第二筆『神様の図書館へ、ようこそ!』
彼女と俺の声は重なっていたものの、彼女の声が俺に聞こえたように彼女にも俺の声が聞こえたようで、少しだけ高い声の「あ」という声が彼女から聞こえた。
俺は狸寝入りというのもおかしい話だと思いはっきりと目を開ける。
光が眩しく感じたが、それは単純に長く目を瞑っていたからだろうと思った。
「もー、気付いてるんじゃないですかぁ……、だったら起きてくださいよぅ」
少しむくれた声に俺は起き上がり辺りを見回す。
光に目が慣れた視線の先には蛍光灯こそ無いものの、自分がまだ人らしく生活していた頃に浴びていたごく普通の生活の明るさがあった。
起き上がろうとした時に触れた床はやけに冷たく、ツルツルとしていて触り心地が良かった。
「俺は、死にましたか」
俺は自嘲気味にあえて敬語でそう言いながら、俺に声をかけていた女性を見て思わず息を呑んだ。
肩ほど迄の髪の透き通るような金色が、部屋の光よりも眩しく感じる。
温和そうで綺麗な顔立ち、纏うその白い服に負けず劣らずの白い肌に長い睫毛、だがその目はほんの少し意地悪そうに笑っていた。
美人の視線を受け続ける訓練、もとい女性慣れをしていないとは言わないが、どうにも緊張して俺は目を逸らす。
俺の仕草が面白かったのか、彼女の口から嘲笑とは違う笑みが溢れる。
「どう思います?」
「いくらなんでも、床に寝させる病院がある国の出身じゃないしな……」
言いながら彼女の顔を見ると、彼女はニカっと笑って、至って普通の事のように、俺に死亡通告をした。
「ん、死にました!」
その後に「お疲れ様です!」と言いたしてもおかしくないくらいの気軽さと気安さに頬をつねりたくなる。
だがさっき自分で言った通りここが病院であれば、という仮定はそもそも俺が冷たい床の上で寝転がっていた事でとうに消え失せていた。
もしもこれが夢であれば、という仮定もまた五感で感じるこの空間の存在のお陰でそろそろ消えそうになっていた。
そもそも此処で目覚める前の俺の最後の記憶は酩酊からの昏倒だ。
それでいて「死にましたか?」「死にました」なんて問答が通用するのなんて、フィクションの中だけだろう。
「そりゃまぁ、死ぬよなぁ」
そう答えながらも、まず俺が感じたのは安堵だった。
「でもそう、そうか……」
一人でゴチていく。
死後の世界について考える事は良くあった。
きっとそれは俺だけではなく多くの人が考えてきた事だろう、永遠の命を欲する魔王だって少し前のファンタジーには出ずっぱりだ。
死の先は無であるだとか、新しい生命に生まれ変わるだとか、そんな事を日々考える余裕のある人間がどれだけいるかは別として、俺はそんな事を余裕が無い癖に考えて日々眠れない人間だった。
死後の世界、その答えは死ななければたどり着けない。
つまりは俺が今目を覚ましたこの世から見たあの世の人達――俺の身体がそこにあるかどうかは知らないが、そのうち冷たくなって見つかるかもしれない世界の人達は未だ誰も到達出来ていない。
だからこそ、死んだのだろうと思って目を覚ました俺に意識がある事に、まず俺はほっとしたのだ。
――死恐怖症という病は死ぬ事によって完治するのだ。
それを全人類に叫びたくなる程に、少し浮かれている自分がいた。
「あぁ、死んでも、良かったんだな」
「良かないですよ! 普通は事務作業的に次の世界を選んで記憶飛ばしてポーイからのオギャーなんですからね!」
俺の呟きに金髪美女からの突っ込みが入る、少し興奮気味というか、軽い怒気を帯びた彼女は思ったよりもちゃらんぽらんな言葉を使っていて少し面白かった。
だが、その後に見せた曇った表情が俺からその感情を追いやる。
「あんなの、死にますよ。そりゃ死にます。
遅かれ早かれだったと思います」
どうも彼女は俺の生活についての何かしらを知っていたらしい。
俺は少しずつ自分の温度で冷たさを感じなくなってきた床の感触を改めて手で確かめながら、まるで自分の事かのように悲しそうな表情をする彼女を見上げる。
すると彼女は、パッと笑顔を取り繕うようにして、声のトーンを一段階上げた。
「えっとですね! 此処はせんせーがいた所を作っている場所なんです」
俺を"先生"と呼ぶということは、俺が死んだ場面を見ただけというわけでもなさそうだ
俺は状況が飲めないまま首をかしげ話を聞く。
どうあれ、彼女が今まで見た誰よりも美人なのが幸福だった。
初恋が吹いて消し飛びそうだ。
この人になら騙されてもいいかと思いながら、その目を見つめる。
「作るって、俺のいた場所? 日本を?」
世界を?地球を?と続けたいところだったが、彼女がクスっと笑ったのを見て俺は口ごもる。
それを見て彼女はやや慌てたように早口で説明を始める。
「ああーっとごめんなさい! 私、せんせに会えたのが嬉しいというかなんというか。
あーーーーじゃなくて! ええっとですね!」
その容姿を見た時に最初に浮かんだ言葉は"清楚"だったのだが、どうも感情が高ぶるとブレるタイプらしい、話がとっ散らかるのはやはり少しだけ面白かった。
ワタワタとしている彼女を横目に立ち上がると目線の上下が逆転した、とはいえ彼女の背丈は思ったよりも高い。
高身長に届きそうで、届いていると言いたい俺よりも少し小さいくらいだった。
