XⅨ 夜の魔女
わたしは深呼吸した。
池の底には、多くの青い宝石が輝いている。
あれが天青石。
大丈夫。
ちょっと潜って、あの宝石の欠片を取ってくるだけだ。
フィルがわたしを見上げて「お姉ちゃん……」と心配そうにつぶやいた。
わたしは微笑み、フィルの髪の毛を軽く撫でた。
そして、わたしは池へと飛び込んだ。
水が……冷たい。
洞窟のなかの地下水の冷たさは、予想以上だった。
あまり長く潜っていると、体温を奪われて危険なことになりそうだ。
少しずつ、池の奥へとわたしは潜っていく。
小さな魚がたくさん泳いでいて、それがわたしの体に触れて、ちょっとくすぐったい。
宝石のある場所は、それほど深くない。
すぐに、わたしは宝石に手を触れることのできる場所まで来た。
なんだ……。意外と簡単だった。
あとはこの宝石の欠片を剥がして持って帰るだけ。
天青石は、その中に不思議な光を宿していて、幻想的な美しさを見せていた。
そして、わたしはその宝石の欠片に手を触れ……。
その瞬間、意識が暗転した。
☆
ここは……どこだろう?
これは、夢?
そこは真っ暗な空間で。
でも、大勢の人が、わたしを取り囲んでいた。
みんながいる。
学園の友人たち、王太子アルフォンソ殿下、聖女シア、カルルお父様、それに……15歳のフィル。
でも、わたしには誰も味方がいなくて、たくさんの人がわたしのことを蔑んだ目で見つめて。
どうして……みんなはわたしをそんな目で見るんだろう?
わたしは、リアレス公爵家の娘で、王太子の婚約者なのに。
「貴様は……身分が高いだけの女だ」
そう言ったのは、王太子アルフォンソ殿下だった。
彼の青い瞳が、わたしを見下ろしている。
違う。
わたしは身分が高いだけの女じゃない。
公爵の娘として、王太子の婚約者として、ふさわしい人間になれるように努力してきた。
みんなに褒められたくて、頑張ってきた。
なのに……みんなはわたしのことをいらないと言う。
王太子も、お父様も、わたしの友達だった子たちも、みんなだ。
「聖女シアがいれば、おまえなんていらないんだ」
周りのみんなが口を揃えて言う。
そのシアは、美しい真紅の瞳で、わたしを虚ろに見つめている。
「クレア様は、私のことを裏切りました。もう……友達じゃありません」
シアは背中を向けて、わたしの前から立ち去った。
そして、他の人たちも全員、わたしの前からいなくなった。
真っ暗な空間に、たった一人、残っていたのは、フィルだった。
15歳の、わたしを殺したときのフィルだ。
彼は哀しそうに、わたしを見つめていた。
わたしはフィルに尋ねる。
「あなたも……わたしのことをいらないって言うの?」
フィルは首を横に振った。
「姉上はいらない人じゃない……。存在してはならない人なんだ」
「え?」
「夜の魔女。王国にとっての災い。姉上は生きている限り、人々に嘆きと悲しみをもたらす存在だ。だから、ぼくが殺さないといけない」
夜の魔女? 王国にとっての災い? わたしが?
何のことだろう?
