まとまらない交渉
公爵の長男は、執務室にいた。
現在時刻は昼を少し過ぎたところであり、食後の休憩としゃれ込んでいたようだ。公爵の息子の仕事をする手は止まっており、お茶を飲んでいた。
「くせ者! アレス様をお守りしろ!!」
当たり前だが、公爵の息子ともなれば護衛の10人や20人は控えているものである。公都の執務室という安全と思える場所でも厳重に守られていた。
イルムの登場により、彼らは慢心せずさらに仲間を呼ぶ。
目の前の敵だけに惑わされず、これが陽動ではないかと警戒すれば的確な判断だ。
なお、アレスというのが公爵の息子の名前である。
「貴様は……イルムではないか。その男は、どこかの子爵のようだが、いったいどうしたというのだ?」
イルムはそこそこ顔が売れているため、警備兵はすぐにその正体に気が付いた。
ついでに、抱えている男のほうも服装から子爵位を持つ貴族であるとアタリをつける。貴族の服は爵位によってある程度意匠が決まっているので、見る者が見れば爵位がわかるようになっている。
「この男はサーベリオン領代表として宣戦布告を俺にしてきてね。現在、さーべりおん公爵とは絶賛敵対中なんだよ。
今は手札を揃えているところで、アレス様には人質になってもらおうというわけだ。
大人しく、付いて来てもらえませんか?」
「誰がお前の言うことなど――」
「私が付いて行けば、この者らに危害を加えないのかね?」
「アレス様!!」
イルムは状況を簡単に説明すると、アレスに人質になるようにとお願いをした。
イルムにしてみれば公爵側がテロリストなのだが、アレス側にしてみれば今はイルムがテロリストである。アレスに非はあまりない。
できるだけ暴力的手段に訴えたくないのだとダメもとで主張してみた。
すると、護衛は色めきだったが、アレス本人はあっさりと提案に頷いた。
これにはイルムも驚きの表情を見せる。
「自分で聞いたことではありますが、良いのですか?」
「仕方がないだろう。彼らの忠義を疑う気はないが、実力のほどは知っている。イルム、お前が暴れれば相応の被害が出るだろうと、な。
ならば私が素直に従い、被害を最小限に抑えるべきだ。
私自身、父上がイルムと安易に敵対関係になるなどと考えていないからな。ならば後の禍根は少ないほうがいいだろう」
泰然自若。アレスはこのような状況にあっても慌てることなく、冷静に最善の一手を打とうと思考する。
その器の大きさに、イルムも自然と彼に向ける態度を改め、敬意を払う。
部下の手綱を握り切れなかった公爵本人はともかく、その息子に対してまで大きな悪感情を抱いていないこともあるが、これはやはりアレス本人の資質によるものが大きいだろう。
こうしてイルムは公爵の息子を連れ、公爵本人との交渉に臨むのだった。
アレスの案内の下、イルムはサーベリオン公爵との交渉をしに行った。
相手に逃げられることはないだろうと考え、先触れを出してもいる。
これで公爵が逃げだせば、たった一人の男との相対を拒んだ臆病者として末代までの恥となるだろう。
そうして対面した公爵は、ひどく憔悴していた。まだイルムをどうにかする算段が付かなかったので、イルムと敵対するつもりがなかったのだ、公爵本人は。
今回の件は、完全に部下の暴走である。
だからこそアレスもイルムに協力的であったし、対話で解決できる問題だろうから、対話でどうにかしたいと考えて動いている。
この場に武力衝突を望む者はいない。
「先ほど部下から話を聞いた。今回の件はこちらの手落ちだ。その男が言ったことは私の本意ではなかったのだ」
公爵という立場であれば、簡単に頭を下げることができない。
だが、謝りこそしないが公爵は自らの非を認め、穏便に事を済ませようとする。
これに驚いたのはイルムのほうだ。親子ともども、イルムの予想を超えた対応をする。
イルムは魔法使いの大量投入という簡単にはできない事をやってのけたので、てっきり公爵が主導してイルムを捕まえようとしたのだと思っていた。
見た限りであるが、イルムは公爵が嘘をついていないだろうと判断した。
スキルなどにより嘘が見抜けるイルムの判断だ。その信ぴょう性は高い。
敵対行為が部下の独断という話であればイルムが無茶をする必要がなくなる。
あとはそれをイルムが信じるかどうかという問題だったが、イルムはそれを信用した。
起きてしまった騒ぎの処理は問題だが、真犯人、騒ぎの元凶がいるので、そこに責任をすべて押し付ければこれ以上傷を広げることもない。
これで話が終わるはず。
この場にいる誰もがそのように考えた。
ただ。
盤面はもっと広く動いている。
「閣下! 一部の兵士が、貴族街で暴れています!
その、場所が、イルムの屋敷です!!」
波乱はもう一つ。
悪意を以て広がりを見せる。