始まりの始まり
~聖帰還者のRe:ファミリア~
ある夏の日の炎天下。
昨晩降った雨のせいで湿度が高く、雨期の何とも言えない香りが立ち込める舗装された道路の上。
そこを買い物に出かけていた青年―――――ヒルヨルは絞れるほどの汗をかき、ベーカリーで買ってきた焼き立てのパンの香ばしい香りで意識を保ちつつ自転車を漕ぎ進めていた。
横目にはブランコや滑り台、ベンチに鉄棒、砂場にジャングルジムなど、特に珍しいものもない公園を進む昼下がり。
遊んでいる子供たちも世間話にいそしむ大人も、じゃれ合う猫や走り回る犬さえ見かけない、そんなある種不気味にも思えるような日常を見せる田舎道。
いつもと同じ風景にいつもと同じ順路、もうどれくらいの日々をこの場で過ごしてきただろう。
刺激を求めたくとも求められない、そんなむず痒さを感じるところもこんな場所に住んでいる宿命なのだろうか。
...それにしても―――――
「はぁ...平和だな。」
自傷気味にそんなことを呟いて空を仰いだ。
生ぬるい風が頬を撫でていき、動かし続けている足のせいで体の熱が相乗され、汗が次々に流れてくる。
そんな雫で張り付く衣類の不快感を覚えながらヒルヨルは、この道の先に待つほんの少しの下り坂へと想いを馳せて、勾配の急な道路の終わりを目指していくのだった。
ここは、都会の喧騒一つ届かないほどの街外れに位置する、快適さや爽快感の欠片もない辺境地―――――
その辺鄙な中でも甫田や美観もなく、池や水路の水も濁ったやるせない感じがする方の、残念なド田舎である。
...そう、心底残念で...ため息もつきたくなるような―――――そんなどうしようもない地域だ。
シ―――...ン。
住宅地を横切った1kmに及ぶ道すがら人っ子一人の気配も感じず、絶妙に不便さを不便さとして楽しむことのできない事実が、目に見えない雰囲気として流れている。
その中を一生懸命に漕ぐ自転車というのはなんというかこう...心が虚しくなってくる、なんて。
無念さ極まりない状況へとそんな心情を浮かべた彼は次いで視線を空から外すと、地面を見下ろして年季の入ったでこぼこ道の安全確認をしつつ大きくため息をつくのだった。
そしてラストスパートとばかりに膝へ、太ももへ、ふくらはぎへ力を込めると、苦痛であった上り坂へと別れを告げていくのだった。
ようやく到達した、自然に進んでいく下りでスピードを稼ぎながら、一向に涼しくなる気配のない熱風に身を焦がされていき―――――
「すーッ...はぁ...あつ。」
そのまま走ること数秒間。
きつい時間は長く感じ、楽な時間は一気に過ぎ去るあの摩訶不思議な心根に沿って瞬く間に終わった快適さを噛み締め、次に見えてきた森と住宅地へ続く分かれ道を左へ向かい、緑の小道へとペダルを漕ぎ進めていくのだった。
今までの道路とは違い、土と草木の香りが強くなる獣道。
この道以外に舗装されて安全な別路も存在するのだが、そちらを進まないのは単純に遠回りになるから。
加えてこんな暑い中、コンクリートの上でまた坂道を上るなんて苦行、完全に干からびてしまうだろう、と。
そんなことを心中ぼやきながら彼は山の中へと入り、またペダルを漕ぐ足に力を込め直していく様子を見せるのだった。
すでに坂道で稼いだつもりのスピードも、大分弱まってきてしまっている。
その事実へともう何度目ともなる残念さを抱きながら鬱蒼とした森の中、坂道を超えた先に待つヒルヨルの住む孤児院へと急行して。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
春夏秋冬どの季節のどの瞬間をとっても過ごしやすい快適な山奥に、こじんまりとして佇んでいる孤児院。
