黒猫の奮闘記 2
ロキ、ギデオン、ジェイク、ロンメル、グリム。順に並べられた使い魔を順繰りに紹介され、少女─もとい、マルは無意識に緊張で毛を逆立たせた。
並べた種族もバラバラの動物達を1匹ずつ持ち上げて、レオはスラスラと言葉を紡ぐ。
─ロキはもう面識があるから大丈夫だな。ギデオンは見ての通りトカゲで、おいマシューはどうした。は? 寝てる? 今すぐ叩き起こしてこい。後回しだな。で、そこの蝙蝠が…おい寝るな。お前もか。こいつはジェイク。そこの赤髪の煩い奴、ヒューゴの使い魔だ。グリムは鼠じゃなくてハムスターで、フェイの使い魔。…フェイは? は? 朝に紹介するって言っただろう。連れてこい。今すぐ。次ロンメル、ロンメル? なんだスミス、え? 散歩? なんでこのタイミングなんだ? というかあいつ烏のくせに散歩するのか? あーだめだ。やめたやめた。紹介は昼にする。あいつら協調性がまるで無い。ロキ、珈琲持ってきてくれ。
※※※
マルがこの本部にやってきてから約1週間が経過した。環境にも慣れ、他の魔法使いと使い魔とも目が合えば会釈をする程の仲にもなったのは、少女としては最大限努力をしたつもりである。そもそもマルが胸を張って仲が良い友人と言えるとすれば、それは自身を育ててくれた乳母や身の回りの世話をする使用人たち位しか居なかった。
さて、仕事に行くぞ。レオが黒いコートを羽織り、使い魔2匹を呼んだ。既に傍に控えていたロキを見て、慌ててマルも傍に駆け寄る。マルは記念すべき初仕事である。
そわそわと落ち着きなく前髪を撫でつけるマルに、ロキが「仕事中、お前は猫の姿だからな」と忠告する。マルはふんと鼻を鳴らし、「そんなの分かってるわよ」とそっぽを向いた。
この、使い魔として先輩であり先住猫でもあるロキに対して、一体どのような態度で接すれば良いのかマルは未だに掴みあぐねている。伺うようにチラリと見上げるマルに、ロキも密かに困ったような顔をした。接し方に迷っているのはお互い様だと、2匹の使い魔の様子からレオは察した。しかし、主人があまり介入し過ぎるのも良くない。
レオは素知らぬ振りをして、2匹を抱えて羽馬車に乗り込んだ。
レオは向かいの椅子で姿勢良く座る黒猫の下に、魔法で出したクッションを潜り込ませてやる。そして、片手間に膝の上で丸まる仔猫を撫でた。いつもは黒猫の定位置であるが、今日は後輩に譲ってやるらしい。
レオは喉奥でくつくつと笑い、余計なことは一切言ってくれるな、と言いたげな鋭い灼眼から逃れるように窓に視線を向けた。一方、マルは主人の膝の上で呑気に寝息を立てている。
やや硬いが非常に安心する。見上げればイケメン、そしてとっても良い匂いがする。嗚呼幸せ。
使い魔としての喜びを全身で享受するマルは、絶えずゴロゴロと喉を鳴らしている。
※※※
起きろ、と耳の後ろを指先で掻かれてマルは覚醒した。既にロキは人型になって待機している。マルは忠告を忘れ慌てて自分も人の姿になろうとしたが、レオがそれを押し留めた。
「マルは今日は見学だ。使い魔としてどういう風に動けば良いのか、ロキを見てよく学ぶように」
マルはレオの胸ポケットに押し込まれ、やや不服ながらも渋々と主人の指示に従った。見れば、ロキの腰には巨大な剣がぶら下がっているではないか。
使い魔のくせに、まさか直接戦うなんてことはあるまいな。
マルは仰天したが、肝心のロキは慣れた手つきでレオに丁重な保護魔法を重ねがけしている。主人がやられれば確かに使い魔とて無事では済まないが、それはやり過ぎではないだろうか。マルは暖かい胸ポケットから顔だけ出して、じっとロキを観察した。腕の契約印が光っている。レオに魔力を供給しているのだ。マルは他人事ながら感心し、そしてすぐに対抗心が芽ばえる。
「私だって保護魔法を重ねがけしながら、魔力供給くらいできるわよ」
「そうか、頼もしいな」
「当然よ! 貴族としてこんなの朝飯前よ!」
ふふん、と誇らしげに目を細める掌ほどの毛玉に、レオは微かに目尻を和らげた。
ロキは元々体格が良くて強かったから何とも思わなかったが、こうも小さい仔猫が自信満々に自己アピールをしてくるのは何とも言えない微笑ましさがある。仕事中に吐いたりしなければ良いのだが。絶えず自己アピールを繰り返す仔猫を指先で諌め、レオはロキに目で合図をした。
森の中を潜るように歩くと、鋭い何かで抉られた木が何本も現れる。「まだ新しいな」と冷静に分析するレオに、ロキは周囲を絶えず警戒し続ける。その張り詰めた緊張感に、マルもそっと息を殺した。
「レオ! 上だ!」
鋭い声が響くや否や、レオはすぐさま身を翻し左へ避けた。ざっくりと切り裂かれた地面に、マルが目を丸くする。落ち着かせるように胸ポケット越しにマルを撫でてから、レオは素早く魔術を展開する。
ギィン、と金属同士が擦れる音と共に火花が散った。ロキが腰に下げていた大剣を片手に、巨大な鎌を受けている。
マルは背筋を凍らせた。魔物だ。蛇のような長い身体は硬い鱗で覆われていて一切の攻撃も効かない気がした。光沢のある表面には小さな穴が空いており、そこから液体を分泌している。サラリとした液体が枯葉の上に滴ると、一瞬にして枯葉が溶けた。大蛇の尻尾についた大きな鎌は、風のような速さで周囲の木々を薙ぎ倒している。
ロキは分泌物から逃れるように魔物と一旦距離をとり、すぐさま魔法で生み出した炎の渦で大蛇を包んだ。強烈な焦げ臭さに思わずマルは肉球に鼻を埋める。風圧だけで炎の渦をかき消して見せた大蛇が、そのまま大口を開けてレオに迫ると、素早くロキが間に割り込み注意を惹く。
