金色の森と紅の森
~聖帰還者のRe.ファミリア~
森へ散歩に行った時、シスターたちがとあることについて教えてくれた。
あれはいつの事だっただろう。
恐らくまだ、完璧には常識が備わっていない頃の話で、何かのついでに教えてもらった...そんな気がする。
「森で迷わないようにするためには、木に目印をつけて歩くといいのよ」―――――
そう言われていた過去を思い出し、地面に落ちていた枯れ枝を拾い上げるヒルヨルは、すれ違う木々の根元に抜けないようそれを差し込みつつ歩みを進めていた。
本当は木の幹に直接リボンを結んだり傷を付けるなど出来たらいいのだが、石は愚か砂利のようなモノさえ見当たらない森の中ではこれが最良の目印となってくれている。
それに言い方は悪いかもしれないが、普通の樹木ならまだしもこんな神々しい木々に傷をつけようものなら罰が当たってしまいそうだ、なんて。
そんな一生命体に対しては失礼極まりないであろう心情と共に「意外と骨が折れる。」との愚痴をもこぼし、そうやって存在感溢れる金色の生命へとたじろぐ素振りも浮かべていくのだった。
そして生き生きとした樹冠より零れる生気をたらふくその身に貯め込みながら、またもや押し寄せる感動の波にその身をさらしていくのだった。
「こっちも、すごいな。」
心の底からの高揚感を表した声が漏れていく。
周囲一帯の風景に対しての率直な感想...それは、まだ物語の中にいるのかと思えるほどにフワフワと浮ついたものであった。
先の世界樹の子に当たる若々しい新緑が向こうまで一面に広がる様は、例のホログラム加工された木漏れ日を垂れ幕のように下ろし、身体の熱を取り去ってくれるような涼しさを広げている。
加えて共に流れる空気や気温に漂う香りも、爽やかさ、和やかさ、くどくない甘さの三拍子そろった心地よさを見せ、胸の内の多幸感を引きずり出すよう作用していた。
またこれらすべてを支える地盤はさらさらとした細かい砂粒で作られており、脚を取られる感触も枯れ枝すらスッと呑み込む様子も、さながら小波響く浜辺と同じ装いを見せている。
それでいて、不安定なはずの足場に支えられている樹木はその一本も倒れることなくきちんと自立しており、妙な力強さをも保ち続けていた。
まっこと有り得ないものであろう、これらすべての情景は。
しかし事実としてきちんとこの場に実在し、素足のままで駆ける少女とそんな様子「気持ちよさそうだな。」なんて羨望の眼差しで見つめる自身の内情をまざまざと作り上げてくれているのだった。
まるで本当に波の音まで聞こえそうだと錯覚してしまうがために湧く靴の煩わしさに、心だけでなく身体までも軽くありたいと願うあのむず痒さをも覚えて。
「おーい、どこまでいくんだー。」
そんな心情のなかでヒルヨルは、先ほどから何度も行っている少女への声掛けを再開し、相も変わらず反応のない様を見届けるなんて展開に身を投じていた。
何かを目指し、一直線に駆けていたはずの彼女の足取りも今や不確かなものに変わり果て、自信や目的意識なんてものも見えなくなってしまっている。
だから心底危ぶまれる...と信頼感のなくなったその背中へ改めて自身の全てを預けても良いものなのだろうかと熟考し、隙あらば先に躍り出て救いを授かろうだなんて大人げない心意気まで露わにして。
「そろそろ戻んないとー、マジで帰り道わからんくなるよー。
...はぁ、まずいな。
名前も知らないんだよな...」
木々の向こうにまで視線を通し、ありとあらゆる可能性を...ほんの一瞬でも違和感を覚えさせられる人工物らしき何かを、しきりに探すよう辺りをきょろきょろと見渡す。
彼女の意志を尊重しつつも、状況判断と生き延びる術に関しては年齢的に長けているであろう自身の力量を信じての言動...だったのだが。
