土鍋のマリリン
マリリンは魔女だ。
僕はいつも、彼女の魔法にかけられている。
昨日はサバの味噌煮。
一昨日は茄子の煮びたし。
その前の日は筑前煮だった。
彼女の魔法は、僕の心をつかんで離さない。
○
盛大にお腹が鳴って、僕は目を覚ました。
もやがかかったように白くにごって見える目をこすって、ベッドから降り窓のカーテンを開ける。朝七時、まぶしい朝日が目に痛い。昨日遅くまでゲームをしていたせいだった。
窓の外に、一階建ての小さな家が見える。窓ガラスに額をつけながらその家をのぞきこめばお隣さんの花柄のカーテンが開いているのが見えて、僕はほっと安堵の息をついた。
パジャマを脱いで制服に着替え、リビングに降りてもそこには誰もいない。テーブルの上に置かれているのは半額シールのついたクリームパンだけ。それをもそもそと食べて、身支度を整え、僕は家を出て鍵を閉めた。
僕の両親がローンを組んで建てた、念願の二階建てのマイホーム。そのお隣に昔からあった、一軒家にマリリンは住んでいる。家が小さいかわりにそこそこ大きな庭があって、色とりどりの花が植えられた花壇はいつも手入れが行き届いている。その花に毎朝水をあげるのが、彼女の日課だった。
「ケンちゃん、おはよう」
中学校三年生になってもいまだにぶかぶかの制服を着た僕は、学校に行くときかならずマリリンの家の前を通る。そうすると彼女は水やりの手を止めて、白いフレアスカートのすそを軽やかに揺らしながら、僕ににこやかな笑顔で話しかけてくれるのだった。
「おはよう、マリリン」
マリリンと呼ぶと、彼女はちょっと照れくさそうに微笑んでみせる。笑うと目じりで波打つしわと口元のほくろが、柔和とも妖艶ともいえない不思議な雰囲気をまとわせていた。
「いってらっしゃい、ケンちゃん」
僕の家には、誰もその声をかけてくれる人がいない。毎朝マリリンに言われて、僕はやっと、一日がはじまるのだった。
「いってきます、マリリン」
じゃあねと手をふり、僕は学校への道を歩き始める。通学路に差し掛かる曲がり角でふと振り向いてみると、マリリンの家の前にひとりの男性が立っていた。
マリリンの家には、たまに、男のひとが訪ねてきていた。
「マリリン、今日のごはんはなに?」
「今日は炊き込みご飯にしたわよ」
家に帰ったら、まずは手を洗ってうがいをするのがマリリンとの約束。洗面所がないから、台所を使う。晩御飯の支度をするマリリンの隣で石鹸を泡立てながら、今日の献立を訊くのが僕の楽しみだった。
学校が終わると、僕はまっすぐマリリンの家に行く。家に帰っても、誰もいなかった。
「なんの炊き込みごはん?」
「鶏肉と人参と干し椎茸と、油揚げとひじき」
「僕が一番好きなやつだ!」
「ケンちゃんは若いのに、和食が好きよね」
糠床から取り出したきゅうりの漬物を洗いながら、マリリンがくすりと笑う。ひらひらと揺れるフレアスカートの上に割烹着を着るのが意外と似合っている。ウェーブをかけた髪は料理の時はいつもきっちりとまとめていて、台所に立つ姿はとても凛としていた。
「なにか手伝う? 食器出せばいい?」
「ありがとう、助かるわ」
「お漬物はこの小鉢でいいんだっけ?」
勝手に食器棚をあさりながら、僕は焼き魚用、煮魚用と決められたお皿たちの中から漬物用の小鉢を取り出す。桜の花びらの描かれたご飯茶碗はマリリン用。僕はいつも勝手に赤とんぼの描かれたお茶碗を使っていた。
「ご飯はもう炊けてるんだけど、蒸らしてるからもうちょっと待っててね」
使い込んだガスコンロの上に乗る、大きな土鍋。蓋の穴から、白い蒸気がこうばしい香りとともにふきだしている、ほうれんそうのお味噌汁ももう出来上がっていて、あとはそれぞれ器によそうのを待つだけだった。
「今日の給食はなんだったの?」
「カレーライスだったよ」
「じゃあ、みんなよろこんだでしょうね」
「僕はマリリンの炊き込みご飯のほうが好き」
正直に言ったことなのに、マリリンはそれに目を丸くする。そして「うれしいわ」と照れながら、ふきんを持って土鍋の蓋を開けた。
土鍋から、マリリンの魔法が解き放たれる。
「……おいしそう!」