丁度その時、レオは長々とした呪文を唱え終え、「ロキ」と短く使い魔の名を呼んだ。勝手知ったるとばかりにロキはその場から離れる。
『神の霆を見よ!』
レオが高らかに声を上げ、辺りは眩い光に包まれた。轟音が木々を揺らし、森にいた鳥たちがこぞって空に飛び立つ。
挽き爛れた大蛇の悲鳴に目を向ければ、その巨大な体躯は光り輝く豪奢な槍に貫かれていた。ピクピクと電流が流れるように痙攣する大蛇に、ポッカリと空いた穴からは物凄い量の青い液体が垂れ流されている。焼け焦げた鱗が所々禿げ、一切の艶は失われていた。
「よし、新鮮な内に検体回収するぞ。確か牙と毒と血液だな」
「まだコイツ毒分泌してる。怪我するからレオは下がってろ」
レオから小瓶を受け取ったロキは素早く大蛇から目当ての品を回収し終えると、「回収は終わったぜ」と道を譲った。
レオは何処から取り出したのか、黒い杖を地面に突き刺し、再び呪文を唱え始める。地盤が歪み、大蛇の死体は吸い込まれるように地中に消えた。
「よし、仕事終わり。中央政府から謝礼金たんまり貰おうか」
上機嫌に鼻歌を歌うレオとは裏腹に、ロキはそっとマルの様子を確認する。声も無く絶句しているマルに、そりゃあそうかとため息をついた。
「レオ、新人がギリギリだ」
「ん? 今日はそこまでキツくない依頼を選んだつもりだったんだが。大丈夫か? …だめそうだな。ロキ、少し寄り道しよう」
「手のかかる奴だな」
レオとロキは森を抜けた先にある小川のほとりにマルを下ろした。すっかり耳を垂らして尻尾を丸めてしまった白茶の毛玉に、レオは癒しの魔法をかけてやる。
「何が嫌だったんだ?」
マルは開口一番で「ぜんぶ」と言った。げっそりとした声色にレオは苦笑いしてしまった。
「全部って?」
「使い魔なのに戦うの? 野蛮だし下品だわ。それに汚いし臭いし、おまけに危険じゃない! 直接戦わせるんなら猫じゃなくてトカゲとか蜘蛛とかを使い魔にすれば良かったのに!」
「ああ、安心しろ。そっちはロキが担当する。お前は戦闘があんまり得意じゃないと聞いたから、いざと言う時の魔力供給と、基本的にはサポートを任せようと思っている」
「そんなのあの猫ばっかり活躍しちゃうじゃない! わ、私だって攻撃魔法の一つや二つ…」
マルも自分が何を喚いているのかよく分からなくなってしまった。とにかく、あんなに危険な仕事があるなんて初めて知ったのだ。よくよく考えれば魔法国防軍に所属している魔法使いが、危険ではない仕事を受け持つことなんてあるのだろうか。
マルは顔の良さでパートナーを選んでしまった己の浅慮さを呪った。今頃2人の美しい姉たちは、宝石やら美味しいご飯やらに埋もれながら透き通る南国の海をたゆたっているだろうに、私はと言えば薄暗く湿っぽい森の中で大蛇の丸焼きを見せられている。
マルは宥めるようなレオの掌を受け入れながら泣き出したい気持ちを頑張って堪えた。
ふと、マルは辺りを見回した。ロキが何処にも見当たらない。
「あの猫は?」
「ロキなら薬草取りに行ったぞ。さっきの戦闘で少し毒液浴びたらしい」
「なにそれ! 一大事じゃない!」
マルは慌ててロキの匂いを追って駆け出した。自分は回復魔法が得意だから、もしかすると助けになるんじゃないかと思った。あわよくば主人に自分の力をアピールできるかもしれない。そんな打算も含めつつ、マルは草を掻き分ける。それから少し走った先の、木の根元を漁っているロキを見つけて、マルはパッと表情を明るくした。しかし、ロキはマルに気付くと険しい顔をして走りよ寄ってくる。
「おい、レオは?」
低い声と鋭い視線に、駆け寄りかけたマルはピタリと動きを止めた。え、と呆けた声が出る。
「え? えっと、あなたが、怪我したって…聞いて…」
「嘘だろ。お前、主人放って1人で来たのか。馬鹿かよ、他に魔物だって居るかもしれねぇのに。何考えてんだよ」
ピシャリとシャッターを閉めるかのように吐き捨てられた言葉に、マルはビクッと身体を震わせた。
──馬鹿かよ、他に魔物だって居るかもしれねぇのに。何考えてんだよ。
言われた言葉がぐさりと自慢の毛並みを突き刺した。二の句が告げず、マルはすっかり意気消沈して、とぼとぼと広い背中を四つ足で追いかけた。
※※※
レオは特に魔物に襲われることもなく、2人が戻ってくると「お。早かったな、お帰り」と片手を挙げて迎えた。薬草を肩口に押し当て、魔物の気配に警戒するロキの少し後ろに、ちょこちょこと仔猫が着いてきている。
レオはおや、と片眉を上げた。てっきり回復魔法をかけにいったのかと思ったが、上手くいかなかったらしい。
レオはロキを労り、「すまなかったな、後でちゃんと治してやる」と声を掛けてから、2匹に「帰るか」と笑いかけた。仔猫はそっとレオを伺うように見上げてから、すっかり耳を垂らしてロキの後に続いて羽馬車に乗り込んだ。
行きとは違い、向かいの椅子に丸まってしまったマルは明らかにしょげていた。少し離れた所で丸まるロキもどこか不機嫌そうである。レオはどうしたもんかと悩み、やはりもっと介入するべきか、と顎先に指を当てた。
※※※
レオはふむ、と少し眉を寄せた。マルが部屋に閉じこもったっきり出てこない。ロキの怪我を治癒している最中にそれとなく「何かあったのか」と聞いてみたのの、「これは使い魔同士のことだから、お前は気にしないで良い」とすげ無く返されてしまったのだ。
この黒猫は怒っているかと思いきや、どうやらかなり後悔しているらしいとレオは気付き、もう少し使い魔同士に任せることにした。
