ずるいオトナ
番外もいいところの保健医と国語教師のその後編。
開け放した窓から入り込んできた風が、白衣の肩先にかかる髪をさらってとおり過ぎた。その冷たさにふと、我に返る。
溜息が、こぼれた。
――溜息なんてついてると、幸せが逃げますよ。
耳を掠めたセリフの声は、この白い部屋の常連だった少年のもの。聞いたのは、随分前のような気がする。
傍から見れば、自分は「弄ばれて捨てられた浅はかな女」なんていうカテゴリーに括られてしまうのかもしれない。
息を吐いた唇がゆがんで、苦い笑みをかたちづくる。自嘲ぎみな笑みを浮かべながら思い出してはいても、十近くも歳の離れた彼との日々は、今だに甘さを伴うものだった。小さな頃に好きだった儚い砂糖菓子のような。
美味しかったから。だから、これ以上はありませんよ、と窘められれば諦められる。今の彼が幸せそうに見つめる少女さえ、微笑ましく思える。
握り締めた安物のボールペンの軸が、軋んだように鳴ってしまうのは、消えない肌寒さのせいだ。
窓を閉めても、上着を羽織っても消えない、寒さのせい。
「あー、まだ居たか」
前触れもなく後ろから声がして、心臓につられた肩が撥ねた。
振り返ると、年の近い国語教師が立っていた。長めの髪は掻きあげるに任せて乱れ、スーツをかなりの勢いで着崩して、シャツのボタンは二つ目まで外れている。ネクタイがかろうじてぶらさがっている、という体なのは、ここまでくると仕方のないことかもしれない。あまりと言えばあまりの姿に、先ほどとは別の意味で、思わずため息をついてしまった。
着ているものの布地の質も仕立ても良いのだから、気を使っていないわけではなさそうなのに。
口の悪さは元より、彼の周囲をかまわない様子には、時折余計な世話を承知で心配になる。きちんとすればきちんと見えることを知っていながら、反抗期の生徒のように服装を乱して『俺みたいなヤツに注意されたくないよなあ』と生徒を見逃していたりする。もしかしてわざとやっているのか、と思うこともないではない。けれど。
「困りますよ、先生。俺が日番の日は残業禁止」
こんなふうに、苦情を言い募ってくる様子からは、仕事への熱意はあまり感じられない。
「困りますね、先生。ここでは煙草が禁止なんです」
つかつかと歩み寄って、咥えている煙草を口から奪い取ると、水道の蛇口をひねる。保健室に、自らの裁量ですべてを収められる場所に引きこもってばかりいる自分を、職場の同僚である教師たちの大半が敬遠して、あまり近付いて来ない。だが、彼に関してはこの位のことができる親近感はあった。余計な気を使わない。
心理的な問題を抱えて保健室を訪れる生徒は、大抵彼に好意的だ。大衆に適応出来ない類の人間に安心感を与えるタイプらしい。
職員室の他の同僚よりも親しみを感じている自分も、とりもなおさず「大衆に適応出来ない人間」ということになってしまうけれど。
「何やってたんです、こんなに遅くまで」
「ひと月分の来室者の統計と、あと、この間とった睡眠時間についてのアンケートの分析を」
「そんなに働かないでくださいよ」
「仕事をしていて怒られるんでは、何をするためにここにいるのか判りませんね」
煙草の処理を終えてきゅ、と蛇口を締める。相手に向き直ろうと振り返って、硬直した。
近すぎる。
「先生」
唇が重なりそうなほど近くまで距離を詰められて、咎めるようにかけた言葉の続きが喉の奥に引っ込んだ。
「やっ」
咄嗟に押し離して逃げようと辺りをうかがっても、適当な場所が見つからない。こういった状況下での逃げ場所としては、保健室は甚だ不適当だと思い知った。
「逃げたって、もう誰も居ませんよ」
結局殆ど身じろぎ出来ないまま、洗面台を背中に相手の腕の中に閉じ込められる。
「離して、下さい」
言葉ではそう言って、けれどつっぱった腕の力が抜けてしまう。
「アナタがしがみついてるものから離れるんなら考えましょう?」
目の前の整った顔が薄く笑って、今度は首筋に沈んで行く。
シガミツイテイル、モノ?
