さよならロングリリーフ
――暑いわ……――
キャッチャーの遠藤が、陽炎のかなたのように遠く見える。
満員のスタンドのどよめきや、ブラスバンドの同じフレーズのくり返しが、催眠術のように麗華の眠気を誘ってくる。
麗華はゆうべ、ほとんど一睡もできなかった。
あれから一時間ほど後、大鉄の両親が迎えにきて、麗華もその車で仁の家まで送ってもらったが、麗華は床に就いてからもあれこれ考えてしまい、眠れなかったのである。
変な連中に襲われたことは、大鉄から堅く口止めされ、大鉄の両親には練習で怪我をしたということで口裏を合わせておいた。
結局大鉄はこの試合にも出ることになったが、キャッチャーはさすがにできず、遠藤とライトのポジションを入れ代わっていた。
大鉄は、試合の前に再び花川口クリニックで痛み止めの注射を打ってもらい、この試合に臨んでいたのである。
そうまでしてでも大鉄を外すことはできなかった。
攻守の要である彼が、グラウンドにいるのといないのとでは、他のメンバーに精神的に与える安心感がまるで違ってしまうのだ。
今のところ薬が効いて、痛みはかなり治まっているようだが、今日の試合に大鉄のバッティングを期待することはできないだろう。
打順も遠藤と入れ代わって六番にさがっていた。
遠藤は三番に入り、三番を打っていた八郎が四番に入っていた。
――それにしても、よく打つわねこのチーム――
麗華はすでに足利から、二本のホームランを打たれていた。
向学大先攻の一回表にスリーランを、三回表にソロを打たれ四点を取られていた。
だが、試合は沢高が一点リードしていた。
大鉄の穴を埋めて余るほど、エンリケが原因不明の大爆発をしているのである。
この気まぐれな火山は一回裏に足利と同じくスリーランホームランを打ち、三回に二点タイムリーとなるツーベースを打ち沢高は合わせて五得点をあげていたのだ。
他のメンバーも準決勝の貧打の鬱憤を晴らすようによく打っていたが、やはり大鉄がブレーキだった。
一方麗華も毎回ヒットを打たれながらも、足利以外は要所を抑え四回までなんとか四失点で切り抜けてきたのだが、五回表一番と三番にヒットを打たれ、ワンアウト一・三塁で三度目の足利を迎えていた。
「どうしよう……」
遠藤が陽炎のかなたからやってきて、困り抜いた顔で麗華に聞いてきた。
「仕方ないわ、敬遠しましょう、満塁になっちゃうけど……」
麗華は暑さと疲れにぼやけた頭で、即座に判断した。
玉川もそうだったが、足利のバッティングセンスも、ちょっと異常だった。
その上去年立て続けに凡退させられた屈辱からか、今日の足利はさらに目の色が違う。
また、麗華の疲れ方もひどかった。
昨日の大鉄のマッサージが効いている感覚は確かにあるのだが、そんなことくらいではこの真夏の連投の疲れが完全になくなるはずなどないのだ。
キャッチャーの遠藤が立ち上がると、足利はものすごい目でこちらをにらみつけてきた。
その目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいる。
向学大のベンチと応援席からは、矢で射るような非難の怒声が降ってきた。
――く、くやしいけど、なんとしてもこの一点を守りきらなくちゃ――
麗華にはある予感があった。
この試合中にフィリップが、仁の魂を連れてくるような気がしてならないのだ。
フィリップは昨日もこなかった。
理屈から言えばもう、いつきてもおかしくないことになるだろうが、麗華はこの試合がはじまってから、妙な胸騒ぎを感じていた。
魂がなにかを報せている感じだった。
試合中に仁と交代するからには、石にかじりついてでも勝っている状態で、仁に渡したかった。
仁への義理ではなく、仁では当てにならないと麗華は思っているのである。
少しでも沢高に有利な状態で、仁と交代したかった。
