第三十八筆『彼は間抜けなんかじゃない』
ネメと部屋を後にしてから数分、俺が想像していたのは徘徊する異形の館だったが、俺達が出会ったあの二体の化け物以外の姿を見る事は無かった。
此処はどうやらホテルのようだが、今にも普通の人間とすれ違いそうな程に当たり前の景色が続く。
途中エレベーターも見つけたが「扉が開いた途端大群っていうお決まりパターンは勘弁だしね」と言うネメに従って俺達は階段で階下へと下っていく。
上階に行くという考えは今の所無かったが、何故か上への階段は厳重に封鎖されていた。
下り初め、階段の踊り場に書かれていた『↑6F ↓5F』と言う数字を頭に刻んだ時に部屋番号を記憶し忘れた事に気付くが、あの様相であれば部屋を間違える事も無いだろう。
何度か階を降りる間に、踊り場の壁の少し上あたり、少し奥まった場所から光が漏れているのに気付く。
「外の様子、確認しとくか?」
「あー……、見てみる?」
少し濁った声を出しているあたり、ネメはもう既に気付いていた上で提案せずにいたのだろう。
可能性の話ではあるが、見るも無残な物は見ないに尽きる。
だが俺は状況把握の為と思い、その小さな空間に身を乗り出した。
だが、窓から見えた街並みは驚く程普通の――少しも壊されていない綺麗な街並みだった。
「こういう時って、街は大体荒れるよな」
俺が奥まった窓のある枠から降りるとネメは難しそうな顔をする。
「まぁ大体、というかほぼ確実? 何、まさか綺麗だった?」
俺が神妙な顔で頷くとネメは眉間に皺を寄せる。
「なーんかヤな感じだなぁ。
そもそも私達の所に来たアイツらを未だに見ないってのもおかしい。
これはなんか、本に舐められてる感じするね」
言わば、最初に出会った二体の化け物は、この本『フレームアウト』が俺らを感知して送り込んできた確認のようなものなのかもしれない。
「少し認識が違ったんだな、俺は」
「んー?」と眉間の皺を戻してネメは俺の顔を見る。
「本が、物語が生きているってのを漠然と好意的に受け止めてたんだよな。
俺達が良くない展開にあったとしても、それが物語が必要とする展開だからと納得してたんだよ」
「あはーぁ……、人が良いねぇタナくんは!」
溜息とも笑いとも付かぬ声と共にネメは俺の背中をポンと叩く。
その瞬間に巡るのは、俺の知らない物語達の悪意。
それがネメの力だと思う前に、俺は踊り場で膝をついていた。
「手じゃなくても……、良いんじゃないか」
「手と手の方が感じ良いじゃない? 私の力は私の匙加減で使うのが一番なの!」
ネメの手を伝って巡って来た記憶は、どれもまともな景色ではなかった。
――とある記憶
彼女は物語の中で、物語の主人公をそっちのけで彼女に襲いかかる、拳大の鼠に似た獣を蹴り飛ばし、駆け出して手榴弾を放り投げる。
爆発の一瞬手前、彼女が見たのは主人公が目の前にいる"巨大な獣"に片腕を食いちぎられて尚、剣でその獣を貫く姿。それを確認すると同時に爆発が起きる。
「そいつを倒せば、全部終わるだよね!」
叫ぶネメ、主人公が対峙するその獣は一見鼠のように見えたが、その爪は鋭く、灰色の翼すらあった。
ただその口から覗く牙が、鼠類に見えただけの話。
「ああ、こいつさえ、倒せば!」
その言葉がまるでスイッチかのように、主人公の周りの壁が崩れ落ちる。
そしてそこから雪崩のように灰色が見えた瞬間から先は、ネメの手から放たれ続ける音と光で見えなかった。
「主人公が生きている必要は、無いんだな」
「うん、そうだね。しかしキミは随分とやっちゃってる記憶を引っ張り出したね」
――"こいつさえ倒せば良い"なら倒させなければ良い。
それがあの物語の悪意だったのだろう。
物語はさしずめ終盤も終盤、そこで筆が折られた原因等知る由も無い。
だが、俺自身そういう作品を知らないなんて事も無かった。
「暴走しちゃった物語は、もうその悪意――癌を消さなきゃ元には戻れない。
その為に一番大事な薬が主人公ってだけの話で、その後の世界に主人公が必要無いなら」
「殺しても、良いか」
少しだけ寂しそうな顔をしてネメは頷いた。
「それが私達のお仕事だからね……。
さ、続きを書きに行こう。出来ればハッピーが良いね」
不条理な展開と悪意。
さっきの記憶は、ネメがいなければ物語は救われない。
それは、物語にとっての救済なのだろうか。
そう考えながら、俺は小さく唾を飲み込む。
目には1Fという文字が映っていた。
「だれかー、生きてる人ー? まともなら尚良いかなー」
広い玄関ホールに恐る恐る入った後、周りを確認したネメが気の抜けた声で人を呼ぶが、声はホールに響くだけで、呼応する気配は微塵もしない。
それでも入り口は厳重に塞がれているあたり、誰もいないという事は無さそうだった。
「それにしても、何で此処まで綺麗な状態が保たれているんだろ……」
ネメが呟いた瞬間、銃声が響く。
近くの床を擦る銃弾を俺が見たのと同時に、ネメは俺をソファの後ろへと突き飛ばした。
「いるんじゃんかー!」
柱の影に隠れながらネメは泣きべそを真似たように大声を上げる。
向こう方はその声には呼応したようで、何発もの銃声が聞こえて来た。
「敵じゃない!てーきーじゃーなーい!
