤいた。
マルはその分厚さに圧倒されつつも、「ぜんぶ貸してもらえるかしら」と真剣な声を出した。マシューは「全部?」とやや驚いた声を挙げる。
「特に最後の一冊なんかは結構読み応えあるけど…」
「私、読書は割と得意なのよ。ファンタジーからロマンスまで、色々読めるんだから!」
「うーん、それらとはちょっとだけ系統が…いや、でも君が決めたことだからね。一生懸命向き合えば、きっと思いは伝わると思うよ」
マルは目を丸くした。どうして分かったんだろう。そんなマルの驚きをよそに、マシューは穏やかに微笑んでいる。
マルも釣られるようににっこり笑って、人型に姿を変えると一冊を抱えあげ残りの二冊を魔法で浮かせた。
白茶色のたっぷりとしたくせ毛は相変わらずだが、此処に来た当初と比べてスラリと伸びた手脚と丸みの僅かに少なくなった頬、そしてどこか少女から女性へと1歩を踏み出したかのような大人びた表情に、マシューはしみじみと「立派になったなぁ」と滲んだ涙をそっとハンカチで拭った。
ギデオンは「ねぇ、俺も立派に大きくなったよねぇ?」とより太く逞しくなった二の腕でマシューをヘッドロックする。マシューはタップをくり返し、「命だけは」と祈りをささげた。
※※※
部屋に戻ったマルは、まずは絵本から手に付けることにした。一番薄くて挿絵が多い。
魔法の使える色々な動物達が、ある日魔法使いと友達になって力を合わせて冒険をしていく物語だ。猫、烏、トカゲ、鼠、蛙と蜘蛛、そして蝙蝠。続々と仲間になるバラエティに飛んだ生き物達は、やがて魔法使いと一緒に街をつくりあげる。大団円で、めでたしめでたし。
マルは絵本を閉じて、収穫は無しかとため息をついた。黒猫のくの字も見当たらなかった。次に手に取った二冊目は、マルがかつて読んでいた小説とは異なり、それぞれの使い魔の特徴と分類を詳細に記載されたものであった。
──烏は魔法使いにとって眼に成りうる存在である。その知能は特に秀でており、反面プライドが高く扱い辛い。中でも東に生息する烏の…
──トカゲは遺伝子配列が最も飛龍と近く、またその身体的な特徴は…
──使い魔としての蝙蝠の生態は未だに謎に包まれており、何故ならその希少性により…
──蜘蛛は他の使い魔と比べると短命な種族であるが、個体によっては数百年…
マルは目を瞬かせた。肝心な猫は一体いつになったら出てくるんだろう。しかし、こう読んでみると「烏」や「蜘蛛」と一つに纏めて言っても、その中に細かい種類が沢山いて、それぞれ色も形も得意なことも苦手なことも、そして趣好や性格も違うんだなぁと新たな知見を得た。
ふと、マルは自分の生まれについて考えた。
父親と母親が口を揃えて家柄や血統を素晴らしいものだと繰り返していたから、マルも疑うことなくそうなのだと納得していた。周りには世話をしてくれる使用人も沢山いるし、同学年の猫と比べても美味しい食べ物や綺麗な洋服、豪華な旅行に数え切れないくらいの娯楽を沢山与えられてきたから、きっと自分は特別な存在なのだと思い込んでいた。
だからマルも家柄や誇り高い血統に恥ずかしくないように人一倍努力を惜しまなかったし、その分家柄も血統も悪く、おまけに努力もしようとせず人の足ばかりを引っ張ろうとする相手は散々見下してきた。
…本音を言えば、努力をしていても家柄も血統も劣っていると判断すれば、それだけでマルは他を見下したこともあった。
それなのに、良くも知らない相手を三毛猫の雄だというだけで「ずるい!」と妬んだり、「誇り」だとの上から目線で説教をしたこともある。
同じ「猫」で、血統なんて只の種類の違いであるだけなのに。
マルは自分が猛烈に恥ずかしくて、とっても矮小な存在に感じてしまった。きっと、ロキさんは私のそんな所に失望してしまったんだわ…。
捲った次のページに、猫の項目を発見した。同じように使い魔としての猫の特徴と、細かい種類が記載されている。とても種類が多い。マルは自分と良く似た白茶色のくせ毛の猫の写真を見つけ、思わずすぐ下の文字をまじまじと読み込んでしまった。
──白茶色(毛、瞳) くせ毛、長毛種。性格はやや勝気で高慢であるが、反面とても繊細で神経質。白と茶色から分化。癒術に秀で、繊細な気質から戦闘には不向き。主人への忠誠心が高い。
「何これ! プライバシーの心外だわ! 猫を何だと思っているのかしら! それにどうして猫の項目だけこんなにびっしり書かれているの!?」
憤慨したマルは思わず本に向かって怒鳴りつけた。まるで自分のこの性格が、遺伝子によってあらかじめ決められていたかのようだ。そんなのは御免だ。
マルはこれからバリバリに前線に出てやろうと決意した。この見透かしたかのような文章をぎゃふんと言わせてみせるのだ。
そこまで考えてから、マルはふと我に返り、黒猫の写真を探し始める。
「あ…」
──黒色(毛、赤目) ストレート、短毛種。性格は誠実でやや勝気、プライドが高く扱いづらい。分化元は不明、突然変異種。頑丈で全ての能力値が高く戦闘に向いている。
マルは文章をじっと見つめ、別におかしなことは何も書かれていないじゃないか、と瞬きをした。マルはそっと「突然変異種」の文字列を指先でなぞる。そのままページを捲った。
──黒猫は、優れた能力を持つ一方で、主人に反旗を翻す『裏切りの象徴』とも言われている。黒猫の遺伝子配列はどの猫とも異なっており、個体数の少なさから未だに謎が多い種である。事実として、黒猫が突如として凶暴化し主人に襲いかかってきたという報告が数十年おきに数件報告されているが、原因は不明である。
しかし、事故の発生件数はその他の使い魔と比べ圧倒的に多く、自身も黒猫と契約をしていたという賢者ジョンソン・グレイブスは『私の使い魔の黒猫は元々従順で良き隣人であり優秀なパートナーであったが、ある日突然狂ったように喚き散らし、ついには喉元に噛み付いてきた。魔法も一切効かず、まるで悪魔が乗り移ってしまったかのようだった』と証言している。
一部魔法学者の中では、能力値の高い黒猫は『使い魔の不文律』を破ることが出来る可能性を述べており、極度の苦痛を強いられた使い魔が防御反応として主人に強い攻撃性を示すことから、黒猫の事件の背景には魔法使いからの虐待などの背景が存在していたのではと考察しているが、被害を受けた魔法使いらは既に即死もしくは発語能力は失われており、唯一の証言者であるジョンソン・グレイブスも『私と私の使い魔は非常に友好な関係を築いていた』と証言している。
マルは詰めていた息をそっと吐き出した。そして、黒猫に関しての問題はとても根深いことを知った。それにマルにとって黒猫が『裏切りの象徴』だなんて聞いたことがなかった。祖母や祖父から何度も繰り返されていたのは『縁起が悪い』や『血統が劣っている』という今考えると根拠の無い言い伝えであったからだ。
ただ、思い出してみると、黒猫を悪者扱いしている絵本は思い返せば沢山読んで聞かされていた。
ぼんやりと黒猫は縁起が悪くて悪い奴で、自分よりも劣っているという意識が刻まれていたのは、昔からの絵本の影響もあったかもしれない。しかし、どうして黒猫なんだろうか。
もしかすると黒猫を悪者にすることで何者かが得をすることがあったから…?