周囲一帯を原っぱや木々で囲まれ、緑の中にも小気味よいせせらぎを響かす小川まで流れており、何とも爽やかで先の情景とは打って変わって心地のいい場所。
そんな立地のそんな施設で僕...ヒルヨルは親代わりとして面倒を見てくれている年老いた院長先生や、数名の賢く綺麗で若々しいシスターたちと共に生活していた。
人生の半分ほど...おおよそ10数年分もの記憶を、真綺麗さっぱりと失ったままで。
まぁ孤児院で暮らしているというだけあって訳ありなことに違いなく、言わずもがな僕もよく聞くところの記憶喪失というやつなのだ。
本当の両親のことも、その肉親を含めた家族構成も、もっと言えば自分自身が何者で、歳がいくつで、本当の名前が何なのかも、何一つとして覚えていない。
だからこの『ヒルヨル』という変な名前も、納得はしていないが皆が考えてつけてくれたものらしく、仕方なしに呑み込むしかないのであった。
あまり気に入ってはない、呼びにくいしおかしいし...とまぁ、コホン...そんなことは置いといて。
先の事情に加えて自身の場合は厄介なことに、コミュニケーションを行うための日本語や常識に、最低限のライフスキルなど人生を当たり前に送るため、必要不可欠となる術と知識までもが全て抜け落ちてしまっているようだった。
本当によく生きていたな、と自分自身のことながら呆れて笑ってしまえるほど悲惨さを抱えて。
そんな惨憺たる状況の中、僕を拾い甲斐甲斐しくお世話してくれたのが今の親代わり...ではなく生涯を通しての僕の家族である先生やシスターたちなのであった。
彼らは僕に、人として立派に生きていけるようにと学業だけでなく、教養から言葉遣いに、所作や家事と必要以上のことを効率よく事細かに教えてくれた。
本当に必要なのかと疑ってしまうほどの、多種多様な芸にまで及んで。
だから今では本当の親のことなんて気にもならなくなってしまったし、本当の自分のことなど、もうどうでもいいと思えてしまえるようになっていた。
全てを思い出したとしても、結局今のこの幸せな暮らしには到底及ばないのだ、当然だろう。
...まぁ実際は、本当の両親のことについて尋ねたら、決まってばつの悪そうな顔をする彼らのことを案じ、聞かないようにしている節もあるのだが。
とは言っても、気にしないままの方が気楽なことに違いなく、自分にとってもなんだかんだで都合がいいとわかり、いつの日かそう結論付けて忘れることにしたのだった―――――
そんな僕は実のところ、これらの話をしてくれたシスターたちや先生のことを、家族だと言っておきながらその詳しい事情までは何も知らないままで同居していた。
聞いても答えてくれないのだ、いつも自室で何かの書物に読み耽っている先生の、その書物はなんだと訊ねてもはぐらかされるばかりだし。
決まってした会話と言えば、日常会話の練習や勉強を教わるときの小話くらい。
だからそんなみんなが何を生業として生きているのかを、全くもって把握していない。
教養を身に着けてもらったからわかる、生きていくためには当然資金が必要であるということを。
だが、彼らがこの孤児院の敷地から一歩でも外に出たところなど見たことがなく―――――
現在進行形で自転車のかごの中に入っている菓子パン、近々で誕生日を迎える全シスターたちへのプレゼントを買ったこのお金も、出生を知らないままで使っていた。
偽物のお金ではないはずだから、そこまで気にはしていないのだが。
そうは言ってもいくら信頼し切っているとはいえ、家族の事情をほとんど知らないままというのは少しばかりの寂しさも抱いてしまう。
だから僕は今もこうやって自転車を漕いでいるというわけだ。
どういう意味かって?
