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黒猫の奮闘記 3

 

 翌日、マルは熱を出して一日中寝込んでしまった。まだ未成熟の身体に掛かった急速な負荷に脳が混乱を起こしてしまい、防御反応としての発熱であった。

 しかし飛龍の件での後処理や死体の分配先─なぜなら飛龍は全身余す所なく金になる─のあれこれのため、どうしてもレオは隣街に行かなければならなかった。そこで、マルの面倒を買って出たのは先輩であるロキで、甲斐甲斐しくホットミルクを与えたりゼリーを与えたり、仔猫が暑いと言えば魔法で冷やし、寒いといえば温めてやっていた。様子を見に来たジェイクが「母親っすか?」とボヤく程には、ロキは豆豆しく世話を焼いた。


「ねぇ…レオは?」


「仕事で隣街に行ってるぜ」


「私が熱を出してるのに…」


「仕方ないだろ。あの人の立場は色々と大変なんだよ」


 ぐずるようにピスピスと鼻を鳴らす仔猫に、ロキはそっと寄り添ってやる。自分がこんなにも甲斐甲斐しく世話をしているのに、どうしてこの仔猫はそのことを当然のように受け入れて、あまつさえ現状に不満ばかり言うのか。

 主人を思ってしきりに寂しがる仔猫に、ロキは微かに拗ねたような気分になる。


 コンコン、とノックの音と共に扉が開かれる。現れたのはマシューとギデオンであった。仕立ての良いワイシャツから滑り降りるように、トカゲの姿をしたギデオンが「生きてるぅ?」とマルの傍に寄ってきた。


「マシューさんが解熱薬調合してくれたから、めっちゃ苦くて死ぬ程不味いけど頑張って飲もうねぇ」


「死ぬ程不味いのなら、いらないわ」


 緑色の瞳がぱちくりと瞬く。

せっかくマシューさんがつくったのに。


その残念そうな声に、マルは仕方なく薬を飲むことを決意した。

 すかさずロキがマシューに「甘くならないのかよ」と問いかけると、マシューは「これでも色々と健闘はしたんです」と苦笑いする。


「じゃあマルさん、口を開けてくださいね」


 マシューがスポイトに乳白色の液体を吸い上げて、そっと仔猫の口元に差し入れた。


「赤ちゃんに戻ったみたい」


 マルはやや気まずそうにごくごくとマシューの手ずから薬を飲んだ。口の周りに溢れた薬をペロペロと舐め上げてから、「とっても苦い」と呻くように言った。その間、ロキは息を殺してその光景を凝視していたが、はたと我に返り今すぐ部屋から飛び出し本部中の柱という柱に爪とぎをしたい気分になった。

 一方、ギデオンはぼんやりと「猫の舌ってめちゃくちゃ短いんだなぁ」と感心していた。

 マシューはといえば、己の使い魔のかつてあった幼少期に思いを馳せて、ほっこりとした気持ちになっていた。ギデオンさんも昔こんな感じでふやかした餌を一生懸命食べてたなぁ。


「マシューさん今何考えてたの?」


「え? いやぁ、ギデオンさんもあんなにちっちゃくて頼りなかったのに、今じゃ立派に育ったなぁって…」


「これだから魔法使いは嫌なんだよねぇ。親気取りやめろよまじで。ほんと寝首かいてやろうかな」


「えぇ、私それ普通に死ぬやつじゃないですか…」


 マシューは言い返しながらもテキパキと魔法で林檎をすりおろしてみせる。小さじで救いあげ、手際よくマルの口元に運んだ。


「はい、よく頑張りました。口直ししましょうね」


「はぁい」


「ふふ、良いお返事ですね。やっぱ女の子って可愛いいなぁ。私も2匹目を迎えるなら、女の子にしようかな…イテッ」


 マシューのふにゃふにゃと蕩けた顔にトカゲの尻尾が叩き付けられる。緑色のトカゲはくるりと一回転すると、さらにもう1発尻尾を主人の鼻先に叩き込んだ。


「マシューさんにはそんな技量無いでしょ。もっと実戦で使える魔法の数を増やしてから言えよ、頭でっかち。前の任務で呪文噛んだのもう忘れたのかなぁガリ勉のくせに」


「ギ、ギデオンさん、何もそこまで言わなくても…」


「そんなんだからマシューさんはマシューさんなんだよぉ」


 ギデオンは低い声色から一転、悪戯っぽく笑うと、そのまま人型に姿を変えてマシューが持っていた小さじを奪い取った。嬉嬉として山盛りのすりおろし林檎を仔猫の口元に押し付ける。


「ほら、いっぱい食べた方が元気が出るでしょ。早く良くなって一緒にジェイクからかいに行こうよ」


「おいギデオン、その量はこいつには多すぎるんじゃねぇの?」


「おー、頑張って詰め込んでるねぇ。えらいね〜猫ちゃん。その調子。グリムもびっくりの頬袋だ」


「なぁそれパワハラじゃねぇか? 可哀想だろ。おい、そんな頑張らないでいいんだぜ。無理してもっと熱上がったらどうすんだ」


 小言を挟みながらギデオンの周りをウロウロと彷徨う黒猫に、マシューはひっそりと笑みを噛み殺した。使い魔の多頭契約はハイリスクハイリターンではあるものの、いつかは真剣に検討してみてもいいかもしれない。

 うちのギデオンと相性の良いトカゲの雌、もしくは仲の良い友人になり得る使い魔を見つけてきてやれば、もしかしたら自由奔放構ってちゃんな所が少しは落ち着くかもしれないし、何かと忙しい時に寂しい思いをさせずに済むかもしれない。

 マシューは自身の魔力量を思い浮かべ、そっと苦笑いをした。当分は無理だろうな。


 ※※※


 翌朝になると、マルはすっかり回復をした。夜通し仔猫の為に温度調節に勤しんだロキは寝不足で何度も欠伸を噛み殺しているが、そんな密かな努力はすっかり寝こけていたマルは全く気付かない。今日も日課のブラッシングを鼻歌交じりに行っている。

以前よりも魔法のコントロールが上達した為、ブラシと毛並みを整えるミストは同時進行である。仔猫の鼻歌に合わせてぴょんぴょんと浮かんだり沈んだりする櫛と小瓶はさながら楽器のようだ。