マルが窓の外をぼんやりと眺めると、月が赤くなっていた。月食が始まったのだ。今までは良くない光だと言われてきたから部屋から出なかったが、マルは少しだけ外に出てみようかと思った。
ロキが外でお祝いをしていた言っていたのだ。きっと良くない光というのも、黒猫を悪者にしていた絵本なんかと同じで、根も葉もない勝手な考えに違いない。
マルはしなやかに窓枠に飛び乗ると、本を読んで凝り固まった身体をグンと伸ばしてから、魔法で窓を開けて夜の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「あら…?」
まず感じたのは、心地の良い酩酊感である。夜の空気中に濃密な魔力の気配が満ちている。マルはなんだか楽しい気分になってきた。今ならド派手な大魔法だってマルひとりで出してしまえそうな気さえした。
「月が、ロキさんの目の色と一緒だわ」
マルは鼻腔を擽る甘い匂いに引き寄せられるように、ふわふわとした足取りで本部からどんどん離れて行き、やがて気付けば森の中を歩いていた。景色の全てが赤く染まっていて、見覚えのある散歩道でも一変して新鮮に見える。マルは楽しい気持ちのまま、鼻歌混じりに小さな魔法の光をいくつも飛ばして遊びながら歩き続けた。
だって、無尽蔵に魔力が湧いてくるのだ。
「あら! こんばんは! あなたもお散歩しているの?」
マルは前方の草むらから飛び出した三角形の耳を見つけると、人懐っこく話し掛けた。ピクッと耳が動いて、草むらを掻き分けるように1匹の猫が姿を現した。ここら辺では見たことも無い猫だったが、マルは「あっ」と声を上げた。
「あなた、黒猫ね! やっぱり、黒猫はみんなこの日は外に出ているのね。私、こんなに楽しいならもっと早く出ておくんだった。あなた、お名前は? 挨拶をしましょう!」
黒猫をじっとマルを見つめてから、「お嬢さん、知らねぇの?」と嘲笑うような声を出した。マルは馬鹿にされていることは何となく分かって、僅かに楽しさが減ってしまった気がした。
「何が知らないの? もしかして黒猫のこと? それなら私、ついさっきまで色んな本を読んでいたの。でも結局よく分からないわ。よかったらあなたが教えてくれない? 私、お友達の黒猫に酷いことを言って傷付けてしまったの」
「ふぅん、いいよ。教えてやるよ。じゃあ、あっちの湖で話そうか。俺なんかで良ければたっぷりと、いくらでも教えてやるよお嬢さん」
「本当に? ありがとう! でも、私、もしかしたらあなたに対して失礼なことを言ってしまうかも…」
「構わんさ。黒猫なんてのは昔からそんなもんだ。ところで、お嬢さんのお名前は?」
マルは自分よりもいくらか大きくて、そして泥だらけの黒猫の背中を追いかけながら、元気いっぱいに自己紹介をした。黒猫は何が面白いのかニヤニヤと笑うと、どんどん森の奥深くに入っていった。
開けた先の湖の畔で、黒猫はマルに話を促した。お行儀よく隣に座ったマルは、よく考えないまま、「どうして黒猫は他の猫から嫌われているの?」と明け透けに尋ねてしまい、サッと身体を小さくさせた。
「あ、ごめんなさい、私ったらまた…本当にごめんなさい…」
黒猫はケラケラと笑って、「正直なお嬢さんだ」と上機嫌にボサボサの尻尾を揺らした。
「奴らは、俺らの力が強いのが羨ましいのさ。魔力も高いし魔法だって魔法使いに負けないくらい沢山覚えられる。黒猫は一番強いから一番妬まれて虐げられているのさ」
「確かに、本でも黒猫の素晴らしさは読んだわ。でも、黒猫を…虐げたって、何も…」
「そう思うか? 名のある魔法使いの使い魔はこぞって白猫じゃないか。黒猫は悪いイメージばっかりついちまったから、主人もつかない、飯もろくにありつけない」
黒猫は静かに「もしも黒猫がピラミッドの頂点に立ってしまえば、今の階級は完全に崩れるだろうな。見掛け倒しの白猫なんかはお先真っ暗だ」と付け加えた。マルは、ふたりの美しい姉たちを思い浮かべた。美しくて、聡明で、綺麗な魔法が得意な白猫たち。
マルはそっと、「白猫が嫌いなの?」と囁いた。
黒猫は「いーや、上流階級の猫共は全員大嫌いだね」と吐き捨てる。マルは、途端に自分のことを言われているように感じて両耳をへにゃりと下げた。
「あの、本当に、気を悪くしないで欲しいのだけど……黒猫は、ある日突然凶暴化したり…とか、するの? あの、さっき、本に載ってたの。魔法使いが使い魔の黒猫に襲われることが多いって…」
黒猫はマルを横目で見つめて、「俺はよく知らねぇけど、その魔法使いが弱くて、その猫が短気だっただけじゃねぇの」と耳の裏を後脚で掻いた。
マルはそうか、と納得をした。種族だからこう、では無いのだ。どの種族にも色んな性格の子がいて…でも、それならどうして統計であんな結果が出ているんだろうか。マルはもう少し尋ねるべきか、それともそろそろ引き下がるべきかを迷っていた。
黒猫はじっとマルを見つめてから、「もう他に聞くことは?」と聞いてきた。マルは少し楽しい話題を振ってみることにした。
「ところで、どうして黒猫は赤い月の日にお祝いをするの? そういう伝統でもあるのかしら?」
黒猫の瞳が、待ってましたとばかりに細まった。赤い瞳はマルの良く知る黒猫と同じものの筈なのに、なぜだかやけにギラついている。
マルは僅かに身を仰け反らせた。
「お前らにもあるだろう? 『そういう時期』って。黒猫はたまたま月食が『そういう時期』なのさ。なのに他の猫共は全員閉じこもって出てきやしない。全く失礼な話だぜ。俺らを獣扱いだ」
「『そういう時期』? お祝いをする時期ってこと?」
「もしかして、お嬢さんってその事を『お祝い』って呼んでんの? こいつは傑作だ! お上品だねェ、可愛らしくて笑っちまいそうだ! お祝い、お祝い!」
腹をかかえて笑い転げる黒猫に、マルはますます分からなくなってしまった。ロキにそう言われたから、そのまま伝えただけなのに、何がそんなに面白いのか。マルは黒猫の笑いが収まるまで辛抱強く待っていた。
「はぁ、笑った。お嬢さんは今まで『お祝い』したことあるの? こんな時期にのこのこ出てくる時点で相当イカれてるとは思うけど、それにしてはさっきから全然反応ねぇよなぁ」
「ごめんなさい、私、『お祝い』の意味を勘違いしてしまっているかもしれないわ。あなたの言う『そういう時期』って、どういう時期なの? 何に反応するの?」
黒猫はきょとんと目を真ん丸にした。
「発情期以外の何があるんだよ」
マルは絶句した。発情期? 家にいた頃に家庭教師に知識として授けられてはいたが、それは口に出してはいけない恥ずかしい言葉では無いのか。硬直するマルに、黒猫はまた腹をかかえて笑い転げた。
「え、は…。じゃあ、あなたは…?」
「本当に全く気付いてねぇの? お嬢さん箱入り過ぎないか? それとも俺も鈍ったかな。昔はすぐにガクガクにしてやれたのに」
