それだけの話
高橋と一緒に仕事をすることになったのは、特別な理由があったわけではない。
営業部の中で手が空いていたのが私で、案件の規模的に二人必要だった。それだけだった。
最初の打ち合わせで、高橋はいつも通りだった。
声が大きくて、反応が早くて、話の途中で相手の名前を呼ぶ。
営業向きの人だな、とそのときも思った。
挨拶をする回数が増えた。
朝、廊下ですれ違うとき。
コピー機の前。
外出前のエレベーター。
「佐藤さん、おはよう」
「この件、あとで少し話せます?」
それだけのことだった。
一緒に外回りをする日もあった。
移動中は仕事の話がほとんどで、たまに天気の話をした。
沈黙が気まずくなることはなかったし、無理に盛り上げようとも思わなかった。
仕事はやりやすかった。
高橋は判断が早く、私の確認を待たずに先に話を進めることもあったけれど、後で必ず共有してくれた。
私は資料をまとめて、数字を確認して、必要なところだけ補足する。
役割ははっきりしていた。
社内で話しかけられることが増えた気はした。
「最近、高橋と一緒だよね」
そう言われて、そうですね、と答えた。
それ以上の意味はなかった。
少なくとも、私の中では。
高橋は目立つ人だった。
営業部の中でも名前が出やすくて、成績の話になると必ず話題に上る。
だから一緒にいれば、視線が集まるのは当然だと思っていた。
それを居心地がいいとも、悪いとも感じていなかった。
その頃の私は、挨拶が多いことも、会話が増えたことも、全部「業務の延長」だと思っていた。
あとから振り返れば、あれが始まりだったのだと思うけれど、
そのときは、まだ何も始まっていなかった。
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一緒に仕事をすることに慣れてくると、毎日の動きが決まってきた。
朝は簡単に進捗を確認して、外出の予定がある日は時間をすり合わせる。
それが当たり前になっていった。
その頃から、視線を感じることが増えた気がした。
誰かと目が合う、というほどはっきりしたものではない。
ただ、話している途中で、少し間ができることがあった。
会議室で、高橋と並んで座っているとき。
私が資料のページをめくると、何人かの視線が一瞬だけ動く。
すぐに戻るけれど、なかったことにはならない。
花音とは、同じ部署に配属されてからずっと近い距離にいた。
昼休みに一緒にご飯を食べたり、仕事の愚痴を軽く言い合ったり。
特別に仲がいい、というほどでもないけれど、話しかけやすい存在だった。
その花音が、少しだけ変わった。
話しかけると、返事はするけれど、続かない。
目線が合っても、すぐに外れる。
「忙しい?」
そう聞くと、
「まあね」
とだけ返ってきた。
理由は分からなかった。
こちらから踏み込むほどのことでもない気がして、そのままにした。
部署の中で、雑談が私のところを避けるように流れていく場面もあった。
それに気づいても、私は特に反応しなかった。
仕事に支障はなかったし、説明のしようもなかった。
気のせいかもしれない、と思うことにした。
高橋は、相変わらずだった。
挨拶も、話し方も、距離感も変わらない。
外回りの途中で、
「この数字、あとで一緒に確認しましょう」
と、いつも通り言う。
その自然さに、少し安心した。
少なくとも、私の仕事ぶりが変わったわけではない。
それでも、何かがずれている感覚は消えなかった。
音が出ないまま、床が少し傾いているような感じ。
私はそれを、意識しないようにしていた。
名前をつけるほどのものじゃない、と自分に言い聞かせながら。
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それを聞いたのは、偶然だった。
コピーを取りに行った帰り、給湯室の前で足が止まった。
中に人がいるのは分かっていたけれど、入るかどうか迷っただけだった。
ほんの数秒、タイミングを測っていただけのつもりだった。
声は低くて、笑いを含んでいた。
そのあとだった。
「シュガーさ、最近ちょっと調子にのってない?」
一瞬、誰のことか分からなかった。
でも、次の言葉で確信した。
「分かる。高橋の前だと、声のトーン変わるよね」
私の名字は、そこにはなかった。
代わりに、軽く崩した呼び名が使われていた。
冗談みたいな調子で、説明もなく、当然のように。
笑い声がして、話題はすぐに切り替わった。
仕事の話に戻って、私のことは、もう済んだものとして扱われていた。
私は給湯室に入らなかった。
廊下に立ったまま、コピー機の動く音を聞いていた。
頭の中で、言い返す言葉を探した。
仕事の内容。
役割分担。
高橋との距離感。
どれも、事実としては説明できるはずだった。
