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ライバル登場

バックスクリーンの向こうには、入道雲がじっと動かずに球場を見下ろしている。

 ブラスバンドの演奏と蝉時雨に混じって、どこからかヘリコプターの飛んでいる音が聞こえてきて、麗華は思わず空を見上げた。

 真っ青な空だ。

 はじめて歩く野球場のグラウンド。

 まるで大きなすり鉢の底を這っている、蟻になったような気分だ。

 グラウンドから見上げる空は、いつも見ているそれより丸く、青くて高いドーム型の天井のように見えた。

 地球ってやっぱり丸いんだ、と麗華は歩きながらどうでもいいことを考えていた。

 ――痛っ……――

 後ろから踵を蹴られて振り返ると、八郎が引きつった顔で「振り向くんじゃねえよ」とささやく。

 麗華をにらんでいるようだが、その視線は麗華の顔よりずっと後ろの、遠い所を見ているようだった。

 よほど緊張しているのか、手と足が一緒に出ている。

 ――あんたこそ、このくらいでアガってんじゃねえよ――

 とうとうはじまってしまった。

 ゆうべあれから遠藤と外へ出てキャッチボールをした。

 仁の家の近くにあるホームセンターの駐車場が、夜十時まで明かりをつけているのだ。

 それが消えてからも家に戻り、深夜まで話をした。

 野球のレクチャー、チームメイトの話、女の子同士?のとめどないお喋り。

 特に女の子同士のお喋りはうれしかった。

 一体何年ぶりだったか。

 麗華は何年も溜めていた心の澱みを、洗いざらい吐き出し聞いてもらった気分だった。

 実に心強い味方ができた。

 自分が麗華であることを打ち明けて良かったと思う。

 相手がお人よしで夢見がちな性格の遠藤であることも幸いした。

 麗華本人も戸惑うほど、すんなり受け入れてくれたのだ。

 もし相手が大鉄だったら、どうだっただろうか。

 麗華は前を歩いている大鉄の、大きな背中を見た。

 恐らくこれっぽっちも信じないだろうが、野球部にプラスになると解れば、話に付き合って協力くらいはしてくれるのではないか。

 頑固で強情だが、決して因業な性格というわけではなさそうだ。

 遠藤の話では、思いやりもユーモアもあるらしいし、顔立ちだって、決して悪い方ではない。

 仁のような優男とは正反対のタイプだが、時々見せる笑顔は確かに魅力的だった。

 なによりひた向きさと優しさがよく表に出た、好い人相……好相と言っていいだろう。

 ――その気になれば、結構モテそうだけど――

 麗華はそんな風に考えてから、ハッと我に返った。

 ほんの一瞬とはいえ、大鉄を好意的に見ていた自分に腹が立ってくると、目の前の筋肉質の背中が無性に憎らしくなって、蹴飛ばしたい衝動に駆られてくるのだった。

 ブラスバンドの行進曲に合わせて一歩一歩リズミカルに足を動かしているうちに、ついその一歩を大きく前に踏み出し、気がついた時には膝で蹴っていた。

 大鉄は反動で首を仰け反らせ「痛てっ」と短く呻くと、すぐに首を後ろに捻って、

 「なにすんだ、バカヤロウ」

 と、麗華をにらみつけた。

 その、あまりにも当たり前すぎる反応に麗華は思わず噴き出し、そしてアカンベーを返すのだった。

 仁と比べれば、絵に描いたような平凡な常識人なのだろう。

 役員の挨拶が長々と続き、選手宣誓が終わり、球児たちは整然と野球場から退出する。

 野球場の外では、ついさっきまで牛のように黙りこくって歩いていた高校生たちが緊張から解かれ、同じ色のユニフォーム同士で固まって雑談に花を咲かせていた。

 相変わらず緊張に青ざめている者。

 力が余っているのか、チームメイトに格闘技の関節技をかけてふざけている者。

 麗華と同じチームのエンリケも、ノリノリでサンバのステップを踏んでいる。

 その中から不意に一つの顔が麗華の行く手を遮って立ちはだかった。

 「おい」

 と、そいつは不躾ぶしつけに声をかけてきた。

 痩せているが、ひょろりと背だけが高い。

 身長百八十センチの仁の体でも見上げるほどの高さにある顔は、真っ黒に焼けている上頬がこけていて、ひどく小さく見えた。