僕が彼女たちへの恩返しをし尽して、その先で全てを打ち明けてもらおうといった算段なのだ。
プレゼントもそう、彼女たちから教わった物事の進捗度合いもそう、出来ることは全部やって認めてもらおうといったところだ。
まぁ結局うまいこといっていないからこうやって、シスターたちから教わったお菓子作りの不首尾を取り繕うべく、ノコノコとお店の出来合のうまいもんを買いに出ているわけなのだが。
そうやってある種切磋琢磨しあう、というか無我夢中で人生を謳歌している男と、そんな青年の成長を喜んでくれるいい人たちが住まうのが、この山奥の孤児院という場所なのであった。
そしてそんな素晴らしい場所と人々が、僕の帰る家であり大切な人たちなのであった。
と、まぁ長ったらしい自己紹介はこれくらいにして―――――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
力を込め、動かす足はドンドンとやる気をなくしていくかのように重く苦しくなっていく。
それは単純に、この獣道が上り坂だからというだけの話ではないはず。
「くッ...はぁ、重てぇ。」
昨日降った雨のせいでぬかるんだ土壌がこれでもかと車輪を抱え込み、次のひと踏ん張りを阻んでくるかのように広がっている。
場面は少し戻り、美味しくなった空気から察するに山道の中腹辺りまで進んできたであろうかといった頃合いの出来事。
小鳥のさえずりやタイヤが地面を削る音に風でゆすられる葉音、加えて振動によって響く自転車のベルやカゴのガシャガシャとした金属音が、小気味よいメロディーを共鳴させている最中。
巧妙に作られた生い茂る葉のトンネルのせいで日差しが遮ぎられ、ドロドロの地面は乾くことを忘れたかのようにこちらの行く手を遮ってくれていた。
普段であればとてつもなく好きなのだ、この情景が。
吹き抜ける風により、汗やそれで張り付く衣類の不快感が消えていく感触も―――――
非日常的なこの景観から生み出される、涼し気なメロディーにより心が和やかになっていく実感も、実に心地よい。
この田舎の暑苦しいだけ、長閑なだけ、人がいないだけでつまらなく思えてしまう日常に一石を投じる...『冒険』の二文字がチラつくほどの高揚感に身体が満たされていく。
それがおとぎ話好きの自身の中で更なる想像力を掻き立たせては、結果としてこの坂道すらも気にならないほど全身が軽やかになっていく心地を実感できていた。
だからこそこの道を通るたび、何度だって晴々とした心情が蘇り―――――
だからこそこの情景を目にするたび、何度だって胸躍る躍動感を感じながら想像力の中で冷めない感動を浮かべ続けていた。
...というのに、直近で降った雨さえ無ければ。
「くっそぉ...雨が。
あ゛あ゛...―――――」
周囲の景色に加え、素晴らしいメロディーや涼し気な雰囲気など、この場の心地よさを調和させてくれているそれらの要素。
しかし今の彼には、その環境へと意識を向けるだけの余力がほとんど残されていなかった。
どれもこれも文句を言ったところで仕方のない自然の副産物であることは分かっている。
分かっているのだが、文句を垂れないことにはやってられないなんてエゴまで顔を覗かせ始め、仕舞いにはその場でポツリと小言を漏らすまでに至ってしまった。
しかしそんな悪態すらも呑み込んでいくぬかるみは、間もなく彼へともう何度目とも知れないため息をつかせ、自然と立ち漕ぎにさせるよう膝を伸ばせと促してみせるのだった。
「あとちょっとだ...あとちょっとだから、―――――」
ジメッとした湿度から、流れる汗や張り付く衣類の不快感はウザいくらいに度を越していき、水浴びをしたといった方が納得できるレベルで身体から水分が溢れていく。
その事実により、またさらに数倍の力を必要とされる状況へと心を砕かれそうになるヒルヨルは、「今日はやめておけばよかった」なんて買い物に出かける前の自身を呪うような言葉すらも用いていった。
幸いなのは本当に、直射日光が遮られていることと風があることくらいだろうか。
だがそれ以外の要素は全てこちらに対してのデバフとなり、身体の中にある疲労感が一切抜けないようその瓶の栓を固くきつく締める要因となってくれているようだった。
文句を垂れても仕方ない、と腹をくくってみても人間どうしようもないことはたくさんあり、無意識下での気の抜けようが身体を重く保っていく。
