第三筆『物語を終わらせる手伝い、してくれませんか?』
その巨大な図書館に一歩足を踏み入れてみてすぐに伝わるのは芳醇と言ってもおかしくないくらいの、本の匂い、匂いというよりも香りというべきかもしれない。
その巨大な空間にはただ圧倒されるだったし、正確な大きさは少しも分からなかった、吹き抜けた天井の高さを仰いでも何階建てなのか検討もつかない。
ともかく、この空間が豪勢な場所だという事はそれだけで分かるくらいだった。
嗅ぎ慣れた本とは少し違うその香りはまるで焼き立てのパンのように香ばしく、床に敷き詰められた柔らかいカーペットの感触は心地良い。、この図書館には驚愕こそすれ、嫌悪感の一つも抱きようが無かった。
「……でかいな」
俺はその香りを咀嚼するかのように大きく息を吸い込み、吐き出すと同時に単純な感想を漏らした。
独り言のつもりだったが、どうやらリアは自分に語りかけられたと思ったようで、それでいて初対面で未だ数言しか交わしてはいないものの、敬語で話していた俺の口調の変化に目ざとく反応した。
「でかい! ですよね! センセの本もありますよ!」
はしゃぎながら言葉を弾ます彼女の顔を見て一つの疑問が浮かぶ。
俺の本……とは何だろう。
もしかすると彼女は俺を誰かと勘違いしているのではないだろうかと思った。
けれど、彼女は俺のペンネームを呼んでいた。
同じペンネームが何処にも無いとは言い切れないが、そうそう被るものでもない。
疑問は募るばかりだったが、少なくとも間違いないのは、俺の物語が本として世に出たことなどは無い。
「文章を書き続けてはいたけれど、俺の話が本になった事は一度も……」
"無いよ"と言おうか"無いぞ"と言おうか"無いですよ"と言おうか、個人的には初対面特有の区長選びに迷って口ごもると、彼女は俺のそんな矮小な葛藤も露知らず笑って遠くを指差した。
「此処から、しばらく北北西に進路を取ります。
数分歩けば地球で書かれた物語をまとめた場所に着きます、そこからもうすこーし歩けばセンセがいた国で書かれた物語をまとめた場所に着きます、そこから……とにかくせんせーが書いた物語も全部あるんですよ! 此処には、あらゆる物語が保管されているんですから!」
その言葉に頭をひねっていると「とにかく行きましょう! 出発です!」
彼女はまるで出発進行かと言わんばかりにその指を左斜め前へと向けた。
「北北西だなんて、まるで古いサスペンス映画みたいだな」
「ふふふ、センセもイケる口ですか? 私は地球オタクなので!」
彼女の言う古いサスペンス映画のタイトルで見たような方角について聞いてみると、素っ頓狂な返事が返ってきた。
地球オタクとは……、星が好きなわけでは無いだろうし、この場合は地球の文化そのものってところだろうか。
それにしたってあの映画を見るのは地球オタクの映画ファンと呼んでもよさそうなものだ。
「ちょっと遠いので、色々見ながら歩いて行きましょっか。
ガランとしてるのはお気にせずに、皆さん今はお仕事中なんで」
どれ程の糸を紡いだのだろうと思う程に敷き詰められた絨毯の上を歩きながら、彼女は鼻歌でも歌うように北北西へと進む。俺は時折周りをチラチラと眺めながらその横を付いていった。
物珍しそうに本棚を眺める俺の視線に気付いたのか、彼はある本棚の前で立ち止まり、一冊の本を手に取る。
「さっき、此処――この世界は魂の中継地点って言いましたよね。
何処かで亡くなった人達の次の行き先は、この物語達の中の一つなんです」
彼女の手に隠れてその本のタイトルは読めなかったが、彼女は愛おしそうにその本の表紙を指でなぞった。
「私は、この物語の出身でした。
決して幸せだとは言えませんでしたが、でも決して悪くない世界でしたよ」
そう言う彼女の表情には一瞬憂いが見て取れたが、パラリと本を開いた彼女の顔には少しだけ笑みが見えた。
「あんまり見ないようにはしてるんだけど……、良かった。
