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麗華、マウンドに立つ

――まずいな……――

 大鉄は思わず不安を顔に出しそうになり、慌てて押し止めた。

 試合前の準備投球のため、マスクを被っていないことを思い出したのだ。

自分が先頭になって青ざめた顔など見せたら、やつはますます硬くなるだろう。

とにかく仁をこれ以上追いつめるのはよくない。                 

もともと仁は神経質でアガリ性で、立ち上がりは悪いのだ。

 だが、今日の調子は特にひどい。

 球がまったく走っていない。

 本来、仁のストレートはマックスで百四十七キロ出るのだが、どういうわけか今日は百三十五キロも出ていないのではないか。

 ――セーブしているのか?準備投球だから――

 いや、そうじゃない。

 投球フォームがいつもと違う。

 どこかギクシャクしている。

 それに、変化球も全然だめだ。

 仁の球種は、ストレートとスライダーとフォークボール。

 スライダーは確かに曲がるが、全くキレがない。

 これではちょうど打ちごろだ。

 その上、ストレートに比べ極端にコントロールが悪くなるようだ。

 いや。ストライクゾーンから外れてくれるならまだいいが、間違って真ん中などにきたら、今日の相手でも打たれるかも知れない。

 フォークは要求しても投げようともしない。

 元来やつはフォークに関しては特に神経質で、試合前にはしつこいほどチェックするのだが。

 ――どうする?――

 怒鳴りつけて気合を入れるか。

 おだててリラックスしてもらうか。

 やはり、彼女の自殺のショックから立ち直れていないのだろう。

 当たり前だ、立ち直れるはずがない。

 まだ一昨日の話なのだ。

 今日の相手ならこれでも勝てるだろうが、なんとかして立ち直るきっかけでもつかんでもらわないと、予選を勝ち抜くのはとても無理だ。

その上観客はほぼ満員である。

予選の一回戦としては異例の盛況ぶりだ。

皆仁を見にきたのだ。

甲子園出場経験こそないがプロのスカウトの目に留まっているという噂を、皆よく知っているのだ。

特に地元の沢谷香市では、町おこしの期待も込めて、市長までが仁に注目しているという噂だった。

長い高校野球の歴史の中で、沢谷香市は一度も代表校を輩出したことがなかったのだ。

これで緊張するなという方が無理というものだ。

――怒鳴りつけるのは逆効果だろう――

やつは心底俺を恨んでいるようだ。

現にさっきも背中を蹴ってきた。

あんなことくらいで恨みが消えるとは思えないが、少しでもやつの気が晴れるなら、いくらでも蹴られてやるさ。

…………

 ――マウンドの上って、こんなに暑かったのね――

 麗華は早くも汗びっしょりだった。

 キャッチャーの大鉄までの距離も、想像していたよりずっと遠く感じる。

 応援席では仁の父と母が、期待と不安の込もった眼差しでこちらを注視している。

 父親は仕事を休んで見にきたのだった。

 ゆうべの遠藤との特訓の甲斐があって、見た目はなんとかピッチャーらしいフォームになってきたが、直球とスライダーはともかく、フォークは全く無理だった。

 とても一朝一夕で体得できるものではなかったのだ。

 投球練習が終わると、大鉄が笑いながら駆け寄ってきた。

 「なんだよお前、またアガってんのか?」

 大鉄に挑発されて、麗華は少しむきになった。

 「え?いや、そうでもないけど……」

 すると大鉄は笑いながら、「俺もアガってんだけどよ」と麗華の肩を叩いた。

 「緒戦だから無理もないさ、でも、今日の相手はお客さまだ、落ち着くまではサインなんかいいから、全部ど真ん中に思いきり直球投げてこいよ、溜まった鬱憤を晴らしてやれよ」

 ――結局、どうしてもあたしが投げなきゃなんないのね……――

 ブルペンでの投球練習で、仁がいつもの調子の見る影もないほどの状態であることくらい大鉄が一番判ったはずだった。

 だが、もしかしたら今日は遠藤でいってくれるのでは、と密かに寄せていた期待も裏切られてしまったのだった。

 「試合終わったらまた満腹亭で特盛りラーメンとジャンボギョーザ食って帰ろうぜ、おごるからさ」

 大鉄は真っ黒に日焼けした顔に白い歯で笑い、ホームベースに戻って行った。

 ――結構いいやつ、認めたくないけど――

 麗華は一度、大きく深呼吸した。

甲高いサイレンが、有無を言わせぬほどの大音量で鳴り渡った。

もう、後戻りはできないのだ。

 ちなみに試合に臨む沢谷香高校のオーダーは次のとおりである。

 一番ショート  牛若小次郎

 二番センター  花北沢悟

 三番サード   鎮西八郎

 四番キャッチャー大江戸大鉄

 五番ファースト 高橋エンリケ誠

 六番ライト   遠藤盛遠メアリー

 七番セカンド  柏薔薇魔裂

 八番レフト   梶原景時

 九番ピッチャー 藤村仁(麗華)

