父と母
母親は不思議そうな顔で、麗華の顔をしげしげと見てから、階段の上を見上げ、
「誰か来てるの?」
と、聞いてきた。
「だ、誰も来てないわ……ないよ……」
「なにか話し声が聞こえたようだけど」
「え、英会話の勉強してたのよ」
母親は「えええっ」と目を丸くした。
「あんたが勉強だなんて、ちょっと熱でもあるんじゃない?」
そう言って、麗華の額を触ってきた。
「だ、大丈夫よ……だよ」
「それに、あんたが私の呼ぶ声に返事をするなんて、小学生の時以来じゃない、ホントに大丈夫なの?どっか悪いんじゃないの」
「えっ?そうだったの?」
――しまった、早くもピンチ――
「だ、だからさ、最後の大会ももうすぐでしょ?なんだか、今までの緊張がほぐれて、すっきりしちゃってさ」
すると母親は、「そ、そうなの」と言葉を選ぶように、
「そ、そうね、あんた今まで頑張ってきたもんね、やるべきことは全てやったんだから、そうよ、全てやったのよ」
と、なぜかぎこちなく『やった』という言葉を強調した。
――だって、この時間にジンが家にいるってことは、練習に出てないのバレバレじゃん、返事のことなんかより、なんでそっちの方を聞いてこないんだろう?――
麗華は首を捻ったが、キッチンに入った瞬間、それどころではなくなった。
――うわっ!肉の焼ける臭い――
麗華は肉が大嫌いだったのだ。
肉の焼ける臭いを嗅いだだけで胃のあたりがむかむかしたが、今度は仁の父親が視界に入ったので、とりあえず平静を装った。
お世辞にも広いとは言えないキッチンに置かれたテーブルの向こうで、父親は新聞で顔を隠すように椅子に座っていた。
挨拶をしようと覗き込んだが、なかなかこっちを向いてくれない。
麗華は仕方なく椅子に腰掛け、さりげなく観察していると、時々チラチラと麗華の方を覗き見ているようだったので、「おかえりなさい」と挨拶してみた。
すると父親は芸人がコントでコケるみたいに、椅子からガタンと落ちそうになり、怯えたような目を麗華に向けるのだった。
掛けていたメガネが、斜めにズレて落ちている。
「え?ああ……た、ただいま……あは、あはははは……」
とってつけたような大きな笑い声がせまいキッチンに響き渡り、それが返ってその後の沈黙を余計に気まずくさせるのだった。
時間にして一分くらいだったのだろうが、かなり長い沈黙に感じられた。
その間父親は終始落ち着かない様子で、そわそわし、自分に弾みをつけるように、コップのビールを一口グイッと呑み、「調子はどうだ?」と、上目づかいに身を乗り出してきた。
「え?うん、まあまあ、かな」
すると父親は、また一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに、いかにも嬉しそうに、
「そうか、まあまあか、はははは……そうかそうか」
と、ただの『まあまあ』をまるで思いがけない吉報を聞いたみたいに大喜びした。
――なんなのよ、この腫れ物に触るような雰囲気は――
『まあまあ』がそんなに嬉しいはずはない。
この父親は仁が会話に乗ってきたことが嬉しくて仕方がないんだろうと麗華は理解した。
それは、麗華にも心当たりがあった。
仁とまだ付き合い始めたばかりのころだ。
初めて彼氏ができたことが嬉しくて仕方ないのに、なにを話したらいいのかわからない。
仁のことを大事に思えば思うほど、彼をどう扱ったらいいのかわからない。
「こんなことを言ったら怒らせてしまうんじゃないか」などと余計な心配をしてしまい。
結局、どうでもいいようなことに食いついて、笑うところじゃないのにわざとらしく
はしゃいでみせたりするあの感じだ。
「あらあら、お話が弾んでるのね、はい、今日は奮発してステーキよ」
――弾んでるか?このぎくしゃくした会話が――
母親の、取ってつけたような言い方と、不自然にトーンの高すぎる明るい声に、麗華は思わず失笑しそうになった。
だが。
――この家って、いったいいつもはどんな雰囲気で夕飯食べてるのかしら?――
何日も散歩をさせていなかった犬を久しぶりに連れ出したら、こんな感じで些細なことに大はしゃぎするのではないか。
