初説 異郷・迷 ~メイドと主とヤモメな眼鏡~ 後編
館の中はまさに異界だった。
住む世界が違う。
そう思わせるには十分な説得力を持っていた。
まず大きさ、玄関ホールだけでも、そこらの豪邸など問題にしないほどの広さを誇る。
外から見た時もその大きさに圧倒されたが、中に入るとまた一段とその大きさに驚かされる
次に調度品、辰也には生憎と芸術の良し悪しを判断する繊細な目を持っていなかったが、それでもこれらが一級品であることが伺いしれる。
そんな一品揃いであった。
最後に気品、これだけの大きさにもかかわらず、館の中には埃一つ落ちていなく、完璧が管理がなされており、その清廉な空間を、見事な調度品達が華美にならぬよう彩っている。
見るだけでここの主の持つ気品が匂い立つようである。
まさしく天上人の世界、人並な一般人としての生活を送っていた辰也は、その威厳に圧倒されていた。
そんな彼に、館のメイドが微笑みかける。
「いかがでしょうか、当家は?
・・・ふふ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていますよ?」
そう言って彼女はコロコロと楽しそうに笑った。
自分の半分程度しか生きていない少女にからかわれるのは良い気がしないが、それでも不快感を覚えないのは彼女の持つ人徳だろう。
「それでは、まずお風呂に案内しますね。
そのままでは風邪を召されてしまいますから」
そこまで世話になるわけにはと、そう言おうとした辰也だったが、自分の姿を確認する。
雨と汗と泥でずぶ濡れとなっており、濡れた衣服が体温を奪っていた。
確かにこのままでは風邪をひいてしまうだろうし、泥水まみれの人間に館を徘徊されたくないだろう。
理解した彼は、大人しく従うことにした。
案内された風呂場もまた、見事なつくりだった。
大理石を用いて作られた広々とした湯船に、女神がその手に掲げる瓶から流れ出る湯、まるで映画に出てくるような風呂である。
汗と泥で汚れた体を清め、湯に入る。途端に抜け出る不快感と疲労。
まさに極楽であった。
「お湯加減はどうですか?
・・・お背中を流しますね」
その時までは・・・
辰也は窮地に立たされていた。
どうしてこうなったのか皆目検討がつかない。
すまない妻よ、私はとんでもない不貞を・・・
そう苦悩する辰也だったが、その視線は目の前で揺れる双丘に釘付けだった。
己に備わった業が、その宝石から目を背けることなど許さなかったのだ。
彼女の手が動くたび、牙をむくその暴虐。
押し込められていた双生児たちが抑圧から解放され、その暴を思う存分振るっていた。
そう、それはまさに謝肉祭。おっぱいのおっぱいによるおっぱいのための聖餐である。
なぜこんなことになってしまったのか・・・話は少し遡る
「詩織さん!?なんでここに!?」
突如浴場に入ってきた詩織に対し、辰也は混乱の極致にあった。
「何故と申されまても、先程お伝えしたしたとおり、お背中を流しにきました。」
「必要ありません!!それよりも恥ずかしくないんですかそんな格好で!?」
「?」
「なんで裸なんですか!?」
・・・全裸であった。
辰也の眼前には、その見事な裸身が晒されていたのであった。
「お風呂に入る時は、服は着ませんよね?」
彼女はきょとんとした顔で告げる。その顔に羞恥の色はない。
「天然か、この子は・・・とにかく必要ありません、自分でやれますから。」
「そんな困ります。
お客様にご奉仕するのがメイドの勤め。
それを果たせないようでは主に叱られてしまいます。」
「いや、しかし・・・」
「お願いします葛木さま。私にメイドの本分を果たさせて下さい。」
そう懇願する詩織。その目に光る涙を見た時、辰也の敗北は確定した。
すまない妻よ・・・私はもうダメかもしれない
