第一話「大義名分」
ウィルマとの婚約破棄騒動から一ヶ月後。
私ことクリスタは、愛する妹ルビィと共に馬車で移動していた。
「お姉様見てください! あれが海ですよね?」
「ええ、そうよ」
「わぁ……!」
初めて見る海に目を輝かせるルビィ。
無邪気で今日も可愛い妹に頬を緩ませながら、私は反対側の窓を見やった。
「あっちも見えてきたわね」
シルバークロイツ領。
南方面の国と隣接する、いわゆる辺境領だ。
入出国を管理する関所であり、経済・軍事の要となっている。
……そして、ルビィが次に嫁ぐ場所でもある。
「せっかくお姉様と来られたのに、お仕事だなんて……」
「仕方ないわ。けど、シルバークロイツ卿に挨拶はするつもりよ」
表情を曇らせるルビィの頭を撫でる。
今回、私がルビィに同行したのは私用ではない。
とある理由により、私は仕事でこの地に来ることになったのだ。
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遡ること三週間前。
ルビィから「心配はいりません!」と宣言された翌週のことだ。
ウィルマをボコボコにした罰として与えられた大量の事務仕事。
それを終えた私は、書類を提出するため教会本部に来ていた。
聖女は教会に組している。が、それはあくまで形式的なもの。
聖女本人が敬虔な信徒である必要はない。
神様も、私のような不信心者に祈って貰いたくはないだろう。
大聖堂を素通りしてマリアの私室へと急ぐ。
「失礼します――っと」
ノックしつつ扉を開けると、マリアは祈りを捧げている最中だった。
教会に自室を置き、熱心に神へ頭を垂れるその姿は絵に描いたような聖女そのものだ。
神官からの信頼も厚く、若かりし頃は国王すら傾倒するような美女だったとか。
……まあ、私にとっては頼れる仲間であると同時におっかない母親のような存在だ。
祈りが終わるタイミングを見計らい、私は再び声をかけた。
「例の書類、全部できましたよ」
「……座りな」
杖で指し示されたソファに腰掛けると、やや遅れて彼女も対面に腰を下ろした。
「確認させてもらうよ」
「どうぞ」
老眼鏡をかけ、静かに書類をめくり始めるマリア。
手持ち無沙汰になった私は、周囲に掛けられた歴代聖女たちの肖像画をなんとなく見回した。
私にとっては偉大な大先輩たちだが、正直なところ名前は覚えていない。
「……漏れも抜けもない。嫌味なくらい完璧だよ」
ややあってから、マリアは書類を脇に置いた。
細かい文字を見すぎて疲れたのか、手で目を揉みながら、大きく嘆息する。
「アンタは黙ってりゃ優秀なんだけどねぇ……」
「お褒めに与り光栄です」
「褒めてないよ」
「……」
とにかく、やることは済んだ。
そそくさと退出しようとすると、肩越しに声が掛けられる。
「アンタの妹、次の相手が決まったそうじゃないか」
あまりそういうことに関して興味を示さないマリアにしては耳が早い。
珍しいこともあるものだと、私は心なしか胸を張りながら振り返った。
「ええ。さすが我が妹です」
「分かってると思うけど、今度暴れたら承知しないよ」
「う」
どうやら、妹について釘を刺したかったようだ。
結果的に事後処理も含めて全てうまくいったとはいえ、ひとつの領を潰してしまったのだから当然と言えば当然か。
「それはシルバークロイツ卿次第ですね」
「……………………」
シワを深くして睨んでくるマリアから視線を逸らし、私は下手くそな口笛を吹いた。
「嫌ですね。冗談ですよ、冗談」
さすがの私も、辺境領を一人どうにかしようなんて考えていない。
前回のセオドーラ領はただの農地だったから、警備も知れていた。
しかしシルバークロイツ卿は武闘派の一族であり、領内には軍事施設もたくさんある。
いくら私が十全で戦える状態になっても、真正面からぶつかれば勝ち目はない。
「そんなに心配なら見合いに付いて行けばいいじゃないか」
「そうしたいところですけど……ルビィが『大丈夫』って行った手前、姉としては信じてやりたいじゃないですか」
着いて行きたい気持ちはもちろんある。
もし辺境伯がウィルマのようなクソ野郎でも、見合いの段階で私が付いていれば傷は最小限で済む。
問題は早めに潰した方が対処しやすい。
それは仕事でも婚約でも同じだ。
ルビィは純粋だ。
純粋すぎて人を疑うことを知らない。
ウィルマの一件で少しだけ成長したようだけれど……やはりまだ、心配だ。
妹を信じたい。
でも心配。
姉としては、とてももどかしい。
「面倒くさいねぇアンタは」
嘆息しながら、マリア。
「とにかく、大人しくしておくんだよ」
「ええ、分かってます」
▼
「おや。こんなところでクリスタ様に出会うとは珍しい」
マリアの私室を出た先で、教会で思わぬ人物と遭遇した。
リンド憲兵長。王国内の警備を担う人物だ。
「それはこっちの台詞ですよ。リンド様こそどうされたんですか?」
教会と憲兵は昔から仲があまりよろしくない。
彼のように友好的に接してくれる個人もいるが、大半は組織の感情に流されるまま互いを憎んでいる。
憲兵が教会本部に来るなど、自ら針のむしろに飛び込むのと同じだ。
神官たちの冷たい目に苦笑しつつ、リンド氏は声をひそめた。
「それほど大事ではありませんが、念のためユーフェア様の助言を頂こうかと」
ユーフェア自身は山の上に引きこもり、降りてくることはほとんどない。
教会本部にあるのは、ユーフェアと連絡を取るための念話紙だ。
彼の話を簡潔にまとめると、こうだ。
南方の国が王の後継者を巡り、やや不安定な状態にあるとの報せを受けた。
念のため、しばらくは国境に面した領地の警備を強化することになった。
そこでリンド氏が抱える第四憲兵団に要請が来たそうだ。
その領地の名は――シルバークロイツ辺境領。
「まあ、そこまで深刻な話ではないのですがね。念のため、です」
「なるほど」
「おっと。話しすぎてしまいましたね。それでは私はこれで」
「お待ちください」
がし、と、私は憲兵長の肩を掴んだ。
「私、ちょうど手が空いていてビックリするくらい暇なんですよ。よかったら――」
▼
――そんな訳で、私がシルバークロイツ辺境領へとやって来たのは聖女の仕事のためだ。
治安が乱れる可能性が僅かでもあるというのなら、見て見ぬふりはできない。
国を守護する聖女としての務めを果たす。
決して「妹に着いて行くための大義名分を得た」なんて思ってはいない。
「領地の状況を聞くついでに、辺境伯が妹に相応しい人物か見極めてやろう」とも思っていない。
いないったらいない。
潮の匂いを感じながら、私は徐々に近付く頑強な門を見上げた。