「わ、私、用事を思い出したわ。ごめんなさい、色々とお話が出来て楽しかったわ。えっと、失礼させて頂くわ…」
マルは周囲が濃厚な甘い匂いに満ちていることに気付いた。気付いてしまえばまたあの酩酊感が訪れてくる。何だか途端に気分が悪くなり、すぐにレオに撫でてもらいたくなった。
「いやいや、ここまで親切にしてもらってそれは無いだろ。お礼の一つや二つ貰わねぇと」
「ち、近づかないで…私、あなたと、そういうことになるつもりは無いわ。勘違いさせてしまったのならごめんなさい。知らなかったの」
「はぁ? 今更そりゃねぇだろ。おい待てよ」
瞳をギラつかせながら近寄ってくる黒猫が恐ろしくて、マルは咄嗟に魔法を放ってしまった。
微弱な電撃を浴びせて怯ませてしまおう。そんなマルは思いの外強い酩酊感と、気が動転した弊害で魔法の調節を誤ってしまったことに気付く。
バチバチッと音を立てながら強い電流が黒猫に襲い掛かる。ギャッと悲鳴を上げた黒猫が鋭くマルを睨み付けた。
「っの、糞ガキがァ!! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
黒猫の魔力が膨れ上がり、木々が来た道を覆い隠していく。逃げ出そうとしたマルはたたらを踏んで、迂回路を見つけようと走り出す。バチッと地面から貫くように電撃が浴びせられ、マルはその場に倒れ込んだ。動転して防護壁の一つも張っていなかったのだ。
覆い被さるように上に乗っかった黒猫が、マルの項の辺りに噛み付いてきた。マルは痛みに悲鳴を上げるがちっとも加減はしてくれそうにない。
「いたい! ちょっと! 離してよ!」
「…おいおい、まだ成熟してねぇの? どうすりゃいいんだよ。お前もっと頑張れよ」
「やだぁ! レオ! ロキさん助けて!」
「いやでもなぁ、せっかく手に入れたしなぁ。もうちょい腰上げられねぇの?」
「離してったら!! 変態ッ!!」
マルはブチブチと首元の毛が抜けるのも厭わずに、身を翻して黒猫の鼻先に勢いよく齧り付いた。悲鳴と共にパッと自由になった身体に、最後のチャンスだと地面を蹴る。
痛みで酩酊感はすっかりクリアになっていた。ペッと口腔内の血液を吐き出して、閉ざされた木々の間に氷の槍を突き刺した。絶対零度の槍は木々を脆くした。体当たりをして壁を破り、無理やり打開した細い道を一目散に駆け抜けるマルに、黒猫はとうとう追い掛けるのを諦めた。
※※※
マルは本部に弾丸のように飛び込むと、その勢いのままレオの自室に滑り込んだ。しかし、誰も書斎には座っていないし、あの低くて優しい声で「どうした」と尋ねてくれることは無い。
きっと、またお仕事でどこかに行ってしまったんだわ…。
マルは今度こそ大号泣した。色々悩んでいたことが吹っ飛ぶくらいの衝撃的な体験をしたのに、誰も慰めてくれない。すっかり気分は仔猫の頃に戻ってしまった。マルはどうしても我慢し切れず、そのままロキの部屋の前まで歩いてきてしまった。
「あ、開けてよぉ…私、私があなたを傷付けてしまったのは本当に反省しているし、反省したから、い、色々調べたりお話を聞いたりしてみたの…でも、もう私わかんなくなっちゃったわ…」
カリカリと扉を引っ掻きながら話し掛けても、ちっとも返事が返ってこない。マルはかつて無いほどの孤独感に打ちひしがれた。
「わ、私が、黒猫を差別してしまったから、ば、バチが当たったのね…? あ、あんな、あんな怖いこと他に無いもの…ねぇ、ねぇったら…」
「また泣いてるの? 君って泣くの好きっすねぇ。ありゃ、首の後ろどうしたの」
天柱に吊り下がるように潜んでいた蝙蝠がバサバサと翼をはためかせてマルの傍に降りてきた。マルは小さな黒塊を見るなり「ジェイクさん」としゃくり上げた。
「か、か、噛まれたの…」
「えっ、噛まれたの? それは無事なの? 色々と…」
「無事なわけ無いでしょ!? 知らない! 猫に! 噛まれたのよ!? ど、ど、どこが無事…ッ!」
「あ、肝心な所は守れたんすね。良かったね。そこで本題なんだけど、ロキはレオさんとアルハバさんの所に行ってるから、そこには居ないっすよ」
マルはすん、と鼻を啜って「だぁれ?」と首を傾げた。ジェイクは「お医者さん」と手短に答える。青ざめたマルに、すかさず「別にどこも怪我とかはしてないっすけど、注射して貰いに行くんだって。時期が時期でしょ?」と付け加えた。
マルは『時期』のキーワードに目敏く反応して、また喚き散らしたくなった。
「もう! 『時期』はうんざり! そんなものがあるからあの猫だっておかしくなっちゃったのよ! 悪い人じゃなさそうだったし、きっと、今日出会わなければ…お友達になれたわ…」
ジェイクがよく分からないまま適当に相槌を打つ傍らで、ひょっこりと現れた三毛猫のルークが階段の手すりからジェイクを呼んだ。
「ジェイクさん…赤髪先輩が呼んでますよ。なんか…明日の任務について確認したいらしいです…」
任務にも慣れ、サポートも攻撃もバランス良く役割をこなせるようになったルークは、合えばそれなりに挨拶をし合う程度の仲にはなっていた。目を真っ赤に充血させた項垂れたマルを見たルークは前足で鼻をもぐような仕草をした。
「……毛玉先輩…すごい匂いですよ…。何があったのかは面倒なんで聞きたくないですけど…とりあえず一旦シャワー浴びて来たらどうですかね…」
「え、え、どうして? たしかに私、さっき森に居たけど…」
「森とかいう次元じゃ無いですね…。ロキさんが四肢爆散する系統の…やばい匂いしてます」
「あっ! そうなの、そのロキさんの件でね、よかったら三毛猫のあなたにも色々お話を聞けたらなって思ってて…」
マルが言い終える前に、ジェイクがさっとルークに耳打ちをした。
頷いたルークはすぐに身を翻して「忠告は…ちゃんとしましたからね…」と蝙蝠を背に乗せて軽やかに階段を降りていってしまう。
マルはその反応にもなんだか悲しくなって、その場で座り込んだ。
そんなに私、くさいかしら。
フンフンと鼻を毛皮に寄せると、たしかに土と森の匂いはするものの、ルークが言うほどの物凄い匂いだとは思わなかった。マルはピクッと耳を動かした。大広間から足音がする。マルはそれまでの寂しさをぶつけるように、一目散に迎えに行った。
「おかえりなさい、レオ! ねぇ、聞いて! 私、とっても怖い目にあったのよ! 私、『期間』のことを知らなくてね、」
「おう、ただいま。すまなかったな、ロキの注射を…お前首の後ろどうしたんだ。あ、おい待て待てロキ、お前は暫く安静に…」
腕の中に飛び込んできた白茶色の猫を撫でながら、レオは籠から飛び出してきた黒猫に注意をする。
何やらとてつもなく嫌な予感がした。
レオはマルの首に残る赤い歯型を指でなぞり、これはまさかと息を呑む。先程までは注射が効いてぐったりとしていた黒猫が、今や全身の毛を逆立てて白茶色の猫を呆然と見上げていた。