・・・そうして現在に至るのである。
「辰也様はお強いのですね」
甲斐甲斐しく辰也の体に奉仕する詩織
辰也が亡き妻への弁明と、急速に力を高めるナニかに抗うことに全能を傾けていると、彼女が辰也の体に触れながらそう問いかける。
「なぜそう思うのです?」
「・・・見た目は引き絞られた鋼のようなのに、こうして触れるととても柔らかい」
そう言いながら、辰也の下腹部を撫でる詩織
・・・わざとやっているのだろうかこの子は
「戦うための筋肉ですね、それにすごい傷・・・相当な修練を積まれたのでしょう」
辰也の体は大小様々な古傷で彩られていた
切り傷、刺し傷、引っかき傷・・・銃創・・・
それらは彼の身にあった過酷を想起させ、極限まで鍛えあげられた肉体と相まって彼の強さを肯定していた。
だが
「私は強くなんかありませんよ」
彼は己が強さを否定した
「強いわけがない、私は何も出来なかったのだから」
そう自嘲する。
表情は相変わらずの無表情、しかし詩織にはその奥の怒りと悲しみが確かに感じ取れた。
「申し訳ありません。大変な失礼をしました。」
涙を浮かべ、頭を下げる詩織。そんな彼女を見て辰也は我に返る。
「あ、いえ、こちらこそすみません・・・気にしてないですから頭を上げて下さい。」
・・・年端もいかぬ子供に何をやっているんだ私は
途端に湧き上がる後悔、いつもの彼ならば何事もなく流せるようなことだった。
しかし彼女の言葉は何故かこちらの心の芯に響き、その問いかけを無視することは出来なかった。
「でも・・・」
「いいんですよ、それともメイドさんはお客様の言葉を信じられないのですか?」
冗談めかして言う辰也、そんな彼に彼女は涙を止めて微笑みかける。
「わかりました、葛木様。それではお詫びに今よりもっと心を込めてご奉仕させて頂きますね。」
「ええ、お願いします。」
彼女の涙が止まったのを見て安堵する辰也。
もとより女性の涙は苦手であったが、何故か彼女の涙は特に彼の心を抉っていた。
その涙を止めるためならば、多少の我慢は構わない。
正直もう限界が近かったがなんとか耐えて見せよう、妻に誓って
「じゃあまずは足を開いて頂けますか?」
「はい・・・え?」
だがそんな彼の決意は、陵辱者の更なる暴虐により脆くも崩れ去ろうとしていた。
「ひどい目にあった・・・」
与えられた一室で辰也は一人呟いた。
・・・天国のような地獄の時間を乗り切り、疲弊した彼を待っていたのは更なる地獄であった。
それは、ひどく冒涜的で名状しがたいナニカだった。
少なくとも、常人はそれを見て料理だとは思わないだろう。
瘴気を放つ極彩色のスープ、冒涜的な形状の肉?のようなモノ、それにあれは・・なんだろうか?
理解が出来ない。まさに化外の法理に基づいて創られた異形のモノであった。
「腕によりをかけました、どうぞたくさん召し上がってください。」
・・・これを食べろとおっしゃいますか。
これを食べるぐらいならば、まだ下水の水を飲み干す方がマシである。
体は硬直し、舌の根は乾き、眼鏡は曇り震えている。
・・・だがしかし、満面の笑みを浮かべる可憐な少女の善意を踏みにじるような事は彼には出来なかった
覚悟を・・・決める。
「・・・いただきます「キシャーッ」・・・なぜスープから声が!?」
たとえ死すべきことになろうとも。
時刻は深夜、草木も眠る丑三つ時。
「・・・眠れない。」
魔の宴より無事帰還した辰也は、清潔な匂いがするベッドの上で、まんじりともしない夜を過ごしていた。
体は疲れ果てており、常ならば一時の間もおかずに夢の世界へ旅立つところであったが、なぜか心が眠るのを拒否していた。
気分を変えよう、そう思い辰也は部屋を出る。
どこまでも広がるかのような長大な廊下には人影はなく、静寂を保っていた。
その静寂の中を進み、館を出て庭に到着する。