「よし」
麗華は思わず声に出していた。
五番をスライダーでサードゴロを打たせ、ホームゲッツーにしとめたのである。
「きのうの鳥羽と比べりゃ打ちごろな球だぜ」
ベンチで牛若がうそぶいた。
確かに牛若もこの試合ではよく打っていた。
今朝の朝刊では、総合力で向学大がやや有利、と書かれており、しかも攻守の主軸である大鉄が負傷していたが、いざはじまってみると沢高はよくやっていた。
なんとしてでも、このまま逃げ切りたかった。
五回裏、この回も遠藤と八郎がヒットを打ち、チャンスでエンリケに回ったが、エンリケは敬遠されてしまった。
六番の大鉄が普通の状態ではないことが、向こうにもばれてしまったようだった。
そしてこの回も、大鉄がブレーキになってしまうのだった。
「みんな、ごめん」
大鉄は心の底からすまなそうな顔をしたが、誰も彼を責める者はいなかった。
顔色が青ざめている。
口には出さないが、徐々に薬の効果がきれてきているようだった。
「大丈夫、一点あれば充分よ」
麗華は胸を絞めつけられるような思いで、精一杯の笑顔で声をかけた。
大鉄のそんな顔を見るのは堪らなかった。
六回は両チームとも三者凡退に終わった。
だが、七回表、再びピンチが訪れた。
ツーアウトから二番と三番に連打され、足利の四度目の打席を迎えてしまったのである。
麗華がうなずくと、遠藤は黙って立ち上がった。
足利の前にランナーが出たら歩かせよう、とあらかじめ決めておいたのだった。
だが第一球目、スタンドが大きくどよめいた。
足利は自分の頭ほどの高さにきたボール球を空振りして見せたのだった。
それもボールを打ちにいったのではなく、ど真ん中の球を打つように、思い切り強振したのだった。
そして、痛烈な抗議と非難の眼差しを麗華に向けた。
「藤村くん、僕は猛烈に残念でならない」
向学大のスタンドは、「勝負しろ」コール一色である。
足利はその呪文のような大合唱を背に、彼らの代表者のように熱弁を振るった。
「僕は悲しいぞ、この一年間僕がどんな思いで過ごしてきたか、君なら解かるはずだ。我が終生のライバルよ、頼むから僕をがっかりさせないでくれたまえ」
「乗せられちゃだめよ」
タイムをとって駆け寄ってきた遠藤が、麗華を諌めた。
その時だった。
麗華が遠藤に「うん」と言おうとしたまさにその時だった。
ついにきてしまったのである。
フィリップが。
遠藤の後ろに立っている。
麗華は息を呑んで、その、麗華以外の人間には決して見えない顔を見つめてフィリップの言葉を待った。
今日のフィリップの顔は傷ひとつなかった。
――どうやら、うまくいったみたいね……でも……――
こんな時に。
最悪のタイミングだった。
だが、フィリップはにっこりと笑った。
「いや、よかったよかった。気になったんで先に私だけ様子を見にきたんだが、かなりとりこんでいるようだね。こちらは全て上手く運んだよ。後数分で本隊が到着する予定だから、それまでに一段落させておいてくれたまえ。いくらなんでもこんな大観衆の目の前で交代させるわけにもいかないからね」
――今すぐじゃないだけまだいいんだろうけど、後数分でこのピンチを終わらせろだなんていい気なもんね――
後数分。
敬遠などしていたら間に合わない可能性が高い。
また、最悪の場合、満塁で仁に交代することになってしまうのだ。
仁の虫けら並みの精神力など、麗華はまるで当てにできなかったが、麗華はフィリップに無言で大きくうなずいて見せた。
麗華の心が一気に弾けたのだった。
フィリップが右手を挙げながら笑顔で姿を消すと、麗華は一度ライトの大鉄に振り向いた。
大鉄は何度もうなずいていた。
正確な事情など知るはずもなかったが、彼なりに「勝負しろ」と言っているようだった。
――さよなら、大鉄――
麗華は心の中で別れを告げると、今度はスタンドに座っている仁の両親に向き直り、別れのあいさつをした。