「私、謝らなきゃって思ったから、色々調べ物をしていて、そしたら月が赤くて綺麗だったから外にお散歩をしに行ってね?」
「待て、わかった。とにかく落ち着け。ロキ、お前も動くな。わかったな? 混乱してるのは全員同じだ。マル、お前は今から俺とシャワーを浴びに行こう」
「ねぇ、そんなに私って臭うかしら…? いやだわ、あなたの洋服についちゃうかもしれないじゃない。おろして」
「駄目だ。シャワーを浴びるまで待ってろ。ロキ、命令だぞ。俺の部屋で待機だ。今暴れたらお前絶対に後悔するだろうから、戻るまでに死ぬ気で頭を冷やしておけよ」
レオはまるで上官のようにてきぱきと指示を出し、すぐにマルをシャワールームに放り込んだ。魔法をふんだんに駆使してシャワーヘッドや櫛を指先ひとつで動かしてみせる。
マルはレオとロキの尋常ではない様子に、私だって尋常ではないのに、と拗ねたように鼻を啜った。わしわしと指先で毛並みをかき混ぜられると、マルは何だか泣いてしまいたくなった。
「私、とっても怖かったのよ…」
「そうだな。助けに行ってやれなくてすまなかった。他に嫌なことはされなかったか」
「ううん、噛まれただけ…。でも、私自分で逃げられたわ。ねぇ、ずっと気になっていたのだけど、黒猫は本当に主人に牙を剥く子が多いの…?」
レオはマルを泡立てながら、ふむ、と何かを考えるように一呼吸置いた。そして、泡を洗い流しながら静かに口を開く。
「どの使い魔にしても、自分よりも弱い主人には逆らいたくもなるだろう。黒猫は種として力が強い奴が多いから、余計にそう思うのかもしれないな」
「そういうものなの? レオはそれでいいの?」
「俺か? そういうのは大歓迎だな。ただし、歯向かうのならば相応の覚悟で迎え撃とう。俺は加減なんかしてやらんからな。お前もいつでも来ると良い」
「わ、私は遠慮するわ! 歯向かうよりも、こうやって構ってもらった方が嬉しいもの」
レオは小さく笑った。マルはその穏やかな瞳をじっと見上げてから、ボソボソともう一つの疑問を問いかけた。
「…赤い月の日が…黒猫の…は、発情期だって聞いたわ。その日に、他の猫たちが外に出ないようにしていたのは…どうしてだと思う…?」
「…お前は、なぜだと思うんだ?」
質問を返されて、マルは黙り込んでしまう。考えてはいたが、結局よく分からなかった。マルの耳がペタンと垂れた。
「…昔は、黒猫はそう珍しいものでは無かったらしい。今じゃ希少種扱いだがな。どんな生き物も子孫繁栄していかなければ、やがては絶滅する」
「じゃあ、絶滅させようとしたの? ええと、その…私のお家みたいな…階級が上だと…思い込んでいる猫が…」
「どうだろうな。猫同士のそこまで詳しい事情は俺もよく分からん」
「とっても強くて優しいのに、どうしてそこまで黒猫を目の敵にしているのかしら。…私が言えることじゃないだろうけど…」
レオはお湯に濡れてすっかり小さくなったマルを持ち上げて、かつての仔猫を思い出した。そっとタオルで包み込むと、そのまま両手で水滴を拭き取ってやる。マルは小さくゴロゴロと喉を鳴らした。
「気になるなら、ロキとよく話し合ってみると良い。まぁ種族だと何だのと面倒なことは考えずに、今まで通りざっくりと関わってみるのも手じゃないか」
「…レオは、どうしてロキさんを使い魔にしたの?」
マルの問いかけに、レオはニヤリと笑った。そしてどこか誇らしげに言う。
「あいつがその場にいた猫の中でずば抜けて強く賢く、おまけにパートナーとして優秀な奴だったからな」
※※※
マルは丁寧に毛並みを整えて、首の後ろの少し禿げてしまった部分を出来るだけ目立たないように隠した。レオはそっとマルを抱えあげると、自室の扉を叩き「入るぞ」と声をかける。それに対する返答は無かった。
「…落ち着いたか?」
「ああ、お陰様でな」
ボサボサの黒髪と黒いマフラー、裾の長い制服に身を包んだ男がソファーに腰掛けていた。緩やかに下ろされた長い脚と、前方で組んだ指先は動転した気持ちを落ち着かせようと未だに忙しなく動いていた。
レオは敢えて人型をとることで雄猫としての衝動を落ち着かせようと奮闘する使い魔の姿を見て、大丈夫そうだと薄く微笑んだ。
しかし、念の為にマルは抱えたままにしておく。
「何か飲むか」
「…レオ」
「安心しろ、未遂だ。途中で逃げてきたらしい」
「…そうか」
マルには、ロキがまるで泣いているように見えた。ロキの目の下に薄らとできた隈は、人型になることで分かる目に見えた不調の兆候であった。レオは向かいのソファーに腰掛け、魔法でロキに珈琲をいれてやる。
「飲むか?」とマルも聞かれたので、「ミルクがいいわ」と答えた。レオは了承して、ホットミルクに一つだけ角砂糖を溶かしてやった。
「浮かせとくから、そのまま飲め」
「お膝の上で? だらしないわ」
「たまにはいいだろう」
マルはぴちゃぴちゃと小さな舌を浅い皿に突っ込んで甘いミルクを堪能した。そうすると、マルは無意識にとてつもなく緊張していたことに気付く。レオはマルの緊張を解すように小さな背中を数回撫でた。
「で、ロキよ。お前はどうしたい? お前も散々悩んでもう疲れただろう。それ以上自分を追い詰めるのは止めろ。俺が辛くなる」
「…でも、レオ…俺は…そんな立派な身分じゃ…」
「卑屈になるな。お前は確かに黒猫だが、それが何だっていうんだ。このレオ・ラインハルトの使い魔だぞ? それだけじゃ不満か?」
ロキはレオをぼんやりと見つめた。それから、その膝の上に乗った白茶色の猫に視線を移す。マルは迷ったような赤い瞳を見つめ返して、軽やかにレオの膝からロキの膝の上に跳び移った。
ロキが「うわっ」と驚いたような声を上げる。
「私、あなたをそこまで傷付けてしまったのね…? 本当にごめんなさい。でもね、実は色々調べてみたり、色んなお話を聞いてみて考えたのよ。私、確かにあなた達黒猫をよく知らないまま勝手なイメージだけで差別していたわ」
マルは男の灼眼しっかりと見上げた。先程森で出会った黒猫とは違う、理性的で優しい瞳がじっとマルを見つめ返してくる。そのことがどうしようもなく安堵して、マルはそのまま頭をロキの胸元に擦り寄せた。
「結局、みんな同じ猫なのよね。種族じゃなくて性格なんだわ。私、色々と考えたけどやっぱり難しくて分からなかった。でも、私はあなたが優しくてとっても物知りで、すごく強いことを知っているから、やっぱり私はあなたと仲良くしたいの」
ロキはソファーの上に力無く下ろしていた両腕をピクリと動かした。ゆらゆらと赤い瞳が揺れて1匹の猫を映す。
「傷付けてしまってごめんなさい。それに、これからも酷いことを言ってしまうかも。そしたら、その都度教えてくれないかしら。私、ちゃんと考えて自分の内面と向き合うわ。だから、仲直りしてくれる…?」
「…仲直り?」