落ち着いたらしい金髪の後頭部が話を始める、美髪の象徴であるところの天使の輪が煌めいて見えた。尤も本当の天使の輪が浮いていてもおかしくないような気もするが。
「えっと、此処はですね。中継地点なんです。世界と世界の。
そして、せんせがいた地球という世界は、神様がずうっと昔から書いているお話……とは言っても設定を練り上げてからは自由軌道に乗っちゃってますけれど……」
彼女が少し早口なのもあったが、言葉自体は分かっても組み合わせに突拍子が無さ過ぎて飲み込むにも飲み込めない。
俺が何とも怪訝そうな顔で彼女の顔を見ているのに気がついたのか、より慌てて言葉を付け足す。
「えーっと、うーんと。
言葉にすると難しいな……、何か丁度良いガジェットでもあれば……」
彼女は俺をそっちのけで後ろを振り返る。
けれど、そのあたりでやっと俺も頭が冴えてきた。
「名前を」
俺が一言だけ言うと、彼女の後ろ姿がピクッと小さく跳ねて、それから彼女はパパっとこちらを振り返って目をパチクリさせた。
この場所も、彼女の言う事もよく分からない怪しいのは間違い無い、異常事態なのも間違い無い。
間違い無いが、きっと人同士が初めて顔を合わせたなら、まずはそこからだ。
きっと、彼女は俺の事は知っているだろう、それに俺の知らない事が沢山あるのだろう。
けれどそれ以上に、まずはソレを知らないと始まらない。
現実も、物語だって、名前が無ければ始まらないのだ。
「キミと呼ぶのもなんだかむず痒いし、お前と呼ぶのも違う。
だから名前を、教えて欲しい」
あまり目を合わせるのは得意では無かったが、彼女の目をしっかりと見据えてそう言うと、彼女は少しはにかんでから凛とした声で言葉を返した。
「リア……。私はリア・ミューゼスです。
改めて、というか言い忘れてましたね、ごめんなさい。
はじめまして、タナト先生」
彼女――リアは少し落ち着いたのか、俺に握手を求めて来た。
俺は眼前に見える白い掌に一瞬たじろぎはしたものの、伸ばされた手を軽く握る。
そして彼女が俺の本当の名前ではなく、物語を書いていた頃のペンネームで呼んだ事をぼんやりと考えていた。
いつのまにか妙に見つめ合っていた事に気付き、俺は手を握りながら、というよりも握りしめられながらも思わず目を逸らす。
すると握られたままの手がクッと少し強めに握られてから、俺の右手は解放された。
この一連の触れ合いに少しドギマギしてしまった俺とは対照的に、彼女はあっけらかんとしているのが少し悔しい。
ともあれ、部屋をぐるりと見回すと、それは書斎のような部屋だった。
実際にその上を歩いた事があったか無かったか、とにかく何かしらの良い石で出来ているらしい床を含め、この部屋には木製の物があまり無いように見えた。
白を基調として高級そうな雰囲気のその部屋は物が少なく、部屋奥にある大きな机と座り心地の良さそうなソファ以外はあまり生活用品のような物が見当たらなかった。
タンスすら見当たらない、だがソファの上に畳まれた毛布と枕が置いてあるあたり生活感だけは感じる。
机の上も特に妙な物は見当たらず、綺麗に整頓されている。
窓は無いが、ドアが一つ、それにどうやらドアで仕切られてはいないが左右にも部屋があるようだ。
ご丁寧にスリッパまで置いてあるのが見えた。
本当に此処が俺の生きていた世界と別の世界なのかと疑いたくなる程、見慣れた道具の数々に、一瞬自分の状況がこんがらがり、未だ信じきれていない生死の定義を見失いそうになる。
そんな俺の悪寒をかき消すようにリアの声が耳に届いた。
「何にせよ、色々と実物を見て話した方が分かりやすいですよね。
とりあえず、図書館へ行きましょっか」
彼女は手を後ろで組みながらトン、トンとステップを踏むように部屋に一つだけのドアの方へ進む。
「ほら、とっておきを見せてあげますから、ついてきてください。センセ」
サラサラと金色の髪を揺らしながら、彼女はドアノブに手をかける。
「二級司書リア・ミューゼスが告ぐ」
大きな何か、蝶番が外れるような、ガチリとした音が、部屋の中で数回鳴り響く。
「八百三十歩先を、私は知っている」
部屋が小さく揺れ、機械音が小さく聞こえた。
部屋が、動いている。というよりもまるで揺らいでいるというような感覚、地震程では無いが少し不安定な揺れを感じた。
「その場所を、私は求めている」
そして俺は此処にきてやっと気付くのだ。
――この揺れと音が、もはやこの場所が別世界であることの証明では無いか。
「その場所が、私を求めている」
そして彼女が唱えるのは、御伽噺の合言葉。
「オープン……セサミ!」
いわゆる"開けゴマ!"の格好良い版の言葉を言いながらリアはドアノブを回す。
元々のドアの向こうが何処だったかだとか、本当に部屋が動いたのかなんて事は、ドアが開かれる瞬間に見えた形容しがたい明るい色の光の集合を見た後ではもう些細な事だった。
「神様の図書館へ、ようこそ!」
リアは少し自慢げに笑いながら、ドアの向こうへと踏み出す。
彼女が開けたドアの向こうに広がっているのは、見渡す限りの本棚に包まれた、この世もあの世もひっくるめて、全ての本を集めてもまだ余裕があるのではないだろうかと思う程の、巨大な図書館だった。