「お前、毎朝毎朝飽きずによくやるよなぁ」


 ボヤいた黒猫に、マルはふふんと胸を張ってみせる。


「使い魔として当然よ! 主人に癒しを与えるのも立派なお仕事だわ。それに、こうしてフワフワにしていれば、その分沢山撫でてもらえるもの」


「は〜、そういう思惑だったのな」


「あなたもついでにやってあげるわ。グルーミングは嫌がるし、自分でもお手入れしないんだもの、私が面倒をみてあげる」


 飛んでくる櫛と小瓶に、ロキはぎょっと身体を仰け反らせた。

 そんな女子みたいなもん、絶対につけさせねぇぞ! 人型になって逃げてやろうとするロキを止めたのは、マルのポツリとした呟きだった。


「それに…色々とお世話になったから、お礼も兼ねて。私、あなたが喜びそうなことをよく知らないけど、これだったら全猫共通のご褒美でしょ?」


 きっと喜んでくれるだろうと期待に満ちた仔猫の無垢な瞳を、ロキは裏切れなかった。ぶっちゃけて言ってしまえば惚れた弱みである。ロキは渋々とその場で伏せて、吹きかけられる液体と好き勝手毛並みを弄くり回す櫛を受け入れた。嬉しそうにする仔猫を横目に、まぁそんなに悪くないかな、と柄にもなく絆されてしまった。


「…黒猫の毛並みを整えたって…別にいいこと無いだろ…」


 つい、漏らしてしまったロキの繊細な部分に、マルは全く気付かず鼻歌を続ける。


「あら、そんなことないわよ。だって見て! 黒い毛って艶が凄いのね。毛質的に私レベルのフワフワは無理だろうけど、極めれば鏡のような光沢を手に入れられるはずよ!」


「いや、それは言い過ぎだろ」


「謙遜しちゃって。あなたの毛って少し太いけど、弾力があるから上品だわ。いいなぁ、私なんて何ヶ月も掛けたのに、あなたはちょっと整えれば艶々になるんだから」


 ベタ褒めに継ぐベタ褒めに、ロキは羞恥心で一杯になる。初対面で散々こき下ろされたのが嘘のようだ。無意識に喜びが尻尾に出てしまい、ロキの黒いしなやかな尾が上機嫌に揺らめいた。



 そんな折りである。大広間がやけに騒がしく、何やら楽しげな笑い声が響いてくる。2匹はピクリと耳を動かし、何だなんだと覗きに行った。人集りの中心にいたのはヒューゴで、腕の中に小さな生き物を抱えている。肩に乗った蝙蝠のジェイクが覗き込んでいた。


「そう! 先程契約したのだ!」


 アッハッハ、とあっけらかんと笑ったヒューゴに、レオが目頭を抑え「待て待て」とツッコミを入れる。


「お前まだそんなレベルじゃ無いだろう。魔力が枯渇する前にさっさと契約破棄して元の場所に返してこい」


「断る! 一度拾ったのならば責任をとって最後まで育てるのが男というものだ。なぁ、ルーク・アルティメットサンシャイン」


「あー、馬鹿お前、名前まで与えて…もう知らんぞ。勝手にしろ」


 丸投げしようとしたレオを慌ててマシューが押し留める。「いやいや! 諦めないでくださいよレオさん! ジェイクさんも何とか言ってあげて!」話を振られた蝙蝠は、ヘラヘラと笑って「いやぁ、ヒューゴの無茶にはね、もう僕慣れっこっすから」と翼を広げて、丸投げのポーズをする。レオは「うーむ」と唸り、もう一度ヒューゴの腕の中を覗き込んだ。


「三毛猫の雄はかなり珍しいし、契約だけでも魔力の消費量は半端じゃない。契約主のお前が枯渇すればジェイクだってタダじゃ済まないのは分かっているのか?」


「ふふん!当たり前だ! しかしレオ、最初に俺の魔力量を褒めてくれたのはレオだろう。お前に出来て俺に出来ないことは無い筈だ。そうだろう!友よ!」


「…無茶だけはしないように」


 ヒューゴは満足気に笑い声を上げた。どうやら決着はついたらしい、とロキは理解する。その隣に居たマルがわなわなと身体を震わせた。


「どうした?」


「おっ、お、雄の三毛猫ですって!? そ、そんなの許さないわ! 私を差し置いて、そんな高貴な…! いやーッ! 負けたくない!」


 ロキが止めるのも無視して、弾丸のようにレオに駆け寄ったマルは、わっしわっしとレオの足をよじ登る。見たいのか、とレオが仔猫を掌の上に乗せ、新入りを見やすいように傾けてやった。

ヒューゴの腕の中で丸まった三毛猫は、マルの想像よりもずっと成熟していた。あれ、思ったよりもデカい。マルは怯んだが、此処の先輩として威厳を見せ付けてやろうと胸をはる。しかし、ふとある事に気付いた。


「あれ、この子怪我してる…」


 ヒクヒクと鼻を鳴らしたマルが、三毛猫の口元をじっと見つめた。ヒューゴが「え、どこかね?」と三毛猫を高く持ち上げた。眠たげな灰色の瞳が迷惑そうにちらりと開く。マルはふふん、と姿勢を正して、「私に任せて!」とヒューゴの腕に飛び乗った。


「初めまして! いい? 私のことは先輩と呼ぶのよ! 分かった? 新人さん! さぁ素直に舌を出しなさい! 私が治してあげる!」


 張り切る仔猫に、三毛猫は「んん…?」と首を傾げた。暫くボーッと虚空を見詰めてから、合点言ったように肉球同士をポンと合わせた。


「あぁ…これ口内炎。最近…ビタミン摂ってなかったんで…」


「え、え…? こうない、なに? びたみん…?」


「あれ…知らない? もしかして人型にあんまりなったこと無い? へぇ…そういうのもあるんですね…」


「え? えっと…?」


「赤髪先輩…いつまで持ち上げてるんですか。用がないならさっさと下ろしてくださいよ…」


 誰が赤髪先輩だと突っ込みながらも、ヒューゴは言われた通りカーペットの上に三毛猫を下ろした。マルも続いてヒューゴの腕から降りる。三毛猫はのんびりとその場で伸びをしながら、キョロキョロも周囲を見回した。