ふんわりと炊き上がったご飯をのぞきこんで、僕は思わず声をあげていた。
マリリンはいつも、ご飯を土鍋で炊く。炊飯器もあるけど、ふきんを乗せられたままほとんど使われていない。土鍋は冬のお鍋のときだけ使うものだと思っていた僕は、彼女の家ではじめてこれを見て本当に驚いた。
マリリンは魔法使いだと思った。
「たくさん炊いたから、たくさん食べてね」
しゃもじでご飯を混ぜ、ほかほかの湯気をのぼらせながらマリリンはごはんを茶碗に盛っていく。その隣で、僕はお味噌汁をよそう。沸騰するとお味噌の風味が逃げてしまうと教えてもらっていたので、ちゃんと火を止めてから二人分均等に入れた。
「おこげはいいよ。マリリンのだよ」
土鍋の底についたおこげをお茶碗に入れてくれようとするのを、僕がさえぎる。土鍋の魔法で一番おいしいのはおこげ。マリリンはそれが一番好きなのだと僕は知っていた。
「一番おいしいところは作った人が食べてよ」
「わたしは、ケンちゃんとなら何を食べてもおいしいわよ」
そう言って、マリリンは僕のお茶碗におこげを入れてくれる。自分のお茶碗に入れるご飯はとても少ない。小食なのに、いつも一人じゃ食べきれないほどのごはんを作る。一人分の料理を作るとおいしくないのよと、彼女は前に言っていたことがある。
お味噌汁とおかずをお盆に乗せて、僕は食卓に運ぶ。ぐるりと居間を見回せば、カレンダーの隣になぜか世界的に有名な女優のポスターが貼ってある。女性の一人暮らしの家には似つかわしくない、セクシーなポスターが、家で一番目立つところに貼ってあった。
ご飯茶わんを受け取り、僕は座布団の上に座る。マリリンが割烹着を脱いで向かいに座るのを待ってから、箸を持って手を合わせた。
「いただきます、マリリン」
「おかえり、お母さん」
くたくたの身体を引きずって帰ってきたお母さんは、リビングでのんびりテレビを見ている僕にただいまとは言ってくれなかった。
「ちゃんと、塾行ったの?」
「うん、行ったよ」
「成績はどうなの?」
「志望校の合格圏内だから、安心して」
塾に行ったのは嘘だけど、成績のことは嘘じゃない。麦茶を飲みながら、僕は素知らぬ顔でテレビを見ていた。
「ご飯食べたの? お金置いといたでしょ?」
「うん、適当に買って済ませたよ」
毎朝、僕が目を覚ますとお母さんはいないかまだベッドで眠っている。テーブルの上には値引きシールの貼られた菓子パンが何個か置かれて、あとは千円札が一枚、晩御飯用にと置かれている。一日で家族と顔を合わせるのはこの夜の短い間だけで、顔をあわせない日も当然のようにあった。
ああ、つかれた、と呟きながら、お母さんは冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出す。ストッキングが伝線しているのに気づいて、いらだち紛れに脱ぎ捨てる。缶の蓋を開ける軽い音を立てながら、リビングにやってきて僕の隣に座った。
「お母さん、晩御飯は?」
「今日はもうこれでいいわ」
今日は、と言うけれど、お母さんは昨日も一昨日もこう言っていた。
せっかく建てた新しい家で、みんなでテーブルを囲んでご飯を食べた記憶が僕にはほとんどない。お父さんは新しい家を建ててすぐに転勤が決まり、単身赴任をして毎日スーパーのお惣菜を食べている。看護師のお母さんもローンの返済のために、仕事の量を増やし夜勤のシフトに積極的に入っていた。
「ああそうだ、健一、明日會田さんのところに回覧板まわしといてくれる?」
「わかった」
「いつもお世話になってます、ってちゃんと言うのよ。愛想よくね」
「わかってるって」
その回覧板を、僕がマリリンに頼まれてその次の家にまわしていることを、お母さんは知らない。
「……會田さんも、寂しい人よね」
「マリリ……會田さんが?」
思わずマリリンと呼びそうになったことに、お母さんはおつまみのピーナッツを戸棚から出すのに気を取られて聞き逃していた。
「だって、ずっとひとりであの家に住んでるんでしょ?」
お母さんは僕を産んでもずっと仕事をしている。産休はとったけど、仕事をやめて家庭に入るつもりはまったくないらしい。お母さんは仕事のつながりで毎日たくさんの人と関わっているけれど、たしかにマリリンはいつもあの家でひとりだった。