「ええ、仲直り! 私、あなたに嫌われたままじゃ悲しいわ。だって好きだもの、あなたのこと」
ロキは頬を僅かに紅潮させた。まっすぐに見上げてくる柔らかい色をした双眼が眩しくて、思わず挙動不審に目を逸らせる。
「…い、いいぜ。仲直りしよう。俺も冷たい態度とって悪かった。…それに、俺のために色々調べたり悩んでくれて嬉しかった」
ロキはごくりと生唾を飲み込んだ。
「その、お、俺も…お前のことが好きだから…えっと…」
素直じゃないロキの一世一代の告白に、マルは目をキラキラと輝かせた。そして、瞳をふにゃりと蕩けさせる。
「まぁ! そうなの!? とっても嬉しい…! じゃあ私たち、とってもとっても素敵なお友達になれるわ! いいえ、もしかすると、親友にだってなれるかもしれないわ!」
「……へ?」
飛び跳ねる勢いで喜びを全身で表現するマルに、ロキは呆然とした声を出した。
すてきな、おともだち。
レオは石像のようになってしまった己の使い魔が哀れでならず、思わず天を仰いでしまった。まさか、異性として微塵も意識をされていないとは。もしかして俺の育て方がいけなかったのか。レオは主人として切ない気持ちになる。
体格が良くて魔法の才能もある、口は悪いが真面目で勤勉、責任感もあるし、人型になった時の見てくれも悪くない。年齢だって丁度良い位だし、雄猫としてはかなりの優良物件ではないだろうか。
レオは首を捻る。
マルだってそろそろ色恋にうつつを抜かす時期に突入していてもおかしくない…どころか、同い歳の雌猫はとっくに事を済ませているものが大半だというのに。いや、今回の件だけで言えばそうでなかったことに安堵をする他無いのだが…。
「…レ、レオ…」
「あー、俺も後で色々…いや、さすがにそこは、俺が介入するのもどうかと思うんだがな…使い魔同士で何とかならないのか?」
「もう俺嫌だ…このまま心労で死ぬ…」
雄猫としての矜恃をボッコボコにされたロキが、ぐったりと脱力してソファーの背にもたれ掛かった。マルが興味深そうにロキの制服のポケットに顔を突っ込み匂いを嗅いでいる。
レオはパチンと両手を叩いた。
「いっそ、部屋一緒にするか! マル、お前今日からロキと一緒の部屋で生活しろ。そしたらちょっとは意識するだろう」
「えっ! 嫌よ! 私、フリフリでふわふわの今のお部屋が気に入ってるもの。アロマだって新調したのよ? それに、何を意識しろっていうの? またあなた達ふたりにしかわからない内緒のお話?」
「ううむ、ならばロキがお前の部屋に住むのはどうだ?」
マルはまた即座に嫌!と叫んだ。
ロキはすっかり黒猫の姿に戻ってしまい、だらりと脱力したままピクリとも動かない。ロキがここまでダメージを受け、極微かな音で鼻をピスピスと切なく鳴らしている姿を見るのは、付き合いの長いレオでも久々であった。
「いくら仲の良いお友達でも、ずっと一緒に生活するのは大変だわ! お互いの嫌なところが見えてきてしまうって、お母様が言ってたもの。私、ほどほどの距離感を保つのは大切だと思うわ」
「ふむ、真理だな。魔法使い同士にも当てはまる」
「レオも納得すんなよ…もう俺はいいんだ。俺はお前に一生を捧げるんだ…」
レオは、そう言えばとコートのポケットに入れっぱなしであった封筒を取り出した。先日貰ってから、すっかり忘れて放置していたのだ。
そしてそれを見るなり、もしや早速使えるかもしれないなとニヤリと口角を上げた。
「ロキ、たった今思い出した。朗報だぞ。以前、西の国の貴族を護衛しただろう。そちらのご令嬢から食事の誘いが届いてる」
「あぁ、そう。なら留守は任せろよな」
「違うぞ。お前宛にだ」
「……俺に?」
ロキは興味を惹かれたようにレオの肩の上に跳び乗った。レオが開いた封筒からは、淡い花のような香りがする。金糸が編み込まれた白い封筒には、確かにロキの名前が刻まれていた。マルもなぜだか無償に気になり、レオの脚をよじ登る。
黒猫の瞳が、ちらりとマルを一瞥した。
「…相手は? どんなお嬢さんなんだ? 西の国の貴族って、まさかあのド派手な?」
「おう。流石は地主だ、真っ白な孔雀を使い魔にするなんて前代未聞だ。ところで孔雀の使い魔って魔力すごそうだよな」
「ちょっと待てよ。白孔雀のお嬢さんなんて、俺じゃ釣り合いがとれないだろ」
ロキは、かつての護衛中にちらりと籠から見えた白い見事なまでの羽をはっきりと思い出した。ろくに会話もしていないどころか、殆どの対応はレオに任せていたから、ロキは向かってくる山賊達を魔法と剣で叩き潰した記憶しか無い。
レオは慌てるロキの喉元を指先で撫でてやり、「まぁ食事くらい気負わずに行けば良い」と背中を押してやる。ロキは暫く逡巡したが、まぁ食事だしな、と了承した。
マルは慌てて声を上げる。
「えっ! 行くの? 本当に…?」
自分でもよく分からないが、なぜかマルはショックを受けていた。レオはそんな猫の様子におや、と片眉を上げる。これは、もしかするかもしれない、と。
※※※
マルは自室で、こっそりとマシューから借りた本を開いた。ペラペラと捲りつづけ、目当ての項目を見つけると食い入るように読み込んだ。
──『孔雀』雄はかなり攻撃的で気性が激しいが、見事な羽根の一本一本には魔力が蓄えられている。使い魔としては扱いが難しく、プライドも高い。反して、雌は穏やかで慎ましく、回復魔法と相性が良い。非常に希少だが使い魔としての適正は高い。
「…白いのは居ないのかしら…」
マルは目を皿のようにして文字列を追いながら、なぜこうも必死になっているんだろうと自分を振り返る。やがて、なんだか馬鹿らしくなって本を閉じた。
食事くらい、マルだって数え切れぬほど行ったことがある。しかしそれは家族であったり、マルを使い魔にしたがる魔法使いとであったり様々であった。だから、マルは家族以外の同じ使い魔と食事に行ったことは1度もない。だから、ロキを羨ましく思っているんだろうか。
※※※
ついにロキの食事の日が来てしまった。マルはウロウロと大広間を落ち着きなく歩き回り、ソファーで寝こけるルークの上に間違えて飛び降りてしまったりした。迷惑そうなルークに謝罪をして、マルはそっと傍に座った。
足音と笑い声がが聞こえてくる。
「ロキ、非常に似合うぞ! 様になっている! この俺が保証しよう! なぁジェイクよ!」
「うるせぇな! あんま触んな! せっかくレオが色々してくれたのに崩れるだろ!」
「ロキどうするんすか? 今日お前は伝説を作り上げちゃうの? ついに童貞脱出っすか?」
ちらりとソファーの背もたれから顔を覗かせたマルが見たのは、ヒューゴやジェイクに揶揄われながらも照れくさそうにしている人型になったロキだった。
いつもの黒いマフラーも制服も着ておらず、仕立ての良い礼装に身を包んでいる。そして、無造作に散っていたロキの前髪は後ろに流され、形の良い額や高い鼻がよく見えた。マルはどぎまぎと背もたれの影に顔を引っ込める。まるで別人みたいだ。
