終わりの始まり
~聖帰還者のRe.ファミリア~
「ひるよる、わらった!」
菓子パンを貪り食う、その姿がなんともかわらしい目の前の少女。
そんな彼女がはっきりと、自分に向かってそう言ってきた。
鈴の音がリンッとなるように、風鈴がチリンと響くように、少女の声は何にも隔てられることなく鮮明に脳内へと流れ込んでくる。
それにより、洗われる心はその音が少女の声であるということを認識するまで、少しの時間を有してしまった。
甲高い鈴の音が情緒深く心を反響していく様、それは人類の本能である味わい深さにボーっと呆けた感情を浮かべてしまうようなものである。
その無条件に脳内まで侵入する美しい少女の声が、何とも心地よすぎて逆に気味悪さすらも感じてしまいそう。
いや違う、事実気味悪さを感じてしまったのだ。
そう、少女の口から紡がれた文章に、含まれるはずのない語句が紛れ込んでいたから。
「いま、ヒルヨルって言った?」
それはここに来て一度たりとも発した覚えのない自身の本名であった。
思い返してみても、心当たる節すら見当たらない。
そんな語句を十中八九始めて出会ったはずの少女がなぜ知っているのか、とヒルヨルは彼女を見つめる目に少しだけ疑問の念を浮かべて見せた。
だがそんな気も知れず少女は、菓子パンを頬張りながら未だ幼子らしいその微笑みを続けたままヒルヨルのことを見つめ返してくる。
この上ない純真無垢な瞳、それがこの状況と相まってより不気味なものに思えてしまった。
だが、それでも危機感などを感じることがないのは、ひとえに少女の人物像のおかげか。
はたまたこんな幼い子が実害を及ぼすように見えないからか。
周囲の環境とは何とも恐ろしいモノだ。
幻想郷に包まれている現状は、無意識のうちに自身を譚記物の中に潜り込ませたかのような印象を与えては、普段しないような思考すら生じさせてしまう。
それはこの状況においてそう、彼女のことを人の心が読める魔女かのように錯覚させるのだ。
そう思ったヒルヨルの、少女を撫でる手が止まる。
するとそこでようやく気が付いたのか、一瞬の違和感を感じ取った少女が勢いで顔を上げ始めた。
そして今度は疑問の念が込められた目を自身へと向け返してくる。
それは純粋無垢な今までの表情から、これまた綺麗に純粋な疑問を象徴するかのように完璧な表情を含ませたもの。
その様子に、ほんの一瞬だけ微笑みを浮かべるヒルヨルは同時にすぐ、とあることに気が付いて急ぎその顔を真顔へと戻すのだった。
それはバカげた思考のまま意味のない攻防を興じているという、自嘲の想いである。
取り越し苦労のせめぎ合い、それはあくまで少女が本当の魔女であった場合にしか効力を成さない羞恥心。
心を読まれないように尽力する、といった譚記物への憧憬の念が生んだ、自身に渦巻く恥ずかしい感情だ。
年端もいかない少女に対し、悟られないようにと表情を取り繕うとは何とも馬鹿げて、行き過ぎた話しであるか。
ゆえにこれ以上は意味がないと、不毛な心情を浮かべる自身に「ぶッ」吹き出して終止符を打つと、そのまま少女に嘘偽りない本心の微笑みを浮かべるのだった。
心を読まれるはずがないだろう、と阿保らしい感情を捨て去って。
するとそれを受け取った彼女は、何かを感じたのかその場でもぞもぞと動き、先程まで手に持っていた菓子パンを芝生の上に置いた。
そして突如自身の胸に目掛け、一切妥協しないかなりの勢いで身体を預けるよう飛び込んできたのだった。
一瞬の事で身構える隙もなく後ろに下がり尻餅をついてしまうヒルヨル、その時の表情は驚きそのもの。
いつの間に自分はこんなにも表情豊かになったのかと、またあの時同様スローモーションになる視界の中、ゆったりとした思考を浮かべた。
当然感覚がゆっくりになっているだけで、身体の動き自体に変化はない。
そのため後ろに伸ばした腕も素早く動くことがなければ地面に届くこともなく、尻餅をついた姿勢からバッタリと仰向けに倒れこむこととなってしまった。
あの時と同じ背中の痛み、あの時と同じ目前の光景。
だが、あの時とは違う、しっかりとしたものを胸の上に感じながら。
嬉しそうに顔を埋め、そのまま頬を左右へと擦りつけてくる少女のドシンとくる重さ。