「今日うちの病院で会ったからすこしお話したけど、話し相手もいない家の中にひとりってどんな気持ちなんだろう……」
お母さんもすっかりビールがまわってしまっているらしい。僕を相手に、仕事の愚痴から何から話してくる。僕はそれにいつも麦茶を飲みながら相槌をうって、母子のコミュニケーションはとっているつもりだった。
僕の話はほとんどしない。
でも、いつもマリリンが聞いてくれる。
よくテレビドラマで見るような、家族の団らん。それはこのリビングのソファーの上より、マリリンの家の座布団の上のほうがよくあてはまるような気がした。
お母さんがメイクも落とさずソファーの上で眠ってしまったので、僕はそっと毛布を掛けてあげてから自分の部屋に戻った。
この家ができて、僕は自分の城ができた。お母さんに内緒でこっそりものを隠しておくこともできる。勉強はあまりしていないけど、テスト前はちゃんと机に向かっている。
部屋のカーテンを閉めるついでに、僕はそっとお隣の家をのぞいた。
マリリンの家の窓は、ちゃんとカーテンが閉まっていた。カーテンの隙間から電気が漏れているところを見ると、まだ起きているらしい。きっとお気に入りのテレビドラマを見ているに違いない。
今日の僕のおなかは、彼女の魔法で満ちていた。マリリンの魔法にかけられた夜は、よく眠れる。
開けようとしていたポテトチップスの袋を、僕はそのままベッドの下に隠す。電源を入れようと思っていたゲームも、結局しまった。
今日は早く寝よう。
マリリンの魔法で、良い夢が見れるような気がした。
○○
「マリリン、これ、回覧板」
「ありがとう、ケンちゃん」
「いつもお世話になってます」
「そう言うように、お母さんに言われたの?」
やっぱり、マリリンは魔女だ。彼女には、なにもかもすべてお見通しだった。
「今日はまだご飯できてないの。ケンちゃん、すこし手伝ってくれない?」
「もちろん」
ちょっと焦った様子で料理をしているマリリンに、僕は「ゆっくりでいいからね」と声をかける。そしていつものように食器棚からお皿を取り出して、彼女のところに運んだ。
「……ケンちゃん、よくそのお皿だってわかったわね」
僕が出した大きなお皿を見て、マリリンが驚いたように土鍋の蓋を開けた。
「だって、においでわかるよ。玄関あけたときからいいにおいがしてたよ」
今日の魔法は、カレーライスだった。
「昨日給食カレーだったのに、続けてになってごめんね。ケンちゃんの話聞いてたらなんだか食べたくなっちゃって」
「僕、マリリンの作ったカレーのほうが好きだから嬉しいよ」
マリリンのカレーは、カレールウをお湯で溶いて作るものではなく、カレー粉と小麦粉から作る珍しい黄色いカレーだった。
「こんなカレー、ケンちゃんの口にはあわないんじゃない?」
「マリリンのカレーはマリリンの家じゃないと食べられないから」
土鍋の中で、くつくつとおいしそうに煮えているカレー。はじめてそれを見たとき、僕はとても驚いた。お母さんが休みの日に重い腰を上げて作る料理は決まってカレーライスだけど、ルウと水の量もあっていないからいつもしゃばしゃばになってしまっている。それでも給食で見慣れている焦げ茶色のカレーを食べていたから、この黄色いカレーを見たときは最初シチューか何かだと思った。
なにより、土鍋で作っているというのが一番の驚きで。マリリンは毎日必ず土鍋を使っている。ごはんも土鍋で炊くし、夏にはそうめんを入れる器に使われている。使い込んですっかり色の変わってしまったそれを、マリリンはいつも大事そうに扱っていた。
「もう一品、コンソメスープを作ろうと思ってたんだけど、まだお湯も沸かしてなくて。もっとてきぱき料理できたらいいんだけど」
「じゃあ、お鍋出すね」
わが家の台所がぴかぴかなのは、お母さんが大事にしているからではなくほとんど使われていないから。
台所の下から小さな片手鍋を取り出し、僕は水を入れて火にかける。雪平鍋というのだと、前にマリリンから教えてもらった。
「キャベツのスープでいい? ベーコンがないけど、カニかまならあるからそれを入れましょう」