まだ何とかなっているみたい、処分されることは、まだ無いかなあ……」
「処分って……、物騒な話だな」
映画の下りの時も口調に悩みつつ話していたが、そろそろ考えるのにも面倒になり思い切ってよそ行きの口調をやめる事を決意する。けれど俺の懸念は何処へやら、彼女は当たり前に話を続けた。
「中途半端な物語は、そのうち処分されてしまうんです。
この図書館の本棚も多いようで限界がありますからね、人が生まれ変われない物語や世界の終末が訪れた物語は処分されていくんです。
私がいた物語も、変な所で止まったままなので、少し危ないんですけど……」
「変な所で止まるって言うと?」
聞くと彼女は苦笑する。
「私がいた物語の世界は、戦争が絶えない世界です。
尤も軍事兵器なんてご立派な物は無く、人同士の剣のぶつかり合い、弓矢の放ちあい。
幾つかの国が手を組んだり、裏切ったり、そんなお話です。
主人公はとある国の王女。
その王女が、巨悪を打ち倒すまでのよくある話……」
そこまで言うと彼女は本をパタンと閉じて、本棚の元の場所に丁寧に戻した。
背表紙をスッと撫でてこちらを振り向いた彼女の姿に隠れて、やはりタイトルは見えなかった
「そう、そういうよくある話になるはずだったんですよ」
彼女はそれ以上何も語らなかったが、この図書館の本達については何となく理解出来ていた。
この寄り道にも、きっと彼女なりの意味があったのだろう。
目的地に向かうついでのただの寄り道だったとは思えない、それは彼女が見せた憂いの表情からも見て取れた。
「何か不都合でもあったのか?」
彼女は元々歩いていた方角へまた歩き出しながら、俺の質問に背中越しに答える。
「その物語の筆者が、筆を折ったんです。
だから物語はもう進まない、主人公も目的を遂げられないままにあの世界では戦争が続いています。
それでも生まれた物語は心を持っている、生きている。
勿論そんな事は私も此処に来てから初めて知ったことですけど、あの世界の人達は今も続きが書かれなければ現状が変わらない事に気づかないまま、戦乱の日々を送っています」
耳を疑うような話だ。
けれど分からない話では無い。
作家には『キャラクターが勝手に動き出す』という言葉が語り継がれていた。
もし、それが本当で、世界そのものが勝手に動き出していたなら、作者の手を離れて尚世界が動いていたなら、それはすごく切ない。
「けれど、良い物語だっていっぱいあります。
それに、せんせーが作った物語の世界は、処分される事のない幸せな世界ですよ」
その理論で言うなら、確かにそうだ。
俺は書き始めた物語は、どんな出来であれ必ず結末まで書ききっている。
人気が無かろうが、貶されようが、読者がいなかろうが、筆を折る事は無かった。
「でも、つまらない話だったろ?」
そう言うと、彼女は何とも言えない顔をしてから、首を横に振った。
「でも、せんせーは楽しく書いていたでしょ? 筆者の感情は物語に宿るんですよ。
せんせの世界で生まれた人だって、少なくないんですから」
何処かの誰かが、俺の作り出した物語の中で新たな生として祝福される。
実感は湧かなかったが、少しだけ胸のあたりがむず痒い気がした。
それ以上にリアが俺の物語に目を通していたという事の驚きで胸が高鳴った。
「せんせの話、私は好きでしたよ。
死んでなきゃ、芽が出たかもって、それは褒め過ぎか……」
「それは褒め過ぎだ……」
俺が自嘲気味に言うと彼女はククッと楽しそうに笑って、立ち止まってこちらを見た。
「でもね、だから私は"せんせーを選んだ"んですよ」
いつの間にか、俺達は目的地に着いたようだ。
彼女はその容姿に似つかわしくない、けれど可愛らしいと思える意地悪そうな顔で笑う。
「書きながら死ぬ人、初めて見たんです。
死因は自業自得ですけど、命を削りながら書いてるのが、目に留まったんです
最初は面白半分だったんですけどね」