 「今年は去年みてえなわけにはいかねえからな」

 と、神経質そうな眉間に深いシワを寄せてそいつは言った。

 「え?」

 麗華が、わけが分からずまごまごしていると、

 「いつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ、こら」

 相手はしびれを切らしたように凄んできた。

 「三日月山高校のピッチャーの鳥羽だよ、去年準々決勝でうちに負けたんだ」

 いつの間にか遠藤が隣に来ていて、そう耳打ちをした。

 「え?ああ、よろしく」

 麗華が右手を差し出すと、今度は鳥羽の方が「え?」と一瞬戸惑ったようだったが、すぐに「ふざけるな」とその右手を払いのけてしまった。

 「去年は試合の後まで散々バカにしやがって、急に優等生ヅラすんじゃねえよ」

 ――な、なるほど――

 「バカにしたんだ、ごめんね」

 麗華が素直に謝ると、鳥羽は一度気持ちの悪いものでも見るような目になったが、すぐにまた麗華をにらみつけて、

 「とにかくだ、今年は準決勝まではお前えと試合ができねえ、もっとも、お前えの方が負けずに勝ち上がってくればの話だがな」

 と、口の端を歪めて笑った。

 「うん、その時にはよろしくね」

 麗華は満面の笑顔で返した。

 仁になって三日目ともなると、麗華も次第に慣れて余裕が出てきたのだ。

 要するに、どんなに相手から怒られようと、ののしられようと挑発されようと、それは仁が言われているだけなのである。

 鳥羽はいまいましげに「けっ」と顔を歪めて、

 「せいぜい頑張るんだな」

 と背中を向けて行ってしまった。

 麗華はそれを見送りながら、短く溜息を吐いた。

 ――まったく、どこまで敵だらけなんだか、このバカ――

 恐らく試合で負かされた後になってまで、仁に余計な戯言ざれごとでも言われたのだろう。

 「あ、今度は向学大付属高校の足利が来た」

 遠藤がまたささやいてきた。

 「去年うちが準決勝で負けた学校の四番だよ」

 「やあ」

 足利は鳥羽とは対照的に、にこやかに握手を求めてきた。

 ――か、かっこいい――

 身長は仁より若干低いが、その風貌と体つきはまるでドーベルマンのように精悍である。

 「今年も君とこうして再会できて嬉しいよ」

 「う、うん、そうだね」

 「幸運と言うべきか、不運と言うべきか、君のチームとは決勝まで当たらないが、君たちならきっと勝ち上がってくると信じてるよ」

 ――かっこいいけど、なんかやっぱり違う――

 足利の態度は慇懃無礼というか、どこか堅苦しすぎるところがある。

 「去年はたまたまうちが勝たせてもらったが、勝負は時の運だ。今年もいい試合をしよう」

 「彼の先祖は、昔このあたりを治めていた殿さまなんだって」

 遠藤がまた耳打ちをしてきた。

 ――な、なるほど――

 「僕にとって君は永遠のライバルだ、健闘を祈るよ」

 「うん、君もね」

 ――どうして野球やる人って、みんなこうキャラが濃いんだろう――

 「去年は彼の学校が甲子園に出て、ベスト4まで勝ち進んだのよ」

 足利の背中を見送りながら遠藤は女言葉でささやいた。

 「そんなに強いの?」

 麗華は知らなかった。

 去年は仁と別れて、野球は全く見る気になれなかったのだ。

 遠藤はため息をつきながらうなずいた。

 「去年の感じでは全く勝てる気がしなかったけど、それは上級生にすごいピッチャーがいたからなの、今年はその人が卒業したからまだなんとかなりそうだけど、でも強敵には間違いないわね」

 麗華は遠藤と顔を見合わせ、肩をすくめた。

 「冗談じゃないわ、そんな先のことなんて。今日の試合だってかなり危ないのに」

 「大丈夫よ、相手の篠溜高校は強くないから、普通にやればうちがコールドで勝てる相手だし、あたしが投げても完封できるようなチームなの。ほんとにだめだったらあたしがいつでも代わってあげるから」

 遠藤はにっこりと微笑んでそう言ってくれた。

 口調は別として、その笑顔は麗華にはひどく頼もしくみえるのだった。


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