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クラッシュド・アイス

 いつも、喉元で押し殺してしまう言葉がある。

 見つめた(ひとみ)に飲み込まれ、溺れて、唇が凍り付いてしまうから。だから、何も、言えなくて。

「ねえ、のど乾かない?」

 街中をあちらこちらと引っ張り回した挙げ句、(なる)はそう木枝(このえ)をのぞき込んだ。

 時間を追うごとに口数の少なくなる自分を気遣っての言葉なのだとは判っていた。木枝が疲れていると思ってのことだろう。けれど、その危惧は外れている。

 初めての、ふたりきりの休日。

 初めて、ふたりきりで出かける休日、だから。

 いつも舌の上で打ち消してしまう言葉を、今日こそは唇の外に解き放とうと決心していたのに。このままでは、また叶わないまま終わってしまうかもしれない。

 体にまとわりついてくる熱気を感じながら、木枝はそっと溜息をついた。


 成と親しく付き合うようになって以来、木枝はその義妹こと幼なじみである未也子とも関わりを深くしていた。お互い、ごく親しい女友達というものが初めてで、実際に話してみると療養期間の長かった未也子と読書の趣味が似通っていたりもして、つい話し込んでしまっていた。成と二人では、何を話して良いか判らずに、未也子とばかり会話が弾んでしまって成と会う度にその傍らに未也子が居ることを不快に感じないどころか、どこかほっとしていたのだ。

 そんなとき、成はいつでも意地悪く感じられるほど木枝をからかった。呆れ顔の未也子が制止するまで。

 ――判っている。

 木枝は、隣を歩く人物の顔をそっと盗み見た。

 ――本当は、向き合わなければならないのはこの人なのに。

 示された喫茶店に首を横に振って、木枝は口を開いた。

「行きたい所が、あるんです」

 やっと絞り出した一言だった。胸の奥に大切にしまってある思い出の場所。その力を借りたら、口に出せるかも知れない。

 木枝の強い言葉に、成は、眸の奥に少し意外そうな色をのぞかせながら、尚余裕の笑みは崩さずに、頷いた。


               ◆


 少し歩かなくちゃならないんですけど、という木枝の言葉に頷いて付いては来たが、歩けど歩けど目的地に着かないらしいのに、成は笑みを噛み殺していた。

 何となれば、理由はさっぱり読めないものの、隣を歩く木枝の目つきは真剣そのものだったからである。

 この少女に他には類をみない関心があると自覚して以来、彼女にそれを受け容れてもらえていることに可笑しいほど嬉しさを噛みしめている自分を意識するようになって以来、性格が悪い、と義妹にはクレームをつけられる回数が増えた。

 次々と展開されていく木枝の表情をもっと引き出したくて、渡す言葉に、添える視線に、偶然を隠れ蓑にして時折触れる指先に、意地の悪さを見出されてしまっているらしい。

 クラスメイトと別な繋がりを持てたことが嬉しいらしく、やたら木枝をかまいたがる未也子と、似たような理由でこちらもまんざら悪い気分ではなさそうな木枝が最近つるみがちなので、両者が揃った折、嫉妬交じりのちょっかいをかけてしまうことが多いせいかもしれない。

 こっちを見て欲しい、という欲求と同時に、普段はあまり表情を動かさないタイプの木枝の新しい顔を見つけては、あれも可愛い、これも好ましい、そして、それを引き出したのは自分なのだと独占欲混じりの悦に入っているのだから、まあ、性格は悪いかもしれない。


 歩き始めてから、随分と時間が流れたが、あえて成は木枝にそれについて言及はしないことにした。どのみち、これだけの距離を歩こうと思えるくらいだから、疲れているわけではなさそうだし。

 やはり彼女は健康体なのだと、疲れてくると不機嫌に黙り込む幼なじみと引き比べて苦笑する。

「――何か、可笑しいですか?」

「君は健康体だな、と思って」

 応えて、少し深めに息を吸い込んだのが不味かったのだろう。成は、幼い頃から患ってきた呼吸器官に飛び込んできた刺激に軽く咳き込んでしまった。

「――っ、ごめんなさい!私、つい考えなしに……大丈夫ですか?」

慌ててさすってくる掌の心地良さに酔いそうになったが、成は、余計な心配を長引かせないよう、その手を自らの手で包み込むことで制した。

「何でもないよ」

「でも」

「僕が疲れたからって嫌味言ってるんじゃないよ、大丈夫」

そのまま眸をのぞき込むと、つなげた手が硬直するのが判った。

「歩く元気はあったみたいだから安心しただけなんだ。ほら、知っているかもしれないけど、未也子は疲れるとしゃべらなくなるからね」

木枝は、その言葉を聞くと、手を下に降ろすことで成から離れ、視線を外して呟いた。

「……未也子ちゃんの基準で、量らないで下さい」

 思わず、二の句が告げなくなる。

 口に出して言及されたことも、彼女の所属する文芸部の部誌に詠まれたことすらある、いもうとへの執着。今、どれだけ木枝が気にしているものか、逸らされた表情からは読めなくて。