わたしはシアにひどいことをしようとした。
でも、それ以上のことは何もしていない。
けど、このフィルは、わたしが生きていることで、多くの人が不幸になるという。
わたしが混乱していると、フィルは寂しそうに微笑んだ。
そうして、フィルは短剣を取り出した。
ああ……これが夢なのか、それとも別のなにかなのかはわからないけれど。
でも、また、わたしはフィルに殺されるんだ。
「……お姉ちゃん?」
そのとき、ソプラノの綺麗な声がした。
振り返ると、そこには小柄な少年がいた。
フィルだ。
10歳の、わたしの弟のフィル。
黒髪黒目のとても小柄で、華奢な体の子だ。
わたしを殺した15歳のフィルじゃない。
10歳のフィルは、黒い宝石みたいな瞳で、15歳のフィルをきつくにらみつける。
「クレアお姉ちゃんは……いらない存在なんかじゃない。お姉ちゃんはみんなを不幸にしたりしないよ。だって……お姉ちゃんがいるから、ぼくは幸せなんだから!」
フィルが叫んだ瞬間、15歳のフィルの姿はぐにゃりと歪み、そして、消え去った。
あとに残されたのは、10歳のフィルとわたしだけだった。
フィルがわたしにそっと近づき、そして、わたしを抱きしめる。
「ふぃ、フィル?」
「クレアお姉ちゃんは魔女なんかじゃない……。きっとぼくが、本物のぼくがお姉ちゃんを助けるから」
そして、急激に視界がぼやけていく。
意識が遠のくなか、フィルが白い頬を赤く染めて、微笑んでいた。
☆
苦しい……。
気がつくと、わたしは溺れかけていた。
池の中で、しばらく意識を失っていたみたいだ。
水をだいぶ飲み込んでしまっている。
宝石の欠片は、手にしっかりと握られていた。
これで、儀式は成功したことになるけれど……。
でも、だいぶピンチだ。
どうしよう……。
わたしは焦ってもがくけれど、かえって苦しくなってくる。
このまま叔父様の従者の少女たちみたいに、わたしも死んじゃうのかも。
そう思っていたら、小さな人影がわたしの近くにいることに気づいた。
フィルだ!
わたしを助けようと飛び込んできてくれたみたいだった。
フィルはその小さな体で、わたしを引っ張り上げようとしてくれていた。
でも、今のフィルはわたしよりちっちゃいし、その体格じゃ、きっと無理だ……。
フィルは苦しそうにわたしの腕をつかんで、頑張るけれど……でも、このままじゃフィルも溺れちゃう。
わたしは首を横に振ったけれど、フィルは気にせず、わたしを助けようとした。
けど、やがてフィルも水が肺に入ったのか、溺れ始め、やがてぐったりとなった。
わたしも意識が薄れていく。
こんなところで、わたしもフィルも……死んじゃうなんて。
せっかくやり直すことができたのに。こんなに可愛い弟ができたのに。
そのとき、今度は大きな人影が現れた。
視界がぼんやりとして、顔はよく見えない。
力強くわたしは掴まれ、そして引き上げられていく
いつのまにか、わたしは洞窟の地上に戻っていた。
大きなため息がする。
「ったく……世話の焼けるガキどもだ……」
ぶつぶつとつぶやいていたのは、ダミアン叔父様だった。
わたしも徐々に意識がはっきりしてくる。
どうやらダミアン叔父様がわたしたちのことを助けてくれたみたいだった。
「叔父様……ありがとうございます」
「んなことより、フィルが問題だな……」
わたしははっとして、振り返った。
フィルはその小さな体を、洞窟の床に横たえていた。
けど、瞳は閉じていて……息もしていなかった。
「フィルっ……!」
わたしを助けようとしてくれたフィル。
そのフィルは危険な状態みたいだった。
叔父様はフィルの頭を触り、上向きにした。呼吸しやすいようにしているんだと思う。
でも、フィルの呼吸は戻らなかった。
こういうとき……どうすれば……。
わたしはとっさにフィルの小さな赤い唇に、自分の唇を重ねた。
そして息を吹き込む。
こうすることで、意識のない人から、呼吸を戻すことができると教わったことがある。
ここでフィルが死んじゃったら……。
考えるだけで、絶望的な気持ちになる。
まだ何もお姉ちゃんらしいことができていないのに!
