約束
夕闇が迫り、小さな公園を赤く染めていた。
昼間、狭い敷地を駆け回っていた子供たちは家路につき、人気はない。
幾つかの小さな遊具が、何処かもの悲しげに長く影を伸ばす。
そこに、一つだけ揺れる影。
二つしか乗る場所のない小さなブランコ。
その内一つがキィキィと、軋んだ音を立てる。
その音に、押し殺した泣き声が微かに混じった。
『……っ、ひ…っく…』
誰も居ない公園でたった一人、ブランコに腰掛けて泣く子供。
まだ小学校にも通っていないような年齢の子供だ。
しかし、背中まで届く長い黒髪は一部が不自然に切り落とされ、服から露出する腕や足には無数の傷が存在した。
転んだような擦り傷から、刃物のような鋭利な傷、火傷のあとのようなものまで。
白く柔らかそうな肌には「遊んでいたときに怪我をした」と考えるには、不自然なほど傷が存在していた。
『ふ…っ、ぇえ……!』
弾力がありそうなくらい大粒の涙をボロボロと零しては、擦り傷のある小さな手で頬を擦る。
『―――娘、何故泣く?』
擦りすぎて頬が赤くなった頃、声がかけられた。
男の声だ。鋼の如く硬質な男の声。
だが、公園にはそれらしき男の姿はない。
遊具と子供以外には、影すらも存在しない。
『……みん、なが…ひどいこと、するの……っ』
子供は顔を上げない。
俯いたまま、しゃくり上げつつ答えた。
『先刻、主を「気味が悪い」と罵った童っぱどもか』
『ちがう、の……。みかちゃん…たちは、仲間外れにするけど、かみの毛、引っぱったり…転ばせたりしないもん……』
姿なき男の声に、子供は鼻をすすりながら緩慢な動作で首を横へ振る。
『では、誰が』
『「黒いもやもやの子」たち……』
のろのろと絆創膏だらけの指を空中へ向ける。
その本来は何も存在しないはずの空間で―――「何か」が蠢いた。
そして、「何か」は俯く子供の頭上へとゆっくりと迫り、
―――その空間を、一陣の風が薙ぐ。
風圧で子供の髪がふわりと舞い上がり、顔が顕わになる。
涙に濡れていた大きな目をぱちくりさせて、呆けたように顔を上げた。
子供の目の前で、「何か」はぎこちなく蠢き……やがて霧散した。
『こやつらか』
問いかける男の声に、子供は目を丸くしたままこくこくと頷く。
『……そうか、やはり主も……か。まだ稚い童だというのに、なんと哀れな。これでは、恐らく成人を迎える前に……』
不意に、抑揚のない男の声に、一匙の憐憫が篭る。
『……娘、生きたいか』
『生き、たい……?』
『死にたくはないか』
『死……?』
それまで、子供は自分の生死について考えたことなどなかった。
だが、「死」というものが恐ろしいという認識くらいはあった。
『や……!死ぬの、やだぁ……っ!』
『そうか、では―――』
ぐにゃりと目の前の空間が歪み、いつの間にか誰かが目の前に立っていた。
背が高くて、たまに見る時代劇の登場人物のような格好をした、知らない人。
その足元には、自分とは異なり影が存在しなかった。
けれど、子供は不思議とその人が怖いとは思わなかった。
ガシャンと、硬いものが擦り合わさる音を立てて、子供に目線を合わせるようにしゃがむ。
少し目尻に皺の寄った釣りあがり気味の目は優しく、何処か安心感さえ覚えた。
『娘、拙者が主に仇なす魔を退ける刀となろう』
『え……』
『―――拙者が、主を護ろう』
真摯な眼差しが、子供の大きな目に映る。
『まもるって……?』
『主のそばで、あやつらを追い払ってやる』
『そばに……?いっしょにいてくれるってこと……?』
『そういうことになるな』
『ほんとうに……?』
『無論だ』
『ほんとの、ほんとに?』
『武士は嘘などつかぬ』
『ぜったい?』
『ああ。……では、こうしよう』
期待と疑いの眼差しで何度も確認する子供に苦笑し、小指を立てた。
その意図を理解し、子供は一回りも二回りも大きく無骨な指に、自分の指を絡めた。
『ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます』
他愛のない童謡と共に、呪が結ばれる。
『ゆーびきった!』
勢い良く指を切った子供は、泣き腫らした顔に無邪気な笑顔を浮かべた。
『いっしょだからね、約束だからね!』
『ああ、約束は違えぬ』
『ぜったい、ぜったいだから!』
『ああ』
傷だらけの子供と、影のない甲冑の男が、黄昏の中交わした小さな、不可思議な約束。
その小さな約束が十数年の時を経て、大きな流れを変えることになるとは―――今はまだ、誰も想像すらしていなかった。