コンコン、と控えめなノックが響く。入れ、と指示を出すと、ひょこりも顔を覗かせてきたのはヒューゴの使い魔のジェイクである。
「よっすレオさん、ロキ。任務お疲れっす。元気?」
非番であるはずのジェイクがわざわざ訪ねてくるとは。レオは「どうした?」と首を傾げる。ジェイクはへらりと笑ってから、「僕、蝙蝠だから色々勝手に聞こえてきちゃうんすけどね?」と切り出した。
「なんか、めっちゃ部屋で啜り泣いてるっすよ。新入りの毛玉ちゃん。此処来てからずっとそんなんばっかだし、最初はホームシックとかかな〜って知らん顔してたけど、さすがの僕でも可哀想になっちゃって」
僕もそんなに他所様の関係に首を突っ込みたく無いんすけどね? と困った顔をしたジェイクに、レオはやはり早急な介入が必要だなと決意した。
ピクッと目下の黒猫の耳が動く。
「うーん、だめだな。早まったかもしれない。任務やら何やら、少し急ぎ過ぎたか。…ロキ、すまないが…」
「……レオ、お前は悪くない。俺が任務の後でキツく言い過ぎたせいだ。あいつ、俺に任せてもらえねぇかな」
黒猫のままのロキがレオに頭を下げた。ジェイクが内心で「僕が目を離した隙に中々おもしろいことになってる」とボヤく。
レオはもう一度逡巡するが、やはりロキに任せることにした。物は試しだ。それにここまで自分以外の相手に気を揉んだロキを見たのは初めてだったからだ。レオは真剣な灼眼を見返すと、「頼んだぞ」と送り出した。
取り残されたジェイクが「童貞の奮闘記っすか?」とレオに茶化すように尋ねると、レオも「当たらずとも遠からずだな」と笑った。
※※※
いつかのように窓枠を鼻先で押すも、ビクとも所を見るとしっかりと内側から魔法で閉じられているらしい。
ロキは控えめに窓枠を引っ掻いた。ベッドの上で丸まった小さな白茶の毛玉から、これまた小さな顔がチラリとロキの方角を向くも、そのまま知らん顔をされてしまった。マルは無視を決め込むつもりらしい。ピスピスと寂しげな鼻音が窓越しに聞こえ、ロキの心臓が罪悪感でキュッと痛む。
本音を言えば、ロキだってそこまでキツく言ったつもりは無かった。普段している気の置けない友人達のやり取りみたいに、しっかりしろよ、という気概でいつものように注意をしたまでで、まさかあんなにベコベコに凹まれてしまうとは思わなかったのだ。
そして何より、自分の怪我を心配して慌てて駆け付けてきた仔猫に対して、少しの嬉しさを感じたのは確かで、ちょっとばかり素直で無い己の性質と、照れ臭さで素っ気ない言い方をしてしまった非は認めよう。
ロキはどうにも最近平静を保てていないな、と自省する。大人気なく言い返してしまったり、無駄に反応してしまったり。
白茶の毛玉がもう一度窓越しのロキを見た。部屋への入室許可が出るのを待つかのようにじっと座り続けている先輩に対して、マルも次第に心苦しくなってくる。
そもそもマルは、ロキが更なる叱責をしにやって来たのだと思っていた。主人をほっぽって勝手に走り出してしまったのは、今思えば使い魔とした最低の行為である。主人が主人ならばお仕置きコースだ。マルは散々反省したのに、これ以上怒られたらどうやって反省しろというのか、ともう一度窓越しの黒猫を睨み付けた。
しかし、このまま部屋に閉じこもったとしてもお腹はすくし喉も乾く。どうせ怒られるのなら今粘ったところで意味も無いだろう。
マルは魔法で内鍵を外した。せめてもの虚勢を張って、ぐっと嗚咽を飲み込み胸を張ってみせる。レオから戯れに貰った紺色のリボンが僅かに揺れる。黒猫は入室許可が降りると黒いマフラーを翻してカーペットの上に軽やかに降り立った。毛を逆立たせながら必死にこちらを見返す仔猫の耳は変わらずペタリと垂れており、怯えたように鼻先はヒクヒク震えていた。
「お、怒るんならさっさとしてよね! わ、私だって沢山反省したし、ちゃんとレオさんにごめんなさいって謝ったんだから!」
怯えてひっくり返った声が部屋に虚しく響いた。ロキはそっとマルのいるベッドに片手を乗せた。
「いや、その…、謝ろうかと思って…」
マルはロキに言われた言葉が理解できず、「なにを…?」と訝しげに問いかける。
ロキはマルの瞳が泣き過ぎて真っ赤に充血してしまっているのを目にして、ぐっと罪悪感を押し留めた。本当に、自分よりも一回りも歳下の仔猫を泣かせて何をしているんだろう。ロキの方こそなんだか泣きたくなってしまった。
「だから、俺、言い過ぎたから…。本当はちょっと嬉しかった。俺の怪我、心配してくれたんだろ…?」
「……でも、レオさん、置いてっちゃったし…」
「まぁ、それは…。でも、まだお前は新人だし、俺が先輩としてちゃんと教えとけば良かったんだ。だから、これからは分かんなければそっちからも色々と聞いていいから…」
俺のこと、怖いかもしれないけど…。
ボソリと気まずそうに付け足された言葉に、マルはポカンと口を開けた。あれ、なんだ。怖がってるの、バレてたんだ。やや下を向いた黒猫の耳に、マルはほんの僅かに安心してしまった。
この先輩も凹んだりするんだ。
うん、と小さく頷くマルに、ロキはほっと息を吐いた。
「あと、別に本気で馬鹿だなんて思ってねぇからな。そんな奴をレオが使い魔に選ぶわけ無いだろ」
「…うん…」
「あー、ほら。お前、回復魔法使えるんだろ? その歳でやるじゃねぇか。今度見せろよ。きっとレオも頼りにしてるはずだぜ」
「そ、そうかな…?」