そんな風に考えると、この不器用で優しい夫婦がひどく憐れに思え、なんだか涙が出そうになってくるのだった。
――でも、無理、ステーキは、無理――
麗華はとりわけ牛肉が大嫌いだったのだ。
特にレアの、半生の、あの乳臭い臭いが苦手だった。
「明後日から大会だからな、母さん、今日と明日は奮発するって。今日がステーキで、明日がカツレツ……『テキにカツ』、なんちゃってな、あはははは」
父親が、顔をくしゃくしゃにして笑った。
――なんか、いい人たちじゃん……あたしん家なんか……――
大手銀行員の父親と、経営コンサルタントの母親。
父親は大阪の支店に単身赴任中だし。
母親は主に地方の旅館の、経営アドバイザーとしてあちこち飛び回っているため、今は二人ともほとんど家にいない。
プライドが高く、エリート意識むきだしの二人。
夫婦というより、お互いライバルみたいな二人。
おかげでお金に困ることはなかったが、麗華は高校に入ってから、ほとんど一人暮らしだった。
キッチンはこの家よりずっと広かったが、食事はその無駄に広いキッチンで、四人掛けのテーブルで一人、コンビニの弁当を無言でつつく毎日だった。
父親は大阪に愛人がいるらしいのだが、母親は全く気にしていないようだ。
たまに家族三人がそろった時には、高給レストランで食事をするのだが、両親の携帯に代わりばんこに電話がかかってきて、退席する時に「失礼」と言う以外は、ほとんど誰も喋らない。
今日の麗華の自殺でも、すぐに帰って来るかどうかさえわからない二人である。
形はともかく、こんな賑やかな食事は、何年ぶりだろう。
だが。
――ステーキだけは、ちょっと……――
幸いなことに、汁物は洋風のスープではなくワカメの味噌汁で、ワカメはごはんのおかずになった。
キュウリとナスの浅漬けもちょうど旬で美味しかったので、そっちばかり食べていると、
「どうしたの?大好きなお肉食べないで」
と、案の定というか、母親が心配そうに聞いてきた。
「いや、あの、別に、ちょっとダイエットしようと思って……」
「そんなんで大丈夫か?試合はあさってなんだから、力つけなきゃ。あさってに向けて肉を漁って、なんてな」
父親は完全に上機嫌で、ビールで真っ赤な顔になっている。
「うん、は、はい……」
――『テキにカツ』もお父さんのアイディアだったのね、どうでもいいけど――
麗華は赤身の所を選び、ナイフで一切れ、できるだけ小さく切って、息を止めて(ついでに鼻もつまみたかったが)極力噛まずにそれを呑み下した。
「ふう……うっぷ」
――やった、食べれた――
母親は本当に奮発したようで、肉が高級品だったのが幸いし、ほとんど噛まずに飲み込めたのだった。
ふと我に返って回りを見ると、父と母の視線とぶつかった。
二人ともなぜかひどく不安げな顔をしていたが、目が合うと、嬉しそうに微笑むのだった。
「美味いだろ?」
と父親は言った。
「う、うん」
この勢いを駆ってもう一切れ。
こんなに喜ばれるなら、食べないわけにもいかない。
こんどは少し大きめに――と言っても普通サイズくらいに――切ってみた。
大嫌いではあるが、決して肉アレルギーというわけではないのだ。
だが。
「ぐへえ、うげえ……」
ちょっと調子に乗りすぎた。
噛まずに呑み込むには肉が大きすぎて、むせたのである。
血相を変えて、シンクに駆け寄り咳き込む。
おかげで返って、口、喉、鼻の粘膜が全て肉の臭いで満たされ、しかもヒリヒリする。
「大丈夫?」
母親が悲鳴のような声をあげて背中をさすってくれる。
「だ、大丈夫……」
「あんたやっぱり、病院で診てもらった方がいいわ、あんなに大好きなお肉でもどすなんて」
「ほんとに大丈夫……」
――ちょっとしつこい、でも……――
この感覚。
嫌じゃない。
これは、遠く離れた所に住んでいる祖父や祖母の家に久しぶりに行った時の感覚に似ていた。
このぎこちなさ。
このいささか見当違いな深情け。
そしてこの、あふれるばかりの愛情。
それにしても。
――ジンのドアホウ、普段いったいどんだけ親に気を遣わせてんだよ――