「此処どこですか…?」


「俺らの家だ。そしてお前の名前は今日からルーク! 今日から俺がお前の契約主となった。長い付き合いになるだろうが、これからよろしく頼むぞ!」


「は…? 何で俺がお前の使い魔に…。ゲッ…なんだこの契約印…うんこですか…? 」


 ジェイクが盛大に吹き散らかした。あっはっは、と羽を前後に動かしながら笑い転げる。


「うっ、うんこっ、俺がずっと思ってても折角言わないであげたのに、うっ、ブハハハ!」


「だっ! 誰の契約印がうんこかねっ! よく見たまえよ!とぐろを巻いたドラゴンだろう! かっこいいじゃないかドラゴン!文句あるのかね!?」


「と、とぐろ巻いた! ドラゴン! ルーク君やめて! この人寝ないで一生懸命この契約印デザインしたんすから、傷を抉るのやめたげて!」


「君が一番抉っているんだが!!」


 マルはそっと自分の契約印を確認してほっとひと息ついた。レオの契約印は奇を衒っていなくて良かった。どこに見せても恥ずかしくないシンプルなデザインだ。ちなみにロキも少し離れた所で同じように安堵の溜息をついていた。

 ヒューゴは頬を僅かに紅潮させながら、「君、命の恩人に対して失礼だとは思わないのかね!」と大声で詰る。ルークは「まぁ…そう言われると何も…言い返せないですね…」とあっさりと頷き、「ども…これからよろしくお願いします」と簡単に佇まいを正して挨拶をした。


 ※※※


 大広間のソファーの上でマイペースに寝転がるルークの周りを、マルは落ち着きなく彷徨いた。同じ猫の使い魔として、どうにか仲良くなれないものかと会話をするタイミングを伺っているのだ。レオとロキがヒューゴとジェイクを連れて別室で話し合いをしている。マルは思い切ってソファーに乗り上げ、前足でルークの背中をちょいちょいとつついた。「なんですか…」とルークは顔だけ仔猫の方向に向ける。マルは慌てて姿勢を正して、自慢のリボンと宝石を見せ付けるように胸を張った。


「グルーミングをしてあげましょうか!」


「や…別にいいです…」


 再び睡眠モードに入ってしまった三毛猫に、マルは呆然とした。


「えっ、えっ、どうして? わ、私、あなたの先輩なのに…」


「え…それってなんか関係あるんです…?」


「と、当然じゃない! 先輩は後輩のお世話をするものよ! 私、とっても上手なのよ? 責任を持って毛並みを整えて差し上げるわ!」


 ルークはどうしたものかも逡巡し、まぁそれでこの猫の気が済むのならと「どーぞ…」と腹を出した。「ワァッ」とマルが慌てて目を逸らした。


「ままま、丸出しじゃない! あなたにもっと恥じらいは無いの!? み、三毛猫としての誇りを持ちなさいよ!」


 ルークは面倒くさそうに欠伸をした。


「三毛猫としての誇りなんて…塵みたいなもんですよ…。で…やらないんなら寝ていいですかね…」


 マルは慌てて「やるわよ当たり前でしょ!?」とルークの白い腹部に顔を埋めた。

 なんだか苦い匂いがする。ペロペロと毛並みに沿って舐めながら、マルは「何の香り?」と問いかけた。ルークは「煙草…」と短く答える。


「重度のヘビースモーカーだったんですよ…元主人が…」


「ふぅん、あなたって元々契約者がいたのね」


「あの赤髪先輩が…ボッコボコに叩きのめしましたけどね…」


「あら、どうして? あなたを巡った戦い?」


 ルークはふ、と小さく笑った。「俺に…そんな価値無いですよ…」ぼんやりと吐かれた言葉はどこか自嘲するような声色を帯びていた。

 マルはもう一度「そうかしら」と呟いて、どこか寂しげなこの三毛猫が少しでも安心できればよい、とぼんやり思った。


「あなた、毛並みにまるで元気が無いわよ。萎れちゃってるじゃない。ちゃんとお魚食べてるの?」


「え…? 食事なんて…時間かけるだけ無駄じゃないですかね…」


「もう! そんなんだからツヤツヤのフワフワなれないんだわ! 此処の猫は身嗜みを疎かにした奴ばっかり!」


 脇の間に顔を突っ込み、鼻息荒く抗議をするマルに、ルークが擽ったそうに苦笑した。


「確かに…先輩は毛玉みたいにフワフワですね…」


「ふふん! もちろんよ! 私は毎日魔法の練習と毛並みのお手入れは欠かさないもの! あなたはとっても話のわかる後輩みたいね」


「毛玉先輩…もしや自分も…グルーミングし返した方がいいんですか…?」


「ええ! 当たり前よ! さぁ、遠慮なく!」


 マルはパアッと目を煌めかせた。つまりは挨拶を返してくれるのだ。マルは未だにグルーミングの意味するところを誤解していたし、ルークは一応先住猫のしきたりに習おうと思っていたし、加えて余程親しい間柄同士でなければグルーミングは行わないのだと知っているロキは別室にいる。よって、双方誤解したまま奇妙なグルーミングは行われた。


 ルークは自分よりもふた周りほど小さな白茶色の毛玉にそっと鼻を寄せた。仔猫特有の甘い香りがする。三角形の耳に舌を這わせると仔猫がクスクスと鈴のなるような声で笑った。


「これ…後であの黒猫さんにもやらなきゃいけないんですかね…?」


「やめておいた方が良いわ。あの猫はグルーミングされるのが苦手みたいだもの。失礼しちゃうわよね。…でも、ブラッシングは好きみたい。きっと気難しいタイプなのね」


「はぁ…そういうもんなんですね。まぁ…初対面の雄同士では…気まずいこともあるんで、そこは安心しました」


 ルークの発言に、マルは首を傾げた。無防備になった首元に舌がペロペロと舐め上げるので、ついゴロゴロと喉が鳴る。


「どうして? 挨拶みたいなものでしょう?」


「いや…俺の所ではもうちょい深い関係にならないとしないですね…。それこそ家族とか恋人くらいの…。だからぶっちゃけ結構恥ずいんですけど…もう止めていいですかね…」


「ふぅん、地域によって違うのかしら。無理を言ってごめんなさいね、知らなかったの。でもとっても上手だったわ」


 上機嫌に仔猫は喉を鳴らして、三毛猫の周りを歩き回った。素っ気なく「どうも…」とルークは頷いてから、さっさと再びソファーに丸くなって眠ってしまった。マルも一つ欠伸をして、ルークの足の間にぐいぐいと身体を潜り込ませる。無反応を貫く新人を他所に、仔猫も我が物顔で上に乗っかり丸まった。2匹の小さな寝息と共に、大広間は静まり返った。


