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奇跡の異能打者

 咆えたというより悲鳴をあげたように麗華には聞こえた。

 追いつめられた獣が少しでも早くその苦痛を逃れたくて呻いた悲痛な慟哭のようだった。

 ゴギン!

 ボールの芯を外したバットは痛々しいほど鈍い音を球場に響かせた。

――打ち取った……――

麗華は「センター」と声をかけ、腰が砕けて尻餅をつく玉川を目の端に見ながら、サードのカバーに走った。

――タッチアップがくる――

だが、ボールは落ちてこない。

青い空にふわふわと舞い上がったまま、まるで白い小鳥のように、むしろ加速していくようにさえ見える。

――まさか……まさか――

観客が一瞬静まり返る。

皆固唾を呑んで、ボールの行方を注視している。

やっとボールが落ちてきた。

だがその下のセンター花川口は構えていない。

背番号8をこちらに向けて、呆然とボールを見送っていた。

――そ、そんな……――

ボールはバックスクリーンの手前で大きく跳ね上がった。

三日月山の応援席からは歓喜の雄叫びがあがった。

沢高の応援席からさえ感動のため息がもれた。

この最高に不様なホームランは敵味方を超えて、見ている者に感動を与えるほどにドラマチックだったのである。

――当った?……バットに当ったのか――

玉川は打球がフェンスを越えたころ、やっと我に返っていた。

――走らなきゃ――

慌ててゴム鞠のように跳ね起きると、太った体を本物のアザラシのようにだぶだぶとくねらせながら、一塁まで全力疾走した。

まだ足の震えが止まらない、つんのめって体が一回転するほど派手に転んだ。

――まずい、アウトになる――

文字通り這うように一塁ベースにたどり着いても、まだボールはきていなかった。

――あれ?もしかして、またファールだったのかな?――

「さっさと走れよデブ、ホームランだよ」

ベースを踏んできょろきょろしている玉川に鳥羽が堪りかねて怒鳴りつけた。

「え?ホームラン……この俺が?」

「いいから走れ、もたもたすんじゃねえ」

「あわわ……俺が、ホームランだなんて、ウソだ」

だがその時になってはじめて球場を見回すと、自軍の応援席から降り注ぐ大歓声と、痛烈で温かい祝福の罵声に包まれている自分に気がつき、玉川は恐縮のあまり再び地に足が着かなくなってしまうのだった。

――こんなやつが世の中にいるとは――

三日月山の監督、北条時政はさすがに呆れてベンチで苦笑いし、首を振っていた。

天才だった。

それも天性のバットコントロールとパワーをそなえたスラッガーだった。

好打者と呼ばれる選手は大きく二種類に分かれる。

一つには、素振りできっちりスイングの軌道を作り込んで、「形」で打つタイプ。

そしてもう一つは、スイングの形を持たず、投手の投げた球に臨機応変にバットの軌道を変化させて対応してしまう、「無形」のタイプだ。

玉川は典型的なこの後者のタイプだったわけだが、彼にとって不幸だったのは、自分にはそんな器用さなどないと頭から思い込んでいるところだったのだ。

彼の見た目の悪さも災いしていた。

今まで彼と接した人間の誰もが、彼の体型や動作の野暮ったさに騙され、彼の才能に気づこうともしなかったのだ。

だが、だからと言ってそれらの人たちを責めることはできないだろう。

彼の父親からして、最初に左打ちを教え込んだ際に、彼の才能に気づくことなく、徹底して「形」から教えてしまったのである。

そして玉川も、頑ななまでにそれを守りすぎた結果、いざ投手の投げたボールを打つにあたって、その型にはまりすぎたスイングが仇となり続けてきたのだった。

ところが。

神は彼を見放してはいなかった。

彼の極度なアガリ性の性格が、試合の時だけ彼のスイングの「形」を忘れさせるのである。

舞台が大きくなり、顔面が蒼白になり、頭の中が真っ白になった時だけ、彼はその呪縛から解放されるのである。

追いつめられてはじめて天性の才能を垣間見せるバッター。

練習では、その一割も実力を発揮できず、大試合でしか能力の出せない、開き直れない性格。

天才というより異能打者と言うべきだろう。

もっとも監督の北条からしても、まだそこまで気づいているわけではない。

玉川のベンチ入りを決めたのは、確かに鳥羽に対する気遣いもないではなかった。

また、玉川が一人残って血のにじむような練習をしていたのも知っていた。

だが、それだけで誰が見ても実力のない者をベンチに入れたのでは、ОBや父兄に説明がつかない。

野球部などという得体の知れない組織の力学に、彼は臆していたのである。

――他の部員を発奮させるため、なんて言えば聞こえはいいが――

三日月山の貧打線に業を煮やしていたのは、鳥羽だけではなかった。

この北条とて、この「点の取れない打線」に忸怩たる思いでこの夏を迎えていたのである。

不動のレギュラーという座にあぐらをかいて、通り一遍の練習しかしようとしない他の部員たちに一泡吹かせてやりたい。

自分たちが打てないことを他人事のように棚に上げて、まるで鳥羽一人が頑張っているのが悪いかのように、陰でぶつぶつ言っている連中に思い知らせてやりたい。

鳥羽に玉川の手を見せられて、その思いが一気に弾けた。

中学・高校・大学と野球部に席をおいたが、あれほどカチカチに硬くなった手のひらは見たことがなかった。

一体どれくらいバットを振ったら、あんな手になるのか。

――いいぞ玉川、この試合は残りの打席も全部打たせてやる、お前がどこまでやるのか見せてみろ――

結果、ばくちというより自爆、玉砕と言ってもいい大抜擢が的中したのだった。

「お前、なに泣いてんだよ、試合中に?」

大鉄は二点先行されたことも忘れて、つい呆れて笑ってしまった。

「だって、悔しいんだもん、あんたに甲子園行ってもらいたかったのに……」

「まだ二点とられただけだよ、ヒットだってまだ二本打たれただけだ」

「ホームラン打たれるのが、こんなに悔しいなんて」

「フォークはちゃんと落ちてたよ、あんなワンバウンド寸前のクソボールをあそこまで飛ばされちゃ、プロだってお手上げだよ」

「信じられないわ、バットが軌道を変えて、ボールを追いかけてきたみたいだった」

「まるでイチローだな、あんなやつがまだいたなんて」

大鉄はボールの吸い込まれたバックスクリーンをまじまじと振り返った。

「とにかくこれでランナーがいなくなったんだし、思い切りバッターに集中していこうぜ」

――これ以上打たれるもんですか。悔しい、キーッ!――

三日月山の応援はがぜん勢いづいて、足を踏み鳴らし、太鼓もブラスバンドも押せ押せの鳴り物をならしている。

だが麗華の立ち直りは見事だった。

返って不屈の闘志に火がついたかのように疲れも忘れ、その後の打者を三者三振に仕留めたのだった。


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