「そんなに気になるんなら…止めれば良かったじゃないですか…」
寝こけていたはずの三毛猫がチクリとマルを刺した。ブワッとマルの自慢の毛並を誇る尻尾が数倍に膨れ上がる。ルークは興味なさげにのんびりと欠伸をしていた。
「……別に、これっぽっちも気にならないわ」
「白孔雀の…お嬢さんでしたっけ? どんな絶世の美女なんでしょうね…」
「何が言いたいのよ」
「いやぁ…別に…イテッ!」
マルは三毛猫のしなやかな尻尾に噛み付いてやった。ルークが信じられないとばかりに目を剥き、すぐさま後脚でマルの顔をゲシゲシと蹴りつけた。
「このっ…毛玉先輩大人気ないですよ…! 子どもじゃないんだから…!」
「後輩のくせに生意気なのよ! 私はね、あなたのそういうスカしたところをね、ちょっとこうしてやりたいと思ってたのよ…!」
「なんか…昔より図々しくなりましたねあんた…可愛げの欠片も無い…」
「レディの顔面を蹴る奴に可愛げなんか見せてあげないわ!」
ルークは心底面倒くさいとため息をつき、サッと姿を人に変えた。茶髪にブラウンのカーディガンを羽織った歳若い青年が、ジーンズを履いた臀部に齧り付いている猫を剥がしてソファーに転がした。
マルは「ずるいわ! 卑怯者!」とソファーの上から抗議をする。
「なら…毛玉先輩も人になれば良くないですか…? あぁ…ごめんなさい、余計届かないですよね…」
「レオ! この猫とっても馬鹿にしてくるわ! ヒューゴさんに躾するように伝えてくれないかしら!」
ソファーから乗り出して喚くマルに、レオは苦笑いをして「すまん、俺は今からロキを送ってくるから。また後でな」と大広間から出ていってしまった。
続くロキはマルをちらりとも見ようとしない。取り残されたマルは、急激に寂しい気持ちでいっぱいになった。
「…そうなの。いってらっしゃい…」
白茶色の三角形の耳が、力無くへにゃりと垂れ下がってしまった。
※※※
程なくして帰ってきたレオにまとわり付きながら、マルは主人の書類整理を手伝っていた。やっていることはいつも通りなのに、やけに時間が過ぎるのが遅い。マルは何度目かの視線を壁掛けの時計に向けた。レオはふ、と小さく笑う。
「…時計を見すぎだ。休憩するか?」
「えっ! そんなに見ていたかしら…休憩は結構よ。まだ書類がこんなにもあるもの。珈琲入れ直してくるわね」
「待て待て、ついさっきも入れ直したばっかりじゃないか。一日で豆を使い切るつもりか?」
「そ、そうだったかしら…」
※※※
「あのひと、遅くないかしら? お食事なのに、どうしてこんな時間まで帰ってこないの?」
「食後の娯楽にでも興じているんだろう。先方に気に入ってもらえたようで何よりだな」
※※※
「ねぇ、もしかして晩御飯までご馳走になるつもりかしら? さすがにそれは失礼だと思うのだけど…」
「晩御飯って、まだ夕方だろう。あ、待て待て、その書類は…」
「えっ、あっ! やだ! 私ったら! ご、ごめんなさい…」
「いや、気にするな。俺が後で手直ししておくから」
「……ごめんなさい…」
※※※
マルはすっかり意気消沈して、自室のベッドで丸まっていた。今日はずっとなぜかそわそわと落ち着きがなくて、マルは使い魔としての仕事が上手くいかなかった。あの失敗の後にも、マルは2回書類を駄目にしてしまったから、さすがのレオも苦笑いをして「もう部屋で休んでろ」とお役御免を言い渡されてしまったのだ。
どうして今日に限って上手くいかないの。マルは久しぶりにピスピスと鼻を鳴らして沈みに沈んだ。
そんなマルが再びロキを目にしたのは夕食の時である。すっかりいつもの黒猫の姿に戻ったロキは、本部の使い魔たちに囲まれて質問攻めにあっている。マルは聞きたくもないのに勝手に猫の優秀な耳が言葉を拾ってしまうから、仕方なく情報収集に努めることにした。
──まぁ、普通に楽しかったぜ。なにって、なんか綺麗な魚の料理とか出されて…あぁ、お嬢さんは食事しないんだとよ。日光浴びて、花の蜜吸ったら腹いっぱいになるんだって。そんな使い魔も居るんだな。おう、白くて細くて、なんか良い香いがしたぜ。あ? 部屋くらい行くだろ。案内されたんだから。なにした? そりゃもうチェスめっちゃした。硝子で出来たキラキラしたやつ。お嬢さん、かなり強かったぜ。俺も割と強い方だと思ってたけど、五分五分だな。勝負は次回に持ち越しだ。はぁ? 次回って、まぁ、そりゃあ、呼ばれたし…。
魚のソテーがまるで味のない紙を食べているようだと、マルは心底思った。
花の蜜と日光? なによそれ、妖精じゃあるまいし! 白くて細くて良い香り? 私だってツヤツヤのふわふわで良い香りじゃない! 硝子で出来たチェス? そんなの、私のお家にだってあったもの!やったことはないけれど! でも、私だって練習すればチェスくらい…。
マルは頭を抱えた。自分はどうしてしまったのか。何だか無性にイライラして、ソテーは半分以上残してしまった。マルは、使い魔たちに囲まれて自慢げに武勇伝を語るロキをこれ以上見ていたくなかった。
※※※
マルはその晩、さっそく借りていた本をマシューに返却すると、代わりにチェスの入門書を借りた。マシューは不思議そうな顔をしたが、マルは皆まで言わせず借りて、すかさずギデオンへの口止めをした。マシューからギデオンに情報が行けば、それはやがてロキにも伝わってしまうだろうから。マルは、チェスの本を借りたことをロキに知られたくないと、どうしてこんなにも頑なになっているのかは自分自身でもよく分からなかった。
「…待って。肝心のチェスの駒と盤が無いわ」
マルは趣味でチェスをやっていそうで、そしてそれを快く貸してくれそうな…おまけに簡単に口を滑らせることのない相手を脳裏に思い描いた。ロンメルだ。頭が良くて沢山のコレクションがあり、おまけに優しい。マルは早速ロンメルの部屋を訪れた。
「ようこそ〜♡ 今日はどうしたの?」
「チェスの駒と盤を貸してほしいの!」
壁中を彩る煌びやかなアクセサリーに、等間隔に置かれた何かの骨董品。ガラスケースの中に収められた鉱石や生き物。ロンメルの部屋は光り物に溢れている。マルの突然のお願いにも、ロンメルは「いいわよん」と快く快諾してくれた。
「何種類かあるけど、どれが良いかしら?」
「一番シンプルで、見やすいのがいいわ。私、初心者だから基本から抑えたいの」
「じゃあ、これかしら。魔法もなにもかかっていない、本当に普通のチェスだけど」
「ええ! それが良いわ。ありがとう」
ロンメルは「返すのはいつでもいいわよ」と穏やかにマルを送り出した。マルは人型になってから、布で包まれたチェス盤を両腕で抱え、自室に向かって小走りをする。曲がり角で偶然、同じく人型になって書類を抱えたロキと鉢合わせをしたのは、まさに偶然のことであった。
「あっ」