泣きそうな仔猫を必死でおだてると、目に見えて気分が上昇した。ロキは小さくガッツポーズをする。よし、いいぞ俺。この調子だ。
「…そのリボンもよく似合ってるし…」
ロキが必死に言い慣れない褒め言葉を伝えてやると、マルは花が咲くように笑った。
「似合う? そうなの、これレオさんから貰ったの。お菓子の包装についてたやつだけど、私、この色が1番好きって、きっと知っててくれたんだわ」
「おう、そうだな。あの人は観察力がすげぇから、ちゃんとお前の好みに気付いてたんだな」
「そうよね? やっぱり、あなたから見てもそう思うわよね?」
マルの耳がぴょこぴょこと上を向いた。髪と同じ色の大きな瞳をうっとりと細め、機嫌良さげに尻尾をゆらゆらと揺らす仔猫の姿に、ロキは何だか胸の奥が締め付けられるような気持ちになる。
マルはすっかり機嫌が良くなったから、ベッドから飛び降てロキの周りをちょろちょろと歩き回った。
「あなたも毛並みをちゃんと整えれば、きっともっと可愛がられるはずよ! つやつやでふわふわの毛皮は猫の特権なんだから! 元の毛質は真っ直ぐでサラサラなんだから、手入れをしなきゃ勿体ないわ!」
マルは黒猫の毛並みにフンフンと鼻を突っ込んでは歩き突っ込んは歩きを繰り返して、まるで姉妹に対してするかのようにペロペロと小さな舌でロキの毛を舐め始めた。猫の使い魔同士でグルーミングを行うことはよくあることである。
しかし、ある程度の親しい間柄で無ければ行うことは無いと、ロキは知識としてきちんと知っていた。
ここでの世間知らずはどちらかというとマルの方で、乳母や仲の良い使用人を友人の基準として育った少女は、グルーミングの意味を履き違えていた。だって毎日されるから。挨拶のようなものだと思っていたのだ。
ロキは絶句し、毛並みをぶわりと逆立たせた。異性の猫からグルーミングなんて人生で1度もされたことがない。慌ててマルの首根っこを咥えて引き剥がした。
「もう! 人がせっかく仲良くなろうと歩み寄っているのに!」
「や、待て、お前それはまだ早いだろ…っ!」
「やっぱり貴方、私のこと嫌いなんだわ! 初対面で大嫌いって言っちゃったこと、まだ根に持ってるのね?」
「いやいや、こら、無理矢理舌を伸ばそうとすんな! 別に根に持ってねぇから!」
嘘つき。私のこと遠ざけようとするじゃない。
マルの鼻がまたピスピスと寂しげな音を立てる。ロキは深く溜息をつき、咥えていた仔猫をそっとカーペットの上に下ろした。そしてそのまま背中のあたりをペロリとひと舐めしてやる。マルがキラキラとした瞳を向けてくるのが見ずとも分かった。しかし、ロキがそれ以上グルーミングを返す気が無いと知ると、「それだけ?」と不服気な声を出す。ロキは羞恥で一杯だった為、勘弁してくれ、と低くボヤいた。
※※※
それから明らかに使い魔2匹の関係は良くなった。人型でも元の姿でも、雛の刷り込みのようにロキの後を追い掛けるマルの姿に、レオはほっと安心のため息をついた。関係が改善して何よりだ。仕事でもロキは人一倍頑張ってレオとマルを守ろうと奮闘しているし、マルも腰が引けつつも遠くから支援をするようになった。未だに汚れたくない、と喚くのはどうしたものかと思うが、回復魔法に関しては目を見張る精度である。
レオは紅茶に口をつけ爽やかなフレーバーを堪能する。ついでにマカロンを摘んでから、足元で寄り添うように丸まって眠っている黒と白茶の塊を見下ろし、よしよし、とほくそ笑んだ。
※※※
すぅ、と音も無く部屋に降り立った1羽の烏が人の形に変化した。向かいのソファーにゆったりと座った華奢な青年は、「1人でお茶会なんてずるい」と指を一振り、自分用の紅茶を用意してきた。レオは小さく笑うと、「お前は茶菓子を食べている時は必ず現れるな。ところでスミスは」と主人の有無を問いかける。ロンメルは小指をピンと立てながら桃色のマカロンを摘んで、ひょいと口に放り込んだ。
「んー♡ おいし♡ あたし、可愛いお菓子には目が無いのよ。愛しのスミスちゃんは筋トレ中」
「それで、何の用だ? お前のことだから、お菓子の摘み食い以外にも何か理由があるんだろう」
ロンメルは手元に浮かんだ紅茶のカップをそっと手に取り、上品に飲んだ。そしてソーサーごと再び空中に浮かべる。烏の使い魔はその頭脳は何よりの特徴であるが、魔法のコントロールに秀でている一面もあった。
「新しい任務ちょーだい♡ 光り物集めたいのよ」
「主人に言え」
「言ったらレオに言えってさ」
「む…そうか。目当ては報酬の宝石類か?」
ロンメルはよくぞ聞いてくれた、と嬉嬉として国防軍に寄せられた依頼紙を懐から取り出した。レオは少しばかり嫌な予感を覚える。経験上、この烏が上機嫌で持ってくる依頼がややこしくないことは1度として無かった。
「最近、異常気象が続いたでしょ? 硝子虫の巣がそこら中に出来たんですって。で、中でもこの北の洞窟の奥にでっかいのがあって、探掘家たちが困ってるから何とかしてあげたいわぁって」
レオは依頼紙を受け取り、地図をじっと見つめた。
「北の洞窟って、これ氷の所だろ。さては、お目当ては氷輝石だな?」
「んふふ♡ 見た目は勿論、一個で土地買えちゃうお宝よん」
「あそこの気温は氷点下だろう。筋肉達磨のスミスはともかく、お前は羽が凍ってろくに動けなくなる最悪のパターンしか見えないな。諦めた方が賢明だ」
「そうなのよ。だから臨時パーティ組みましょうよ。レオよく見て。硝子虫の巣ってことは、タダで大量の硝子仕入れられるでしょ? そろそろ検体採取用のガラス瓶、在庫少なくなってきたんじゃなぁい?」
