モーニング後輩。
一応警告タグはつけてませんが、見る人が見れば「これは…」と思うかもしれません。笑
扉を開くと、冷たい北風が全力で俺にぶち当たって来た。痛みさえ覚えるその感覚に、俺の脳は一瞬で目を覚ました。
時は十二月。午前六時。この日も俺は職場に向かうため、自宅から最寄りのバス停までの道のりを歩いていた。冬の朝は薄暗く、どんよりとした厚い雲がずっと果てまで空を覆っていた。
「行ってらっしゃい」
アパートの大家さんがいつものように俺を見送る。俺は軽く会釈をして足早に行く。海老のように背中を丸めながら、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。放射冷却でもないのに、今朝はかなりの冷えようだ。厚手のコートを着てくれば良かったと後悔する。
バス停に到着すると、そこにはすでにバスを待っている人影があった。
「あ、室住先輩。おはようございます」
やや高めの声で挨拶してきたのは、背の小さい青年。大学の頃の後輩の立石だ。立石もこの近辺に住んでいるらしく、毎朝このバス停で乗り合わせる。職場は違うが。
「おはよう」
立石はモコモコのブルゾンと、さらに、マフラーをぐるぐる巻いた完全防寒スタイルだった。
「あったかそうだな」
「そりゃ、室住先輩の軽装に比べたらあったかいっすよ」
俺を少しからかうように立石は言った。やっぱりコートを着て来るべきだったか。
「あ、さっきコンビニでホットコーヒー買ってきたんすけど…どうっすか?」
そう言って、セプンイレプンのロゴの入ったビニール袋を差し出す立石。
「無糖?」
「いや、微糖です」
俺は小さく息を吐き出すと、コーヒーと一緒に入っていたジャムパンを取り出した。
「ちょ、それは僕の朝飯…」
「なんだ、先輩になんか文句あんのか」
「…いや」
小柄な立石を見下ろすようにガンつけると、立石は大人しく黙った。あまりにもかわいそうで、俺がいじめているようになったので、ひと千切りしたパンを立石の口に入れてやった。すると彼は嬉しそうにもぐもぐしていた。
「お前はハムスターみたいだな」
「美味いっすよこれー!」
「当たり前だ。福岡のあまおうをベースに作ったイチゴジャムなんだからな」
「いや、ジャム作ったのは先輩じゃないでしょ。てかまず、買ったの僕なんすけどね」
「あ、ほんとだ。これうま」
くだらないやり取りに、互いに顔を見合わせ失笑していると、立石の職場行きのバスがやって来た。
「うし、今日も頑張ってこい」
「はい!行ってきます」
「行ってら」
俺はバスに乗り込む小さな背中を見送った。
流れて行く外の景色をぼんやりと眺めながら、僕は吊革に身を委ねていた。
今日も一日が始まった。僕は大手の新聞社に勤めているサラリーマン。入社三年目。まだまだ下っ端だ。下っ端ゆえに、周りにかなり気を遣わなきゃいけないし、散々コキ使われなきゃならない。
僕は小さく溜め息をついた。
正直こんな毎日うんざりだ。新人や若者はこういう道を乗り越えて行くもんだとは思うけど、それでも他にましな職場があるんじゃないのか。そう考える日々。だけど毎朝、室住先輩が「頑張れよ」って見送ってくれるから、なんとか踏み出せている。
『――次は橘大学、橘大学前』
懐かしい。僕らの出身大だ。あの頃は楽しかったな。サークルに没頭したり、友達と飲みに行ったり。先輩にも美味しい居酒屋に連れてってもらった。
「なぁ、レポートっていつ提出だっけ」
「たぶん今日」
近くに居た二人の会話が聞こえてきた。たぶん橘の学生だろう。
「まじかー。終わったな」
「お前、単位大丈夫かよ」
「何とかなんだろ」
そんなやり取りをしながら、二人はバスを降りて行った。僕は思わず噴き出しそうになった。
「何とかなんだろ」は、室住先輩がよく言っていた口癖だ。今でこそだいぶしっかりしている先輩だが、学生の頃はかなり不真面目で破天荒だった。それでいて、本当に何とかなっていたんだから、やっぱり先輩はすごい。