そんな心地に、すぐさま膝までもが腑抜けた様子を見せ始める。
それも残念なことに、この坂はもう少しすればより一段と激しさを増し、今度はこちらを憐れむにやけ面から鬼の形相へと変わってしまうのだ。
とそんな事実へと疲労困憊のため先ほどまで忘れていたヒルヨルはふと面持ちを上げた際に視界に捉えて思い出してしまい、即刻下を向き直しては気のせいだと思うことにする、なんてバカげた言動を見せる羽目に陥ってしまうのだった。
願わくばこれから降りかかるであろう度を越した災難が、現状の辛さの延長線上にいてほしい―――――だなんて。
無意味なフリと淡い期待を巡らせながら。
「ぜったいに、無理だ...ぜったいに、はぁ...」
スッと上まで続く―――――というより聳え立つ、今までの上り坂が可愛く思えてしまうような山道。
立ち漕ぎでギリギリ上れるかどうかといった境にある、絶妙に押して歩こうか迷うくらいの角度の...煩わしい獣道。
それが、坂という名詞に対しては不釣り合いに思えてしまう動詞、「見下ろして」という表現にて目前に立ちはだかってくれていた。
あぁ、諦めてしまいたい。
なんてそんな心情が湧いてしまうのも無理はない。
と一人脳内で結論付けるヒルヨルは次いで視線をス~ッと横にずらすと、その心根に沿って別のとある地点に対し注視しては、また違った覚悟を決めていく様子を見せるのだった。
自身の左側に大きく口を開いて待つ、崖の下の奈落に向かって。
「...(ゴクリ)―――――」
住宅地から見て7、8割ほど進んだ森の中。
誰も寄り付かないこの山の、さらにその奥まで進んだ場所にはなんと、簡単に命を刈り取ってしまうほどの危うげな道がたくさん存在しているのだった。
急に行く先がなくなる箇所や、ハッとした時には車の走る一般道と交差している箇所に、自転車どころか歩きですら下れないほど急勾配になる個所などなど。
その中でもこの道は、右側を2メートル半くらいの小高い土の壁に迫られ、左側は大昔の地殻変動でできた巨大な穴が開いている、といった断崖絶壁の閉塞的な空間となっているのだった。
傍から覗き込んでみてもこの日中の一番暑い時間帯、その一番血気盛んな太陽光が降り注いでいる最中にもかかわらず、下の地面を目視することが不可能なくらいに高い崖。
それも、暗くて見えないのではなく単純に霞んでいて見えないのだ―――――そういえば高さがわかるだろうか。
とそんな恐ろしさにヒルヨルは一人、生唾を飲み込むとすぐさま眉間にしわを寄せ、難しそうな表情を浮かべていった。
普段であれば先の説明通り、こういう光景を目にするのはとてつもなく好きなのだ。
もちろん落ちてしまえばひとたまりもないのであろうことは明白で、その際の表現も『転げ落ちる』より『真っ逆さまに落下する』という方が正しいような危険な場所ではあるのだが。
崖の手前には景観を損ねないよう石材ながら木に似せて作られた転落防止柵も設置されており、安全だと分かれば怖いもの見たさのハラハラドキドキする高揚感だけを残した、冒険心くすぐられる場所だと言えよう。
また、おとぎ話の中によく登場する一瞬で冒険者たちの心を奪うほどの素晴らしい景観といえば恐らくこんな感じであろうと、納得させてくれるほどのパワフルさもある。
だから自分はこの、ひしひしと人間という生き物の小ささを教えてくれるような迫力満点の絶景とやらが大好きなのであった。
...まぁ何度も言うが、それもこれも全て雨が降らなければ、の話ではあるのだが。
「やべ、こえぇ...。」
さすがに、防護柵があろうと進むスピードがゆっくりであろうと、そもこの道にとことん慣れていようと怖いものは怖く、緊張感や汗など吹き出るものも無条件に吹き出でしまうものなのだ。
と死と隣り合わせの奈落に、自転車から降りない方がよさそうなほどの細い道と、不安定な地盤に翻弄されるヒルヨルはハンドルが手汗で滑りそうになる感触を何度も抱き続けていた。
そしてその度に一瞬だけ発熱していく身体の危険信号をくらいながら、また吹き出す汗の感触に煩わしさを覚えつつ、その悪循環の中で意識を保ち続けるのだった。
どうだろうか、そんな負の要素が一気に降りかかってしまっているのが現状の自分、というわけなのだが―――――
思った以上に可哀想だとは思わないかい?
