魔王の求婚は丁重にお断りいたします
これは、聖女が魔王の求婚を三度断り、三度とも手が震えた話です。
「聖女殿。――結婚してください」
「帰りますわ」
踵を返すわたくしの背を、居並ぶ魔族の兵たちのざわめきが追いかけてきた。
いや。いやいやいや。待ってほしい。なにが起きたか整理させてほしい。
わたくしはフィリア・エル・ヴァイスガルド。ヴァイスガルド伯爵家の長女だ。
聖女に選ばれたのは、三日前のこと。王城の謁見の間で白髭の国王陛下に『聖女よ』と告げられた。魔王を倒してほしいのだという。
まあ、伯爵令嬢が聖女というのも妙な話だ。まさか自分がなるとは。
礼儀作法と度胸だけはある。聖剣を授けられ、終戦の丘に赴いた。
そして今。わたくしの眼前で、黒髪の魔王が片膝をついていた。
赤い瞳がこちらを見ている。冗談の色は、どこにもなかった。
「……失礼。聞き間違いかしら」
「結婚してください」
二度言った。この方、二度言った。
魔王ゼルヴァス。魔族の頂点に立つ存在だ。その魔王が、聖女に求婚している。
残念ながら、意味がわからない。
わたくしは扇を――いや。戦場に扇は持ってこなかった。代わりに聖剣の柄を握り直す。手が震えているのは、この聖剣が重いせいだ。
「お断りいたします。二度と仰らないでくださいませ」
「……そうですか」
魔王は立ち上がり、静かに身を引いた。
あっさりしている。拍子抜けするほどに。
というわけで、一回目の魔王討伐は不戦決着に終わった。わたくしの任務については、以上。
――のはずだった。
二度目の遭遇は、和平交渉の席だった。
人間領と魔族領の境に天幕が張られた。わたくしは聖女として同席を求められた。渋々、椅子に座る。
向かいにゼルヴァスが座っていた。机の上には書類の束。そしてなぜか、花束。
「本日は和平交渉です。こちらにご署名を」
「……ええ、拝見いたしますわ」
書類に目を通す。領土の割譲案。停戦条件。物資の交換比率。
三枚目で手が止まった。
「ゼルヴァス殿」
「はい」
「これは婚姻届ですわね」
「ついでに、と思いまして」
ついでに。ついでにと仰った。
こういうことをなさるから戦争が終わらない。わたくしは書類を静かに机に伏せた。
ちなみに花束は白百合だった。わたくしの好きな花に、よく似ている。まあ、偶然でしょうけれど。
「お花は受け取りません。書類もお返しいたします」
「花は枯れてしまいます。持ち帰ってはいただけませんか」
「……枯れるのは、あなたのせいですわ」
我ながら意味のわからないことを言った。
ゼルヴァスが静かに紅茶を注いでくれた。魔王が紅茶を淹れられるとは。わたくしは深く動揺した。
しかもおいしい。なぜ。
茶器を持つ手が、かすかに揺れた。紅茶が熱いだけだ。
香りはダージリンに似ている。上品な花の匂いだ。茶器の選び方も悪くない。
いや。紅茶の感想を述べている場合ではない。
「ゼルヴァス殿。わたくしは聖女です。あなたを倒すために参りました」
「存じております」
「であれば、こういうことはおやめになって」
「こういうこと、とは」
「……求婚です」
口に出すと余計に恥ずかしいのだが。
ゼルヴァスはわずかに首を傾げた。
「考えておきます」
嘘だ。この方は絶対にやめない。そういう顔をしている。
結局、和平交渉はなにも決まらなかった。白百合の花束だけが天幕に残された。
侍女がいれば、こう言うだろう。『お嬢様、お顔が赤いですわ』と。
いないから。大丈夫。見ていないから。問題ない。
――白百合は、水に挿した。枯らすのは忍びなかった。断じて、それだけだ。
三度目は、最終決戦の日だった。
終戦の丘に、ゼルヴァスが立っていた。
わたくしは聖剣を構えた。
ゼルヴァスが一歩、前に出た。
「聖女殿」
「求婚でしたらお断りいたしますわ」
「いえ」
ゼルヴァスが懐に手を入れた。わたくしは剣を握り直す。
取り出されたのは、小さな箱だった。
開くと、銀の指輪がひとつ。
「これを、あなたに」
……指輪だった。
いや。もう。なんと申しましょうか。
最終決戦に指輪を持参する魔王がいるか。聖女を前にして跪く魔王がいるか。
残念ながら、目の前にいた。
「お断りいたします」
三度目の拒絶だ。声は震えなかった。はずだ。
ゼルヴァスは指輪の箱を閉じた。そして、こう言った。
「そうですか。――では、始めましょう」
ようやく、決戦らしい空気になった。
ゼルヴァスが闇の魔法を纏う。わたくしの聖剣が白く光る。
剣を交えた。二合、三合。魔王の力は圧倒的だ。けれど、致命の一撃が来ない。
いつもそうだった。この方は、わたくしにだけ攻撃が甘い。
「……なぜ、本気を出さないのです」
「本気ですよ。あなたを傷つけない範囲での」
剣戟が止まった。ゼルヴァスが、静かに剣を収めた。
無防備に立っている。魔王が、わたくしの前で武器を降ろしている。
「あなたを傷つけるくらいなら、負けます」
聖剣が震えた。
わたくしの手が震えているのだ。剣が応えているだけだった。
振り下ろせばいい。使命は果たされる。国王陛下に報告し、屋敷に帰る。
それだけのことだ。
――それだけのことが、どうしてもできなかった。
「あなたの剣が震えているのは、私のせいですか」
その問いには答えなかった。答える言葉を、持ち合わせていなかった。
聖剣を握る指に、力を込める。
そして、わたくしは剣を振り下ろした。
――地面に。
聖剣は丘の土に突き刺さり、淡い光を放った。刃は魔王に届いていない。
ゼルヴァスが目を見開いた。初めて見る、素の表情だった。
「……お茶の約束だけ、受けてさしあげますわ」
声が、ほんの少し裏返った。
ゼルヴァスの口元が緩んだ。崩れるように、静かに。笑みというよりも、安堵に近かった。
扇がない。いまほど恨めしいことはない。せめて顔を隠したかった。
終戦の丘に風が吹いた。
聖剣が地面に刺さったまま、明滅を繰り返す。まるで脈を打つように。
答えるつもりは、ない。
――たぶん、ずっと。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
聖剣が震えた理由は、きっと本人にもわかっていません。
それでは、また別の物語で。