「うん、わかった」
台所の壁に掛けられた予備の割烹着を、僕は勝手に着る。割烹着といえば真っ白なものばかりだと思っていたけど、マリリンはいつも花柄の可愛らしいものを着ていた。
「……なんだか、こうやってケンちゃんがごはんを食べにきてくれると安心するわ」
冷蔵庫から取り出したキャベツを刻みながら、マリリンはそんなことを呟く。ときおり土鍋のカレーを気にしながらも、決して手は止めない。僕はカニかまぼこを手でさきながら「なんで?」と返した。
「だってケンちゃん、いつもポテトチップスを晩御飯にしてたじゃない」
「あれは……」
僕がマリリンの家にお邪魔するようになったのは、スーパーでの買い物をいつも見られていたからだった。
塾をさぼって、いつもお母さんが帰ってくるまで家でゲームをしていた。もらったお金で晩御飯を買っていたのを、いつの間にかマリリンに見られていて、それで見かねた彼女に声をかけられたのだった。
『お菓子をご飯の代わりにしちゃだめ!』
そして、半ば無理やり家に連れていかれて、晩御飯をごちそうになった。そこで僕は、彼女の魔法にかけられてしまったのだった。
「……あの人もね、昔はひどい偏食だったの」
お湯の沸いた雪平鍋に、ざく切りにしたキャベツとカニかまを入れ、沸騰するのを待つ。その間に、僕は使った包丁やまな板を洗う。何度も料理を手伝っていると、自然と息があってくるのが不思議だった。
「大の野菜嫌いだったあの人がね、唯一文句を言わずに食べてくれたのが、カレーライスだったのよ」
「だって、マリリンのカレーおいしいもん」
「……ケンちゃんがまたね、あの人の若いころにそっくりなのよね」
照れくさそうに、マリリンがそう微笑んだ。
「ケンちゃんとごはんを食べてると、なんだか昔に戻ったみたいで嬉しいわ」
その横顔が、切なそうに翳っていることに、僕は気づいてしまっていた。
「あのポスターはね、あの人が大ファンだった女優さんなの。なんだか、捨てられなくて」
「……でも、マリリンのほうが綺麗だよ」
「ありがとう、ケンちゃん。ほんとうに、あの人にそっくりね」
恥ずかしそうに、マリリンが笑う。その向こうに見える、居間の壁に貼られた色あせたポスター。その女優もまた、僕たちを見て優しく微笑んでいるような気がした。
「……マリリンの家族は、みんな遠くに住んでるの?」
「電車で何時間もかかるところにいるわ。だから、会いに行くだけで大変なの」
顆粒のコンソメを目分量で入れて、マリリンはおたまでかきまぜ味見をする。彼女の料理は基本、薄味だ。その料理を食べ続けるうちに、僕は野菜にも甘みがあるということがわかるようになっていた。
「コンソメスープに、そんなの入れるの?」
「隠し味。こうやってね、料理に魔法をかけるのよ」
彼女はやっぱり、魔女だった。
「たくさん作ったから、すこしおうちに持って帰ってお母さんに食べさせてあげて。いつも仕事で疲れて帰ってきて、お母さんもちゃんと食べていないんでしょう?」
そしてなんでもお見通しな千里眼の目を細めながら、そう言うのだった。
「……なにこれ」
帰ってくるなり、お母さんはテーブルの上に置かれたマグカップを見て眉をひそめた。
「コンソメスープだよ。食べて」
ちゃんと、スプーンもそえた。お母さんはいつものように冷蔵庫からビールを取り出して、蓋を開けてぐびっと飲んだ。
「……健一がひとりで作ったの?」
「うん」
「嘘ね。うちの冷蔵庫にはいってるのはビールと牛乳だけだもの」
ただビールを取りに行っただけだと思っていたのに、お母さんはちゃんと冷蔵庫の中身をチェックしていた。
「もしかしてこれ、會田さんの?」
「……うん」
マリリンは、僕たちが引っ越してきてからよく、おかずのおすそわけをしてくれていた。煮物を作りすぎちゃったから、親戚からたくさんおくられてきて。そんなことを言いながら夜に訪ねてくるマリリンに、お母さんはいつも笑顔で対応していた。
それを、僕には食べさせてくれなかった。
「ああもう、ただのコンソメスープなはずなのに、なんでこんなにおいしく作れるのよ」
「……隠し味に、お醤油を入れてたんだよ」
なぜなら、マリリンの料理はいつもお母さんがひとりで食べてしまうからだった。