「ほんと、止めとけば、よかった。」
顔を下に向け、肩を上下に動かし、その力を利用して首から下の全身で立ち漕ぎを行っていく。
そんな姿勢だからこそ、吐き捨てた文句もまたぬかるみに沈んでいってしまうのだった。
人生は苦難と失敗の連続だと聞いたことがある。
それならその最上級の失敗とやらを全身で体験している現状の自身は恐らく、二度と今日という日を忘れることはないだろう。
と、同じ作業の繰り返しで意識も覚悟も揺らぎ始めてしまうそんな瞬間を見計らい、タイミングよく緩い感情を引っ張り出してくれた無意識は、そうやってどうにか内情だけでも落ち着かせるようにと計らってくれる様子を見せるのだった。
そしてそのまま難しいことを考えようとする脳と思考を停止させ、ただひたすらにこの状況を打破しようとする筋肉のみに注力し、身体を支配していく様子を見せていくのだった。
キツイ、辛い、暑苦しいと、そう思い続けているからこそ疲れを感じてしまうのだ、なんてよくいうところの感情に則って心に余裕を持たせるために。
...だがその瞬間―――――
「えッ―――――?!」
突如としてヒルヨルが、驚きに満ち満ちた雰囲気の感嘆の声をあげた。
そして前方の状況を確認するため、折れ曲がっていた身体をグッと持ち上げ、顔を前に向けた。
誰もいないはずのこの道で、急速に目前から迫る謎の気配を感じ取ったからである。
スローモーションになっていく感覚、その中でひたすらに繰り返される思考―――――
それは正体を突き止めようとするためのものではなく、現状を分かりやすく分析しようとするためのものであった。
この道を知る者が、家族を含めた自分たち以外にいるはずがないと。
そしてその中でも敷地内から出ることのないシスターたちや先生を省き、通るものなど自分以外にありえないと。
つまり急速に迫り来る何者かの気配と言えば、十中八九この山と多くの危険な山道を詳しく知らずに爽快感だけを求め、自転車で下ってくる『もの好き』ということになるだろう。
何にも知らないまま...そう―――――
入り口付近では分からない、この坂が途中から命すらも危ぶむほどの危険な道になることも、直近の雨のせいで土壌がぬかるんでいることも。
そしてこの山道を唯一それなりに利用する者がタイミング悪くここにいることも、人がすれ違えるだけの道幅が存在しないことも何もかも。
ゆえに、それらの一通りの思考を一瞬で浮かべ終えたヒルヨルは刹那の間にスローモーションの感覚から戻り、現状で最善となる選択肢を求めるため意識を状況判断の方へと注ぎ込む姿勢を見せていくのだった。
怪我をしても命だけは守ろうと、申し訳ないが身勝手に一人だけ生き残る算段を立て、そのために全てを投げ捨ててでも崖とは逆側に飛び込むようにと決め込んだ内情へ従って―――――
ズシャァッ―――――
「ぉわッ―――――」
しかし、次の瞬間。
腹部に拳でももらったかのように短く、重めの情けない声を出したヒルヨルは再度スローモーションになっていく視界の中で、身体が宙に浮く感覚を受け取ることになった。
これまで大人しかったはずの緩い地面が、自分勝手な思考を浮かべたバツとしてかこちらを嘲笑うようにタイヤを絡め、自転車を滑らせてしまったのだった。
それが、先の顔を上げた時に起こした身体の硬直と合わさり、思考もろとも乱すようにバランスを狂わせてくる。
