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【ヒューマンドラマ】

朧月

作者: 小雨川蛙

『三十日月』の続編のようなものです。



数回のノックをして私は声をかけた。

「入っていい?」

部屋の奥に居るはずの一緒に暮らす恋人から返事はなかった。

「ダメかな」

別に取り立てて用事があったわけではない。

しかし、時刻は既に19時を回っており、今日一度も姿を見ていない彼のことが気にかかった。

だから会いたい。

だから傍にいたい。

言ってしまえばそれだけしか用事がない。

だけど、果たしてそれが正しいことなのか私には分からなかった。

胸に手を当てて僅かに深呼吸する。

自分の体の膨らみを意識してしまう。

男である彼と女である私の身体は全く違う。

そして、外見という鎧は自分でも直視したくないものをしっかり隠し守ってくれる。

だからこそ、私は気づきもしなかったのだ。

鎧に隠れた彼の優しさと彼の罪に。

「とりあえずドアの外に居るからねー」

あえて暢気な声を出してからドアに背を預けて座り込む。

開かれた窓の外、網戸の隙間から入る微かな温もりが混じる春の香りが私の身を撫でる。

この感覚が好きだった。

ほんの一ヵ月前まで。

だって、隣にはいつも彼が居たから。

ため息をついて目を閉じ、それが無意味だと気づいてすぐに目を開ける。

二人で買った家具やおしゃれな雑貨品、そして市販の洗剤に至るまで。

そのどれもが、今、私の心を責めているような気がした。

『なんで気づかなかったの?』

なんて、そう言っている気がした。

『本当に気づかなかったの?』

そう繰り返し責めている。

そんな気がした。

大きく息を吐く。

自分の心を慰めるように。

それでも、部屋の奥に居る彼に聞こえないようにして。

彼との出会いを思いだす。

大学で出会った新入生。

大人しくて、礼儀正しくて、優しい。

本当にそれだけ。

特徴にもならないような平凡な人。

だからこそ、私にとって彼の隣は居心地が良かった。

だからこそ、この人に恋をした。

恋心なんてそんなものだと思う。

二つも年下のくせに私よりずっと思慮深く、ずっと大人びていた。

彼の背は私より高くて、手の平は私より大きかった。

だから、私は彼に甘えていた。

私は女性であり続けた。

とても幸せな日々。

春に桜が舞い、夏に日差しが照り、秋に木の葉が赤くなり、冬に音もなく雪が降る。

そんな穏やかで当たり前の日々。

きっと、ずっと続いていくのだろうと私は思い続けていた。

けれど、そんな日々は彼の告白一つで終わってしまった。

『本当に気づかなかったの?』

再び、私を責める声が聞こえた。

何を根拠にしているのか。

恋人として過ごすことに消極的な姿勢に?

子供を見つめるのにどこか苦し気な雰囲気があることに?

それとも、もっと単純に互いが男女であることを確かめ合う行為に?

『なら、どうしてもっと早く言わなかったの?』

そんな気持ちがどうしても浮かび上がって来る。

彼を責めたくなる。

責め続けたくなる。

その一方で自分の方に罪があったのではないかと思ってしまう。

『あなたから告白したんでしょう?』

自分自身がそう言ってくる。

『だけど受けたのは彼でしょう』

そうやって、必死に彼のせいにしようとしている。

実際にそれも一つの事実かもしれない。

きっと、私も彼も悪かったのだ。

だからこそ、お互いが傷つき続ける時間を止めようとした。

私は思わず両手で顔を覆う。

世界を閉ざすために。

現実から逃れるために。

もたれ掛かったドアの硬さに救われている気がした。

こうして、ずっと目を閉じて眠ることが出来る。

そう確信出来るほどの安心と平穏があったから。

「ごめん。入っていいよ」

けれど、その平穏が打ち砕かれる。

背後から聞こえた声が這うようにして私の身体を抱きしめる。

逃げてはいけないのだという想いが諦めと共に全身を伝う。

「あーい」

軽い調子で返した声とは裏腹に胸の鼓動は強く、苦しく、深く鳴り続ける。

立ち上がるのさえも苦しい。

けれど、どうにか立ち上がる。

そして、改めてノックを叩いて言った。

「入っていい?」

「うん」

そうして開いて入った部屋の中。

入ってすぐに目に映った彼は背を向けて座っていた。

一つ小さく息を飲む。

声をかけなければならない。

きっと、自分が覚悟する以上に穏やかな声色で。

「どうしたの?」

私はそう尋ねながら彼の隣、それでいて顔が見えない位置に座り込む。

返事は中々戻ってこなかった。

「寂しかったでしょ?」

故に私は彼の分も声を出す。

沈黙。

まるで時間が止まったみたい。

全てが薄靄がかかってしまったように曖昧な中、遂に彼は口を開いた。

「ごめん」

「謝ることないでしょ」

「いや、ごめん」

謝罪を繰り返す彼の背を撫でる。

「ううん。謝るようなことをしていないよ」

「でも、俺は……」

言いかけた言葉を私は「ううん」と笑いかけて遮った。

大きな体がびくりと震え、恐々としたまま私を見つめる。

無音。

何も聞こえなくなった気がした。

けれど、実際には確かに聞こえる。

息遣い。

今にも泣きそうな。

「大丈夫だよ。落ち着いて」

自分の内にある鼓動は相変わらず大きかったが、それでも少しずつゆっくりになっていった。

「あなたはあなた」

「だけど」

相対する瞳の中に浮かぶ深い自責。

一ヵ月前までは意識することもなかった。

「男でも女でも大切な人には変わらない」

自分でも驚くほどに言葉はあっさりと世界に生まれた。

それを言うのが怖くて仕方なかったのに。

相手の目が微かに揺らぐ。

「ごめんなさい」

絞り出すような声に応えるように抱きしめる。

「ずっと我慢していたんだね」

大きな体が私の胸の中で微かに頷く。

あまりにも幼く、弱い存在のように。

無垢な少女のように。

「ずっと言えなかったんだね」

私の声は震えていた。

「苦しかったね」

様々な想いに翻弄されて。

「うん」

叫びたかった。

「辛かったね」

泣き叫びたかった。

「うん」

それでも。

「大丈夫だよ」

私は今、こうして大切な人を抱きしめると決めた。

きっと、自分でも分からないままに決意していたのだと思う。

「安心して」

胸の中で泣き続ける女性を優しく抱きしめる。

「夢を見たの」

壊れないように。

「どんな夢?」

この女性が。

「子供を産む夢」

自分自身が。

「そっか」

背を撫でる。

この人が大切だから。

「それが苦しくて、苦しくて」

彼女は泣いていた。

どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく悲しくて、どうしようもなく辛くて。

「あの子がどこにも居なかったの」

力強い声は聞き取れないほどに震え続けていた。

「確かに産んだのに。確かに抱きしめていたのに」

その背を撫で続ける。

大切だから。

とても、大切だから。


淡々と続く彼女の言葉を受け止めながら、私は自分の恋が終わったのを静かに受け入れた。

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