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それだけの話

作者: ミケ
掲載日:2026/10/16

 高橋と一緒に仕事をすることになったのは、特別な理由があったわけではない。

 営業部の中で手が空いていたのが私で、案件の規模的に二人必要だった。それだけだった。


 最初の打ち合わせで、高橋はいつも通りだった。

 声が大きくて、反応が早くて、話の途中で相手の名前を呼ぶ。

 営業向きの人だな、とそのときも思った。


 挨拶をする回数が増えた。

 朝、廊下ですれ違うとき。

 コピー機の前。

 外出前のエレベーター。


「佐藤さん、おはよう」

「この件、あとで少し話せます?」


 それだけのことだった。


 一緒に外回りをする日もあった。

 移動中は仕事の話がほとんどで、たまに天気の話をした。

 沈黙が気まずくなることはなかったし、無理に盛り上げようとも思わなかった。


 仕事はやりやすかった。

 高橋は判断が早く、私の確認を待たずに先に話を進めることもあったけれど、後で必ず共有してくれた。

 私は資料をまとめて、数字を確認して、必要なところだけ補足する。

 役割ははっきりしていた。


 社内で話しかけられることが増えた気はした。

「最近、高橋と一緒だよね」

 そう言われて、そうですね、と答えた。


 それ以上の意味はなかった。

 少なくとも、私の中では。


 高橋は目立つ人だった。

 営業部の中でも名前が出やすくて、成績の話になると必ず話題に上る。

 だから一緒にいれば、視線が集まるのは当然だと思っていた。


 それを居心地がいいとも、悪いとも感じていなかった。


 その頃の私は、挨拶が多いことも、会話が増えたことも、全部「業務の延長」だと思っていた。


 あとから振り返れば、あれが始まりだったのだと思うけれど、

 そのときは、まだ何も始まっていなかった。


 ---


 一緒に仕事をすることに慣れてくると、毎日の動きが決まってきた。

 朝は簡単に進捗を確認して、外出の予定がある日は時間をすり合わせる。

 それが当たり前になっていった。


 その頃から、視線を感じることが増えた気がした。

 誰かと目が合う、というほどはっきりしたものではない。

 ただ、話している途中で、少し間ができることがあった。


 会議室で、高橋と並んで座っているとき。

 私が資料のページをめくると、何人かの視線が一瞬だけ動く。

 すぐに戻るけれど、なかったことにはならない。


 花音とは、同じ部署に配属されてからずっと近い距離にいた。

 昼休みに一緒にご飯を食べたり、仕事の愚痴を軽く言い合ったり。

 特別に仲がいい、というほどでもないけれど、話しかけやすい存在だった。


 その花音が、少しだけ変わった。

 話しかけると、返事はするけれど、続かない。

 目線が合っても、すぐに外れる。


「忙しい?」

 そう聞くと、

「まあね」

 とだけ返ってきた。


 理由は分からなかった。

 こちらから踏み込むほどのことでもない気がして、そのままにした。


 部署の中で、雑談が私のところを避けるように流れていく場面もあった。

 それに気づいても、私は特に反応しなかった。

 仕事に支障はなかったし、説明のしようもなかった。


 気のせいかもしれない、と思うことにした。


 高橋は、相変わらずだった。

 挨拶も、話し方も、距離感も変わらない。

 外回りの途中で、

「この数字、あとで一緒に確認しましょう」

 と、いつも通り言う。


 その自然さに、少し安心した。

 少なくとも、私の仕事ぶりが変わったわけではない。


 それでも、何かがずれている感覚は消えなかった。

 音が出ないまま、床が少し傾いているような感じ。


 私はそれを、意識しないようにしていた。

 名前をつけるほどのものじゃない、と自分に言い聞かせながら。


 ---


 それを聞いたのは、偶然だった。


 コピーを取りに行った帰り、給湯室の前で足が止まった。

 中に人がいるのは分かっていたけれど、入るかどうか迷っただけだった。

 ほんの数秒、タイミングを測っていただけのつもりだった。


 声は低くて、笑いを含んでいた。

 そのあとだった。


「シュガーさ、最近ちょっと調子にのってない?」


 一瞬、誰のことか分からなかった。

 でも、次の言葉で確信した。


「分かる。高橋の前だと、声のトーン変わるよね」


 私の名字は、そこにはなかった。

 代わりに、軽く崩した呼び名が使われていた。

 冗談みたいな調子で、説明もなく、当然のように。


 笑い声がして、話題はすぐに切り替わった。

 仕事の話に戻って、私のことは、もう済んだものとして扱われていた。


 私は給湯室に入らなかった。

 廊下に立ったまま、コピー機の動く音を聞いていた。


 頭の中で、言い返す言葉を探した。

 仕事の内容。

 役割分担。

 高橋との距離感。

 どれも、事実としては説明できるはずだった。