 ※※※


 おや、と大広間にやってきたレオが驚きの声を上げた。ソファーに三毛猫と片割れの使い魔が身を寄せあって爆睡している。

 ヒューゴが「来たばかりで疲れているのかもしれないね」と苦笑いをした。対してロキは呆然と立ち竦む。何だあれは。灼眼をまん丸に見開き、ショックで声も出せない黒猫に、蝙蝠が同情的な視線を向けた。


「…ものの数時間で寝取られちゃったっすね…」


 ヒューゴが蝙蝠の呟きに「え? あれってそういうアレなのかね? やるなぁルーク君」と驚きの声を上げる。レオが冷静に「いや、多分違うんじゃないか」と突っ込み、ちらりと黒猫を見た。

 完全に石化している。


「あー、ロキ…? よく見ろ、まるで年の離れた兄妹みたいな微笑ましい光景じゃないか。いやぁ心温まる光景だ」


「…あ、あのポジションは俺のもんだったのに…」


「そ、そうだぞヒューゴ。可哀想だろうちのロキが。見てみろ、耳がぺしゃんこだ。ちゃんと躾ろよお前の使い魔だろう」


 レオが厳しい声を出すと、ヒューゴは照れたように頭を掻いた。ジェイクが「別に褒められてないっすよご主人」と突っ込む。


「す、すまない。どうやら無意識に女性にモテてしまう所は主に俺に似てしまったみたいだ。罪な男ですまないね…!」


「にっこにこっすね。よっ! この世で1番いい男!」


「そうだろうとも! なにせ俺はヒューゴ・ポワーヴルなのだから! 往くぞジェイク、ナンパの時間だ!」


 ワイワイと騒ぐ2人と2匹に、ルークは迷惑そうに「すいません…煩いんで黙ってもらえますか…」と欠伸混じりに文句を言った。


 ※※※


 その晩、黒猫は上機嫌に尻尾を揺らしていた。横を歩く三毛猫はやや面倒くさそうに目を細めている。


「いやぁ〜! ルーク! 疑って悪かったな! まさかお前の好みがボンキュッボンの歳上系だとは!」


「まぁ…子どもは…普通に範囲外なんで」


「だよなぁ! いくらフワッフワでこんなちっちゃくて可愛らしくても、お前がまさか手を出すとは俺は微塵も思ってねぇからなぁ。はは、そんなに怯えんなよ」


 自分よりも体格の良い黒猫が、食いちぎらんとする勢いでこちらを睨み付けてきた記憶が蘇り、ルークはハハハ、と渇いた笑い声を上げた。


「や…まだ挨拶くらいしかしてないですよ…。それもちゃんと…此処のルールに従ったまでで…」


「へぇ? なに? 何したんだ?」


「え…そりゃあ、グルーミングを…」


「あ?」


 ロキの声色が氷点下まで下がる。ルークは内心で頭を抱えた。あちゃ〜、と言わんばかりに天を仰ぐ。


「まじで…とんだ罠じゃないですか…。毛玉先輩、あんな顔してタチ悪い…新人虐めだ…」


「おう、何となく把握したぜ。任せとけ、歓迎の意を称して俺もお前を可愛がってやるから」


「え、え、勘弁してくださいよ…ロキさん…グルーミングが苦手なんですよね…? じゃあ無理しないでいいですよ…」


「まぁな。でもなぁ、せっかくの機会だ。可愛い後輩の為に、ひと肌脱いでやろうじゃねぇか」


 太い前足でがっちりと尻尾を挟まれ、ルークは早々に逃走を諦めた。


「嘘だ…」遠い目をした三毛猫は、何故こんな所に来てしまったんだろうと両目を閉じた。



 双方げっそりとしながら廊下を歩く猫2匹を見下ろしながら、蝙蝠のジェイクは両翼で口元を覆った。


「…むごいっす…こんなに悲しいグルーミングがこの世にあるのだろうか…」


 同じ天柱に身を潜めていたハムスターのグリムが「恋は時として使い魔をも狂わせるんだね」としみじみと頷いた。

 横のトカゲのギデオンが「知ったような口きいてるけどお前童貞じゃん」と冷静に突っ込んだ。


 ※※※


 マルは不機嫌であった。

 何故ならば、最近新しく来た新人であるルークが、せっかくグルーミングをし合ったというのにも関わらず突然余所余所しくなってしまったからである。おまけに主人であるレオは、危険な任務にはマルを遠距離サポートにしか使おうとしない。常に前線を共にするのは先住猫であるロキで、そりゃあ経験の差は簡単には追い付けないけれど、とマルは寂しい気持ちになる。

 日々の中で微かに積み重なる疎外感は仔猫を孤独にした。あんなにも嬉しかったレオの掌も、今では「だだのご機嫌取りなんでしょ?」と突っぱねてやりたくなる。


 溜まりに溜まった愚痴を吐き出そうと、選んだ先はマシューであった。

 絶対に叱ったりしないだろうし、絶対にお人好しに違いない。甘ったれたマルの考えは、確かに当たっていた。おまけにマシューはどちらかというと組織の中では研究者としての役割が強く求められているので、基本的には自室に居ることが多かった。それが好戦的で戦闘狂の使い魔であるギデオンにとっての密かな不満ではあるのだが、それはまた別の話である。


「やぁ、いらっしゃい。紅茶をいれようか、それともミルク?」


 扉の前でちょこんと座り込んだ仔猫を、マシューはそっと両手で掬いて自室へ招いた。マルは精一杯大人ぶって「紅茶でいいわよ」と胸を張る。


「飲みやすいように浅い入れ物を持ってこようね」


 マシューがにこにこと食器棚を開いた。だらんとソファーの上で寝そべっていたフードを深く被った男が片腕を挙げる。トカゲのギデオンは今日は人型らしい。


「右の棚にマシューさんのとっておきが隠してあるから、強請ればワンチャンあるかもよぉ」


「とっておき? なぁに?」


「こら。だめですよギデオンさん。お酒は成人してからです」


「使い魔は種族によって成人が違うでしょ? この猫ちゃんだってもしかしたら…いや、さすがに無いか」


 揶揄うように笑われて、マルはムッと唇を尖らせた。挑発に乗るように人型になってみせる。いつもは魔力の消費を抑える為に殆どが猫の姿のままであるが、別になれないこともないのだ。