「煮物を作るときも、ちゃんと面取りしてあって。生姜焼き作るときもちゃんと豚肉に小麦粉まぶしてあるし。こんなに丁寧な料理作られたら、健一に私のごはんおいしくないって言われると思ってたのに……」
お母さんは料理が苦手だった。だから、カレーも野菜が生煮えだった。マリリンが作るような煮物なんてとてもじゃないけど作れなくて、何かイベントがあると必ず外のおいしいお店に連れて行ってくれていた。
「……でももう、會田さんの料理も、食べられなくなっちゃうのかぁ」
「え?」
「今日ね、病院に来たとき話してくれたの。息子さんのところに、引っ越すって」
マリリンは、血圧の薬と痛み止めをもらうために、お母さんの働く病院に通っていた。
「一人暮らしもなにかと心配だし、そのほうがいいわよね。でも、會田さんの料理をもう食べられないと思うと寂しいわ……」
マリリンこと、會田鞠枝さん。御年、八十八歳。あの世界的に有名なセクシー女優が生きていたら、彼女もきっと鞠枝さんのようなしわしわだけどどこか色っぽいおばあちゃんになっていたかもしれない。
毎日白いスカートをはいて、こしのない髪にはウェーブをかけて、花壇をいつも綺麗にして。確かに最近、脚が痛むのか、昔のようにてきぱき動けないと言っていた。
でも僕は、マリリンとは、まだまだずっと一緒にいられると思っていた。
突然のことに、僕は呆然としたまま自分の部屋に戻った。
部屋のカーテンを閉めようとして、僕はお隣さんをのぞきこむ。マリリンの部屋はカーテンが閉まっているけど、まだ起きていて電気がついていた。
僕はこの窓から、マリリンの家のカーテンを確認するのを勝手に日課にしていた。朝はちゃんとあいているか、夜はちゃんとしまっているか。もしなにかあったらすぐにかけつけようと心に決めていた。
そんな必要ももう、なくなってしまう。
「マリリン……」
届かないとわかっていても、僕はそっとそう呼びかけていた。
マリリンは魔女だ。僕のことなんてなんでもお見通しで、困ったことがあったらいつも助けてくれる。魔女であり、スーパーマンであり、なにより僕の大親友だった。
「……ケンちゃん?」
ふいに、マリリンが窓から顔を出して、やっぱり魔女だと僕は確信した。
「いつもありがとうね。わたしのこと、こうやって気にかけていてくれたんでしょう?」
「……気づいてたの?」
「たまにカーテンを閉めるのが遅くなったりすると、ケンちゃんがこっちを見てることわかってたのよ」
マリリンはお風呂に入ったのか、いつもより肌の血色が良いように見えた。夜風に髪を揺らしながら、僕の部屋を見上げていた。
「スープ、食べてもらえた?」
「お母さん、ひとりで全部食べちゃったよ」
「それはよかった。……最後に、お母さんにもまたおすそ分けしたいと思ってたから」
家の前の街灯の光を浴びながら、マリリンはまた翳りを含ませながら笑った。
「ケンちゃん、黙っててごめんね」
「どうして言ってくれなかったの?」
「だって、もしさよならを言ったら、ケンちゃんにはもう一生会えなくなっちゃうかもしれないじゃない」
はじめて会った時から、マリリンは確実に歳をとっていた。膝もすっかりまがってしまって、料理の時もてきぱき動けなくなってしまっていた。何度も一緒に暮らそうと説得しにくる息子さんたちを、いつもかたくなに拒んでいたというのに、マリリンもついに首を縦に振る日が来たのだった。
「わたしね、ケンちゃんにあげたいものがあるの。引っ越しの日に、うちまで取りに来てくれるかしら?」
「引っ越しって、いつ?」
「今週末」
「そんなにすぐなの?」
家には、そんな様子まったくなかったのに。つまりマリリンは、家にあるものすべてを置いて去ってしまうということだった。
「ケンちゃんを、魔法使いにしてあげるわ」
魔女は、そう言って笑った。
○○○
「……しばらく見ないうちに、背が伸びたわね、ケンちゃん」
僕が訪ねると、マリリンは相変わらず白いフレアスカートをはいて出迎えてくれた。
「てっきり、家族と一緒に住んでると思ってたのに」