やはり視界に映るものはいつまで経っても森、森、森。
そんなこんなで一体、どれくらいの時間、またどれくらいの距離を移動してきただろうか。
どうせ、彼女の数歩を一歩で詰められる歩幅の関係上。
焦ることもなければ気疲れするほどに注力する必要もないはずなのだが...変わりない風景と変わりない展開へ迷ってしまいそうだとの嫌な予感は募る一方で―――――
「...連れ戻そうか、いやしかし...。」
これまで歩んできた景色を完璧に覚えられているわけではない彼はその頃になって初めて、『冗談めかしく』ではなく『本気』で後のことを考えるような意識を作り直していくのだった。
「(どうしようかなー...。)」
このままいけばすぐ森から出られる可能性もある―――――
が、一歩間違えれば一夜どころか一生抜けだせない迷宮へと誘われてしまう可能性もある。
彼女を制止することは簡単なのだ、目の前に割って入ればいいだけなのだから。
しかし、立ち止まった少女が再度歩み出すまでにどれくらいの時間を有するのかも知れず、またこんな所での立ち往生にどんな危険がつき纏うのかも全くもって想定できない中。
力ずくに連れ帰るような余計な体力を使うわけにもいかず、そうであれば最もな安全策だと言えよう『崖下の空間へと立ち戻り待機する』ためには、出来る限り今から彼女の意志で引き返してもらう他ないのである。
唯一の足がかりとなっている地面の目印も森の中に設置した枯れ枝という性質上、辿るためには相応の集中力や時間が必要となり―――――
ここまでの距離を一直線に進んでこなかった現実を振り返れば、なおさら早急に動き出さなければ間に合わない。
だからこそ別の計画を立てるなら立てるで、彼女を引き留めるなら引き留めるで早めに動かなければならないのだが―――――
ビュゥォオオオ―――――
「うぉッ...寒ッ!」
解決策の模索、そんな単純作業の繰り返しでいつの間にか前のめりに物思いへ更けていたヒルヨルは、突如として自身を取り巻く突風にハッとして意識を取り戻すと、次いでその寒さに声を漏らした。
ほとんど無意識下の反応だったのだが、先の滝のような汗を掻かせてくる夏場からは考えられないほど真逆な気温の下吹く風に、ほんの微かな違和感すらも覚えていく。
足場を覆っていた真砂が煽られ、膝や脛を削りながら滑り流れていく感触と痛み。
それにより、ある程度の風量を感じ取ってみては吹き荒れる落ち葉が頬まで削って去らないようにと腕で顔を覆い、もうすぐ止むであろう疾風を見送る姿勢を整えてみせる。
まるで夏の暮れに吹く風とは思えない、冬場の悴む痛みすらも想起させる息吹。
それが半袖半ズボンでいるこちらの格好を嘲笑する、もしくはその危険な時間経過を知らせるかのように立ちはだかってくれていて、強く決心する後の展開が鮮明に脳裏へと浮かんでいった。
「くッ...(まずい、寒すぎる。これは流石に、連れて帰ろう。)」
汗で張り付いていた衣類も冷たさを超え、ほどんど乾き切っているかのようにサラサラといつも通りの感触を取り戻している。
そんな事実に、もう不快感を感じる必要がないとばかりに決め打っていたのに、今度は別の意味での嫌悪感が湧き出し、心が焦りに蝕まれていく。
その時点でもう、ヒルヨルの頭の中には一つの思考を繰り返すだけの余裕しか残されていなかった。
このタイミングでの引き返す判断が手遅れでないことを祈る、と...ほとんどそんな神頼みでしかない程の切羽詰まった内容を。
そうして想像していたよりも長く続く疾風の中、何とか視界だけを確保するよう腕の間に隙間を作っては目を開き、少女の動向を探るよう視線をあげてみせるのだった...が
スッ―――――
「―――――...え」
刹那、宙を舞う一枚の葉がわざとらしく目前を横切り、ひらりと地へ落ちていく光景が視界一杯に広がった。