それに比べ僕は不器用で、努力しても上手くいかないことが多い。だから天才肌な室住先輩が羨ましくて、先輩が一番の憧れだった。
一時間ほどバスに揺られ、職場に到着した。入り口のドアの前で立ち止まり、僕はまた溜め息をついた。白い息がまだ暗い空に昇って行く。重い足を引きずるようにして、僕はビルの中に入って行った。
「んーあ。疲れた」
デスクワークで固まった身体を伸ばし腕時計に目をやると、もう時刻はお昼どきだった。
「もう昼か」
「室住、飯食い行こう」
同僚の河合が俺に声を掛けて来た。
「おう」
金がない俺達は、リーズナブルで財布に優しい社員食堂に向かった。俺はA定食、河合はカツ丼を頼む。
「お前またカツ丼かよ」
「これが上手いからいいの」
値段並みの味の定食を食べながら、俺はいろいろ考えていた。今日の晩飯何にしよう、とか。
すると唐突に河合がこんなことを言ってきた。
「室住さ、まだ結婚しねぇの?」
「え」
「もう二十八だろ。そろそろ考えてもいいんじゃね」
「うーん」
気がつけば俺も、もう三十路手前か。そんなこと全然考えてなかったな。というか
「俺あんま女に興味ないかな」
「まじかよ」
河合は苦笑いすると、再びカツ丼を食べ進め始めた。
翌朝。僕は疲れのとれていない身体をやっとこさっとこ動かして、バス停に向かっていた。昨日はいつにも増して過酷だった。インフルエンザで休んだ上司の分の仕事が、全部僕にまわってきた。たぶん今日もまわされるだろう。
雨が降り出しそうな空模様が、さらに僕の気持ちを憂鬱にさせる。バス停には僕より早く、室住先輩が到着していた。
「おはよう立石」
今日は昨日よりも重装で来ているようだ。
「おはようございます」
「あら、元気ないな」
「そんなことないっすよ」
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。いつもなら僕から話し掛けるのだが、今日はそれすら出来ない。相当な疲れと、押し寄せる倦怠感に、話題を提供するような余裕もないようだ。
すると、先輩の方が口を開いた。
「俺が結婚とか、どう思う?」
「え」
「んー。やっぱそういう反応になるよな」
「あ、いや…。先輩結婚するんすか?」
「するわけねーじゃん」
フンと鼻を鳴らして笑う先輩。なんだ冗談か、と僕は小さく息を吐いた。
「直ぐにでも出来るんじゃないっすか。先輩は何でも出来るし」
しんどさマックスで先輩の冗談話どころではない僕は、適当に返答した。
「…お前、なんか俺のこと妬んでる?」
「は?」
そんな風に言ったつもりはないのだけれども。
「そういうのはあんま良くないぞ。お前らしくないし」
だから。僕は疲れてるからああ言っただけで。ちょっとは察してくれないかな。
先輩の無神経さに、僕はだんだんイライラしてきた。大体、お前らしいって何だよ。先輩は僕の何を知ってんだよ。
「あの。別に妬みとかじゃないっすから」
このタイミングで職場行きのバスが到着した。
「先輩みたいに器用だったら、僕だって苦労しないんです」
そう言い捨てて、僕は逃げるようにバスに乗り込んだ。
「……」
『先輩みたいに器用だったら、僕だって苦労しないんです』
今朝の立石の言葉が頭の中でずっとリピートされている。一体どういう意味だろう。よく分からないが、あんなに暗い立石の顔を見たのは初めてだ。
俺はキーボードを打つ手を止めた。
でも思い起こせば、就職してから立石はあまり笑わなくなったような気がする。大学に行ってた頃は、もっと活き活きとして楽しそうだった。年を重ねて大人びたのかと思っていたが、きっと職場で上手くいってないのだろう。
「おい、室住?ボーっとしてんぞ」
「あいつは頑張り屋だけど、ため込んじゃうんだよな」
「は?誰?」
「あぁ。いや、こっちの話」
「ふーん」
「なぁ河合」
