それは夢のような時間で:con Phil el Asturies
フィル・エル・アストゥリアス
それが、ぼくの名前だった。
でも、ぼくは……この名前が嫌いだった。
エル・アストゥリアスは、カロリスタ王国の王家の人が名乗る名前だ。
だから、ぼくも一応、王族ということになる。
でも……ぼくは、余り物の「いらない子」だった。
ぼくの父親セシリオ・エル・アストゥリアス親王にはたくさんの子どもがいた。それだけ多くの女の人が、お父様の周りにはいた。
ぼくの本当のお母様は、ぼくを生んだせいで病気にかかり、亡くなったらしい。
お母様がくれたのは、「フィル」という名前だけだった。最後の言葉は、「こんな子……生まれてこなければ良かった」だった。
使用人の一人が教えてくれた。
お母様は「ショウフ」だった。幼い頃のぼくにはその意味がわからなかったけれど、今ではそれが「娼婦」だということを知っている。
ぼくはお父様からも、お父様の本当の奥様からも、兄弟からも、使用人たちからも、疎まれていた。
フィルなんて、いらない。生まれてこなければ良かった。
みんながぼくのことをそう言った。
他の兄弟たちは、上品な服を与えられて、たくさんおもちゃを与えられて、甘やかされていた。
でも、ぼくは使用人に混じって働かされた。おかげで、料理をしたりすることもできるようになったけれど、誰もぼくの味方はいなかった。
誰もぼくには優しくしてくれなくて、ぼくの友達は本だけだった。
この先も、ずっとぼくは一人ぼっち。ずっと……ずっと。
お母様がつけたフィルっていう名前も、エル・アストゥリアスというお父様の家名も大嫌いだ。
そう思ってたある日、お屋敷に一人の男の人がやってきた。
その人は背が高くて、とても威厳があった。
怖そうな人だった。
その人は、リアレス公爵と名乗って、そして、ぼくを養子にすると言う。
手続をするから、一週間後にリアレス家に来るように、と彼は言った。
そうして、何もわからないまま、ぼくはリアレスのお屋敷に送られた。
でも、べつに……どうでもよかった。
どうせ、ぼくは誰にも必要とされていない。きっと、新しいお屋敷でも、ぼくのことなんて、すぐにいらなくなる。
そう思ってた。
あの人に……クレアお姉ちゃんに会う前は。
屋敷に到着したとき、ぼくは大勢の人に囲まれて、怖くなった。
たくさんの使用人がいたけれど、実家の使用人たちはいつもぼくに暴力を振るった。
怖い……。
思わず逃げ出したくなって、でも、どこにも逃げる場所はなくて。
そのとき、出迎えの人たちのなかに、たった一人だけ、違った雰囲気の人がいた。
その人はぼくと同じぐらいの歳の女の子だった。
深い茶色の髪は長くて、とてもつややかだった。同じ茶色の瞳は、綺麗に澄んでいて、ぼくをまっすぐに見つめていた。
淡い桃色のドレスに身を包んだその子は、とても……美しくて……優しそうだった。
ぼくは思わず、その子のほうへと駆け出した。
その子の前に立つと、ぼくはどうしたらいいかわからなくなって、でも、その子に触れてみたくて、そっとドレスの裾をつまんだ。
こんなことして……怒られないかな。
急にぼくは怖くなった。
見上げると、その女の子は微笑んだ。すごく……可愛かった。
美少女って言葉が、これほど似合う人に、ぼくは会ったことがなかった。
その子は、ぼくの髪を優しく撫でた。
「安心して。わたしはクレア・ロス・リアレス。あなたの味方だから」
「……クレア、様?」
「そう。あなたは?」
「ぼくは……フィル・エル・アストゥリアスです」
「今日からあなたはフィル・ロス・リアレス、ね。あなたはわたしの弟だもの」
その子は……クレアお姉ちゃんは、ぼくを「フィル・ロス・リアレス」と呼んだ。
どくんと心臓が跳ねる。