 ――ここまできたら、やれるとこまでやるだけよ――

 麗華、振りかぶって、第一球。

 「うおおおっ……」

 観客がどよめいた。

 ――あれ、なに?――

 バッターが倒れている。

 主審が「デッドボール」と叫んだ。

 ――しまった――

 すかさず相手のベンチやスタンドからヤジが飛んでくる。

 いや、相手からだけではなかった。

 「おいおい、たのむぜ」

 サードを守っている八郎が、土を蹴って聞こえよがしにブツブツ言っている。

 「やれやれ、天才のやることってな理解できねえよ」

 ショートの牛若がそれに続く。

 「ドンマイ、真ん中投げよう真ん中」

 キャッチャーの大鉄とライトの遠藤だけが、そんな意味のことを叫んで励ましてくれた。

 ファーストのエンリケは、ぼんやりと相手の応援席をながめていた。

 恐らくチア・ガールを見ているのだ。

――どうしたんだろう?練習ではちゃんとストライクが入るようになってたのに――

実を言うとこれには、麗華には解らない不運がいくつか重なっていた。

 硬式の、試合で使うような新品のボールというのは、それなりの投球力のある者が投げると、思いもよらない変化をすることがあるのだ。

 麗華は直球を投げたつもりだったが、それがほんのわずかだが汗で滑ってシュートをしてしまい、しかも相手の打者は、最初からヒットを打つのが難しいことを見越して、かなりベース寄りに被って構えていたのである。

 麗華は新品のボールを投げるのは、これがはじめてだったのだ。

 味方の罵声まで浴びる四面楚歌だが、とにかく考えても仕方ないかと、気持ちを切り替える。

 意外とマウンド度胸はあるのだ。

 ――こういう時は、一塁に牽制球ってのを投げるのよね――

 麗華は冷静に自分の置かれた状況を把握していた。

 だが。

 「ボーク!」

 主審がまた叫んだ。

 なまじ平常心があったことが返って裏目に出てしまい、投げなくてよい牽制球を投げ、しかもボークになってしまったのである。

 結果、ノーアウトでランナーが二塁に行ってしまった。

 麗華はまだ、一球しか投げていない。

 「てめえ、なにふざけてんだバカヤロー」

 今度は相手のヤジより早く、八郎が怒鳴りつけてきた。

 「まったく、乗っけから忙しいこと」

 牛若の嫌味がそれに続く。

 ――ぼ、ボークって、なに?――

 それは麗華にとって、はじめて聞く言葉だった。

 麗華が見ていた試合では、仁はボーク、つまり反則投球を一度もやったことがなかったのだ。

今麗華がやったのは、プレートを踏みながら打者に足を踏み出して――つまり、打者に向かって投げるフォームで――一塁に投げる、という初歩的なボークだった。

――なにがなんだか分からない、一体どうすればいいのよ――

麗華もさすがに平常心を失い、呆然としてしまった。

ピッチャーにとって立ち上がりのボークは、ヒットを打たれるより心理的に辛いものなのである。

「タイム」

大鉄が駆け寄ってきて、内野手を集めた。

「お前ら、さっきから味方なんかヤジっていい加減にしろよ」

八郎と牛若を咎めたが、顔は相変わらず笑顔である。

「ヤジじゃねえよ、愛のムチだよ」

八郎が苦々しげに吐き捨てる。

「そうそう、叱咤激励、切磋琢磨ってやつだね」

牛若が他人事のようにうそぶく。

「まあ、まだ点取られたわけじゃないさ」

大鉄が麗華に微笑みながら言った。

「牽制球は投げなくていい、ランナーは気にすんな。今日の試合は三点や四点取られたって大丈夫だから、なにも考えずに投げてこいよ」

麗華はその笑顔と言葉に救われ、少し落ち着きを取り戻して「うん」とうなずいた。

――な、なんか、認めたくないけどありがとう――

だが。

「バカヤロウ、緒戦の弱小相手だからこそ、完璧に勝って勢いをつけるんじゃねえか」

八郎が割って入ってくる。

「そうそう、獅子はうさぎ相手にも全力を尽くすってやつだね」

牛若がそれに続く。

「分かった分かった、打たせるからお前ら完璧にやれよ、うちの守備にはつけ入る隙なんてないってところを見せつけてやろうぜ」

大鉄は笑顔で二人をなだめてから、鋭い目になり「しめていくぜ!」と気合を入れた。

八郎も牛若も「おう、あたりめえだ」「どんどんこいや」と口々に叫びながら守備に散って行った。

大鉄は一人残り、再び麗華に笑顔を向け、

「みんなまだ、硬さがとれなくてイライラしてるんだよ、野手ってのは、最初の打球をさばくまで落ち着かないからな。ランナーは気にしなくていい、お前はバッターに思いっきり投げるだけでいいよ、ヒット打たれてもいいから打たせていこうぜ、あいつらにいっぱい仕事してもらおう」