抱えた時はそうでもなかったが、全身ともなればしっかりとした体重を感じられ、彼女がまさに生きているのだという事を教えてくれるかのよう。
それに何となく心が落ち着くような気もする、とヒルヨルは再度少女の頭に手を置き直した。
「んッ、んふ~!」
そうやって胸の上で嬉しそうに顔を綻ばせる少女を、首だけ起こした姿勢のまま見つめてやる。
屈託のない、柔らかで心底喜びの伝わってくるそんな微笑み。
そして次にその少女が手に頭を擦りつけ始め、撫でてくれとの催促が行われていった。
その際、流れるような髪の毛がフワフワと宙に舞い少女の甘く、花や太陽のような香りが周囲へと一瞬で放たれていく。
心地のいい空間とはこういうことを言うのだろう、と心洗われるような心情を感じたヒルヨルは、首を元に戻し空を仰いだ。
人間にしろ動物にしろ、自分よりも小さな存在を身近にしたことのない人生。
ゆえにそういう者がいれば、こういう感情を受け取り、与えるんだろうなと微笑みを浮かべ返してやる。
そして仕方なし...ではなく満足げに手を動かし、力強く少女を撫でまわしてやるのだった。
こんな可愛らしい娘が魔女なはずないだろう、とはもう本心からのもの。
すでに疑いの念もなくなれば、少女がなぜ自分の名前を知っていたのかという事もどうでもよくなってしまった。
だからこそ、その感情を体現したような微笑みを浮かべ、兄のような感情で少女にも愛を与えてやろうとの、気持ちを込めた笑い声を出すのであった。
恐らくシスターたちがそうであったように、自分に目覚める母性のような感情を気付かない振りしたままで。
「ふッ、あっはは―――――」
「あ、ひるよるげんきなの」
「え?
あぁ、元気だよ。」
「ひるよる、げんきなの!」
微笑みに言葉を返してくれたのは彼女の方から。
その喋り方には、漢字やクエスチョンマークなどは使われていないであろう、幼さのある表現が含まれていた。
改めて聞いても、拙い日本語という感じでもないのに、やはり年相応というものなのだろうか。
聞こえがいい日本語、それは美しい声で紡がれたからというわけではなく、もっとこう...すんなりと耳に入ってくるような気持ちよさを含んでいる。
...やはりこれを文字に表すのに最も適した語句を使うと、『我が子の声は聞きとりやすい』というものになってしまうのか。
目覚めた母性に少しだけ恥ずかしさを感じるヒルヨルは、何とも受け入れがたい気持ちと真に向き合わなければならないのかとの想いで板挟みになる。
ここで言う受け入れがたさとは聞こえは悪いが、マイナスの意味を含まないプラス思考の心情で、身の丈に合わないという自嘲を含んだもの。
同級生の溜まり場にて突如現れた幼い少女にどう接すればいいのかわからないといった、そんな具合の感情だ。
あくまでこれは実体験に基づかない、譚記物から抜粋し想像した空想の出来事と情景であるが、この上なく当てはまってしまうのも事実なその思考。
そんな想いの中でも、依然として彼女を手放したくないとすら思えてしまうということはやはり...。
そこまで考えたヒルヨルは一度目を閉じ、静かに心の中で想いを巡らせた。
どういう感情で彼女と接することが正解なのか、と。
そして次に目を見開いた時、導いた結論としてのヒルヨルの答えはというと「...もういっか」と全てを投げ出す、知能指数の恐ろしく下がったいい加減な顔と対応であった。
彼女の笑みを見て、彼女の笑声を聞き、その暖かな存在に触れる、これに知能を保持し続けられるものがどれほどいるだろうか、という屁理屈を添えて。
表情を緩ませに緩ませ切った情けないヒルヨルの、少女を撫でる手が止まらない。
その状態で一連の動作にあくまで年齢の問題だ、と薄っぺらい思考を浮かべては特に考えもせず、ずっと掌で少女の機嫌を取っていった。
自分の子供となれば、話は別。
だが、まだ早いだろうとの想いが先行してしまうくらいには、大人になり切れていないとの自覚をしているヒルヨルは、常日頃から自分自身を俯瞰して見ていた。
そのための苦悩、そのための気恥しさ、そのためのぎこちなさを今感じている。
ゆえにこれは時間の問題、そう自分自身が大人になるため、それと幼い者に対して触れ合うことに慣れるための時間が解決するのモノなのだ。