こっちは二人! 弱い男が一人と強い私が一人!
そっちは!!」
ネメの叫び声にやっと銃声が止む。
「弱い男と強い私、どっちで撃つのをやめたんだろうな」
独り言のように呟くとネメは耳ざとく「強い私の方!」と柱の影からこちらを見て笑った。
ネメの説得のような何かのお陰で向こうからの銃撃は止まったものの、ネメの声に向こうが反応する事は無かった。
何度か呼びかけた後、ネメは痺れを切らしたように自分の銃を固定している衣服からいくつか取り外す。
「こっちからは一発も撃ってないでしょー! ほら、ほら! こんだけやれる事はあるのに撃ってないんだよ!」
そう言いながらネメは柱の影から取り外した銃を床へと滑らせた。
そうして反応を待つ事数十秒、やはり何の音沙汰は無い。
ネメもとうとう少し頭に来たらしく、こちらを見て首を振ってから、腰につけているパイナップル型の手榴弾が並ぶ中から、少しスマートな形をした物を手に取る。
「こんなのもね!」
意地悪そうな顔で彼女はその手榴弾のピンを抜かずに、銃声がしていたやや遠くへと投げ込む。
それが床に落ちたと同時に床を駆け出す音が聞こえ、俺達がいるホールの反対側へと走っていく少女の姿が見えた。
「間違い無い事、三つ。
少なくとも今相手していたのは一人で、住処は向こうで、やっぱり私の方が強い」
柱から身体を出したネメは、ホールの床にある銃を拾って衣服に固定しなおしていた。
「ピンを抜かなかったとはいえ手榴弾投げるのは流石に嫌らしすぎないか?」
言いながら俺もソファの影から身体を出し、床周りに付けられた銃痕を何とも言えない気持ちで眺める。
何とも、自分達こそがこの世界の破壊者なのではと思ってしまいそうな展開が続く。
「んーふふ、手榴弾は手榴弾でもあれはただの発煙弾なの。
あの子、焦って逃げたでしょ? そりゃ手榴弾が投げ込まれりゃ焦って逃げるのは正解。
でもほら、キュートな緑のこの子を一目見て猛ダッシュは、ね?」
ネメの後、もとい逃げ出した少女の後をゆっくりと追いながら、ネメは緑色というよりかはベージュに近い発煙弾を拾う。
「そうだ、これはタナくんにあげよう。
間違えて使っても私にゃハイパーなマスクがあるし、キミはこういう搦手が好きそうだ。
ポッケに入れとくと良いよ」
そう言ってネメは俺の左ポケットにグイっと発煙弾をねじ込む。
こういう所は友人というより姉というより母のような感じがして少し笑った、尤もピンが外れないかの心配の方が百倍勝っていたが。
少女が逃げた場所は所謂廊下、俺達が階段を降りる前に少し歩いた風景と変わり無いあたり、このホテルはホールを中心に左右対称のようになっているのだろう。
だがそうなると挟み撃ちもあり得る、そもそもどうして俺達を敵とみなすのかも分かっていない。
とはいえこういう状況では知らない存在は全て敵だと思うべきなのは間違いないのだが、そう思いながら俺は扉の前を通る度に身構えつつ歩いていた。
「お話しませんかー! こちら最強一人と雑魚一人ですー!」
より話が盛られていくネメの自画自賛と俺への軽い罵倒に溜息を付きながら廊下を歩いていると、少し遠くの客室の扉がバンッという音と共に開かれた。
「うるせえな……、それになんだ、うちの嬢ちゃんが怯えてんだ。
お前ら何してんだ? 今更になって、まともなヤツがいてたまるかよ」
扉が邪魔で姿は見えないが、しゃがれた男の声が廊下に響く。
