195話 亡命者
一度ジープに戻り各自の治療を済ましたあと、再び不時着している彗星の元に戻った。
乱闘の騒ぎから随分と時間を費やしたようで、もう正午だ。
アリシアのババアはすっかり威勢を失くし、虚ろな目で俺が淹れてやったコーヒーを飲む。
太ももには包帯が巻かれているが、傷が想定以上に深かったらしく白の部分が赤へとすぐに汚される。
「どうだババア、美味いか?」
「ああ、とても美味だ、セルゲイ。それと私は25歳だ。まだババアではない」
「黙れ、ババアはババアだ」
「むう、そこまで言うのか……いいだろう、特別に許す」
はっきり言ってコイツのことは嫌いだから、名前では呼びたくない。
余程喉が渇いていたのか、熱々のコーヒーを一気に飲み干し、ババアはアルミのコップを機体の翼に置くと、俯きながらポツポツと語りを始めた。
「私は元々、共和国の軍で働いていた。貴族の出身だから、少尉に辿り着くまでは割と簡単だった。もちろん、職場の環境もよかった。女だからと差別されることもなく、そこそこ楽しい毎日を送っていた。でも私は――――亡命を決めたんだ」
「ぼ、亡命っ!?」
飲みながら何となく聞いていたが、その単語で熱に包まれた紅茶を吹き出してしまった。さらにむせたので、レベッカに背中を擦られた。
咳き込む俺の代わりに、彼女がババアに尋ねる。
「一人の捕虜との出会い……今の恋人だ」
「恋人がいるのですか?」
「ああ、彼の名前は『坂井政弥』――――この地に転移してきた日本海軍の航空兵だ。年齢は私より二歳下で、階級は兵曹長と言った」
そういえば、さっきもババアが不機嫌な時に「政弥」という人名を口にしていたことを思い出し、俺も会話に交わる。
「そのおっさんはどこにいるんだ?」
「近くの洞窟だ。死にはしないだろうが。彼と一緒に逃げる際に怪我を負って苦しんでいる」
「……なあ、ババア、一つ聞きたいんだけど、何で亡命をしたんだ? 単純に恋愛だけなのか?」
この問い掛けに、ババアは暗い顔で首を横に振る。
「それも多少はあるが……一番の理由は環境が悪化したことだ」
「え、さっきいいって言ってなかったか?」
「それは昔のことだ。今の共和国はアスラム教の過激派やつい最近入国して来た米兵とつるむようになり、全員が苦しむようになった。特に坂井のような日本人や朝鮮人、中国人などアジア人と呼ばれる人々は捕虜にされ、全員に差別をされていた。そして、彼らに味方する私も同じだった」
「そんな惨いことが……」
ババアは死んで当然の人間だが、これだけは同情できる。辛さを我慢してここまで逃げたんだな。
「……そうだ、すっかり忘れていたが、政弥の所に行かないと」
彼女は水に濡らした布切れを手にどこかへ向かう。
「おいババア! 俺らも連れて行ってくれよ」
「ああ、構わん。迷子にはならんだろうが、きちんと私の背中を追い掛けるんだ」
ババアの命令に従って着いて行くと、松明で灯りが確保された洞窟に来た。ハエが飛び回る不快な音が鼓膜に響く。
松明という原始的な証明では道筋を良好に捉えられず、いつも愛用している懐中電灯のスイッチを押し、眩しい閃光を頼りに奥へと進んだ。
行き止まりに差し迫った時、血に塗れた旭日旗の上に茶色のツナギを着込んだ一人の男が横たわっているのが見えた。
髪型は現代で言うところのスポーツ刈りで、顔はイケメンの部類に入るだろう。しかし苦痛の表情が浮かび、膝には旭日旗の一部が切り抜かれた布が巻き付けられており、血が湧く箇所からボトボトと蛆が落ちる。
若いのに悲惨な目に遭ったなと近寄ろうとした頃、青年が苦しみを堪えながら声を上げた。
「うう……アリやん、やっと戻って来たんか、足が重くて上がらへんよぅ」
弱々しく言いつつも青年は無理をして立ち上がろうとするが、ババアが慌てて寝かせる。
「ば、馬鹿者っ、政弥、お前は安静にしておくんだ。それと後ろの二人は私達を助けてくれる連中だ。まあ、あまり信用はできないが……」
尖らせた眼光で俺を睨むババア。
「何だよその目、また太もも刺してやろうか」
「……できるものならやってみろ」
「くぅ~このクソババア、やっぱり殺しておくべきだったぜ」
今にも取っ組み合いが始まりそうな雰囲気が漂うと、レベッカがすぐさま間に割り込んだ。
「こんな状況になってまで喧嘩はおやめください!」
彼女の鬼気迫る怒声が洞窟内に木霊し、俺もババアも思わず身が僅かに震える。
「ごめんって……それでおっさん、何者だ? アンタがババアの恋人か?」
「おう、そうよそうよ、俺は坂井政弥。日本海軍の艦上爆撃機の航空兵やってたのよ。でもアメ公の対空砲が直撃して、気が付いたらここにおったわけや」
「共和国の方では捕虜になってたのか?」
彼を見下すような姿勢なので、自分も洞窟の冷えた岩の地面に座り、同じ目線の高さに合わせる。
「うん、そうやで。ウッラールに不時着して、米兵みたいな連中に飛行機ごと奪われて、不清潔な収容所に閉じ込められて、無報酬で炭鉱で働かされてたんや」
ロシアや自国も捕虜にこんなことやっていたな……異世界に転移してまでこういうのを聞くと、心が痛くなる。
「で、死ぬかと思ってた時に、現れたんや」
「何がだ?」
政弥は蛆を払い落とし、優しい眼つきでババアを指さす。そしてクソババアは彼と目が合い、乙女な反応をし、薄い赤の色が両頬に混じる。
「アリやんや。この人だけは他の鬼畜米兵みたいな奴らとは違った。俺を人間扱いしてくれて、食い物やら下着やら金やらを貰ったんや。まあおかげでアリやんも非国民扱いされるようになったけどな」
人の善意が逆に忌み嫌われる理由になるとは、世の中は非情だらけだ。
「そこからは段々と仲良くなっていって、夜中に収容所を二人で抜け出し、格納庫から俺の彗星を奪ってここまで逃げて来たわけや。あと、脚のやつは向こうの兵隊に撃たれてん」
「よく頑張ったな、政弥さんは――――お前も亡命希望かい?」
「そりゃそうや。二度とあんな所に戻りたくあらへん。それにこっちには俺の仲間がいっぱいおるんやろ?」
いるというか、帝国の統治に関する権利はまさにその日本軍が握っているのだ。これから軍国主義になるかもしれない。
「それでこっちに来たのか」
「せやで。だからここで暮らしたいんや、アリやんと一緒にな」
「ほーん、そうかそうか、事情は分かった。あとはそこのレベッカに任せようか。あと、俺はセルゲイって言うんだ。よろしくな」
「セルゲイ君とレベッカちゃんやな。こっちこそ世話になるで」
暗闇が覆う洞窟の中、旭日旗に座る政弥さんと俺は握手を交わした。