少女を撫でるだけのことに気恥しさを感じる必要はないのだぞ、と誰もいない空間で誰かに話しかけるような心情が心の中で揺れ動く。
そんなやいのやいのと考えている彼の気も知れず、またもやその意中にいる少女は笑顔を浮かべたまま、両手両足を彼の腕の中でじたばたし始めた。
痛くも痒くもないその行為に、またにじみ出る可愛さを感じては咳ばらいをしつつ、撫でる手に少しだけ力を込め少女が喜ぶよう無意識が行動をさせる。
もちろん嬉しそうな顔を更に綻ばせる彼女からは明るい笑声が上がっている。
それに、心の中の喜びがまるで同調しているかのように自身まで伝わってくるため、その感情を自分のだと勘違いしたヒルヨルはさらに彼女から離れられなくなっていった。
止まる気配が一切ない。
もう、このまま少女を撫で続けて今日は夜を迎えよう、どうせ今からでは日が落ちる方が早いのだから。
そんな思考すら出始めたところで急遽、ハッと我に返ったヒルヨルはやっとの想いで少女を撫でる手を止めることができたのだった。
それは彼女の声が森中を反響して、何時しか自分の耳に帰ってきてくれた瞬間の出来事。
ギリギリの葛藤の末、気が付くと手が吸い込まれそうになる少女への愛情という名の無意識を、払いのけてやった大行であった。
目を覚ました脳内、それによってどれくらい時間が経ってしまったのという疑問が順次脳内を支配していく。
そしてその状態で思い返すのは先程、心の安らかな時に浮かべていた「日が落ちる方が早い」という考え。
これにより、時間がないと徐々に焦りを感じ始めたヒルヨルは、体を起こして少女をどかせるためその華奢な脇に手を通してやる。
その行為と撫でてくれていた手を止めたヒルヨルの様子に、微笑みが消え呆然とするは少女の方。
可哀想だと心底思う、そんな顔を浮かべる彼女は本当に表情豊かなものだ、と感心するはヒルヨルの方。
だが、その時間すら惜しいぞと彼女の脇辺りをしっかりと抱え上げ、自分の真横に降ろしてやった彼はそのまま計画通りに事を進めるためいくつかの質問を飛ばしていくのだった。
本来の流れに沿って、目指すべき場所を目指して。
「ねぇ、僕のこと知っているの?」
「...。」
「じゃあ、君の名前は?」
「...。」
「日本語は...わかるよね?」
「...。」
しかし、うまく軌道に乗せようと思っていた現状はそんなに簡単には進まなかった。
ヒルヨルの一つ一つの質問に、ちゃんと一つ一つ精一杯首をかしげてみせた少女は、最後の質問の後に答えの代わりとなる微笑みを浮かべたのだった。
あざとかわいいそのしぐさ。
まるで答える気はないとまで言われたかのようなそのしぐさも、まぁこの上なく可愛いので、思ったようにいかない状況に怒りなど湧くわけもない。
対する彼は我が子へ注ぐ愛情のようなものが芽生え、一生かけてこの子を守り抜こうと謎の決意を心の中で固めるのだった。
(あ、いや違う。)
そんな彼女の表情に、またやられかけたヒルヨルはすぐその事実に気付くことができ、首を左右に振って邪念を振りほどくことに成功する。
そして何度やるんだと自嘲の念を胸に、頬を数度パンッと叩いた。
それにより再度目を覚ました状態を維持しつつ、彼女の肩を優しく抱きしっかりとその目を見つめ直すよう体勢をとる。
対する少女は、大きな音とその行為に今度は驚いたような表情を浮かべた。
開かれる瞳、キラキラと潤いを含んだそれがもう何度目ともわからない、吸い込まれそうになる感覚を呼び起させてくる。
だが、恐怖を感じながらもヒルヨルは未だ依然その瞳を見つめ返したまま柔らかな笑顔を浮かべることに尽力して見せた。
その様子に、驚きの表情からキョトンとした表情へ変わった少女、どうやら気持ちの落ち着きを少しだけ取り戻してくれたらしい。
そんな彼女に対しそのまま、暖かな微笑みを続けることを忘れずに、もう一度心から向き直って先程の行為の続きを行っていくヒルヨルは口を開いた。
今度は答えやすいだろうと、心の中で決めた質問を。
「じゃあ、君は―――――」
だがその瞬間...。
「――――――――――――――――――――。」
「―――――ッ!?」
突如響き始めた何かの音が、周囲一帯に反響していった。
いや、これは空間に放たれたものではなく、直接頭の中に響いたものなのか?