「わっ」
驚きの声が重なった。マルは自分よりもずっと上にある男の顔を見上げると、ムッと眉を寄せた。夕食ぶりに見たロキの顔はふにゃふにゃと締まりがなく、なぜかとてつもなく上機嫌に見えた。
「…なんだか、とっても楽しそうね…?」
「え、そうか? 全く身に覚え無ぇけど…」
慌てて表情を引き締めようとするロキに、マルは訝しげな視線を向けた。身に覚えが無いですって? 嘘ばっかり。お食事がそんなに楽しかったのね。マルは無性にイライラとした。
ロキは己の胸あたりにある小さな顔が自分をじっとりと観察しているのを感じて、そこから逃れるように視線を反らせる。
「あー、お前は何してたんだ? それ、布?」
「これ? これはチ……、う゛ぅんッ! 別にあなたには関係の無いものよ。あなたこそそんなに大量の書類を持って何をしていたの?」
「ついさっきまでレオの所に居たんだよ。なんか書類に幾つか不備が…あっ、違うからな。今日のとは別件だぜ」
マルは凍りつきそうになった心臓が再び無事に拍動するのを感じた。
あぁ、よかった。今日ミスをしてしまったものかと思った…。
しかし、途端にマルはロキの態度に引っかかりを覚えた。私は何も言っていないのに、どうしてわざわざ今日のとは別だなんて…。
ピン、とマルは思い至ってしまった。
「…き、聞いたのね? レオに、わ、私が今日、沢山ミスをしたって…!」
「え? あぁ、まぁな…。でも別に愚痴みたいなあれじゃねぇからな。 ちょっとした雑談みたいな感じで…」
そう言うロキがなぜか若干嬉しそうにしていることに、マルは腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。
なにそれ。なによそれ。どうして喜んでいるの? 私が上手に仕事をこなせなかったことがそんなに嬉しいの? あなたが書類仕事の補佐をしている時には1つもミスは出さないのに、私は主人の仕事量を増やしてしまったから?もしかして、それに優越感を覚えているの?
自分の方が使い魔として優秀だから、私のことを嘲笑って…。
マルはそこまで考えてから、はた、と顔を上げた。自分はどうしてこんなことを。ロキがマルをそんな風に思う猫だとは到底思えないのに。自分を気遣うように見つめてくるロキの穏やかな灼眼に、マルは堪らない気持ちになった。お友達が素敵な食事会に参加するのに嫉妬をして、自分よりも仕事が出来ることに羨んで。
私はどこまでも醜い猫だわ。抱き締めるように握りしめたチェス盤が、布越しにマルに存在を主張してくる。
「わ、私…部屋に帰るわ。…おやすみなさい…」
「え? そうか。ゆっくり休めよ。…ミスのことは、あんまり気にしなくて良いからな」
マルはちらりとロキを振り返ってから、そのまま部屋に向かって駆け出した。
※※※
あれから数日、再びロキは『白孔雀のお嬢さん』に誘われ遠征をすることになった。
どこか浮き足立った様子のロキと引き換えに、マルは最近の寝不足が祟り体調があまり芳しくなかった。半分意地になって毎晩遅くまでチェスの入門書を読み漁り、ルールやら駒の動く矢印やらの基本事項を漸く頭に叩き込んだところである。しかし、マルは再び衝撃を受けることになる。
──今日はチェスじゃなくて、買い物に同行する予定なんだ。まぁ、護衛みたいなもんじゃねぇかな。
買い物ですって!?
マルはソファーに身体を埋めながら、両耳をピコピコと動かした。ルークはマルが上から降ってくる前に、とっくにソファー下にあるクッションに移り惰眠を貪っている。
買い物、買い物? 人がなんの為にチェスを夜なべして覚えたと思っているのよ。買い物くらい、私だって行ったことあるわよ。
マルはやっぱり自分の気持ちがよく分からなかった。こんな風に突然無性にイライラするのは、既にマルにとっては日常化していた。気付くとあんなに騒がしかった声が急に静かになったから、そっとマルがソファーから顔を出す。
すると、こちらを見つめるいくつもの瞳とバッチリ目が合ってしまった。その中には当然、ロキのものもある。マルはぶわりと全身の毛を逆立たせて、慌てて背もたれに隠れるように顔を引っ込めた。途端に密やかな笑いが起こり、それがまるで揶揄われているように感じてとても不快だと、マルは両耳を前足で塞いだ。
何だか私が盗み聞きをしていたみたいじゃない。マルはとっても恥ずかしくなり、じわじわと滲んだ涙を誤魔化すようにもうひとつのクッションに顔を突っ込んだ。
マルは細心の注意を払って、かつて無いほどの集中力でレオの補佐をやりきった。
意識して時計は極力見ないようにしたし、ミスの一つもないように神経をギリギリまで張り詰めさせる。その後の依頼だって、マルは全力で主人を守り抜いた。レオが何度かマルを気にかけてくれたが、マルは頑なに気を抜こうとは思わなかった。絶対に絶対にミスはしたくなかったし、そして何より、それをロキに悟られたくなかった。
そんな風に一日中気を張っていたからだろうか、本部に戻るや否やマルは疲れきってしまい、とうとう自室に戻る前に大広間のソファーですっかり眠り込んでしまった。心地よい倦怠感とは無縁の、ただ泥のように重く、疲労が強くのしかかるような睡眠である。
「おい、寝るなら自分の部屋で寝ろよ。此処は夕方冷えるだろ」
身体を撫でられ、マルは薄らと片目を開けた。
マルを上から覗き込むように身体を曲げたロキは、たった今本部に帰ってきたばかりだと言わんばかりに人型で、おまけに礼装で、何よりほんのりと花のような香りがした。
マルはちっとも休まらない身体を動かす気にはなれず、「放っておいて」と再び顔を布地に押し付けた。ロキが再び身体を揺すってくる。マルは苛立ちをぶつけるように尻尾でロキの手の甲を叩いてやった。
「…どうした? 体調悪いのか?」
手の甲を叩かれたのに、ロキは一転して心配そうな声を出した。マルに嫌がられてしまったから、ロキは猫の背中に触れようとはしなかったが、その場から離れようともしなかった。
マルは暫く無視を貫いたものの、この自分を覗き込む男が余計に心配してしまいそうだったので、出来るだけ何ともないような声を意識して出した。
「本当に、ただ眠いだけなの。ほら、そんなに言うんならちゃんと毛布だって被るわ」
マルは傍にあった毛布を口で引き寄せながら、はて、元々このソファーに毛布なんてあっただろうかと内心で首を捻る。しかし、この手触りの良い小さな毛布は確かにマルを暖かく包み込んでくれた。
ロキは「寝る時はちゃんと部屋に戻れよな」と一言残して、自室に戻っていった。
※※※
マルはふっと意識を浮上させた。辺りは真っ暗で、おまけに驚くほど静かだ。マルは自分がすっかり大広間で眠り込んでしまったことに気付いて、覚醒と同時にショックを受けた。
本当にこんな所で爆睡してしまうなんて! お昼寝くらいならまだしも、夜中にお部屋の外で!