「でも、一応まともなんだ。
話は出来ない?」
腰の銃に手を添えながら、ネメが少し緊張した面持ちで男の声に応える。
「あー……、アンタとは駄目だ。
そっちの、間抜けだけ来い」
その声にネメは「やっちゃったー」と小さな声で呟いた後「ごめんね?」と言わんばかりにこちらを見る。
「分かった、だけど私の相棒に痛い目を見せるのは、やめてね。
こっちはまだ一発足りともそっちに危害を加えて無い。
その理由をまともに受け取ってくれると、やり合いにはならないだろうから、嬉しいな」
あくまでブラフなのだろう、状況がどうあれ、物語の生存者をむざむざ殺すわけにはいかない。
ただその言葉は、俺を守る上でとてもありがたい言葉なのは間違い無かった。
ネメは冷ややかな声と殺意を男に向けると、男は軽く笑いながらドアの横からネメが扱う銃よりも大型の、所謂自動小銃と呼ばれるような物をこちらの床へと滑らせた。
「これでいいか? それとも、発煙弾も投げるか?」
その言葉にネメは少し苛立ちを覚えたようで、何かを言いそうになっていたが、それを飲みこんで俺に視線で前へ進むのを促した。
「カーク、万が一の時は頼むぞ」
「まあ、出来る事があればな」
歩きながらカークとやり取りを交わす、出来る事があるかは確かに分からないが、最悪の事態は想定するに越したことはない。
そして俺が男が床に滑らせた自動小銃の横を通った辺りで、ネメが「あと!」と大きな声を出す。
その声の大きさにドアの向こうの男も思わず身構えたようで、ドア近くまで来ていた俺は銃を取り出す音を聞いた。
だが、その音を聞いて尚何もしようとしなかった俺に、ネメの言葉は優しく突き刺さった。
「彼は間抜けなんかじゃない。戦いを、知らないだけ」
その声に、目の前のドアから溜息が聞こえる。
「あぁ、面倒くせえな。
もういいや、姉ちゃんも来な。俺の銃拾って来てくれ」
俺がネメの方を振り返ると、彼女は右手をヒラヒラと振りながら、その手で自動小銃を拾ってこちらに駆け寄った。
二人で開いたドアの向こうを見ると、少し猫背で明るく茶色い髪を後ろで一本に結んだ男の背中が見えた。
その向こうには、金色の髪をした少女が不安そうな目でこちらを見ている。
「私がネメ、彼はタナト。
それで、これね」
ネメがそう言うと猫背の男はこちらを振り向き、ネメが持った自動小銃をまるで握手をするかのように受け取る。
「俺がジョン、アイツがジェーンだ。
まさか言い合いが出来るような人間がまだ残ってたなんてな」
「見た目から血も繋がってないだろうに、性が二人ともドゥなんて不思議ね」
「あ? 俺、今そこまで言ってたか? まぁ、どうでもいいか」
その言葉に一瞬ネメは顔を曇らせる
最初は俺も偽名を使われたのかと思った。
きっとネメもそう思ったのだろう
『ジョン・ドゥ』に『ジェーン・ドゥ』
身元不明遺体に名付けられる名前であるそれらを使ったジョンにネメは嫌味を言ったようだが、ジョンは言い合いが出来るような人間なんて言いながらそれを何とも思わない風に流していた。
それも『ドゥ』という本来は存在しない架空の名字すら受け入れているように見える。
その違和感の理由は、少しだけ血なまぐさく、倉庫のような、物に溢れた彼らの部屋で分かるのかもしれない。
俺とネメは少しだけ顔を見合わせてから、片手に自動拳銃を持ったジョンの後を追った。