 でも、それを口に出した自分を想像すると、妙に場違いな感じがした。

 訂正すればするほど、その呼び名が正しかったことになる気がした。

 冗談の顔をした言葉は、真面目に否定すると、こちらが浮く。


 シュガー。


 名字でもなく、名前でもない。

 軽くて、呼びやすくて、誰がどう使ってもいい感じの呼び名。

 そこには、説明も責任もいらなかった。


 それが自分を指していると理解したとき、胸の奥で、何かが静かにずれた。


 怒りはなかった。

 悲しいとも思わなかった。

 ただ、自分の輪郭が、一段だけ薄くなった気がした。


 コピーを取り終えて、デスクに戻った。

 高橋がこちらを見て、

「今、少し大丈夫?」

 と、いつも通りに声をかけてきた。

 その声には、何の曇りもなかった。


 私は

「はい」

 と答えた。


 その声が、さっき言われた「トーン」と同じものなのかどうか、そのとき、少しだけ分からなくなった。


 —


 その日から、私は何も言わなかった。


 訂正もしなかったし、確認もしなかった。

 誰かに相談することもなかった。


 あの言葉を聞いていないふりをするには、少しだけ意識が必要だった。

 意識を向けて、避けて、忘れる。

 できないことではなかった。


 高橋にも、何も伝えなかった。

 仕事の話をするときも、今までと同じ距離で話した。

 挨拶も、報告も、変えなかった。


 変えなかった、というより、変え方が分からなかった。

 もし何か言えば、


「そんなつもりじゃなかった」

「気にしすぎじゃない?」


 そう言われる場面が、簡単に想像できた。

 それに、説明することで何が変わるのかも分からなかった。


 花音とも、特に話をしなかった。

 以前のように雑談はしなくなったけれど、業務上のやり取りは問題なく続いた。


 彼女の態度が冷たいのかどうか、判断するのをやめた。

 判断したところで、何か言えるわけでもなかった。


 私は、仕事をした。

 数字を確認して、資料を整えて、締切に間に合わせた。


 高橋は評価された。

 案件は順調に進んで、上司からも何度か名前が出た。


 その横で、私は

「一緒にやっている人」

 として存在していた。


 それで十分だと思うことにした。


 部署の中で、私の名前がどう使われているのかは、もう分からなかった。

 分からないほうが、楽だった。


 それでも、ときどき、自分の声を意識してしまう瞬間があった。


 電話口での話し方。

 会議での発言。

 高橋に話しかけるときの声。


 意識した時点で、もう自然ではなくなっている気がした。


 だから、意識しないようにした。


 何も言わない、という選択は、一度きりでは終わらなかった。

 毎日、小さく繰り返す必要があった。


 その選択をしている限り、表面上は、何も問題は起きなかった。

 誰も私を責めなかったし、謝る人もいなかった。


 ただ、私だけが、自分の中で、少しずつ位置を調整していた。


 ---


 案件が終わったのは、思っていたよりあっさりだった。


 打ち上げもなく、特別な区切りもなかった。

 次の仕事が割り振られて、高橋と一緒に動くことはなくなった。

 それだけだった。


 部署の空気も、いつの間にか元に戻っていた。

 少なくとも、私にはそう見えた。


 挨拶は普通に返ってきたし、仕事の相談も回ってきた。

「シュガー」という呼び名を、その後、耳にすることはなかった。


 何もなかったように、日常は続いた。


 高橋は相変わらず忙しそうで、別の案件で名前が出ていた。

 私は自分の仕事をして、数字を揃えて、締切を守った。


 問題は起きなかった。

 誰かが謝ることもなかったし、説明を求められることもなかった。


 だから、終わったのだと思うことにした。


 それでも、ふとした瞬間に思い出す。

 コピー機の音。

 給湯室の前で止まった足。

 あの一言。


 今の私は、誰からもそう呼ばれていない。

 名字で呼ばれ、役職で呼ばれ、時には名前で呼ばれる。


 それは全部、私のもののはずだった。


 でも一度だけ、自分の知らないところで、別の名前が私を指していた。

 それは、軽くて、説明がいらなくて、否定しづらい名前だった。


 思い返すと、あのとき何かを言っていれば、違う結果になったのかもしれない、と思わないでもない。


 でも同時に、言ったとして、何が変わったのかも分からない。

 だから今は、その出来事を、良いとも悪いとも言わない。


 ただ、人の評価は、本人のいない場所で、静かに形を変えることがある。

 そして、その形が元に戻ったとしても、一度、別の呼ばれ方をした記憶だけは、消えずに残る。


 私は今日も、自分の名前で呼ばれている。

 それで十分だと思える日と、そう思いきれない日がある。


 たぶん、それだけの話だ。

 そう言わないと、今日を終えられない日もある。

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