マルは夜目が利いたから、じっと目を凝らして掛時計から自分があの後6時間近くも眠り続けたことを察した。夜ご飯、食べ損なってしまったわ。マルは自分の小さなお腹がクルルと切ない音を出したので、キッチンで何か食べられるものを探すことにした。
立ち上がり、ソファーからカーペットの上に軽やかに降り立つと、自分では無い大きくて柔らかいものを踏んずけた感触がした。マルは「ギャッ」と悲鳴をあげる。のそりと暗闇が動いて、それが黒猫であるとマルは漸く気付いた。黒猫はいっぱいに身体を伸ばして欠伸をした。
「ん、起きたか? ほんとよく寝てたなお前…」
「な、なんで居るの…? あなたのお部屋は此処じゃないでしょ?」
「それを言ったらお前もだろ。腹へったんなら、何か簡単なの作ってやるよ」
「どうして? あなたも夜ご飯食べ損ねてしまったの?」
マルが問い掛けると、ロキはおかしそうにくつくつと笑った。
「俺は食べたけど、お前は食べてないだろ。それに俺ら…あー、友達だろ? 友達なんだから、夜ご飯くらい作ってやるよ」
黒猫がゆらゆらと尻尾を揺らしてキッチンに向かうから、マルもその背中を追い掛けた。キッチンにつくとロキは人の姿になってから、冷蔵庫を開けて魔法でフライパンをコンロの上にセットした。
マルはその場をウロウロと歩いて、「私も何か手伝えることは無い?」とロキの足元で聞いてみた。
ロキは「じゃあ、そこで見てろよ」と柔らかく言うから、マルはやはり落ち着かなくロキの足元をウロウロ徘徊とした。
それから少しして、お行儀良く大広間の椅子の上に座ったマルの前に細長い不思議な食べ物が置かれた。マルは首を傾げ、「どうやって食べるの?」と向かいに座った男に問いかけた。
ロキは「猫のままだと食べにくいかもな」と言うから、男に習ってマルは人型に姿を変えた。
差し出されたのはフォークだけで、マルは「ナイフは?」と聞くが、「それで食べるんだよ」と言われてしまえばそういうものかと頷くしかない。
香りはとっても良いし、マルの好きな鮭が細かくなって入っているのも分かる。しかし、この細長いのは何なのか。ロキは上機嫌に「パスタって言うんだぜ」と笑った。
「ふぅん。たしか、魔法使いが食べていたのを見たことがあるわ。くるくるって、巻き付けるんでしょ?」
「へぇ。お前、物知りだな。そうそう、フォークを器用に使って食うんだってさ」
「そんなの簡単よ」
マルは指先を器用に動かし、長い麺をフォークに巻き付けて見せた。その都度ロキが褒めてくれるので、マルはますます得意げになった。
多少巻きすぎて大きくなった麺を何とか口に入れて、もごもごと咀嚼をすれば、魚の味とクリームの滑らかさが上手く絡んで、素直に美味しいと思った。暫く奮闘してから嚥下して、「悪くないわね」と褒めると、ロキは照れたように笑った。
マルはそこで、この大広間が真っ暗であることに気付く。しかし、夜目が良く利く自分たちには特にこのままでも問題は無いかとマルは何も言わずに食事を続ける。
「それ、お嬢さんにレシピ教えて貰ったんだ。上手くできて良かったぜ」
朗らかに言われた内容に、マルはビシリと石のように固まった。フォークの先でつついていた細長いものがポロリとお皿の中に戻っていく。マルは懸命にいつも通りの声を出して、「ふぅん」と相槌を打つ。
「お魚とか、クリームとか、猫が好きそうな食材ね。きっとあなたのために、沢山工夫をしたのね」
「へ? あぁ、そうか。そうだなぁ…。よく考えればそういうことか。そしたら、悪いことしたな。俺、あんま気の利いたコメントとか出来なかったしな…」
「…お、お買い物は、楽しかった…?」
マルは聞いてから瞬時に後悔した。聞きたくないのに尋ねてしまう。マルは全神経をフォークをくるくると回すことに集中させた。
ロキは途端に破顔して、ふにゃふにゃと蕩けたように笑うから、マルはまるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「ああ、普通に楽しかったな。ほぼ貸切だった」
「えっ、なによ、そんなに…?」
「あ、ソース零してるぜ。ちょっと待ってろ、拭くやつ用意してくる」
そんなに楽しかったの? 具体的に何がそんなに楽しかったの? マルは今すぐロキの肩を掴んで、ぐらぐらと揺すって問いただしたい気分になった。悪くないどころか、とても美味しいと思っていた料理が全く美味しく思えなくなってしまった。
マルはフォークを置いて、お皿を下げてしまおうとした。しかし、折角作ってくれたロキの顔を思い出すと、じくじくと胸が傷んだのでやっぱりもう一度フォークを持って、ひたすらくるくる長いものを巻き付けた。ロキは水で濡らした布を持って戻ってきたが、空になったお皿を見てもう一度ふにゃりと笑った。マルは渡された紙ナプキンで口元を拭うと、「ご馳走様」とお皿を下げた。
魔法を使えばすぐなのに、ロキは手ずからお皿を洗うからマルは1人で先に部屋に戻るのも忍びなくて、歯を磨きながら皿洗いをするロキの横でじっと立っていた。ロキはちらちらとマルを見る度に上機嫌にしているから、マルはそんなにお買い物が楽しかったのかと更にげんなりしてしまう。
おやすみ、と黒猫が鼻先を近付けてきた。マルもそっとくっつけて、それから逃げるように自室に走り去った。