フィル・ロス・リアレス……それが、これからのぼくの名前。
嫌いじゃない。
フィルって名前も、クレアお姉ちゃんに呼ばれるなら、悪くない気がする。
それに、クレアお姉ちゃんはぼくのことを弟だと言ってくれた。
「あなたがぼくの姉上……?」
クレアお姉ちゃんは、とても嬉しそうに、目を輝かせてうなずいた。
その表情は、ぼくが生まれてから見たもののなかで、一番綺麗だった。
「わたし、ずっと弟がほしかったの」
クレアお姉ちゃんはそう言って、ぼくを弟として受け入れた。
屋敷を案内してくれて、寒さに震えるぼくに服を貸してくれた。
そして、ぼくを必要な存在だと言ってくれた。この公爵家にとっても、クレアお姉ちゃんにとっても必要だって言ってくれた。
ぼくみたいな弟が欲しかったって言ってくれた。
こんなに優しくされたのは初めてだった。
ぼくも、あなたみたいなお姉ちゃんが欲しかった。
そう言うと、クレアお姉ちゃんはすごく喜んでくれて、ぼくを抱きしめてくれた。
ちょっと恥ずかしかったけれど、でも、とても嬉しかった。
こんなぼくでも……必要としてくれている人がいる。
しかも、こんなに優しい姉が、ぼくのことを必要としてくれている。
ぼくが簡単なお菓子を作ると、クレアお姉ちゃんはすごく喜んでくれた。
誰かのために何かをして、喜んでもらうのも初めてだった。
次の日も、その次の日も、クレアお姉ちゃんはぼくと一緒にいてくれた。
ぼくに優しくしてくれて、ぼくのことを甘やかしてくれた。
それは夢のような時間で。
いつまでもこんな時間が続けばいいと思った。
だけど……
ぼくが娼婦の子だって知られてしまった。
もしかしたら、公爵家の後継者ではいられなくなってしまうかもしれない。
でも、それ以上に怖かったのは、クレアお姉ちゃんに嫌われることだった。娼婦の子だって知ったら、クレアお姉ちゃんも、他の人みたいにぼくのことを嫌いになるかも……。
でも、そんなことなかった。
クレアお姉ちゃんはそれでもぼくのことを公爵家の後継者にふさわしいと言ってくれた。そして、「わたしの弟」だと言ってくれた。
危険な目にあってでも、ぼくと一緒にいたいと言ってくれた。
ぼくも……クレアお姉ちゃんの弟でいたい。
初めてぼくに優しくしてくれた人と、初めてぼくの家族になってくれた人と一緒にいたい。
だから、ぼくは危険な儀式に挑戦することにした。怖いけど……クレアお姉ちゃんが、力を貸してくれるから、きっと成功する気がする。
今、ぼくの隣に、クレアお姉ちゃんがいる。
ぼくらは同じベッドにいて、お姉ちゃんはすやすやと寝息を立てている。
その白い頬を見ていると、胸がどきどきしてくる。その体に触れたい、と思う。
ぼくは……クレアお姉ちゃんのことが好きなんだ。
クレアお姉ちゃんに婚約者がいるらしい。
お姉ちゃんの婚約者は、王太子殿下だという。
ぼくと違って、本物の王族だ。
ぼくなんかじゃ、きっと敵わない
でも、クレアお姉ちゃんは、「ぼくが望む限り」、ずっと一緒にいてくれると言ってくれた。
なら、ぼくが望めば……王太子殿下なんかじゃなくて……ぼくと一緒にいてくれるのかな。
王太子殿下との婚約なんて破棄して、ぼくと結婚してほしい。
叶うことのない願いかもしれない。
でも……
今はまだ、ぼくはクレアお姉ちゃんの力になれなくて、守られてばかりだけど。
いつか、きっと、ぼくがクレアお姉ちゃんを守れるようになりたい。
王太子殿下よりも、ぼくのほうが、ずっとお姉ちゃんを大切にできるようになる。
「だから……クレアお姉ちゃん……一緒にいてほしいな。ぼくはそれをずっと望み続けるから」
いよいよ儀式へ……!
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