――さよなら、仁のお父さん、お母さん。いつまでもお元気で――
そして、守備に就いているチームメイト一人一人を見回し、短くお別れの挨拶をし、最後に全員に言葉をかけた。
「みんな、今まで本当にありがとう、今から最後の勝負をするから、しっかり守ってね」
「こっちこそありがとうよ」
真っ先に答えたのは八郎だった。
「お前のおかげでここまでこれたんだ、好きに勝負しろよ」
「そうそう、俺たちゃ一蓮托生ってやつだよ、いつでもお前と心中してやるよ」
牛若がそれに続いた。
麗華の言葉の真意は解からないまでも、皆元気いっぱいの笑顔を返してきた。
「な、なにかあった、みたいね?」
遠藤だけが事情を察して、悲しげな顔になりあたりを見回した。
「さっき、あなたの後ろに例の天使のおじさんが立ってたの、もうすぐ仁を連れてくるって」
「ええっ?」
と驚いて後ろを振り向く遠藤に麗華は「もういないわよ」と笑った。
「メアリーには一番お世話になったわね、本当に感謝してるわ、ありがとう、あたしはもうすぐ仁と代わっちゃうけど、がんばって甲子園に行ってね」
「いいのよ、そんなこと。でも、本当にいいお友だちになれたのに、こんな急に……」
遠藤が両目から涙をこぼすのを麗華は「だめよ」とたしなめた。
「今から投げる球は、目に涙をためていちゃ捕れないわよ、ほら、涙を拭いて、しっかり捕ってね」
「今から投げる球?」
「一つだけ試してみたいボールがあるの」
麗華は遠藤と打ち合わせを終わると、今度は足利に向かって言った。
「足利さん、ボールを振ってくれたお詫びに予告します、今からあたしは二球ストライクを投げます、プロへ行った後もこの男、藤村仁のことをよろしくね」
堂々の宣言を受けた足利の表情が、みるみる嬉しげに引きしまった。
まるで決闘をする前の武士が刀を腰に収めるように、足利はバットを左手で下げ、深々と一礼した。
「心得た、こちらこそよろしくお願い申し上げる」
顔を上げた足利の目はまさに武士のそれだった。
今にも火を噴いて麗華を焼きつくしそうな眼光である。
両者の間の空気が歪む。
――みんな、今まで本当にありがとう、絶対に勝って甲子園に行ってね――
麗華の五感がここへきて極度に研ぎ澄まされていく。
目を閉じるとランナーの足音や足利の息づかいが、手に取るように分かった。
――一塁ランナーはまだ走らない、半信半疑でようすを見ているわ――
麗華は自分の指先だけに意識を集中し、投げた。
「ば、ばかやろう」
思わず叫んだのは八郎だった。
麗華の投げたボールが、ただの山なりのスローボールにしか見えなかったのだ。
だが、打者の足利は手が出なかった。
思わず呆然と、その小学生以下の遅い球を見送っていた。
足利の手が出なかっただけではない。
キャッチャーの遠藤が捕れなかった。
あらかじめ球種を知っているはずの遠藤が捕球できず、ミットからボールをこぼしていた。
あわててボールを拾って、ランナーを見回す。
だが、一・三塁のランナーも呆然と立ちつくして、動いてはいなかった。
――なんだ、今の球は?――
遠藤が捕球できなかったことで、八郎も事の異常さをはじめて知った。
球場全体が静まり返った。
まるで全員が妖術にでもかけられたように、口を開け声も出ない感じだった。
足利はおびえたような顔で麗華を見ていた。
――こ、これは……この球は……――
真夏の炎天下だというのに、足利は全身に冷たい汗が流れていた。
「ナックル。じゃねえか?」
麗華の後ろから見ていた牛若が言った。
「ナックル?」
八郎も釣られて復唱していた。
「こっから見ててもボールが揺れてたぜ」
――ナックル――
――ナックル……――
向学大のベンチやスタンドから、ささやく声が聞こえてくる。
ナックルとは、現代の魔球と呼ばれる変化球である。