言いながら彼女は本棚から一冊の本を手に取り、こちらに差し出した。
表紙には『常ノ魔』とある。
タイトルから察するにダークファンタジーの類だろうか。
パラパラと頁をめくると、途中から真っ白になっていた。
つまりこれが、いつか処分されるであろう中途半端なままの物語だ。
リアの目を見ると、何処か緊張した面持ちで、じっと俺の目を見つめている。
それを見て、俺は少しだけ言いたい事が分かったような気がした。
そして彼女は、一度口をキュッと結んでから、その口を開いた。
「タナト先生、物語を終わらせる手伝い、してくれませんか?」
その言葉から感じるのは、不安や惑いといった前に進む事に結びついている感情だ。
目を固く結んだその表情から感じるのは、緊張と恐怖のような、勇気と結びついている感情だ。
だからこそ、俺は彼女がその目を開く前に答えを出していた。
「ああ、やろう」
書きながら死んだ俺が転生した先で物語を綴るのは、幸せだろうか不幸せだろうか。
沢山の本の香りに後押しされたのかもしれない、何が待っているのかも分からないのにそれでも、俺の心は彼女のその頼みに少しだけ心を踊らせていた。
俺の言葉にパッと目を開けて未だ緊張した顔をしているリアの顔を見ると、少しだけ目じりに光るのもが見えたような気がする、深く息を吐いているリアに俺は成るべく優しい口調を心がける。
「まずは、方法から頼むよ」
リアは今しがた深く吐いたばかりの吐息をそのまま思い切り吸い込むようにハッと息を吸い込んだ後、少し感極まったようにこちらを見る。その笑顔を見る限りでは、目じりの涙は俺の気のせいだったかもしれない。
「そう来なくっちゃ! じゃあ向こうでお話しましょ!」
彼女は近くにあった階段の方へトトト、と歩いていく。
「その前に、これ」
俺はリアを呼び止めて『常ノ魔』を手渡す。
それを受け取った時の彼女の表情を、俺はきっと生涯――何度死んでも忘れることは無いだろう。
俺の手に握られた本の向こうに、彼女の手があった。
まるで"本と本で心が繋がった"なんて考えるには些か古いロマンチストのようだったが、その彼女の笑顔を見れば、そう思いたくもなる。
彼女の表情は、久しく忘れていた『希望』みたいな言葉が脳裏をよぎるような、そんな笑顔だった。
本を彼女に渡して二人で歩き始めてからも、彼女の少し斜め後ろを歩く俺から見えるリアの横顔は明るい。
少し子供っぽくも見えるキラキラした彼女の表情が、俺が物語を書いている時に想像――妄想していた、何処かにいるかもしれない読者に求めていた笑顔と妙に重なって、心臓がチクりともドキリとも分からないような不思議な跳ね方をした。
「ほんとーにいいんですよね? 手伝ってくれるんですよね?」
俺は一度死んだのだ。そして、それでもまだ世界は続いている。
なら、どんなことに飛び込んで見るのも良い。
俺は誰も知らず、何も知らず、でもどうやら一人の少女は俺を知っている。
その少女が俺を頼ったのだ、悪くない。
「ああ、俺に出来る事ならやってみよう」
大言壮語は叶った試しがない。
俺が世界を救うんだ、誰かを救うんだ、そんな人間にはなれなかった。
でもお願いされたなら、話は別だ。
こんな俺でも、誰かを救う物語が書けなくても、彼女が俺から受け取った一冊の本を抱えて、ステップを踏むように階段を登る彼女の願いを聞いて、叶えてあげることが出来たらいいじゃないか。
金色の長い髪を靡かせ、真っ白なスカートを揺らすリアの後ろ姿は、まるで天使か何かのようだと思いながら眺めていた。
思わず背中に羽根が無いかと探してしまったくらいだ、まだ少しだけロマンチストな気分が抜けていないのかもしれない。
けれど、此処が『神様の図書館』だというのなら、彼女が天使かもしれないなんて想像も、あながち間違っていないのかもしれないと思い、彼女に気付かれないよう俺は一人小さく笑った。