嫌に強調されているようなそれを舐めるように追いかける目と意識...時が止まったかのような静寂をまとって、胸の内から吐き出しそうになるほどの悪寒と違和感を運んでくる。
まっこと綺麗な暖色...スーッと透き通って息をのむほど煌びやかに映える、赤々と染まったガラス細工の様相。
そして―――――
「...あ、れ」
それ越しに奥へ透けて広がっている空間には、人っ子一人の気配すらしなくなった空虚な時間だけがぼーッと佇んでいた。
「...」
風が止むころには思考もまとまり、心や意識も落ち着きを取り戻しているはずだったのに立ち尽くす、ただひたすらに、立ち尽くす。
そうする他なかったヒルヨルの周りには、金色の生命力を放つ若々しさがもう一つとして存在せず、天から降り注ぐ真っ赤な印象にだけ、ただただ満たされていた。
こういう時はどんな言葉で、どんな表現を用い、どんな思考を浮かべるのが正しいのか分からない。
分からないからこそ思考がまとまらず、表現しようにも適切な言葉が出てこないまま、軽率に時間を浪費する。
少女が見えなくなってしまった事実も、正直どうでもいい。
肌寒さで小刻みに震えてしまうくらいには涼しくなった気温も、心底どうでもいい。
頭上から風にあおられ降り注ぐ花弁が...いや、この森自体が透き通って綺麗な深紅に染まっているのも、全部どうでもいい。
それよりもどうか、どうか一つだけ教えてほしい。
この一瞬で、一体自分に何が起こったのか...たったそれだけの事実を。
「...―――――ッ!!?」
バッッ―――――
何に対してツッコめば、何に対して意見すれば、何に対して思考を浮かべるのが適切なのか判断できなくなっていく。
そして同時に自分は何をそんなに怖がって、何におびえ、何に危機感を感じているのかも察することができなくなっていく。
だから今は、とりあえずこうするしかないと目を見開き無意識の内に飛び出したヒルヨルは疲れも忘れ、最後に少女の背を見ていた方角へと一心不乱に駆け抜けていった。
...なんとなくではある。
ただのなんとなくではあるのだが、何故かもうあの空間には戻れないような気がして―――――無意識の内に、振り返ることを嫌った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
見渡す限りひたすらに深紅の桜が咲き乱れる、良く言えば派手、悪く言えば不気味で物悲しい雰囲気と静寂をまとう自然の中。
地を揺らすほどの激しい足音と我武者羅に苦しそうな呼吸音が木々の合間に木霊し、孤独の寂しさと無限に続く空間の広さを知らしめている。
これまで歩んできた金色の森など、もうここには存在していなかった。
だから、来た道を立ち戻り地面に差し込んだ枯れ枝を探すなんて思考も、端から浮かんでこなかった。
目的はただ一つだけ...あの少女と共にこの森から脱出すること。
それだけのために今を、こうやって永遠に走り続けていた。
たった一瞬見失っただけでもう十数分も見つかっていない可憐な背中を、枝垂桜のように首を垂れる美しい花弁を払いのけ、死に物狂いに探し回って。
「はぁ、はぁ、ッはぁ、はぁ...―――――」
先の暑さの中を走るのとはわけが違う
寒さに打ち震えながら駆け、焼けるように嗄れ始めた喉や肺の痛みから空気の渇きを実感する。
そんな症状により、またさらに良くない思考が頭をよぎっては、心情を含めた全身が焦りに焦がされていく。
昨晩まで雨が降っていた真夏日に、こんなに湿度のない乾いた空間があるはずないと。
だから、つまりは、今ここは―――――
「あ゛ぁ、クソッ...」
世界樹から続く、物語続きの情景に囚われたままのヒルヨルの思考は再度、全くもって有り得ないはずのことを現実として受け止めようする意識に苛まれ始めていた。