二人だけの空間で、耳元のすぐそばにて聞こえるものと言えば、そう形容するほかないだろう、と。
なんとも違和感を覚え、再現することも不可能であるようなそんな声が、至近距離で急になり始めたのだった。
放たれた方角、距離、高さ、声音にそこから派生する発言者の性別まで全てにおいて特徴を掴めず、何とも気持ちの悪いそれ。
頭の中に思い浮かぶものと言えばそのまま自分の思考なのかと初めは思ったのだが、それにしても意味不明な内容を含み過ぎているため、すぐに違うとの判断。
なんせ英語でもなければ、知識は薄いが他の外国語とも違う、そんな言葉を知っているはずなどありもしないのだから。
だが、ただ何となく意味のある文章なのだろうなという雰囲気だけはしっかりと受け取ることができた。
言葉は通じずとも、伝えようとする気持ちさえあれば何とか汲み取れる、と言った感じのほぼ当てずっぽうのモノではあるが。
それと...なにやら少し、焦っているような様子も。
と、まぁそんな変な語句を受け取り、そんな変な感覚を味わうヒルヨルは、すぐに言葉を無くすと脳内を一瞬だけ誰かに乗っ取られたのかと思えるようなその不気味さに鳥肌を立てたのだった。
感じるのはやはり、不快感の中でも最大限の気持ち悪さを誇る悪寒。
何かに隔てられず脳内へ響くという意味では、多少少女の声と似通った点があるのだが、思い返して虫唾が走るとなると全くの別物として扱う方がよさそうだ。
それほど心洗われるような少女の声と同じ心地よさは、その声からは感じられなかった。
それに...何というか...―――――
(なん、だろう...。)
無性に変な心地悪さを感じてしまうヒルヨルは、それを具体的な感情に表すことができず、悩む様子を見せた。
次に、そこから派生するすべての違和感に拭えない恐怖心を抱きながら、その謎の感情たちに深呼吸をすることで対応を試み始めていった。
細かな何から何までが気になってしまうのは、やはり周囲一帯の状況による副産物か。
思考がまとまらないヒルヨルは、その焦りが何故のものなのか、そしてなぜ自分はこんなに違和感を感じているのか、分からないまま呼吸だけを繰り返していった。
だが結局時間が掛かってしまう、と何気なく顔を上げ初めたところで視界に映る、とあるモノを通じ少しだけ心の安寧を得れる運びとなったのだった。
それは、目前の少女が自分と同じように驚いた表情を浮かべていた光景である。
どうやらその声が聞こえたのは自分だけでないらしく、キョロキョロと辺りを見渡す少女は、一生懸命に何かを探しているような仕草を繰り返していた。
それにより、またもや感じる可愛さと言えば不安感を取り除くのには十分すぎる要素となり、一体不幸中とは何のことだったのかと心持を作り直せたヒルヨル。
更に、驚いているような素振りは見せているのだが、自分とは違い恐怖心などは抱いていない様子の少女に、頼もしさすらも感じた。
自分が情けなく思うな、とそう思った心情については彼女に対しての「ありがとう」との言葉と一緒に、心の中に閉まっておく事を選択。
どうせ伝えたところで無意味だろうとの感情からだ。
だがその想い自体が必要なのだ、と案外気楽になれたヒルヨルは、大人びているはずの自分が情けない姿など見せられないぞとの羞恥心から、復活することに成功した。
そして突然立ち上がり後ろの森目掛けて駆け出していく少女に驚くこともなく、後を追いかけるよう身体を動かし始めた。
先程とは違い、至って冷静な思考で、微笑みを浮かべる。
それにより彼女が残した菓子パンも勿体無いと拾い上げ、土埃などつくはずもないが一応確認してから持っていくことも忘れずに、行動を起こしていった。
先程の声の正体とは、そして自分が妙に焦りのような違和感を感じていたのは...。
気になるといえば気になる問題。
しかしもうどうでもいいや、と思えるほど心に余裕を取り戻せたヒルヨルは、声の正体は放っておき、違和感の方は脳内に響く声そのモノが初めての感覚だったがゆえの新鮮さであろうと勝手な結論付けをした。
分かりやすくも無茶苦茶な理論。
だがそれも悪くないのでは、と思えるのはやはり周囲一帯の状況による副産物のようであった。
心底自分は流されやすいと思う。
ただし、それが憧れていた譚記物への介入だと思えば、願ったり叶ったりだ。