俺は伸びをしながら、河合に尋ねた。
「俺って器用だと思う?」
「全然」
「即答かよ。ちょっとはお世辞も言ってみろや」
俺は河合の脇腹を軽く殴った。河合は笑いながら殴り返してきた。
「だってお前、お茶もつげねぇじゃん」
「まぁそうだけどな」
肩を回すとパキポキと音が鳴り、三十路という言葉が頭をよぎった。やっぱ年とったんだな。
「さ、もうひと踏ん張りするか」
そう言って河合はパソコンに向き直った。俺も再び、キーボードを叩き始めた。
仕事を終えて外に出る頃には、雨が土砂降り状態だった。今日はちゃんと天気予報をチェックして来たので、防寒に加え防雨もばっちりだ。
「にしても、すげー雨だな」
俺は傘をさしながら駆け足でバスに乗車した。目的地までの間、今夜の晩飯を何にしようかと考えていた。昨日は結局コンビニ弁当で済ませてしまったので、今日こそは自炊しよう。
「何作るかなぁ」
そうつぶやいてふと窓の外に目をやると、傘もささずにずぶ濡れの人影が視界の端を流れて行った。
「ん?」
一瞬しか見えなかったが、あれは間違いなく立石だった。俺は慌てて降車ボタンを押した。
バスから降りて、来た道を引き返して行くと、やはりそこにはずぶ濡れの立石がいた。
「お前何してんだよ」
「あ…先輩」
うつろな瞳で、じっと俺を見つめる立石。とりあえず俺は、傘の中に立石を入れてやった。大きめの傘を持ってきておいて良かった。それから、鞄の中からハンカチを取り出し、ビショビショの立石の頭を拭いた。
「寒かったろ。てかお前傘持ってねーのかよ」
「今日天気予報見てなくて…」
「ったく。昨日は俺のことを馬鹿にしてたくせにな」
「先輩」
「ん?どした」
「朝…すいませんでした」
「え?」
「僕、先輩が羨ましかったんです。何でもこなせて、カッコ良くて」
ポツリと話す立石の目には、じわじわと涙が浮かんでいた。
「それに比べて、何も出来なくて不器用な自分が情けなくて…」
そこまで言った立石は、ついに、顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
「今日も頼まれた分の仕事、終わらせられなくて」
「分かった分かった。泣くな」
すでにビショビショのハンカチで涙をぬぐってやったが、あまり効果は見受けられない。顔面洪水状態だ。
しばらく立石が落ち着くのを待ってから、俺は言った。
「お前はな。不器用かもしんないけど、誰よりも努力家だろ」
立石は俺のハンカチで鼻をかんでいる。
「俺は見込みがないやつには期待しないし、頑張れないやつには頑張れなんて言わねーぞ」
ぐすっと鼻を鳴らして、立石は顔を上げた。
「会社だって同じ。お前のこと期待して信頼してるから、たくさん仕事くれるんだろ」
「……」
「それがプレッシャーになることもあるだろうけど、お前なら乗り越えられるよ。時間がかかってもいい。お前なりに頑張ればいい」
じっと俺の目を見ていた立石は、こくりと頷いた。
「よし」
俺が笑って頭をポンポンと叩くと、立石も嬉しそうに笑った。
気がつくと雨も止んでいて、雲の隙間から差し込む淡い月光が辺りを照らしていた。
「うっし。元気も出たみたいだし、居酒屋にでも行くか」
「やった!先輩のおごりっすか?」
「え、俺金欠なんだけど」
「僕財布がびしょ濡れなんで」
「乾かせ」
「そんなー無茶言わないでくださいよ」
「ドライヤー買ってやるから」
「…逆にそっちの方が高くつくんじゃ」
楽しそうな笑い声が、この路地に静かに響いていた。
たかが知れてるような、ありふれた生活をループさせる日々。今朝もいつもと同じ時間に家を出て、同じように大家さんに会釈し、同じ道を通って、同じバス停に向かう。
そして
「先輩、おはようございます!」
小っちゃくて、不器用だけど頑張り屋の後輩に出会う。
「おはよう」
そんな朝が、俺の喜び。
読んでいただきありがとうございました(^o^)