丸まっていた黒猫の片耳がピクッと動く。ロンメルは桃色の瞳をうっそりと細めた。この組織の頭脳を担う1人であるロンメルは、しばしばこうして身内にも交渉をふっかけてくることがあった。レオは素早く倉庫の在庫を算段し、それもそうかと思い至る。
「うーむ、臨時パーティか…お前は誰を考えてるんだ?」
ロンメルはにっこりと笑みを深めた。この発言を引き出せれば、もう既に勝ったも同然であった。
「まず補助魔法得意なマシューちゃんでしょ? マシューちゃんが居れば寒さも大分マシになると思うし、そしたらギデオンも冬眠しなくて済むから戦力として連れていきたい。で、スミスちゃんとあたしは巣の破壊係♡ あとジェイクも位置探知係で連れていきたいな」
「ヒューゴはどうするんだ。あいつ確かこの後任務入ってただろう。使い魔無しで行かせるのか?」
「うん、だからロキ貸してぇ♡」
レオはやっぱりか、とため息をついた。足元の黒猫も面倒くさそうに尻尾を1度揺らす。基本的に万能で、契約外ではあれど、魔力の強さからどの魔法使いともペアを組めるロキはよくこうしてヘルプの役割を担うことがあった。
レオは諸々の利益と損失を考えてから、ロンメルに「うちのロキは高いぞ」と交渉を始める。
ロンメルは知っていたとばかりに指を二本立てた。レオが無言で三本立てる。ロンメルが「硝子虫♡」と付け足す。レオは「じゃあ諦めろ」とすげ無く言い返した。いやーん、ケチ、とひと鳴きしてから、ロンメルは指を三本立てた。
「よし、決まりだな。ロキ、すぐに準備しろ」
「レオ、この後は本当に任務入ってないんだよな?」
「安心しろ。後は書類整理だけだから、マルだけで充分だ」
「何かあったらすぐ連絡しろよ。約束だからな」
尚も言い募ろうとするロキをレオは苦笑いで諌めてから、懐に入れていた赤い宝石のついた指輪を投げて寄こしてやる。ロキは口でキャッチをすると、もごもごと礼を言った。
「ヘルプ先で風邪引かれたら困るからな。気休め程度だが、ちょっとした湯たんぽ代わりにはなるだろう」
人の形になったロキが照れ臭そうに中指にリングをはめた。ロンメルが「あたしにもちょーだい♡」と口を挟んだがレオからの「自分の主人に強請れ」と一蹴される。
ロキは足元で未だに丸まっている仔猫を起こした。寝ぼけ眼がパチパチと瞬きをする。
「おい、起きろ。今から任務行ってくるから、レオを宜しくな」
「へ? なに? お留守番してろってこと?」
「そうだ。寝てばっかいないで、レオにお茶出したりちゃんと書類整理手伝ったりしろよな。いいな?」
マルはふぁぁ、と欠伸をしてから、はぁいと気の抜けたような返事をした。そして目敏くロキの中指に嵌めていた指輪を見つけると、「あ! ずるい!」と騒ぎ出す。呆れた顔のロキが「借りただけだ」と懸命によじ登ってこようとする仔猫の首根っこを掴んだ。
「私だってキラキラしたものが欲しい! ずるいわ! あなたばっかり可愛がられて!」
「へぇ、お嬢ちゃん光り物好きなの?」
ロンメルの問い掛けに、首根っこを掴まれぶら下がったままのマルが目を輝かせた。
「ええ、大好きよ! だって綺麗で素敵じゃない。私、いつかお姉ちゃんたちの宝石箱のようなコレクションを作るのが夢なの。あなたもそうなの?」
「宝石類から生き物まで、光り物は大好きよん♡ 今度、あたしの部屋に招待してあげましょうか。キラキラでピカピカよ」
マルは頬を紅潮させ、キャッキャと手足をばたつかせた。あまりの喜びようにロキが面白くなさそうな顔をする。まだ何かとロンメルと話したがるマルを無視してそのままレオの膝の上に落とした。
「いいな? ちゃんと使い魔として主人のサポートするんだぞ?」
「なによ! 分かってるわよ、さっきも似たようなこと聞いたもの。そんなに私って信用ないの? 失礼しちゃうわ。あなたこそ、さっさと任務でもどこでも行ってきなさいよ」
話を中断されたことで臍を曲げたマルがぷいっと顔を背けた。双方の気持ちに何となく気付いたレオは、苦笑いをしつつロキに「くれぐれも無茶はしないように。気を付けろよ」と声をかけてやった。
すると、マルの耳がピクリと動き、「そんなに危険な任務なの?」と不安げにレオを見上げた。敢えてレオは神妙に頷いて、「あぁ、かなりな」と嘯いてやる。サッと毛を逆立たせた仔猫は慌ててロキに「気を付けてね」と小声で付け足した。
それが思いのほかいじらしい仕草であったから、ロキは何とも言えないソワついた気持ちになり、照れを誤魔化すようにマフラーを口元まで持ち上げた。
「お、おう…」
ロンメルがくすくすと笑い、「それじゃあ行ってくるわね」とロキと共に部屋を出ていった。
マルはもう一度レオを見上げて、「本当にあの猫は大丈夫なの? なんだか突然、弱気になってしまったわ」と心底心配そうな声を出した。レオは堪えきれずに小さく吹き出してしまった。長年の相棒がここまで分かりやすく態度に表しているのも、それに微塵も気付いていない仔猫の反応も、主人としては大層愉快であった。
※※※
冷めた紅茶を淹れ替えて、指示された書類を本棚から運んでくる。時折印の押し忘れを確認しては紙の端を揃え積み重ねる。マルは書類整理をするレオの手助けをすることが専らのお気に入りであった。紙と万年筆が擦れる音が静かに書斎に響いて、時折外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。部屋は快適な温度に保たれているし、紙と紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。この静かで柔らかい空間は、マルの従来の気質と非常に合っていた。