もうここまでくれば、投げ遣りだ。
走り終えた後のことなんて、考えてもいない。
疲れてへばり倒れ込もうと脚の痛みに悶えようと、呼吸がまともに出来ないのも承知の上で、ひた走る。
ここで危険な目に遭うよりは幾分かマシであろうと、そして真実を知りもしないで訳の分からない思考に呑み込まれるのも気持ちが悪いだろうと、そんな思いを胸に。
そうして約、二十分ほど迷走したであろう頃―――――
「...ッ、!!?」
感覚として少しずつ、木々の少なくなっているような気のする方へと走っていた彼の行動がようやく報われる、そんな兆しが突如見え始めたのであった。
これまで走り続けてきた道のりに比べれば造作もないほどの距離にある、木々の合間へ一筋の陽の光が差し込んでいるのが映ったのだ。
その光景を目にした途端、紅い差し色のみを残したかのようなモノクロームの寂しい空間が、パッと色づき始めたのを感じていく。
同時に、疲れ果てていたはずの足に再度力がこもり、心身ともに軽くなっていくような心地まで実感する。
霧のようなものをまとい、その輝きを全方向へと反射しているがためによっぽどぎらついて見えている木漏れ日。
そんなわざとらしさにも、形容し難い程のありがたみをしみじみと感じ取って。
「(とりあえず出よう。あの子は...それからでもいい。)」
自分本意な思考も今は仕方のないものだとして割り切る。
それが現況の、陽が沈み始めているであろうこの瞬間においては最善手であることに違いはない。
確実に生還するための道筋も整って、とりあえずは大丈夫だと悟ったからこその冷静な判断。
ゆえに後はもう少し走る...ただそれだけである、と。
深追いすれば今度は本当に森から抜け出せなくなりそうな気がしたヒルヨルは「(決して諦めたわけではない。)」と少女のことを念頭に置いたまま、疲れも忘れて力強く森の入り口まで走り抜けていく姿を見せるのだった。
お辞儀をする枝や花弁を無視して吹き飛ばし、地形の良し悪しなどには目もくれず、一心不乱に前だけを見据えて。
そして―――――
「ッはぁ、はぁ、ッはぁ、はぁ...」
それから約、3~4分ほど駆け続けた先で彼は、思うよりも常軌を逸したとんでもない光景をその目に焼き付けることになるのだった。
例の物語続きの思考をそのまま具現化したような、現実離れした景色。
果たしてそれが彼の望んでいた答えなのか...なんて重要な真実をまっこと綺麗さっぱりと忘れ去ったまま、その輝かしさに心を奪われて。
「―――――ッはぁ...うわぁッ、マジかこれ...っはは」
光を反射し漂う靄、それはそのまま大気に流れる雲そのもの。
寒すぎる気候も、やけに疲れやすいと思っていた環境も、異様なほどに強く吹き荒れていた風も、これを見れば無意識の内に理解してしまう。
そしてもう一つ、自身が今どういう状況にいるのかという事実も、これを見れば嫌というほど納得してしまうものであった。
「こ、これ...空?」
空飛ぶ大陸。
昨日の雨によりぬかるんだ山道から滑落したヒルヨルは、見たこともないほどに美しい空間で謎の少女に出会い―――――
そのまま綺麗な森を駆け抜けて今この、明確に日本ではない何処かの世界へと迷い込んでしまっていたのだった。
死んではいないと胸を張って言いたい。
だがもしかすると、ここは天国なのではないか...なんて本気でそう思えてしまうくらいに死ぬほど幻想的な爽快感へ塗れ、引き攣ったような笑みを浮かべてみせた。
「...ん?」
そしてぐるっと見渡していた最中―――――
少しだけ視線を外した先でポツンと佇む、苔むした赤レンガの一軒家とそこに入っていく幽霊のように透けたヒトダマを視界に捉えていった。
陽のある頃に目にする幽霊とは、なんだかこう...美しいものである。