でも、それを口に出した自分を想像すると、妙に場違いな感じがした。
訂正すればするほど、その呼び名が正しかったことになる気がした。
冗談の顔をした言葉は、真面目に否定すると、こちらが浮く。
シュガー。
名字でもなく、名前でもない。
軽くて、呼びやすくて、誰がどう使ってもいい感じの呼び名。
そこには、説明も責任もいらなかった。
それが自分を指していると理解したとき、胸の奥で、何かが静かにずれた。
怒りはなかった。
悲しいとも思わなかった。
ただ、自分の輪郭が、一段だけ薄くなった気がした。
コピーを取り終えて、デスクに戻った。
高橋がこちらを見て、
「今、少し大丈夫?」
と、いつも通りに声をかけてきた。
その声には、何の曇りもなかった。
私は
「はい」
と答えた。
その声が、さっき言われた「トーン」と同じものなのかどうか、そのとき、少しだけ分からなくなった。
—
その日から、私は何も言わなかった。
訂正もしなかったし、確認もしなかった。
誰かに相談することもなかった。
あの言葉を聞いていないふりをするには、少しだけ意識が必要だった。
意識を向けて、避けて、忘れる。
できないことではなかった。
高橋にも、何も伝えなかった。
仕事の話をするときも、今までと同じ距離で話した。
挨拶も、報告も、変えなかった。
変えなかった、というより、変え方が分からなかった。
もし何か言えば、
「そんなつもりじゃなかった」
「気にしすぎじゃない?」
そう言われる場面が、簡単に想像できた。
それに、説明することで何が変わるのかも分からなかった。
花音とも、特に話をしなかった。
以前のように雑談はしなくなったけれど、業務上のやり取りは問題なく続いた。
彼女の態度が冷たいのかどうか、判断するのをやめた。
判断したところで、何か言えるわけでもなかった。
私は、仕事をした。
数字を確認して、資料を整えて、締切に間に合わせた。
高橋は評価された。
案件は順調に進んで、上司からも何度か名前が出た。
その横で、私は
「一緒にやっている人」
として存在していた。
それで十分だと思うことにした。
部署の中で、私の名前がどう使われているのかは、もう分からなかった。
分からないほうが、楽だった。
それでも、ときどき、自分の声を意識してしまう瞬間があった。
電話口での話し方。
会議での発言。
高橋に話しかけるときの声。
意識した時点で、もう自然ではなくなっている気がした。
だから、意識しないようにした。
何も言わない、という選択は、一度きりでは終わらなかった。
毎日、小さく繰り返す必要があった。
その選択をしている限り、表面上は、何も問題は起きなかった。
誰も私を責めなかったし、謝る人もいなかった。
ただ、私だけが、自分の中で、少しずつ位置を調整していた。
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案件が終わったのは、思っていたよりあっさりだった。
打ち上げもなく、特別な区切りもなかった。
次の仕事が割り振られて、高橋と一緒に動くことはなくなった。
それだけだった。
部署の空気も、いつの間にか元に戻っていた。
少なくとも、私にはそう見えた。
挨拶は普通に返ってきたし、仕事の相談も回ってきた。
「シュガー」という呼び名を、その後、耳にすることはなかった。
何もなかったように、日常は続いた。
高橋は相変わらず忙しそうで、別の案件で名前が出ていた。
私は自分の仕事をして、数字を揃えて、締切を守った。
問題は起きなかった。
誰かが謝ることもなかったし、説明を求められることもなかった。
だから、終わったのだと思うことにした。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。
コピー機の音。
給湯室の前で止まった足。
あの一言。
今の私は、誰からもそう呼ばれていない。
名字で呼ばれ、役職で呼ばれ、時には名前で呼ばれる。
それは全部、私のもののはずだった。
でも一度だけ、自分の知らないところで、別の名前が私を指していた。
それは、軽くて、説明がいらなくて、否定しづらい名前だった。
思い返すと、あのとき何かを言っていれば、違う結果になったのかもしれない、と思わないでもない。
でも同時に、言ったとして、何が変わったのかも分からない。
だから今は、その出来事を、良いとも悪いとも言わない。
ただ、人の評価は、本人のいない場所で、静かに形を変えることがある。
そして、その形が元に戻ったとしても、一度、別の呼ばれ方をした記憶だけは、消えずに残る。
私は今日も、自分の名前で呼ばれている。
それで十分だと思える日と、そう思いきれない日がある。
たぶん、それだけの話だ。
そう言わないと、今日を終えられない日もある。