やはり人影はなく、微かに聞こえる虫の音と、眼前には相変わらず見事な桜が咲き誇っていた。
その美しさに目を奪われる、と同時に違和感を感じる。
何かがおかしい。
はて、この違和感はなんだろうと思い、思案をめぐらせていると、一つの事実が浮かび上がる。
刹那、全身に悪寒が走った。
「呆けていたのか・・・なんで気付かなかった・・・」
それは明らかな異常だった。
「馬鹿な、ありえるはずがない」
満開に咲き誇る桜
「だって」
今は夏なのに
異常はそれだった。
現在は8月、暦の上では夏であり、断じて桜が咲くような季節ではない。
その怪異を前にして、混乱の極致にいる辰也。そんな彼にあってはならない声が聞こえた。
「それはね、ここが常春、時の止まった永遠の刹那だからよ」
瞬間、世界が凍った。
我が耳を疑う。
それは彼が聞き間違えることのない、しかしありえない声。
総身を駆け巡る激情に突き動かされ、振り返る。
そこには・・・一人の少女がいた。
鈴の音の様な声・・・覚えている、かつて何よりもそれが心地よかった。
濡れた羽の様な黒髪・・・覚えている、かつて何よりもそれを梳く時間が好きだった。
琥珀の様な目・・・覚えている、かつて何よりもそれが美しいと思っていた。
覚えている、覚えている、覚えている
記憶にある姿より幾分若いが、私がそれを間違えるはずはない。
たとえどれだけの時が流れようともそれだけは決して
だから彼は告げる、彼女の名を
「・・・鈴香」
そう、それは間違いなく彼の妻である葛木鈴香その人であった。
だがしかし、彼女は故人、この世にあってはならぬ者である。
ありえぬ光景を前に凍りつく彼に微笑みかけ、彼女は只一言を放った。
それは致命の呪い。彼の罪。
・・・うそつき
「あ、あぁぁああああああああああああああああああああ!!」
瞬間、彼は弾かれたようにその場から逃げ出していた。
なんでなんでなんでなんでなんで・・・
我武者羅に走る、恐怖に突き動かされてひたすらに。
庭を抜け、森に入り、ただただ駆け抜ける。
逃げなくては逃げなくては逃げなくては・・・
ここにいれば私は壊れてしまう
千々に乱れた心で、逃げ続ける。
・・・どれ程の時間がたっただろうか。
霞む視界。
その両足はすでに立っていることすらできそうにない程疲弊し、心臓は限界を超えた酷使に今にも破裂しそうだった。
それでも彼は走り続けた、もはや自分の体などどうでもよかった。
それよりもただただ恐ろしかった、それに比べれば体の苦痛など何事でもなかった。
だが、しかし彼の足が止まる。
逃げたはずである。いかに森が人を惑わすとは言え、まっすぐ走っていたのだありえるはずがない。
・・・眼前には見慣れた洋館があった。
あまりに奇怪な現実・・・彼の心は砕け散る寸前であった。
「あなたはもう逃げられないわ」
彼女がいた。
姿は多少変われども、それは紛れもなく彼の妻。
その姿を見て、辰也は怯える。
ただただ恐ろしかった。
彼女がではない、彼女からの断罪が何よりも恐ろしいのだ。
彼女はそんな辰也を見つめ、楽しそうに、しかしどこか悲しそうに笑いながら告げる。
「あなたはもうここで、私達とともに過ごすしかないの」
・・・私達?
見渡せば、彼女のそばには見慣れたメイドがいる。詩織である。
彼女は主と同じく、楽しそうに、しかしどこか悲しそうに微笑んでいる
・・・そして、ありえない者達がいた。
燃えるような赤髪のツノの生えた大女
金の尾を揺らす、妖艶な美女
頭に皿を乗せた緑色のナニカ
いずれもただの人と呼ぶにはいささか外れた者たち、まぎれもない怪異であった。
「おかえりなさい、あなた。そして・・・」
精神が限界を迎え、意識が急速に途切れていく
薄れゆく世界のなか、彼は最後にこう聞いた
ようこそマヨイガへ