 マルはフワフワの癖毛を手櫛で整え、ふふん、と胸を張って精一杯大人ぶってギデオンの向かいのソファーに腰掛けた。ふんわりとした膝丈のスカートはふんだんにレースがあしらわれている。


「私、見ての通り立派なレディよ。マシューさん! 紅茶はカップに注いで!」


「はいはい」


「かぼちゃパンツ履いてる時点で餓鬼だよねぇ?」


「ド、ロ、ワー、ズ!」


 マルはまろやかな曲線が残る頬をパンパンに膨らませてギデオンを睨みつけた。そういう所がまさに餓鬼でしょ、とギデオンは呆れてしまう。


「ずっと気になってたけど、猫ちゃんって人間年齢でいうと何歳?」


「知らないわよ。だって私は猫だもの」


「じゃあ猫だと何歳なの?」


「えぇっと、確か…6くらい…」


 ギデオンはゲホッと噎せこんだ。猫は猫でも使い魔である。特に長命な種族である猫の成熟が大体15そこらから始まると換算すると、これはとんでもないことだ。確かロキは20前後では無かったか。ギデオンは両腕で己の身体を包み込んだ。


「だめでしょ! まじで無理!」


「あ、違うかも。7だったかしら?」


「どっちにしろだめだろ! は、は、犯罪!」


 慄くギデオンに、マシューが紅茶とともに助け舟を出した。


「ギデオンさん、猫の使い魔同士では特に珍しいことでも無いんですよそれが。昔から希少で人気な種族ですからね。魔法使い側の都合と言っては元も子もありませんが、そんな感じで繁栄していった種なので、彼等にとっても年齢にそこまで重きを置いていないんです」


「えっ、じゃあなんなの? ロキはやろうと思えばやれるってこと?」


「…さーて、お茶菓子を選びましょうね。マルさん、どれが良いですか?」


「自分から偉そうにウンチク垂れたくせに顔真っ赤にすんのやめてくれる!?」


 途端にギデオンも顔を赤らめ、クッションをマシューの足元に投げた。マルは浮かんだ様々な疑問を問いかける前に、目の前の籠いっぱいに詰まる袋の中身に歓声を上げる。


「わぁ! 素敵! クッキー?」


「そうですよ。片手間に焼いてみたんです。こっちがチョコで、こっちが紅茶、こっちが苺…」


「食っても食っても倍のスピードで補充していくんだもん。マシューさんも大概暇人だよねぇ」


「いやぁ、あはは。考え事をしながら単調な作業をしていると、こう、上手い具合にまとまるんですよ…」


 苦笑いをしたマシューに、マルは時間たっぷり吟味をしてから「苺!」とピンク色の包装を持ち上げた。そしてふと、思い至ったようにちらりとマシューを見上げる。


「ん? どうしましたか?」


「これ、あなたが良ければもう2つ貰ってもいいかしら」


「ええ、良いですよ。好きなだけ持って帰ってください」


 マルは頬を紅潮させて喜んだ。後でレオとロキにも食べさせてやろうと思ったのだ。だって、ふたりだけで任務に行ってしまったから…。

「今日は留守番な」とすげ無く追い払われてしまったのがついさっきのように思い出せる。今日は、じゃない。今日も、である。


 そうなのだ。とうとうマルは任務にも連れて行ってもらえなくなってしまった。途端に寂しさが溢れて、すん、と鼻を啜る少女を、マシューは優しくソファーに誘った。そっと横に腰掛けたマシューが、「ゆっくりで良いですよ。話を聞かせてください」と紅茶を薦めた。ギデオンは向かいのソファーで寝そべって、控えめにクッキーをひと齧りした。


 ※※※


 なるほど、とマシューが静かに頷いた。「つまりマルさんは、現状に強い孤独を感じていると」マルは何度も頷いた。


「だって、ひどいじゃない! 私だって飛龍を追い詰めたのに、すっかり無かったことにされて…あ、足でまといみたいに…」


 ふんわりとしたスカートを強く握り締め、俯いてしまった少女にマシューは屈んで目線を合わせてやる。


「レオにはあなたの気持ちを、ちゃんと伝えたんですか?」


「言える訳ないわ…だって、私、困らせたくないもの…」


「おや、どうして困らせると思ったのですか?」


「わ、私を使い魔にしたこと、き、きっと後悔しているんだわ…思ったよりも弱いなって、家柄の割に大したことないって…だから、そんな使い魔に、任務に連れてってってしつこく迫られたら、困るでしょう…?」


「どうやって断ったらいいのかって?」


 少女は頷き、とうとう泣き出してしまった。マシューはそっとハンカチを差し出す。マルはしゃくり上げながらハンカチを受け取ると、嗄れた声でお礼を言った。


「それに、わ、わ、私…後輩にも嫌われてしまったわ…とっても、そ、素っ気ないもの…やっぱり、挨拶が嫌だったのかしら…もしかして私、グルーミングが心底下手くそなの…? きっとそうよ…! だからロキさんもあんなに嫌がったんだわ!」


 少女はすっかり泣き濡れて、ついには仔猫の姿に戻ってしまった。

 あらら、とマシューが眉を下げる。主人に見つめられたギデオンも困った顔をした。これは相当こじらせてしまっている。マシューはすかさず「1つずつ誤解を解いて行く必要がありそうですね」と仔猫の背中を摩った。


 マシューは仔猫を撫でながら、穏やかな声を出した。


「知ってましたか? レオね、よく此処に来る度に使い魔のことを自慢しているんですよ。ロキさんと、あなたのことを」


「そうだよ。あの人、紛れもない親バカだよ」


 ギデオンがサッと援護射撃をする。マシューは頷くと、もう一度仔猫の頭を撫でた。


「それに、マルさんのことは特によく気に掛けているみたいですよ。環境には慣れたか、この任務はまだ早いだろうか、他の使い魔と仲良くできているだろうかって。この前の大怪我が、レオの中で随分と堪えたみたいですから」


「…飛龍の時の…?」


「ずっと昔に、ロキさんが同じように大怪我を負ったことがあったんですけどね。あの時と同じくらい凹んでましたね。あの人はあれでいて繊細な所がありますから」


 仔猫が興味を惹かれたように顔を上げた。マシューは仔猫を安心させるように笑いかけてやる。


「今度は怪我をさせたくないんでしょうね。これは内緒なんですけど、今日入った任務は、別の飛龍の討伐なんですよ。レオ、昨日の夜に相談に来て、『あんなに震えてたのに、また飛龍に挑ませるのは酷だろうなぁ、やっぱ段階的に経験積ませた方が良いなぁ』ってボヤいてましたよ。そりゃあもう何時間も」