そう心の底からの微笑みを浮かべるヒルヨルは、少女の食べかけの菓子パンにかじりつきながら、いつでも追いつけるであろうその後ろ姿を追っていった。
崖側から見て巨木を挟んだ向かい、分かりやすく例えると12時方向の森へ目掛け、駆け出していく少女のその小さな背中を。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
森へ散歩へ行った時、シスターたちがとあることについて教えてくれた。
あれはいつの事だっただろう。
恐らく常識が備わっていない頃の話で、何かのついでに教えてもらったような気がする。
「森で迷わないようにするために、木に目印をつけて歩くといいのよ。」
そう言われた言葉を思い出し、少女の後を追いながらヒルヨルは地面に落ちていた枯れ枝を拾い上げ、すれ違う木々の根元に抜けないよう差し込んでいった。
本当は木の幹に直接傷を付けれたらいいのだが、石は愚か砂利のようなモノさえ落ちていないこの森では、これが最良の目印となってくれているのだ。
それに、言い方は悪いかもしれないが、こんな神々しい木々に傷をつけようものなら、罰が当たってしまいそうである。
と、別段「普通の木であれば傷をつけても問題ないと思っているわけではないよ。」との心情を浮かべるヒルヨルは、その考えにあくまで仮定の話だとの補足説明を誰も聞いていない空中へと放り投げた。
これを訂正しなければ、本当に罰が当たってしまいそうだと冷や汗が伝う。
その変なところで湧いた焦りの感情を振り払うため、改めて目前の光景に目を向けて少女の時とは違う心地よさでその心を満たしていった。
「ほんと、すごいなぁ。」
そう、心の底から感動を表す声が漏れる。
もちろんそれは、周囲一帯の状況に対しての本心であった。
少女の時とは違う心地よさとは、そのまま耳以外の感覚から入る情報にて内心が潤っていく様を表している。
木々の晴れ晴れとした緑の色味はその優しさから視界をクリアに、且つ冒険へと繰り出す新鮮さから情熱的にも受け取れる心情を運んでくれた。
それに澄み渡った空気やそこに紛れる木々の優しくも暖かな香りはそのまま心の安寧を。
そして一切ストレスを感じることのない山道や景色は、安寧とは違った心のゆとりを与えてくれるかのようであった。
先程も話した通りこの森には驚くほど石や砂利などの危険物が落ちていない。
それは視界内に素足で歩いている少女を捉えているからこそ気が付いた点であった。
ただ、道が全て芝生なのかと言われればそういうわけではなく、例えるならきめ細やかで気持ちのいい土の道が続いているような、そんな感じ。
砂浜とは少し違い、しっかりとした質量を体感できるその地面は、まるで普段感じていないはずの足への負担を軽減し、それをわかりやすい感覚で経験させてくれているかのような印象を受け取れた。
靴を履いている今だからこそ思える、素足で歩けばより一層気持ちがいいぞ、と。
ただ、そんな欲望に忠実な姿勢は我慢すべきだとのヒルヨルは、ウズウズして抑えきれないその内情を菓子パンで一緒に呑み込むため、今でも甘い匂いを放つそれを口の中に放り込んでやった。
少女があの調子では、自分こそしっかりしなければならないぞ、と強気な姿勢を忘れることなく胸に刻みながら。
その今度も意中となった幼き少女は、一心不乱に何かに向かって歩みを進めている。
小さな背中...ではないか。
銀色のフワフワと上下する髪の毛の束は、こちらを一切振り返ることもせずに小さな足取りで少しだけ前を歩いていた。
その様子はというと、先程同様あるはずもない母性本能をくすぐってきそうなほど、言いようもない愛嬌で溢れかえっている。
また生き生きとした鮮緑の色合いの中に映る白銀と言えば、例の妖精をも象徴しているかのようで、二重の愛らしさが伺えるものでもあった。
ただ、こちらを振り返らない所を見れば目的地に向かっているはずなのだろうが、あっちへこっちへと定まらないような雰囲気も、何となくで感じ取れるような言動も見せていた。
つまりは少しだけ違和感を覚える足取りをしているのだった。
先に述べた『あの調子』とはまさにこのこと。
体調不良でもなければ、思い当たることはただ一つ。