そんな穏やかな空気を切り裂くように鳴り響いた緊急用の電話の音に、書類を束ねていたマルは肩を跳ねさせた。レオはすぐに受話器を耳に当てる。その声が真剣な色を帯びた。
「あの、一体何が…」
「隣街に野生の飛龍が出た。既に討伐隊が向かっているらしいが、規格外の強さらしい。中央からの緊急要請だ、すぐに準備しろ」
「え、ええ。でも、私…」
マルの懸念を正しく理解したレオは、素早く所持品を確認しコートを羽織ってから、安心させるように片目を瞑ってみせた。
「大丈夫だ。フェイとグリムにも現地に向かわせるし、一応国境に居るヒューゴとロキにも連絡を入れておこう。不安だろうが、いざとなれば俺がいくらでもフォローしてやる」
レオが指先をサラサラと空中に滑らせると、金色の文字列が宙に浮かび上がった。そのまま文字列は生き物のように部屋から滑り抜け、指定された宛先へと一直線に向かっていく。そしてレオはいつの間に掌に握った黒い杖をトン、とカーペットに押し付けた。濃密な魔力が床を渦巻いていく。
「行けるか?」
にやりと好戦的に笑った主人に、使い魔は何度も頷いた。差し出された掌を掴み、そのまま吸い込まれるように空間を超える。1人と1匹は魔力の渦を越えて、瓦解した街の一角を見下ろしていた。
※※※
民家の屋根に降り立ったマルが目にしたのは、咆哮と共に長い尻尾で辺りの建物をなぎ倒す赤い飛龍と、それを取り囲むように多くの魔法使いたちが高らかに呪文を唱えている姿であった。
マルはロキのいない初めての大仕事に緊張しつつも、懸命にレオの周りに防護壁を張った。
ロキが常にやっていたことを、今度は自分が担当するのだ。
身体を固くする使い魔に、レオは「落ち着け。ゆっくりでいい」と宥めてやる。人の姿は集中力を使うから、主人に対する魔力の補充と防護壁づくりは同時進行してみると中々難しいのだなとマルは密かに先輩への敬意を覚える。
「お、なかなか上手いぞ」
「ふふん! 当然ですとも!」
レオは使い魔の機嫌をとりつつも、手早く周囲の民家に防護壁を張る。そして、じっと先で暴れる飛龍の強さを見極めようと目を細めた。体格はそこまで大きくは無いが、しなやかで強靭な尻尾は厄介だ。表皮の厚いゴツゴツとした羽が比較的柔らかい腹部をしっかりと隠してしまっている。火消しに奮闘する魔法使いたちの様子を見るに、今は次の火炎放射までのインターバルか。
「ふむ、羽と尻尾をもいで無力化させたいな」
「大型魔法はだめよ、他の魔法使いも巻き込んじゃうもの」
「あいつら雀の涙程の魔法しか当ててないな。無駄に分散させるのなら、いっそ一つに纏めて大型魔法にするとかいくらでも工夫が…」
ボヤいたレオは「ああ」と納得の声を上げる。「あの飛龍、まず司令官を潰したらしい。見かけより頭いいぞ、あいつ」
レオは屋根伝いに瓦解した街の中心部に駆け寄った。マルも慌てて後ろに着いていく。そこらかしこから聞こえてくる負傷者のうめき声に苦々しい気持ちになる。レオは手近な距離にいた魔警団の1人に声をかけた。
「緊急要請を受けて来た、魔法国防軍の者だ。手短に状況を説明してくれ」
「はっ! あの飛龍のブレスで先程団長がやられました。その後、団長の使い魔が刺し違えて飛龍の片目を潰しましたが、それ以降の有効打は与えられていません。魔法の効きも弱く、団員も手を出しあぐねています」
「負傷者は?」
「把握しきれないほど出ています。治療魔法が使える団員数名が中心となって、民間人や病院の職員らと救護活動を行っていますので、そちらは大丈夫かと」
「奴の目的は何だ? 食料か?」
「いえ、団長がやられてからは街の中央から動こうとしません。しかし、破壊活動は依然として続けているようです。その割に、怒り狂っているようには見えない…何なんでしょうかね、あの龍は」
報告を受けたレオは「そうか」と手短に返事をして、飛び回る魔法使いたちに、1度引くように指示を飛ばす。その声に反応してか、飛龍の金色の片目がギョロりと動きレオを捉えた。マルは背筋に嫌な予感がかけ昇るのを感じる。飛龍がにんまりと笑った気がしたのだ。
「レオ、あの飛龍…」
「ああ、あいつ多分俺を狙ってくるだろうな。目的が大体分かったぞ。通りで若い飛龍だと思った」
レオの口の端が弧を描く。
「お前はどうする? やれるか? 何なら俺のポケットに隠れててもいいぞ」
マルは慌てて首を振った。自分だって役に立つことを主人に知ってもらいたい。攻撃魔法も密かに練習を重ねてきたのだ。レオは頷いた。
「でも人型にはなるなよ。いざと言う時に魔力切れを起こすと共倒れするからな。その分は自分の防御に回せよ」
マルはうんうんと頷き、仔猫の姿に戻った。ロキに指示を出す時は端的で要点しか伝えていないが、まだ経験の浅いマルにも分かりやすいようにその都度指示を飛ばしてくれるのは有難かった。
レオは杖をくるりと回転させる。飛龍のぱっくりと開いた口の奥で火花が散るのが見えた。マルはレオの足元にしがみつきながら、主人のやりたいことを察知して魔力を存分に供給した。レオの杖から溢れた魔力が、大量の水に変化したと同時に、飛龍は炎を放射してくる。水蒸気で曇った視界に、キラリと金色の光が見えた。
「正々堂々と勝負する気は無いぞ」
レオが炎を掻き消す水の壁を作り上げ、そして水蒸気に紛れるように光り輝く巨大な槍が、飛龍の無防備に開いた咽頭部を突き刺した。ギャアア、と飛龍が痛みにのたうち回る。下がっていた魔法使いらが歓声を上げた。