 ギデオンが小さく笑った。レオに対して些か遠慮の無いマシューが、深夜を回って暫くしてから辛抱切らし、最終的には雑に部屋からレオを追い出したのを覚えている。


「あぁ、そういえば『回復魔法は目を見張るものがある』とか『負けん気と根性がある』とか『魔力のコントロールが上手い』とかね、色々言ってましたよ。大丈夫ですよ、マルさん。あなたはちゃんと主人から愛されていますよ。この私が保証します」


「ルーク君はあれね、ただのそういう性格ってだけだよぉ。気にしないで、とりあえずグルーミングは止めてまずは普通に挨拶してみたら? ほら、猫同士で鼻をくっつけるやつあるでしょ」


 マシューとギデオンに宥められ、マルは途端に元気が湧いてきた。そうかもしれない。素っ気ないとばかり思っていたのは勘違いだったかも。

 それに、レオも私のことを評価してくれていたんだわ。マシューさんが言うんだから、間違い無い。私はちゃんと愛されてる。

 マルはすっかり立ち直って、泣いていたのが嘘のように上機嫌に尻尾を揺らした。


「あなた達って本当に素敵だわ! とっても優しくて、とっても頼りになるのね。私、マシューさんとギデオンさんのこと、大好きよ」


 親愛たっぷりに掌に頭を擦り付けてくる仔猫に、マシューは「いやぁ、やっぱ自分に懐く仔猫って可愛いいなぁ」と頬を緩ませる。

 一方で、ギデオンはげんなりとため息をついた。


 情動がまるでジェットコースター、女ってすぐこれだよねぇ。またすぐ別の事で泣きながら愚痴りにくるに銀貨1枚かけてやる。

 そんなギデオンの内心のボヤきも、仔猫の柔らかな毛並みを撫でているうちにどうでも良くなってしまった。


「マシューさん、そんなに2匹目飼いたいんなら蛙にしてよ。あいつら無口だし、いっそ悟り開いてるし」


「え、別に構いませんけど…ギデオンさんそっちのご趣味なんですか? いや別に個人の自由と言われれば私は何も言いませんけど、蛙の雌って巷じゃイロモノ枠というか…」


「雌蛙はまじでやめて。俺が食われる。いや、やめろよその顔まじで。俺が言ったのは雌じゃなくて雄…ちょっと、待ってよ。 そういう意味じゃなくて…違うっつってんだろ! あぁ…もういいや。俺以外の使い魔は禁止。これが一番安寧だよ」


 ※※※


 おはよう!

 テラスが一望できる日当たりの良い窓際、仔猫は意気揚々と昼寝をする後輩の三毛猫に話し掛けた。ルークはちらりと片目を開けてマルを確認すると、困ったようにソワソワと辺りの気配を探り始める。

 これ以上面倒事に巻き込まれるのは御免であった。雄同士、双方望むところではなかったあの悪夢のようなグルーミングは未だに夢に出てくるのだ。仔猫はそんなルークの様子を見ると、少しばかり耳を垂らしながら「もうグルーミングはしないわよ…」とポツリと呟いた。

 ルークは寂しそうに背中を丸める仔猫を見て、辺りの気配を探るのを止めた。


「この前、ギデオンさんに止めとけって言われたから。でも、お鼻をくっつけるのは大丈夫でしょう? もしかして、それも良くないの…?」


「え…? まぁ…それは普通に挨拶ですけど…」


「わ、私、あなたと仲良くなりたいの! あの、もし嫌じゃなければ…その、挨拶を…」


 やや緊張気味の声色に、ルークはハァ、とため息をついた。

 こんな自分なんかに構わなければ良いものを。こちらとしても勝手気ままに生きているのだから、そっちとしてももっと勝手気ままに生きてくれないか。だからそうやって一々勝手に凹まれるのは勘弁してくれないだろうか。


 ルークのため息を、マルは拒否だと解釈をして更に耳を垂れさせた。やっぱり、ギデオンさんが言ったのは私を慰めるための気休めだったんだわ。

 仔猫がピスピスと寂しげな鼻音を立てる。ルークは諸々の面倒臭さを押しとどめて、もう一度深くため息をついた。


「はいはい…これで良いですか…」


 ぴと、とルークは仔猫に鼻先をくっつけた。マルは途端に目を輝かせ、「挨拶ができたわ!」と喜んだ。念の為ルークは小声で付け加える。


「後で…ロキさんにも同じことをやってあげてくださいね…絶対に」


 マルは頷いて、「お昼寝の邪魔をしてごめんなさいね」と尻尾を振って駆けていった。ルークはふわふわと跳ね回る白茶色の毛玉を横目に、もう一度目を閉じる。まぁ、次も挨拶くらいならば返しても文句は言われないだろう。


 三毛猫のやや毛羽立った尾が微かに揺れるのを、穏やかな日差しが優しく照らしていた。


 ※※※


 ロキは階段の手すり部分を悠々と歩いていた。以前に仔猫に言われたから、実は密かに毛並みを毎日整えていることは誰にも言えないロキだけの秘密である。

 いや、べつに喜んで貰いたいとか微塵も思ってねぇから。

 そんなロキを目敏く見つけて、仔猫は弾丸のようなスピードで駆け寄ってきた。身軽に手すりに飛び乗ったマルは、黒猫の前方でにこにこと上機嫌に尻尾を揺らしている。


「え、なに? どうした?」


「挨拶をしに来たわ!」


「えっ、ここで…?」


 ロキは仔猫の言う『挨拶』がグルーミングを指す言葉だということを理解していたので、この狭い階段の手摺りでそれを行うことに些か抵抗を感じた。既にロキは仔猫にグルーミングをされること事態に対しての抵抗はそこまで無かった。


 何故なら寝ている仔猫に一度だけ─あの飛龍の任務の晩に─こっそりとしたことがあったし、何ならルークに対して仔猫がグルーミングを行ったという事実に若干…いや、ぶっちゃけかなり嫉妬の炎を燃やしまくったからである。山火事レベルだ、文句あんのか。山火事…否、火山が…それが爆発してつい、初対面の雄相手に怒りのグルーミングをしてしまったという黒歴史もあれど、とりあえずは仔猫からの『挨拶』はロキにとっては満更でも無いものであった。