色々悟ったヒルヨルは、恐らく少女が帰路を迷ったのだろうという仮定の下計画し直し、今まで思い描いていた行動順を立て直すよう意識を別の方向へと向け変えていった。
万が一でも迷った場合、最悪あの巨木へは帰れるようにとの目印を立て続け、それでも追いかけることを怠らないように。
少女が三歩歩く度、自分は一歩でその差を埋め、5本に1つと等間隔で木々の根元に枝を刺しては、枯れ枝と少女の姿の双方を探す。
意外と骨の折れる作業だな、と気が付くと中腰になっていた上体を起こし、少し痛む腰をグッと伸ばしつつ深呼吸を繰り返した。
その行動で、思った以上に時間が経っていたことにも気が付いては、空へと視線を向けまだ明るいことに安堵しながらまた中腰で枯れ枝が落ちていないかを探していく。
そんなことをもう何度も繰り返し、それでも自分の命は彼女にかかっているのだと適当にならないよう気に掛け、注意深く行動を起こしていった。
そして恐らく数十分ほどが経過し、この行動にもようやく慣れが出始め楽しくなってきた頃合いでもう一度背筋を伸ばし、ふーッと最後に深いため息をついた。
するとその瞬間、少女が何かを見つけたのか、突如として走り始めた姿が視界の端に映ったのだった。
不意を突かれたその言動に「あッ」と声を漏らしたヒルヨルは、彼女への反応を一呼吸遅らせてしまった。
それと同時に、手に持っていた枯れ枝の数本を地面に落としてしまい、それを拾い上げるのにまた一コマの時間を有する。
彼女を見失うわけにはいかないのに、と心の中で喝を入れ直すヒルヨルは、手短にすべて拾い上げるととりあえず近くの木の根元に一本の枝を差し込んで上体を起こした。
そして急いで少女を追いかけなければ、と小走りに体勢を整える様子を見せたのだが、今度はそこで「ふぅ...。」と落ち着きを取り戻したかのような、一呼吸をついたのだった。
それは至って速さの変わっていない少女の進行度を目にし、愛らしさと馬鹿らしさが入り混じった感情が湧きあがったための行動である。
チョコチョコと走り回るその姿は、いつ見てもこれ以上ないほどの愛嬌が含まれていた。
また、周囲一帯の状況を俯瞰してみるに、娘を散歩させている親の構図が成り立っている事に違いない。
その行為と沸き立つ気持ちにもう親の心境が板についたのでは、と恐らくシスターたちと似たような感情を浮かべているヒルヨルは少女の愛らしさを再確認。
それと同時に自分も彼女たちにそういう風に思われていたのかな、と少し恥ずかしさも感じてみたり。
そんなある程度呑気なことが平気で脳内を駆け巡れるほどには、心の余裕は未だ保たれたままのようだった。
それに走っているはずの少女はというと、大股で一歩踏み出すだけで歩いていた時と変わらない距離感を保てるほどにゆったりとした歩幅をキープしている。
その全然焦る必要のない状況に、また同じよう地面に落ちていた枯れ枝を拾い上げては目印を立て、歩幅を進めるといった同じ行為を繰り返していった。
もちろん、新たな行為として少女が急に走り始めた理由となる目標物の確認と、彼女の行く末に危険がないかとの安全確認を怠ることも忘れずに。
前を走る、銀髪をなびかせている女の子。
彼女の甘い香りが、風に乗せられて自分の元まで運ばれる。
そんな匂いがきつくなってきているのは、恐らく少女が体を動かし始めたからだろう。
嫌味な意味ではなく、少女特有のあの良い香りが少しずつ多めに感じられるようになっているという意味。
ゆったりとした環境でもその香りだけが妙に強く感じられ、そこに意識が引っ張られては気付かぬうちに狭まっていた歩幅にて開いた距離を詰めるため、ヒルヨルも少しだけ素早く足を動かしていく。
そしてまた距離をグッと縮めると、人10人ほどのスペースを維持し続けながら、少女のあとを追いかけていった。
またあの甘い香りが強くなっていく。
少女に近づいたから、当然だろう。
全く嫌味に思えない、逆にいつまでも包まれていたいと思えるような、そんな良い香り。
彼女と初めて出会った時に感じた匂いとそっくりだ。
ゆえに彼女の香りで間違いないだろう。
...間違いない、よな。
「あれ―――――?」
先程から並べる心情に表現できない違和感を感じたヒルヨルは、情けない声を漏らすと目を見開いてその場にスッと立ちつくした。
心に渦巻き始めるは、恐らく焦りの感情?