驚くほど淡々と移り行く様を展開し、体勢を立て直す暇もなく、奈落の方へと誘って。
そして程なくして、思い浮かべていた手筈とは逆に完全に崖の向こうへと放り出されてしまったヒルヨルは何の覚悟も抵抗もなく、唐突に自身の死を悟ることになるのだった。
本当にただただ呆気なく、一切の感情の起伏や状況的な節目もないままでさらっと、誰も見ていない場所で一人―――――
「―――――、...。」
人生最後の瞬間とは、こんなにもあっさりしたものなのか。
だってそうだろう、昨日まで...というかついさっきまで元気だったんだぞ。
それがたった一度のミスで、たった一瞬の過ちで早急に人生へと別れを告げていく。
そんな実態にヒルヨルの意識だけでなく次第に身体の方までもが悲観的な印象を浮かべていき、やがてその身へと絶望の色を宿し始めていくのだった。
危険信号を飛ばす心臓が、口から出そうになるほど跳ね上がっては瞬時に身体を発熱させ、視界をチカチカと点滅させている。
加えて無重力状態に陥る臓器が恐ろしいほどの勢いで吐き気を催していくと刹那の間に喉が閉まっていき、呼吸や発声が思うようにできなくなっていく。
それも、死にたくないと切望する人間味あふれた表情を浮かべさせられた上で、往生際が悪く未だに抗うような情けない姿勢を誘発したまま。
そうして人生最後の瞬間の、その最後に見れてよかったと思える美しい光景を無理矢理脳裏に焼き付けるため、目一杯に瞼を開かせてくるのだった。
天に上る走馬燈―――――
いついかなる時も優しく言葉を掛けてくれた先生と、共に暮らしていたシスターたちの忘れられないほど素敵な笑顔。
それに透けて青々と広がる大空の澄んだ群青に、崖下から吹き上げる気持ちのいい風と、浮遊感。
そして、
ドンッ―――――
背中へ響く...一本の鈍い感触に、安全策のために設置されていた転落防止柵の姿―――――と
あろうことかその石質の命綱が守るべき対象である自身を悠々と見逃し、自転車だけを大事そうに抱えている光景を。
「え」
その瞬間、ヒルヨルの意識はスーッと暗闇へ引きずり込まれていく。
崖の途中に生えていただけの、一本の木とぶつかった先の衝撃を呼び覚まし、次第に消えていくその痛覚と共に―――――
心のどこかでまだ諦めていなかった本能が、安全柵の存在をギリギリ覚えていてくれたのだろう。
そしてその生命線に最後の希望を託し、この身を預けようと画策してくれていたのだろう...がしかし。
ものの見事に裏切られてしまった、とそんな事実へもう打つ手がないと事の顛末を悟った本心が一切を諦め出し、突如として宿主の気を遠のかせるよう尽力し始めていく様子を展開するのだった。
本当に最後の瞬間だけは苦しまずに逝けるようにと、守るというかほとんど無意味な気遣い程度の意識を以て、しないよりはマシだとの軽々しい想いと共に。
そうしてそのまま遠のいていく感覚と、手足が動かないとの機能が失われていく身体の異常を感じ取ったヒルヨルはその時点で、本当の意味での死を確信していくのだった。
最後に一つだけ、どうしても納得いかないあの光景を―――――
絶対に自身だけが防護柵をすり抜けたと、おかしな証言まで想起させるあの忌々しい展開を、瞼の裏で繰り返しリピート再生しながら。