「どうして? 挨拶はどこでもできるでしょ?」


「え、そうか…? まぁ、そっちがそう言うんだったら…」


 どきどきと胸を高鳴らせる黒猫に、仔猫は「しゃがんでくれなきゃ届かないわ」と文句を言った。ロキは言われるがままにその場に伏せる。


 ちょん、とロキの鼻先に仔猫の淡いピンク色の鼻先が触れた。そして、そのままあっさりと離れていく。


「……え?」


「挨拶ができたわ! おはよう、今日は良い天気ね」


「え? あぁ、そうだな。……え? それだけ?ただの挨拶じゃねぇか」


「なぁに? 当たり前よ。挨拶って言ったじゃない」


 ロキはショックのあまり、つい恥も外見もなく「グルーミングは?」と聞いてしまった。

 仔猫はあっけらかんと「あれは止めることにしたの」とロキにトドメを指した。


「えっ、えっ…? 本当にもうやらねぇの? だって、あんなにやりたがってただろ…」


「だって、あなたもグルーミングが苦手なんでしょ? それに、よく考えればルーク君も乗り気じゃなかったし…やっぱり、無理強いは良くないもの…私、そんなに上手くないみたいだし…」


 黒猫は慌てて首をブンブンと振った。上手いか下手かで言えば、上手い方だと思う。そう自信を持って言い切るには、ロキの経験も浅かったが。しかしこのままではグルーミングが封印されてしまう。

 ロキは優秀と評されることの多い己の頭脳をフル回転させ、コンマ数秒で名案を導き出した。


「俺、実は今まで黙ってたけどな、されるのは苦手だけどするのは得意なんだよ。なんなら、俺がやり方教えてやろうか」


 ロキは微塵も嘘の無いような顔をして、驚くほどの嘘を吐いた。

 グルーミングの試行回数に関しては圧倒的にこの一回り以上歳下の仔猫の方が上である。しかし、ロキは何とかなるだろうと鷹をくくっていた。


 仔猫は「そうなの? それならそうと早く言ってくれれば良いのに!」と目を輝かせた。


 普通に舐めればいいんだろ、別にそんなん水飲む時と一緒じゃねぇか。

 ロキは軽やかに階段の手すりから飛び降りると、「もっと寝そべりやすい所行くぞ」と自室へ……は流石にまずいと考えて、日当たりの良い屋上にやってきた。


 ※※※


 ポカポカと陽気な日差しに、目を細めて上機嫌に寝そべると、コンクリート製の地面がほのかに温かい。仔猫は無防備に白いお腹を晒して、期待に充ちた瞳でロキを見上げてきた。黒猫は人型の名残から、無意識にゴクリと唾を嚥下した。


 そっと鼻先を白い毛並みに埋めると、驚くほどの柔らかさと、仔猫特有のほんのりとした甘い香りが伝わってくる。寝こける背中をグルーミングした時とは一線を画していた。

 仔猫はクスクスと擽ったそうに笑って、じゃれるようにピンク色の肉球を黒猫の口元に押し付けてきた。


「え、なんだよ」


「だって、擽ったいんですもの」


「それは…仕方ないだろ」


 思いの外自分が照れているのを誤魔化すように、黒猫はペロペロと舌で仔猫の毛並みを整え始めた。仔猫が気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らすのに、ロキは胸中で安堵のため息をついた。一方でマルは、まるで乳母にして貰っている時のようだと懐かしみながら上機嫌に目を細める。


「…なぁ、こういうこと、他の猫にもすんのは止めとけよ」


「ええ、そのつもりよ。もっと上達してからお披露目しようと思うの」


「それもだめだ。百歩譲ってレオまでは良いけど」


「猫以外にはグルーミングは出来ないわ。それに、どうして? 次はちゃんと相手の気持ちを尊重するし、私、もっと努力するわよ」


 ロキがマルの耳元を舐めると、小さな三角形の耳がピコピコと動いた。その反応が面白くて、ロキはついそこばかりを舐めてしまう。


「……俺が居るだろ」


 拗ねたような声色に、仔猫はピクリと片耳を動かした。


「知ってるわよ? だから、ちゃんとやり方を教わるまでは…」


「はい、終わり。今日はここまでな。次は一週間後。さっさと朝食食べに戻ろうぜ」


「えっ! これだけ!? それに、一週間後? そんなのやり方忘れちゃうじゃない!」


「知らねぇのか? グルーミングはそんな毎日やるもんじゃないんだよ。猫の寿命は長いんだし、気長にいこうや」


 不服気な声を上げた仔猫に、黒猫はさっさと背を向けてしまった。マルは手順も何も、気持ちよくて何にも覚えていないことに気付き愕然とする。これじゃあいつまで経っても上達できない。

 しょげる仔猫を横目に、黒猫はすっかり臍を曲げてしまった。絶対覚える隙なんて与えてやらねぇ。滅茶苦茶に教えてやる。

 ロキの不器用な真意に気付くには、マルは若く経験が余りにも無さすぎた。


 ※※※


 マルは思わずレオに飛び付いた。

 何故なら、初めて1人で主人のサポートをやり切ったのだ。それも、人型を保ったままである。仔猫の視線よりも近くなったレオの碧眼が、どこか誇らしげに細まるのを見て、少女は花が咲くように笑った。


「よくやった。いつの間に氷の槍なんて出せるようになったんだ?」


「ロキさんに教わったのよ! 私、攻撃魔法はてんでダメだと思っていたけど、結構才能あるみたい!」


 ふふん、と胸を張ってみせた少女に、レオは「さすがは俺の使い魔だ」と頭を撫でてやる。離れたところで雑魚敵を殲滅させたロキが、腰に剣を収めながら「こっちも終わったぜ」とレオに駆け寄った。

 レオは自分よりも少しばかり上背のある男の黒髪も少女と同じように掻き混ぜた。ロキがやや照れくさそうに目を逸らす。そんなロキに対してマルが「遅かったわね! 私なんてとっくに倒しちゃったんだから」と自慢げに鼻を鳴らした。