そう言い残して戻って行った。

――すごい――

麗華は遠藤の言葉を思い出した。

試合になると本当に頼もしいやつ。

まるで別人のように生き生きとしている。

あんな曲者連中を、ほんのわずかのやり取りで、調教師のように操ってしまった。

大鉄自身だって、緒戦の不安は同じはずなのに。

それになんという目をするのだろう。

あれは子供が、楽しい遊びに夢中になっている時の目だ。

生きているのが楽しくて仕方ない、という目だ。

そんな目で見られ、麗華もいつの間にか落ち着きを取り戻しているのだった。

次のバッターは早くもバントの構えをしている。

「いいぞ、やらせろやらせろ」

大鉄が両手を広げて大きく構えた。

――バントなら、何度も見たことあるわ――

麗華は投げるのと同時に飛び出す。

だが。

「うわっ、痛てえ!」

夢中で打球を追いかけて、八郎とぶつかってしまった。

麗華もそのまま倒れ、一塁・三塁オールセーフになってしまうのだった。

「バカヤロウ、テメエはファーストのカバーだよ……っうか、初球から簡単に三塁線にバントさせんな、このドアホウ」

八郎は真っ赤になって麗華に食ってかかった。

――な、なによ、カバーってなに?ピッチャーって投げるだけじゃないの?――

麗華は再び、なにがなんだか解らなくなってしまった。

マウンドに戻りながら、スタンドを見上げると、仁の父親がうなずきながら、こちらに向かってなにかを叫んでいる。

隣の席では母親が、お祈りをするように両手を合わせ、強く目を閉じてうつむいていた。

その上の座席を見て麗華は愕然とした。

そこにはあの胡桃美琉久がいたのだが、その目。

遠くから気味の悪い動物でもながめているような、蔑んだ目でこちらを見下ろしていた。

――好きな男が頑張っているのに、よくあんな目で見られるわね――

麗華は唾を吐きたい気分だったが、今はそれどころではなかった。

次の打者へ、第一球。

はじめてストライクが取れたが、一塁ランナーには簡単に走られ二塁に行かれてしまった。

だが、これでなんとか、ストライクを投げる感触はつかめた。

第二球。

「走った!」

麗華が足を上げたところで、サードの八郎が叫んだ。

大鉄はその声より早く、立ち上がっていた。

相手のスクイズを完全に読んでいたのだ。

だが。

――え?――

普通にストライクを投げるのが精一杯の麗華が、投球動作の途中からウエストボールを投げることはできなかった。

ボールは大鉄のはるか頭上に逸れ、大鉄が思い切り飛んでも届かなかった。

二人のランナーが次々と、ホームに還った。

ホームのカバーに入っていた八郎が、グローブをグラウンドに叩きつけて麗華になにか怒鳴っている。

用もないのに、小次郎が麗華の隣まできて、小声で、毒を吐き捨てるようになにかささやいている。

だが麗華にはなにも聞こえず、視界に入る景色も陽炎のように歪んで揺れているのだった。

しばらくの間、遊びにまぜてもらえない子供のように、そうして立ち尽くしていた。

かなり長い時間だったような気がするが、時間にすれば一分もたっていなかったかも知れない。

やがて、真っ暗なベンチから監督が姿を現し、ピッチャー交代を告げるのを、麗華は他人事のようにながめていた。

大鉄と遠藤が近寄ってきて、なにか優しげな声をかけてくれたようだったが、結局その二人に促されベンチに下がった。

「お前はもう必要ない」と、その時誰かが言ったような気がした。

八郎だったようでもあるが、誰も言っていなかったようでもあった。

――結局この世に必要のない人間――

自分の心の中の自分がそうささやいたようだった。

ベンチに戻る際、スタンドの仁の父親と目が合った、父親は真っ直ぐに麗華を見てうなずいていた。

母親は両手で顔を覆っていた。

その後ろの座席に美琉久の姿はなかった。

探す気もなかったが、近くの大きな出入り口の階段に向かって歩く姿がすぐに見つかった。

出入り口脇のゴミ箱に沢谷香高校の応援の小旗を捨て、そのまま階段を降りていくのが見えた。


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