プロローグ 炎上の比叡山、空を見上げる
西暦1571年、9月12日。比叡山の空気は、焦げた木材と人の血の匂いに塗り替えられていた。
私は、比叡山延暦寺の僧侶、円空。
前世の記憶が蘇ったのは、ちょうどこの寺に修行に入って三日目のことだった。
現代日本のサラリーマンとして生きていた記憶。
そして、この国が辿る数奇な運命——織田信長による「比叡山焼き討ち」という歴史を知ってしまったあとの、この二十年間。
私はこの日を迎えるためだけに、真面目に生きてきた。
読経を怠らず、作務に励み、戒律を守り抜いてきた。
寺の腐敗を憂い、せめて自分だけはと、心正しくあろうと努めてきたのだ。
「円空殿! 逃げねば! 信長軍が根本中堂に迫っている!」
同輩の叫び声に、私は首を振る。
根本中堂は既に、朱色の炎に包まれていた。
かつて最澄が灯した「不滅の法灯」が、今、人間たちの業火に飲み込まれようとしている。
「……これが、歴史の修正力というものか」
私は袈裟を正し、懐から一冊の写経を取り出した。
自分が今日まで書き溜めた、法華経の断片だ。
周りでは、僧たちが武器を手に取り、死に物狂いで抵抗している。
かつて修行の場であったはずのこの場所が、今は狂気の戦場に変わっている
「坊主! 貴様もここで死ぬか!」
背後から荒々しい声が響く。
振り返ると、織田軍の足軽が槍を構えて立っていた。
その目は、獲物を追う獣のように濁っている。
私は震える手で合掌し、静かに深呼吸をした。
前世の記憶があっても、私には何の力もない。
超能力も、未来予知の術も使えない。
ただ、一人の真面目な坊主として、ここに至っただけだ。
「……私は、ここで死ぬ運命にはないと思っておりました」
「ああん? 何を抜かしている!」
「私の命は、歴史を変えるためではなく、この尊い場所で学んだ『慈悲』を、最後に全うするためにあるのです」
足軽は鼻で笑い、槍を突き出してきた。
私は避けない。
避ける術などないのだから。
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、現代の騒がしい駅の風景でも、美味しいコーヒーの味でもない。
今日、朝一番に見た、山から昇る朝日だった。
槍の先が私の胸を貫く感覚は、驚くほど冷たかった。
しかし、意識が遠のく中で、不思議と恐怖は消えていた。
(結局、何も変えられなかったな)
自嘲気味に口角を上げる。織田信長という怪物を止めることはできなかった。
寺も、経典も、志を同じくした仲間たちも、すべて焼き尽くされる。
だが、私の心には小さな灯が残っていた。
もし、この先またどこかで生まれ変わるのなら。
今度は歴史に抗うのではなく、この炎の中でも失われなかった「優しさ」を伝える存在になりたい。
炎が私の視界を真っ白に染め上げる。
根本中堂が崩れ落ちる轟音を背に、私は静かに目を閉じた。
比叡山の夜空に、一人の坊主の人生が、灰となって舞い散っていった。