「何言って」
言いかけて、息を飲んだ。
自分をつかまえた指が、白衣に寄り添い、すっと滑り落ちて行く。
「ほうら、見つけた」
服に手をかけられたと思った瞬間、白衣のポケットが探られる。その指に絡めとられて姿を現したのは、華奢なつくりのアトマイザー。
ゆっくり首筋から顔を上げた彼が、やっぱりな、とひとりごちて一歩離れた。
「これ、持ってるだけなんでしょう」
「え?」
「つけてないでしょう、もう随分。あなたからは、匂いがしない」
応え、られなかった。こわくて。言い当てられていくのが、こわくて。
どうして、こんなことを訊くのか。どうしてそのことに意味があることを知っているのか。
この人には、何がわかっているんだろう。
「つけなくても、この部屋に香りが漂っているように、持ち歩いてる。当たりだ?」
「だったら、何なんですか」
並べ立てられた事項がすべて事実だったにしても、それが何かの真実を指し示しているわけではない。そう思えば、まだ強気でいられた。
身体の奥から力の抜けていくような感覚が広がっていたとしても。
「贈られた相手への義理立ても、その香りを遮った男への思いやりも、いいかげんにしたらどうですか?」
自分の試験を理由に、一方的に連絡を絶った男。その寂しさをしばらく紛らせてくれた少年。
義理立て、だとか、思いやり、だとか。
なぜ、そんなんじゃない、と反論できない言葉を遣って切り込んで来られるのだろう。
「あんたは、何処にいるんです?」
「何処、って」
「自分のしたいことしなさいよ。自分を見てない連中のためにあんたが振り回されてんのは、我慢ならない」
自分を見てない、連中。
ずくり、と、胸の奥がきしんだ。
わかっている。わかっていた。
自分は、とうにどちらにも相手になどされていない。向こうを気遣っている振りは、ただの自分のプライドを守るための行為に過ぎなくて。
「捨てちまえよ、こんなもん」
言葉とともに、きれいな放物線を描きながらアトマイザーが彼の指を離れる。ちゃぷちゃぷと、薄い琥珀色の液体を揺らしながら、開け放していた窓から、外へ、落ちた。
がちゃん
「・・・・・・っ」
思わず、身体が固まった。
何か壊れる音だった。それは、アトマイザーそのものではなくて。自分の奥に、しまいこんでいた何か。
「俺にしとけよ。もっと気持ち良い振り回し方してやるぜ」
「勝手なことっ」
あまりにもその感触が痛くて。
痛いから。すべて彼に責任をなすりつけようと思った。見ないようにしていた傷口から、まだ血が流れていることを見せつけた人。彼さえ、踏み込んでこなければ良かったのに。
ありったけの怒りを瞳に込めて、目の前の顔を正視する。
けれど、覗いた瞳は、もっと強い感情を向けてきていた。
「少なくとも俺は、あんたしか見ない」
口調のずうずうしさと裏腹に、すがるような瞳。
伸ばされた手は、これほど自分を追い詰めた状況に落とし込んでいながら、今度は触れてこない。
「俺には、あんたしか見えてない」
駄目押しのような呟きに、かろうじてつかまえていた緊張の糸をむしりとられた。すとんと力の抜けた身体を、目の前の相手に預けるように倒れこむと、思いがけないほど強く、抱きしめられる。
その腕は、赤ん坊を扱うように柔らかかった。
そっと、見上げた瞳は、けれど、まだ不安な色に揺れている。
くっ
だから。
知らず、笑いがこみ上げてきて、止まらなくなった。心地よく、抱きしめられたままで。
「笑うかな、そこで」
情けなさそうに呟いた声に、初めて、内面を垣間見た気がした。
敵わない。この人には、敵わない。
けれどきっと、この人は、私に敵わないのだ。だから、お互い、敵わなくても、良いような、気がする。
「このまま、いて」
ぽつり、とつぶやくと、了解、と上機嫌な声が耳をくすぐった。
「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れた」
「何ですか?」
「生徒は、例外な。あんただけ見てたいのは山々だが、ウチには手のかかるのが山ほどいやがるから」
苦虫を噛み潰したような顔でのうのうと言い放つ様子に、彼が生徒に好かれる訳を納得した。
好こうとして、思いやろうとして、職務に当たっているのではない。この人は単純に、生徒たちに向き合っているのだ。本人の自然な姿として。
ますます緩んでくる頬に、唇がよせられて、ところで、とささやかれる。
「これ以上のことは、したくない?」
「却下」
「シチュエーションとしては、うってつけなんだがなあ、ベッドあるし」
「セクハラで訴えますよ」
いつもの軽口に終始しながら、そっと、自分からも着崩したスーツの背中に手をふれると、僅かに、肩先がはねた。
相変わらず慎重な指先に抱きしめられる安堵に包まれたまま、叩き合う物騒な軽口が、校舎の闇に染み込んでいく。
後日、白衣を着た薬指に、新たな指輪が光ることになる。
一気に校内を駆け巡ったニュースに、教え子のうち三人は、別な理由で目を丸くした。
「やっぱり、自分の都合で私を手駒につかいましたね?」
「欲しいものは自力で手に入れるもんだろう、普通」
「それを普通だと思ってるあたりが、普通じゃないよね」
「えー、なんかずるい」
こんな会話が交わされていたことを、当の彼女は、未だ知らない。
ラストは木枝→国語教師→成→未也子の台詞です。
先生たちには本名をつけておりません。