灰桜
おやおや、皆様、そんなに急いで席に着かなくとも、この「春」は逃げやいたしませんよ。
今宵ご覧に入れますのは、神様が気まぐれに描いたような、極彩色の箱庭でございます。
舞台を彩るのは、爛漫たる万年桜。風に揺れる花びらの瑞々しさ、溢れる生命の色彩、そして何もかもが満たされた幸福な村人たち……。
主役の青年ハルとともに、皆様もどうぞ、この世の楽園に酔いしれてください。
悲しみも、苦しみも、すべてはあの鮮やかな桃色の向こう側。
……おっと、一つだけお約束を。
舞台があまりに美しいからといって、決して「裏側」を覗こうとはなさいませぬよう。
それでは、幕を上げましょう。永遠に散らぬ、夢の始まりでございます。
その村の桜は、神に愛されているのだと誰もが信じていた。
村の中心にそびえ立つ「万年桜」は、季節が巡ろうとも、嵐が吹こうとも、ただの一片さえその花弁を零すことはない。空を埋め尽くすような鮮やかな桃色は、見る者の魂を吸い寄せるほどに瑞々しく、常に満開の絶頂を維持していた。
主人公のハルは、その桜の美しさに心から心酔していた。
数年前に記憶を失い、左腕に負った大きな火傷の痕だけを抱えてこの村に流れ着いた彼にとって、この桜は希望そのものだった。
「見て、ハル。今日もあんなに輝いてる」
隣で微笑むのは、村の少女・サキだ。彼女の肌は透き通るように白く、その瞳には常に万年桜のピンク色が反射して映っている。
「ああ、本当に不思議な木だ。この村に来てから、僕は一度も悲しいと思ったことがないよ」
ハルが応えると、サキは嬉しそうに頷いた。
村の生活は、どこまでも穏やかで満たされていた。毎日、村人たちは広場で「白酒」を酌み交わし、昨日の悩みも明日の不安も、すべてを桜の美しさに溶かして笑い合う。夜八時の鐘が鳴れば、皆で手を取り合って家に入り、幸福な夢を見るために深く眠る。それがこの村の、愛すべき日常だった。
ある祝祭の夜、ハルは言いようのない高揚感に包まれていた。
広場を埋め尽くす村人たちの歓声、舞い踊るサキの白い指先。空を見上げれば、月明かりを浴びた万年桜が、まるで生命そのものが発光しているかのように、この世のものとは思えない色彩を放っている。
(なんて幸せなんだろう。この一瞬が永遠に続けばいい)
そう願った瞬間、ハルの心に小さな、けれど決定的な違和感が芽生えた。
これほどまでに咲き乱れているのに、なぜ、花の香りが一つもしないのか。
これほどまでに風に揺れているのに、なぜ、足元には一片の花びらも落ちていないのか。
「……ハル? どうしたの、そんな顔して」
サキが首を傾げる。ハルは、何かに取り憑かれたように桜の幹へと歩み寄った。
「サキ、おかしいんだ。こんなに綺麗なのに、触れようとすると、手が震えるんだ……」
ハルは、禁忌を犯すように、その爛漫たる「花」へと手を伸ばした。
指先が、最も美しく膨らんだ一輪に触れる。
その瞬間、パキリ、と乾いた音がした。
ハルの指先が触れた場所から、鮮やかなピンク色が剥がれ落ちた。
いや、剥がれたのではない。それは、触れたそばから「灰色の粉」へと崩れ去ったのだ。
「え……?」
驚愕に目を見開いたハルの視界で、世界が激しく明滅した。
今まで彼が見ていた極彩色の世界が、音を立てて崩落していく。
見上げれば、そこにあったのは美しい花などではなかった。それは、焼けた紙の残骸が、天を覆うほどの巨大な煤の塊となって、枝にへばりついている無残な姿だった。
風が吹く。すると、枝に溜まっていた分厚い灰が、ドサリと雪崩のように落ちてきた。
それはハルの全身を真っ白に汚し、彼の喉を焼き、肺を塞ぐ。
ハルは激しく咳き込みながら、地面を這いずった。視界の端で、笑い合っていた村人たちが、灰の雨の中で虚空を見つめながら、透明な液体を啜り続けているのが見えた。
「気づいてしまったのね」
サキの声がした。見上げると、彼女の白い肌も、美しい髪も、すべてが煤に塗れていた。彼女が足元で踏みしめているのは芝生ではなく、数年前の大火災で燃え尽きた家々の残骸、その死の堆積だった。
「僕たちは……何を、見ていたんだ……」
「私たちが望んだ『幸福』よ。ハル」
サキは、灰を掬い上げ、それをハルの頭上に優しく振りかけた。
「この村はあの日、全部焼けたの。でもね、あまりに悲しすぎたから。みんなで願ったのよ。この灰を、どうか桜に見せてほしいって。そうして私たちは、この地獄を春だと信じ込むことにしたの」
ハルの脳裏に、かつてないほどの鮮明さで、業火に包まれる村の記憶が蘇る。
左腕の火傷が、今さらになって引き裂かれるような熱を帯びた。
ハルは、呆然と空を仰いだ。
そこにはもう、一片の桃色もない。ただ、救いようのない暗い空から、かつて愛した人々の、かつて愛した日常の「燃えカス」だけが、しんしんと降り積もっていた。
それは、恐ろしいほどに静かで、そして――どこまでも美しい絶望だった。
(完)
……ああ、なんという無残な幕切れでしょう。
皆様、どうかお顔を上げてください。
舞台を埋め尽くしていた桃色の幻影は消え失せ、残ったのは喉を焼くような、冷たい灰の海。
彼が見ていたのは、救いではなく、死の化粧でございました。
「美しさ」とは時に、正気でいられぬほどの絶望を覆い隠すための、残酷な嘘。
指先が真実に触れた瞬間のあの音を、皆様は、そしてハルは、どのような心地で聴いたのでしょうか。
降り積もる灰を、それでも美しいと感じてしまった。その一瞬の戦慄こそが、この物語の真の結末かもしれません。
さて、客席に明かりが灯ります。
皆様が劇場を出る際、もし空から白い何かが舞い落ちてきたなら――。
それが春の雪か、あるいは過去の残骸か、どうか確かめぬまま、お帰りくださいませ。
本日の公演は、これにて閉幕。お気をつけて。