「よし! 火炎袋を潰した! なんて魔力だ、信じらんねぇ!」
「これでブレスは吐けない! 我らもあの人に続け!」
しかし飛龍はその場で飛び上がると、器用にも尻尾を使い突き刺さった槍を抜いてみせた。レオはマルを抱え瞬時に横に飛び去る。青ざめた魔法使いたちも次々にその場から逃げ惑った。轟音とともに飛龍が突っ込んできたせいで建物がまた1つ瓦解する。
「まずはあの羽をどうにかしないとな…」
「ここはオレらにまーかせとけ!」「お待たせレオ!」
空中から猛スピードで落下してきた魔法使いが、両手に持った大剣を飛龍の片翼に向けて振り下ろす。緑色の光が稲妻のように炸裂した。轟音が響くも、鈍い金属音と共に大剣が真っ二つに折れる。
「あっ! 折れたぁ!? まじかよ高かったのに!」
「ぎゃー! だから言ったじゃん見た目より性能重視にしとこうって!」
「グリムだって個性派でいいじゃん!って喜んでただろ!? 裏切んのかチビ!」
「誰がチビだ身長ほぼ一緒だろ!」
言い争いながらも素早く撤退し、サッとレオの背後に隠れたフェイとグリムに、「お前ら逃げ足だけは早いな」とレオが呆れたようにため息をついた。
グリムがひょこりと顔を出して、もぐもぐと何かを食べている。ぺ、と吐き出したのは飛龍の黒い鱗であった。
「んー、あの羽に付いてるの多分鉱石だと思うな。アダマンタイトみたいな系列の。どうせ尻尾も硬いと思うし、狙うならもう内側から行くしかないよ」
グリムの報告にレオがふむ、と頷き、やがて悪戯っぽく笑った。
「フェイより使い魔のグリムのが優秀だな。お前らいっそ役割交代してみたらどうだ?」
グリムが「どうする? 代わるか?」と乗っかる。フェイが拗ねたように「うっせー暴食チビ」と唇を尖らせた。
マルが「あっ!」と声を上げた。飛龍が再び飛び上がり、牙を剥き出しに迫ってくる。レオはフェイに目配せをして、杖を前方に掲げる。
鋭い雷の魔法が飛龍の口内に炸裂する。しかし、口腔内も粘膜が分厚いのか、魔法の通りがあまり宜しくない。すぐさま背後に回り込んできた飛龍の尾を目にしたレオは舌打ちをして、すぐにフェイに撤退命令を出す。
マルは途端に嫌な予感がした。
飛龍の瞳がギロリと光る。キィィン、と甲高い音が炸裂したのはレオ達の背後からだ。超音波のような衝撃で、魔法使いを守る防護壁が硝子が砕けるように粉砕した。
「っあいつ、尻尾に波動石仕込んで…!」
グリムが両耳を抑え、呻くように呟いた。長い尻尾は攻撃用だとばかり思っていたが、どうやらこうして獲物の平衡感覚を狂わせる為らしい。レオは奥歯を噛み締め、その場でうずくまるフェイに肩をかす。グリムがふらつく足を無理矢理立たせ、援護をするようにナイフを構えた。
屋根の瓦が崩壊する音と、地鳴りのような咆哮。鋭い牙が主人に迫る。使い魔の仔猫はするりとレオの腕の中から抜け出して、決死の覚悟でグリムを見た。
見開かれた黒色の瞳が、マルの視線と交わる。
──一瞬の交錯は、命懸けで主人を守らんとする使い魔としての意志を確認しあった。
マルが何をしようとしているのかを察知したレオが使い魔の名前を呼ぶ。しかし、マルは止まれなかった。先輩であるロキに留守を任せられたのだ。此処で主人を怪我させてしまっては、申し訳が立たなくなる。それに、マルには高貴な生まれで優秀な使い魔であるというプライドもあった。
駆け出した小さな仔猫は飛龍の目には入らない。硬い飛龍の皮膚は仔猫の柔らかい爪を簡単に剥がしたが、それでもマルはかけ昇った。ありったけの魔力を小さな牙に込めて、漸く辿り着いた登頂の、硝子玉のような金色の瞳にかぶりついた。プシャッと水晶体が弾ける音がして、仔猫が込めた魔力が飛龍の眼球から脳天へと貫く。ブチブチと神経が焼き切れる音に、飛龍は苦痛の絶叫をする。その間にグリムがフェイとレオの脳震盪を治癒し、残りの魔力を全て供給する。
「ほんとに頼むよ! これで決めてくれ!」
「当たり前じゃボケチビ! グリム、はやくマルちゃん回収してやって!」
「フェイ」レオは静かに前を見据えている。
「分かってる!」
レオの魔力が膨れ上がるのを、フェイはやや気圧されながらも自身の魔法に集中した。脱力し、ぬいぐるみのように飛龍の瞳にぶら下がっている仔猫をグリムが素早く回収したのを確認すると、フェイは未だに悶え苦しむ飛龍の鼻先をありったけの力で蹴りあげた。バチバチと閃光が飛龍の身体を駆け巡り、無防備に喉が晒される。
「いくぞ」
「せーっの!」
レオが濃密に練った魔法で作り上げられた刃を飛龍の喉元に食い込ませるのと、雷を纏わせたフェイが、飛龍の後頭部を刃に向けて蹴り飛ばしたのはほぼ同時であった。断頭台に晒された処刑人のごとく胴体から離れた飛龍の首は、潰れた民家の上に落ち、その巨大な体躯も崩れ落ちるように地に伏せた。
※※※
ゲボッと嫌な音と共に吐き出された赤い液体に、マルはべそをかいて泣いた。
「ひ、んぐ、いひゃい〜…」
「あぁ、あんま喋らない方がいいよ。牙が折れちゃってるから。爪もやっちゃってるな。暫くすれば新しく生えてくると思うけど…他に痛いところある?」
「あひ…あ、あひ、が、いひゃい」
「足? ありゃ、前足がやばい方向に…待っててね。すぐに治してあげるから」
満身創痍のグリムが残りの魔力を絞り出すようにしてマルに回復魔法をかける。何とか前足はくっついたが、暫くは安静にしていた方が良いだろう。
「マル、無事か」