握り方は親指と小指でボールをはさみ、残りの三本の指をボールに立てて、その指で弾くように投げる。
ほとんど回転を与えられず投げられたボールは、風の抵抗によりまるで氷の上を滑るように、左右に不規則に揺れながら落ちる。
だがこれは、世界中にも数人ていどしか投げられる投手がいないことでも解かるように、極めて難しい変化球なのである。
麗華の常人離れした指先の器用さが、まさに奇跡を起したのだ。
――これが、最後よ……あたしの、最後の一球――
麗華が足を上げると、一塁のランナーがスタートを切った。
――走るのは分かってた、でも無駄よ――
そんなことで麗華の平常心を崩すことはできなかった。
ナックルを投げるには、指先の器用さの他にもう一つ、どんなことがあっても揺るがない平常心が必要だったが、今の麗華の心は月を映す湖のように澄みきっているのだった。
麗華の指に弾き出されたボールが、人を喰ったような山なりの弧を描く。
スピードガンでも計測不能なほどの超スローボールが、風にもてあそばれる羽毛のように大きく、不規則に左右に揺れた。
捕手が捕球できないほどの魔球である。
「く、くっそうっ」
足利が日頃他人には見せたことがないくらいの取り乱しようで、声を裏返し、まるで真剣で斬りつけるようにバットを一閃させた。
だが、すでに羽毛と化した麗華のボールが斬れることはなかった。
「くっ……」
遠藤はやはり捕球できなかった。
ボールを自分の前に落すのが精一杯だった。
――振りに逃げがあるわ――
慌ててボールを拾い上げたが、足利は一塁には走っておらず、その場に放心して立ちつくしていた。
「バッターアウト」
遠藤がボールを足利にタッチすると、主審は高らかにそう宣告し、一呼吸おいてスタンドが熱狂的に湧き上がった。
「サンバー」
麗華も思わず叫んでいた。
「なんという……」
足利は天を仰いだ。
「なんという、猛烈な感動だ……こんな僕などとの対決のために、君はこんな途方もない魔球を身につけていたのか、君は本当に我が終生のライバルだよ藤村くん」
足利はそう言ってマウンドを指差したが、そこにはすでに麗華の姿はなかった。
「ナックル……高校生が、ナックル……プロでもほとんど投げねえのに、高校生がナックル?」
ベンチで八郎が目を丸くした。
「いつ練習してたんだよ、そんな高等な変化球?」
牛若も目を輝かせて聞いてきた。
「こないだ入門書で読んだの憶えてただけよ」
麗華が忙しげに答えると八郎が「入門書?」と、よけいに目を丸くした。
「高校生にもなって、入門書?最後の大会だってのに、入門書?」
――いちいちうるさいわね――
麗華はそれどころではなかった。
早く人気のない所へ行かなければ。
だが、八郎の興奮は治まらなかった。
「そうか、そういうことか、つまりどんな時にも初心を忘れるな、ってことだよな。よし、俺も初心に帰るぞ、明日から、いや、今この瞬間からニュー八郎の誕生だ、俺は初心に戻るぞ、オウッ!」
「あのな……」
牛若がうんざりした顔で首を振る。
「高校三年生の、最後の大会の決勝戦で言うせりふじゃねえだろ。今さら初心に戻ってどうすんだよ」
――この二人の掛け合いを聞くのもこれが最後ね――
麗華は苦笑いしながら、つい足を止めてつかの間それをながめていた。
離れたくなかった。
本当に素晴らしい仲間たちだった。
特に。
――大鉄……――
大鉄は本格的に痛みがぶり返してきたのか、ベンチのすみで一人うずくまるように座っている。
その姿に麗華は胸が痛んだ。
一言くらい声をかけたかったが、少しでも言葉を交わしたら、麗華はこの場を離れられなくなることが分かっていた。
――さよなら、大鉄、さよならみんな。あたしの、とっても長くて短かったロングリリーフはここまで――
麗華は静かにその場を抜け出して、トイレへと向かった。