ぴくっとフィルの体が動いた。
フィルがぱちりと黒く大きな瞳を開いた。
いつのまにか、呼吸が戻っていた。
良かった……とわたしが思っていたら、フィルがみるみる頬を真っ赤にした。
ものすごく恥ずかしそうにわたしを見つめている。
あ……
わたしはフィルに口づけしたままだった。
キスしている、というのと同じ状態だ。しかも、わたしはずぶ濡れの下着姿。
わたしが慌てて離れると、フィルは口をぱくぱくさせ、そして目を伏せた。
「あ、あのね……お姉ちゃんがそういうことをしたいなら……ぼく……」
「ご、誤解だから!」
わたしがフィルに経緯を説明すると、フィルは勘違いだと気づいて、ますます恥ずかしそうに顔を耳まで赤くした
「ご、ごめんなさい……ありがとう、クレアお姉ちゃん」
「いいえ、わたしこそ……フィルが助けに来てくれてとっても嬉しかった」
天青石に触れた瞬間に見た世界。
あれが何だったのかはわからない。ただの夢……というわけではないと思う。
夜の魔女。王国の災い。
15歳のフィルが、わたしのことをそう呼んでいた。
だから、わたしを殺したんだ、と。
その意味はわからないけど……でも、わかっていることが一つある。
わたしがあの世界から戻れたのは、今のフィルのおかげだ。
フィルが池の中のわたしを助けに来てくれたとき、、きっとあの世界からもわたしを救ってくれたんだと思う。
そんな気がする。
わたしはフィルにふたたび近づいて、その黒い髪をそっと撫でた。
「天青石は手に入った。つまり、儀式は成功。フィルが公爵様だって証明できたってことね!」
「……うん!」
フィルが嬉しそうに微笑んだ。
そして、わたしは叔父様に向き直った。
「叔父様……改めて、ありがとうございました」
「何のことだ? 俺はおまえらに何の手助けもしていない。ただちょっかいをかけに来ただけだ。いいな?」
この儀式は、フィルとわたしの二人だけで行う必要があった。そういうしきたりだからだ。
だから、叔父様に助けられたことは黙っておかないといけない。
そして、叔父様も黙っておいてくれると言ってくれているのだ。
わたしが頭を下げると、叔父様はにやりと笑った。
「まあ、せいぜい頑張れよ。そのガキが立派な公爵になれるとは思えんが、まあ、頑張る分にはいいだろう。俺はもうやり直すことはできない、ただのロクでなしだ。が、ガキどもは違うだろうからな……」
「あの……」
「なんだ?」
「叔父様はロクでなしなんかじゃないと思います。それに……やり直すことができないなんて、そんなことも……ないと思います」
叔父様は肩をすくめると、「ちょいと野暮用がある」と言って、立ち去ってしまった。
前回の人生で、わたしは叔父様のことを何も知らなかった。
妾の子だったことも、次の公爵になるはずだったことも、そのために頑張っていたことも知らなかった。
大切な従者の女の子が、叔父様のために死んでしまったことも、知らなかった。
何も知らずに、叔父様はただの酒浸りのダメ人間だと思いこんでいた。
叔父様のことだけじゃない。
きっと……他にも、わたしには、見えていないことがあったんだろう。
それに、夜の魔女という言葉。
シアに対して犯した罪以外に、わたしが殺される理由がなにかあったのかもしれない。
考え込むわたしの手を、フィルが握る。
「クレアお姉ちゃん……これで……ぼくたちはずっと一緒にいられるんだよね?」
「……もちろん! フィルが望む限りは、ね」
わたしは身をかがめ、そしてフィルをぎゅっと抱きしめた。
フィルもわたしも、ずぶ濡れだ。
だからこそ、互いの温かさが身に染みるようだった。
フィルは恥ずかしそうにしながらも、幸せそうに黒い瞳を揺らした。
そして、柔らかく微笑み、わたしを抱きしめ返してくれた。
さあ、帰ろう。
わたしたちのお屋敷に!
おかげさまで、今日もジャンル別の日間ランキング4位です。より多くの方に読んでいただけるよう、更新頑張ります。
ちょっぴりでも、面白い、儀式成功おめでとう、クレアとフィルの二人が微笑ましい! などなど思っていただけましたら、
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