「なかなか会えなかった息子たちと、いまさら一緒に暮らすなんて気をつかうじゃない。わたしはこのほうが気楽でいいわ。自分たちの家から近いから、息子も安心してるしね」
マリリンが引っ越した先は、シニアハウスだった。けれど、僕が思い描いていた施設とは違い、自分の身のまわりのことをできる人たちが住む共同住宅といった感じだ。部屋には小さいながらもキッチンなどが完備されている。一軒家から、手ごろなワンルームのアパートに引っ越したようなものだった。
「最近めっきり足腰が弱くなってきちゃったから、思い切ってここにしたの。そうしたら思いがけず友達も増えてね、なかなか楽しくやってるわよ」
お茶を淹れてくれる急須や湯飲みは、前の部屋で使っていたもの。ちゃんと僕が前に使っていた湯呑を持ってきてくれていたことに気づいて、僕はお土産を入れてきた鞄をぎゅっと抱きしめた。
「高校生活は、もう慣れた?」
「うん、すっかり。手紙もらってすぐに会いに来たかったんだけど、遅くなってごめんね」
「それよりも、電車賃とか用意するの大変だったんじゃない? 高かったでしょ?」
「マリリンのおかげで晩御飯代がまるまる浮いてたから、こっそり貯めてたんだ。まだ何回かは余裕で遊びに来れるよ」
ちゃっかり者の僕を見て、マリリンはあの柔和な笑みを見せてくれる。いつもお湯を注いでいたやかんがこの部屋にはない。急須にお湯を注ぐときは電気ポットを使っていた。
「引っ越してきて、ガスが使えないことにまだ慣れてないの。みんな電気で、前みたいに思うように料理ができないわ」
キッチンはすべてIHだった。火を極力使わないようになっているのがシニアハウスらしいなと僕は思う。部屋を見回して、たしかに前の家のものはほとんど必要ないとあらためて思う。食器も布団も何もかも、マリリン一人が暮らしていくぶんだけあればよかった。
「……だから、僕にあれをくれたんだね」
「そうなの。絶対持っていくって決めてたのに、ここじゃ使えないんだもの。他のでやってみたんだけど、どうもうまくいかないわ」
「そう言うと思って、お土産はこれにしたよ」
鞄の中にしまっていたお土産を、僕はテーブルの上に置いた。
「魔法はまだ、うまく使えないけど」
それは、炊き込みご飯のおにぎりだった。
「……これ、ケンちゃんが作ったの?」
「火加減が、思ってた以上に難しかった。土鍋で料理するのってやっぱり大変だね」
マリリンが僕にくれた魔法の道具。それは、あの家のガスコンロにいつも乗っていた使い込まれた土鍋だった。
「いただきます」
ラップに包んだおにぎりを開いて、マリリンはなんのためらいもなく食べてくれる。鞄の中でひしゃげてしまったけど、その前からかたちはいびつだった。でも、どうしても、マリリンに食べてもらいたかった。
「おいしいわ、ケンちゃん」
「よかった」
「……わたしのために、おこげをとっておいてくれたの?」
そのふるえの混じった声に、僕は静かにうなずく。マリリンは何度も目をこすりながら、おにぎりを大事そうに少しずつ食べていた。
「バイト先は、小さいけど料理屋さんにしたんだ。まだ皿洗いとかばっかりだけど、そこでちょっとでも料理のお手伝いができたらいいなって思ってる」
僕がアルバイトをすることに、お母さんは最初反対だった。でも、僕はこのことでようやく、お母さんにちゃんと自分の話を聞いてもらえる機会を与えられたような気がした。
「僕、将来は料理を作る仕事をしたいって思うんだ。僕が料理を作れば、お父さんとお母さんに作ってあげられるし、みんなで一緒に食べる機会もできるし。そう思えるようになったのは、マリリンのおかげだよ」
「ケンちゃん……」
「もちろん、マリリンにもごちそうするよ。土鍋の使い方ももっとちゃんと覚えなきゃいけないし。いろいろ作れるようになったら、また持ってくるからね」
マリリンの味は、よく覚えている。でも僕が作ってみようとすると、いつもマリリンの味とはほど遠いものになってしまうのだった。
「マリリンの魔法、僕も使えるようになってみせるからね」
見習い魔法使いになった僕を見て、魔女は目を潤ませながら笑った。
「楽しみに待ってるわね」
その笑顔は、壁に貼られたポスターより何倍も美しく輝いていると僕は思った。
END