何かとんでもないものを見逃しているような気がして、意識を取り戻したかのように周囲一帯へと視線を向けていく。
首を動かし、目を動かし、何か一つでもこの違和感を解消させてくれる手掛かりを探すため、あっちこっちへと。
だが、もちろんそう簡単に見つかるわけもなく、さすればどんどん思考は問題解決の方へと引っ張られていった。
いつの間にか流れてくる汗が頬を伝う。
その感触にまたもや緊張感が身体中を駆け巡っていく。
そんなヒルヨルの頭には、今の今まで追いかけていた少女の存在など、全く気にならなくなってしまうほどの焦燥感が押し寄せていた。
それと同時に先程まであった心の余裕分、得体のしれない危機感が侵食していく。
一体何の違和感なのかわからない、だがこれに気が付かなければ命すら危ういと、謎の信号が送られるのだけはひしひしと感じているのだが。
その正体に気が付けないまま、手に持っていたはずの枯れ枝まで地面に落とし、周りの景色を何度も何度もグルグルと見渡した。
すると次の瞬間―――――
コツンッ―――――
頭の上へ、今まさに目印にしていたはずの折れた枯れ枝が舞い落ちてきた。
周囲一帯を覆う木々から切り離されたモノ。
その感触に、ハッとしたヒルヨルは頭上に乗った枝へと手を伸ばし、追い詰められすぎていた意識から少しだけ解放された気分を味わう。
それが、何より喜ばしいものだということに、ほんの少しの時間を有して気が付くことができた。
だが、未だ依然抜けない心の焦燥感は、いつまでも波のように自身へと迫りくる。
改めて意識の戻った視界で周囲を見渡しても、何一つ手掛かりが得られそうにないその現状に、またもやすぐ視野が狭まっていくような感覚が襲い始めた。
しかし二度はないと瞬時に深呼吸を行うことできちんと対応すると、物事の視点を変えてみるため『今の変化』だけでなく『前との違い』まで意識を引き延ばし、思考自体を変えていくよう心を改めてみせた。
その頭で、先程から自分は何をしていたのかという記憶まで遡る。
そしてハッと少女のことを思い出すと、まさに彼女が走っていた方角へと振り返り、視線をその先へと向けていった。
ところが意識はその最中、視界の端に映った何かへと引っ張られることとなったのだった。
それは自身が手に握った、先程頭上へと落ちた来た紅い葉のついた木の枝だ。
そこで今まさに襲っている焦燥感の正体へと辿り着いたヒルヨルは目を見開くと、現状の確認と同時にとある物を探すため再び周囲一帯へと視線を向けた。
「なん、で...」
ここは紅色を基準として、黄色のグラデーションが空気感を彩る神秘的な森の中。
情熱的なその暖色がいつぞやの静かな中性色とは違い、これから巻き起こるであろう冒険の香りにハキハキとした高揚感を与えてくれる。
さらに、小気味よい砂利道が、一歩一歩の新鮮さを際立つ音で飾っては、少し不安定とも思えるような無骨感をも演出してくれていた。
まるで新天地の荒々しさを体験させ、冒険への感情を昂らせてくれてくれているかのように―――――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今まで歩いていたはずの緑の森は、もうここには存在していなかった。
足元に転がった、今まで持っていたはずの枯れ枝は全て紅か黄色の葉が付いている。
またその事実に気が付いて周囲一帯を遠くの方まで確認したのだが、全てがカエデやイチョウに似た紅葉だらけ。
その中では緑色の葉が生い茂る木など、ただの一本として確認することができなかった。
心の中のざわつき、それがこういった形で結論付くとなれば、当然納得いくわけもない。
それに、もしかしたら少女に見惚れ、森の奥の方がこういった紅葉だらけになっていた事実に気が付けなかっただけなのでは。
と、そう考えたヒルヨルは「なんだ、それだけか。」と意気揚々に後ろを振り返り、とある物へと視線を向けていった。
だが、次の瞬間にはその顔を絶望のものへと変貌させることとなったのだった。
目印として立てていたはずの緑の枯れ枝の姿が、一つとして地面に見当たらない、その光景を目に。