珍しく息を切らして駆けつけてきたレオに、グリムは仔猫を差し出してやる。四肢と口周りを真っ赤にした仔猫がミャアミャアと親を呼ぶかのような鳴き声を響かせた。ぺったりとレオにへばりついたマルを見て、グリムもほっと息を吐く。「グリム!」同じく駆け付けてきた己の主人を見つけ、グリムはすっかり脱力してしまった。
「もー、ほんとに、ほんとにお前さぁ〜、隙をつかれて脳震盪とかさぁ…」
そこまで文句を言ったグリムだが、魔力切れで倒れ込んでしまった。小さなハムスターに戻ってしまったグリムをすくい上げるように持ち上げて、フェイはずっと鼻を啜る。
「ごめん、グリム。ごめん。俺、もっと強い魔法使いになるから…」
レオは泣きじゃくるフェイを横目に、ほんの小さくため息をついた。
隙をつかれて使い魔に身体を張らせてしまったのはこちらの落ち度だ。可哀想なことをした。
掌の上で眠りこける仔猫の、血で固まった白茶色の毛並みを指先で撫で、せめて目覚めた時に泣いたりしないようにと魔法で綺麗にしてやった。
※※※
揺蕩う意識の中で、マルは乳母に優しく撫でてもらう夢を見た。ゴロゴロと喉を鳴らして甘えると、そっと乳母は擦り寄ってくれる。マルはもう少し、この暖かくて平和な夢の中に居ることにした。
※※※
起きた時に、レオの匂いに包まれていたことにマルは嬉しく思った。丸くなった仔猫を囲む巣のようにレオのコートが敷かれている。マルは欠伸をして、いつものように手鏡を浮かせて身嗜みを整えようとした。そこで首元の違和感に気付く。
「まぁ! 素敵!」
シルクのように肌触りの良い紺色のリボンが、マルの首元で綺麗に蝶結びにされている。中心部には何やらキラキラと輝く小さな宝石が付いていた。マルは嬉しくなってくるくるとその場で回ってみせた。
「起きたか?」
のそりと顔をあげた黒猫に、マルはワァと叫んでしまった。しかし慌てて取り繕って、お上品に笑ってみせる。
「任務は無事に終わったのね! ねぇ見て! こんなに素敵な贈り物を貰ってしまったわ! きっと私が頑張ったから、レオがご褒美をくれたんだわ!」
「そうだな。レオが礼を言ってたぜ。お陰で助かったって」
「ふふん、そうでしょうとも! 私、あんなに死ぬかと思ったのは初めてよ!」
ロキはキャッキャとはしゃぐ仔猫をじっと見詰めて、顎先でそっと小さな身体を押しつぶした。マルがじたばたと暴れる。
「もうちょい安静に寝とけ。牙も爪もバッキバキにされたんだってな。まだアドレナリン出て落ち着かねぇのも分かるけど、明日辛いのは嫌だろ」
「……あなた、なんだか元気が無いのね? もしかして、任務で活躍できなかったの? 大丈夫よ、その分私が手柄を上げたんだから。あなたにも素敵な贈り物を貰えるように、明日お願いしてみるわ」
もがくのを止め、黒猫の毛に埋もれたままきょとんと首を傾げたマルに、ロキはそっと笑った。
「いいよ、別に。…無事に戻ってきてくれただけで満足だ」
「ふふん、少しは私を見直した? 無事どころか、なんとレオは無傷よ!……いいえ、無傷では無いわね。多少脳にダメージを受けてしまったかしら…不安になってきたわ。大丈夫よね?」
「ああ。レオは大丈夫だから気にすんな。頑張ったな、お前。使い魔としてよく頑張った」
優しげに細められた灼眼を向けられ、マルは素直に頷いた。折られた牙と爪は元に戻っているし、血濡れで汚れていた毛並みもすっかりいつも通りのツヤツヤでフワフワ、おまけに新しいリボンと綺麗な宝石まで貰ってしまった。これなら痛い思いをした甲斐があったというものだ。マルは上機嫌に微笑んで、そのままあっさりと寝落ちた。
ロキは下敷きにしていた仔猫をそっと見下ろし、起こさないように丁寧にグルーミングをしてやる。
レオからの連絡を受けた時は、ロキは既にヒューゴと西の国境の魔法使いと魔物の軍隊の紛争を諌める任務で精一杯であった。気掛かりではあるが、フェイとグリムも居るし、何よりも魔法使いとして優秀なレオが簡単にやられるとは思っていなかった為、そのまま任務を続行することにしたのだ。
任務から帰ったロキが、レオの膝の上で治療魔法を受けている仔猫の姿を目にした時にはそれはもう血の気が引いた。血濡れの口元に、焼け焦げた肉球と剥がれてしまった爪に、マルが死んでしまったかと思ったのだ。
レオの無事にひと安心する一方で、一瞬だが、ロキはどうしてこんなことになったんだと主人を問い詰めてしまいたいような気持ちにさえなってしまった。
レオは珍しくかなり凹んで、「俺が相手の力を見誤った」と意気消沈していたから、ロキは慌ててそれを否定した。もっと自分が早く任務を終わらせて、すぐに現場に駆けつけていればよかったのだ。ロキとレオならば飛龍の首を撥ねることも、その両羽と尾を切断することも可能だっただろう。
それに、戦闘力の高いギデオンや、攻撃魔法の得意なヒューゴがいればもう少し早く決着がついたのではいか。ロキはぐっと拳を握り、もっと強くなろうと誓った。
レオはポツリと、「マルに渡す褒美は何が良いだろうか」と聞いてきたので、ロキは自身のマフラーをキュッと握りしめた。そして、仔猫の首にボロきれのように付いているリボンを目にしてから、「新しいリボンとか…こいつ喜ぶんじゃねぇかな」とぼそぼそと伝えた。レオが何色だと聞くから、以前仔猫が言っていたことを思い出して「紺色」と答える。ついでに、ロキはそっとポケットから小さな石を取り出して、「これもおまけで付けてやってくれ」とレオに渡した。西の国でしか採れない、光を良く通す希少な水晶だった。
レオはふ、と微笑むと、何も言わずに頷いた。