「うん……判った」

 それだけ、やっと言葉にした。


          ◆


 今度は、成が黙り込む番だった。

 目的地までの道順を頭の中でたどりながら、木枝は、一体この沈黙をどう処理したらよいのかと内心だいぶ慌てていた。

 終始他人を退屈させないよう、何より自分が退屈しないように心を砕くこの人が黙り込んでしまった原因は、明らかに自分にある――そのくらいの自覚は、木枝にもあった。

 おそらく、先の自分の物言いが、非難がましく聞こえてしまったのだろう。

 やはり、言葉にしないからいけないのだろうか。

 眸のさぐり合いは、少しのズレからどこまでも際限なく回答を狂わせていく。それは、もうごめんだった。

「あの」

「何?」

 ゆっくり振り向いてきた眸は、またも木枝を飲み込んだ。

 潮流に巻き込まれるように思考が乱れて、鼓動が不規則に高鳴っていく。

「いえ」

 その息苦しさに咄嗟に目を伏せてしまって、すぐに襲ってきた後悔の渦に、木枝は掌をきつく握りしめた。

 ふと見上げると、成が困ったように微笑んでいる。

 この人は、本当は何もかも判っているのかもしれない。自分が告げなければと思っている言葉も、その試みに何度も失敗していることも。

 それでも、待ってくれているのかも、しれない。

「ごめんなさい。」

「――何、が?」

「いえ、あの」

 つい口に出してしまった謝罪の言い訳を考えあぐねながら角を曲がると、そこに広がった懐かしい風景に、木枝は声を上げた。

「彼処です!」

 指で示された先には、鄙びた一軒の甘味処。

「良かった。まだお店やっていて。この辺り、小さい頃に住んでいたんです。夏になると殆ど毎日お金握りしめて走って来てた」

「ふうん、思い出の、場所なんだ」

 少しまぶしそうに、そう微笑んだ成には、木枝は気づかなかった。ただ、次の一言を口に出すことだけを、考えていたから。

「どうしても、此処に来たかったんです」

 すっと息を吸い込むと、灼けたアスファルトから立ち上る熱い空気が、胸の奥に火を点した。

「夢だったから」

 その小さな炎の力を借りて、木枝は真っ直ぐに成を見上げる。

「好きな人と、一緒に来るの」

 成の表情が、完全に固まった。

 そして、ゆっくりと融けてゆく。言葉にのせられた熱に、融かされてゆく。終いに穏やかな笑みで、成は言った。

「それは、光栄だな」

 つ、と一歩踏み出した成が、距離を詰める。覗き込むように顔が近づいて。

「――ぁ、の」

 その笑みのまま、至近距離で見つめられて、保たれた沈黙に耐えきれず、僅かに身体を引くと、不意に、成は可笑しそうに噴きだした。

「うん、行こうか」

 連れ立って店に入ると、いつから老人をやっているのか判別の付かない店主が、木枝を認めて声を上げた。

「……木枝ちゃんかい?いやあ、大きくなって。元気そうで何よりだ」

「まあ、よく来てくれたこと。さあさあ、お座りなさいな」

しわだらけの顔を更にくしゃくしゃにして、連れ合いらしい老婦人が微笑む。

「お久しぶりです。おじいちゃんもおばあちゃんも、憶えててくれるなんて驚いたわ、嬉しかった。」

「うちの一番のお得意さんをそう簡単に忘れるもんかね。おや、隣のお兄さんは――もしかして恋人かな?」

 木枝は、成を振り返ると、伏せがちな眸で微笑んで、しかし、しっかりとこう答えた。

「はい」


        ◆


「意外だね。こういうの好きなんだ」

 ざりざりと音を立て、削られるクラッシュド・アイス。ガラスの器に入れられ、鮮やかに青いシロップのかかったそれが木枝の前に置かれると、成はそんなことを言った。

「私も意外ですけど。そういうの、好きなんですね」

 成の前には、無色透明な氷の山が小さくそびえ立っている。

「ウチは合成着色料禁止だったんだ」

スプーンで山を崩しながら、君はどうして、と折り返して尋ねる。

「私は、この色が好きで――海の、青みたいだから。連れて行って貰ったことないんです。だから、夏はいつも代用品の海で我慢してた。それに、何だかこの毒々しい色もちょっといいなって。身体に悪そうなことって、たまにしてみたくなりません?」

と、珍しく茶目っ気をのぞかせた眸で、木枝が成を見上げながらスプーンを口に含むと、二人の視線がまともにぶつかった。

「うん、そうだね。悪いことは、たまにしたくなる」

 成は、ガラスの容器二つを脇へよけると、そっと木枝の右手を押さえて下に降ろさせた。

「僕も、仲間に入れて」

 そういった顔が近づいてきて、至近距離でぴたりと止まる。間近で見つめられて、息が詰まりながら、瞬きしか出来ないでいると、成は、湛えていた笑みを、苦笑めいたものに変えて、こつん、と額をぶつけてくる。そして、掌を重ねたまま冷たい銀食器を彼の唇へと導いて、口に含んだ。

「ねえ、今度海行こうか」

 何事もなかったかのように涼しげにスプーンを口へ運びながら、成はそう提案してくる。

「え?」

 今だ少し混乱しながら顔を上げた木枝は、丁度口を開けたところだった成の舌先がうっすら青く色づいているのに気付くと、ぱっと顔を朱に染めて再び俯いた。

「いい、ですね。未也子ちゃんとか、堤先生とか、一緒に」

「嫌だな、それは」

 さらりと言い放たれた言葉に、木枝は一瞬耳を疑った。咄嗟にまたあげてしまった眸に、いつもと同じとらえどころのない、少し意地悪そうな表情の成が映る。

「僕は、君とだけ一緒なのがいい。――未也子には渡さないよ」

と笑う彼に、木枝の胸に、幸福の矢が刺さった。

「覚悟しておいた方がいいと思うな」

 そう続けられた言葉には一抹の不安を禁じ得なかったけれど。 


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