「教えた通り出来たんだな。やるじゃねぇか」


「グルーミングと違って、毎日! 丁寧に! ちゃんと1から! 説明しながら教えてくれたもの」


「それはそれだろ。レオ、怪我は?」


「おう、お前らが護衛としての役割をちゃんと果たしていたからな。この通り無傷だぞ」


 ありったけの思いを込めた嫌味は僅か7文字で誤魔化され、マルはむっと眉を寄せた。猫の姿に戻り、羽馬車でレオの膝に乗っかる時もマルはむくれていた。

 レオは白茶色の毛並みを指ですきながら、「ロキにグルーミングのやり方を教わっているのか?」と純粋に問い掛けた。

 黒猫がぶわっと毛を逆立てた。


「レ、レオ…その件に関してはちょっと後であの〜…」


「そうなの! こっちは真剣に教わってるのに、この猫ったらちゃんと教えてくれないのよ! 失礼しちゃうわ全く!」


「それは良くないな。グルーミングは使い魔の猫同士の大事なコミュニケーション方法なんだろう? 詳しいやり方があるんなら、ちゃんと教えてやらなきゃ今後困るんじゃないか」


「そうよ! もっと言ってやって! 私、未だに元の家に居た時のやり方しか知らないんだから!」


 4つの瞳に見つめられ、ロキはへにゃりとと耳を下げた。そんな黒猫の様子を見て、レオは密かに納得をした。

 こいつまだ日和ってるのか。

 見かけるとたまに仲良さげにグルーミングをしているから、レオはてっきりついに使い魔同士が収まるところに収まったのかとこっそり感慨深く思っていたのに。つまり実際は長年の相棒が変な方向に奥手をこじらせてしまっていたということか。

 ロキはレオが思い至ってしまったことに気付いて、何とも言えない申し訳ない気分になった。


 違うんだレオ、俺も精一杯頑張った。その結果がこれなんだ。

 黒猫からの懺悔をするかのようなアイコンタクトに、レオは神妙に頷いた。


 ロキよ、お前も色々と必死なんだな。


 そうだぜレオ。もう最近の女の子は俺よく分かんねぇよ。


 お前の場合は最近とかそういう次元じゃ無いだろう。


 テレパシーの如く無言でやり取りをする長年の相棒に、マルは「また私ばっかり仲間外れにして!」と主人の太腿に軽く爪をたてた。レオが「おい、拗ねるなよ」と抗議をする。マルはフンッと身を翻して、向かいの席に逃げてしまった。


「お前、最近ますます猫っぽくなってきたな」


「当たり前じゃない。だって私、猫だもの」


「あと、ちょっと長くなったか?」


「長く……ス、スタイルが良くなったって言ってくれないかしら!?」


 マルはますます機嫌を損ねて、まるでモップのようにふんわりと長毛に包まれた太い尻尾を叩きつけ怒りを表現している。

 レオはしげしげと使い魔を眺める。かつて小さな仔猫だった真ん丸の毛玉は、やや全体的に伸びて魔力も飛躍的に向上した。体格の良いロキと並ぶと圧倒的に幼く小さが目立つが、猫としては非常に「らしく」なってきたと思う。


 レオは最近ジェイクの羽が大きくなったとヒューゴから報告されたことや、ギデオンが脱皮してまた筋肉質になったとマシューが嬉嬉として話していたこと、そしてロンメルが転羽期を迎えたとスミスがボヤいていたことを思い出した。はて、そこまで来たらグリムにも何かあって然るべきだが…。お、とレオは両手を合わせた。そういえばグリムの体重が増えたって言ってたなフェイが。しかし、何故こうも使い魔たちが成長を…。

 レオはふと、今日の歴と月や星の位置を照らし合わせた。


「あ。忘れてた、今日は月食じゃないか」


 2匹の使い魔が互いに顔を見合わせる。


「赤い月の日ってこと? じゃあ、お家から出ないようにしないと…」


「月食なら外でお祝いだな」


  え? と2匹の声が綺麗に重なった。


「外に出るの? 赤い月の日なのに? 赤目の恐ろしい魔物に食べられちゃうって聞いたことない? とっても有名なお伽噺よ。どのおうちの子も知ってたもの」


「いや、俺の所では月食の時に出る魔力は特別なものだから、外出て魔力を浴びて祝うんだよ」


 はた、とロキが何かに思い至った顔をした。それから、くつくつと低く笑い声を漏らす。呆れたような笑い方は、まるで自嘲しているかのようにも聞こえて、マルは何となく嫌な予感がした。

 ロキの、その歪んだ笑みは1度として見たこともない表情だった。


「あぁ、そういうことか」


「え? なに? 何がそういうことなの?」


「子どもの頃、なんで俺ら以外の誰も出て来ねぇのかなって思ってたんだ。漸く長年の謎が解けた気分だ」


 マルを見据える2つの灼眼が、悲しげに揺らめいた。赤い瞳だ。


 ──赤目の恐ろしい魔物に食べられちゃうって、とっても有名なお伽噺。


 マルは突如点と点が一気に繋がった心地を味わった。そんな、まさか。いや、十分にありえる事だ。なぜなら、マルは確かに初対面の黒猫に対して言ってしまったから。


 ──『黒猫だなんて縁起でもないわ!』


 マルは弾かれたようにロキを見た。自分はとんでもないことを言ってしまったのだ。決して、言ってはいけない相手だった。否、もっと早くそのことに思い至って、そんな考え事態を是正するべきだったのだ。マルは己の浅慮さをここまで呪ったことは無い。

 自分の中に、黒猫に対する差別意識がしっかりと根付いていたのだ。


「あ…ち、違うの…その、私、ごめんなさい。あの…」


「いいぜ別に。お前は貴族のお嬢さんだし、そもそも……こっち側だとは、思ってなかったし」


 羽馬車の内側の、同じ椅子に座っているのに、マルの目には明確な境界線が見えた。ロキがたった今引いた、果てのない渓谷のような境界線である。

 レオは一度、「ロキ」と使い魔の名前を呼んだ。黒猫はじっと主人を見返した。


「分かってる。もうとっくの昔にそのことは…。それに、普通に育った猫は大体そうなる」


「…ロキ。だが、お前は…」


「レオ、俺は何とも思ってねぇから。…やっと、現実に戻ったっていうか。すまん、暫くほっといてくれ」


 レオは背を向けるように丸まった黒猫を数回撫でてから、そっと窓の外へと視線を向けた。本部まではもうすぐに着くだろう。じっと気配を殺すように息を潜め、小さく震えるもう1人の使い魔に、今回のはそう簡単に行かないだろうなとレオは眉を寄せ、小さな頭を撫でてやった。


 何せ、この黒猫の長年抱える、主人であるレオでも全ては掬い切れなかった一番暗く重い部分の話である。


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