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びっくりするほどあっさりと、月光は敗北した。
ロレッタの強さがおかしい。
だが、思えばロレッタは、月光の知る宿屋メンバーの中ではもっとも長く(もちろん従業員は除くが)アレクの修行を受けているのだ。
アレクの修行は手法がおかしいが、そのぶん高い効果をほこる。
また、『キャップを外す』とかいう他の修行者がいたったことのない段階にいたりつつあるロレッタが、弱いわけがなかったのである。
というわけで、月光はロレッタにかつがれて宿に戻っていた。
しかしまだあきらめない。
月光はアレクに治療されて客間のベッドに放り込まれていたが……
急ぎ跳ね起きて、食堂にいるアレク・ロレッタと合流することとした。
幸いなことにロレッタはカウンターで食事をとっている最中で、まだ宿屋を発っていなかったようだが……
すでに修行の内容説明の最中のようで、
「――というわけで、DEXを上げるのがメインの目的なのですが、『キャップ』は平均的にすべてのステータスを上げようとしないと外れないので、基本をひととおりおさらいということになります」
というアレクの声が聞こえた。
ロレッタはラーメンをすすりながら「ふむ」とか言っている。
月光は走ってカウンターテーブルの上に飛び乗り、ロレッタへと叫んだ。
「『ふむ』ではないわ!」
「月光さん、目覚めたのか。先ほどはやりすぎてしまったなと反省していたところだ」
「それはよい! そうではなく、『ふむ』ではない! ロレッタ、貴様、説明を受けておいてなんじゃそのリアクションは!? 『アレクの修行の基本をおさらい』『厳しめに』って、それはもう精神破壊案件じゃろうが!」
「月光さんは相変わらず私が修行を受けることには反対なのだな……しかし、『厳しめに基本をおさらいする』というのは、そこまでかたくなに反対するほどのことではないと思うのだが……私は、こう見えても、アレクさんの放つ数々の修行をくぐり抜けてきているのです。ご心配にはおよびませんよ」
「思い出せロレッタ……初めて崖から飛び降りる時、貴様は『おかしい』と思ったじゃろう? その時のまともな貴様は、どこに消えてしまったんじゃ……」
「その当時は、修行の効果について懐疑的だったからで……」
「そうではなかったはずじゃ。『効果があっても、おかしいものは、おかしい』――そう思っていた時代が、貴様にも、あったじゃろう? 『効果がある』から『正しい』のではない。『効果がある』。でも、『おかしい』――そういうことも、あるんじゃ」
「……たしかに、そうかもしれない……」
ロレッタが額に手を当てて、よろめき始める。
「……そうだ……そうだった……『効果がある』ことと、『おかしい』ことは、矛盾しない……でも、私はいつの間にか、『効果がある』から『正しい』に違いないと……い、いや、そもそも、『修行で死ぬ』とはなんだ……? それは、その……なんだ!?」
ロレッタが正気を取り戻しつつあった。
あと一押し――月光は次なる言葉を探す。
けれど、月光より早く口を挟む者があった。
「ロレッタさん、一つ間違えていますよ」
アレクだ。
そいつは、いつもの笑んでいるような、目を細めた表情で、淡々と語る。
「修行で死にます。けれど、あなたは死んでいない。こうして生きている」
「は? いや、まあ、うむ……そうかもしれない」
「ええ。人は死ぬ――これは悲しいことです。不可逆のことです。けれど、あなたは生きている。……それは修行の過程で命を落とすこともあるでしょう。でも、そのためにセーブをしているのですよ」
「……うむ、うむ。そうだな」
再洗脳が始まった。
月光は――まだロレッタに言うべき言葉を見つけられてはいないが――慌てて口を挟む。
「それは違うぞロレッタ! アレクの言うことは間違っておる……! ロジックとしては正しく聞こえるかもしれんが、人として間違っておるんじゃ!」
「……人として……人とは……あ、アレクさんとは……人……?」
「目を覚ませロレッタ! アレクは人の姿をしていよう……しかし、その中身はおおよそ、人とは呼べぬなにかじゃ!」
ロレッタが目をぐるぐるさせて、頭を抱え始める。
アレクが口を開く。
「母さん、それはあんまりな言いぐさだ。俺は人ですよ。間違いなくね」
「貴様と『人』の定義について語り合う気はない! わらわは……わらわは、ロレッタに思い出してほしいだけじゃ。『風呂作り覚えたいなー。死ぬかー』というのは、あきらかにおかしい……そう感じていた時代の感性を、取り戻してほしいだけじゃ。なあ、ロレッタ!」
「人が人らしく生きるとはなんでしょう? それは、『己のしたいことをする』ではないかと、俺は思います。ところが金銭や命の危機などに阻まれて、このわがままを通せる人は多くない……しかし、俺の能力ならば、命というリソースを消費可能なものにできます。ならば、消費するべきでしょう。成したいことを命懸けでもする。そこから絶命のリスクを取り払える。俺の修行は効果的であり、なかなかのサービスだと自負しておりますよ」
ロレッタがガタガタと震え始めた。
――戦っているのだ。
洗脳され、あられもない精神構造に改造されてしまった『現在のロレッタ』と――
かつて、たしかにあった……『まともだったころのロレッタ』が、戦っているのだ。
その心中での争いは、もはや余人が介入することはかなわない。
アレクも月光も、ロレッタの様子を黙って見守る。
彼女は、小さな声で、なにかを言っていた。
「立派な、貴族に……私は、母のような貴族に……そのために、お風呂……いや、お風呂は、なんだ……? お風呂とは……? それは本当に貴族に必要なものなのか……? 違う、違うんだ。貴族にお風呂が必要だから、お風呂なのではない……私が本当に必要だと感じているものは、お風呂ではなく、その過程……一度目指したものをあきらめない、困難を前にしてもくじけない心の強さではないのか……ああ、でも、でも……」
ロレッタは両手で顔を覆って、
「――ほんとうは、いたいのも、こわいのも、いやなんだ」
それは無垢な声音だった。
大人びた容姿のロレッタからは想像もつかないような、まるで、幼子のような声――
……きっと、まともだったころのロレッタの声だ。
貴族の家に生まれ、愛されて育ち、家督を継いで、立派な――母のように立派な貴族になるのだと、そういう誓いを抱いたころの、ロレッタの声、なのだろう。
彼女の人生には色々なことがありすぎた。
幸福に生きてよかったはずの彼女の人生は、人の欲望によってゆがまされてしまったけれど――
全部、解決した。
だからもう、彼女は幸せになっていい。
痛いことも恐いこともいらない。
苦しみはもう、十二分に味わったはずだ。
少しだけ――ほんの少しだけ、ただ、『風呂は普通にお金で施工すればいい』と気付くだけで、彼女は幸福になれる。
「げ、月光さん……!」
ロレッタは泣きそうなのをこらえるような声で、言う。
月光は慈母のようにほほえみ、応じる。
「どうした? ロレッタよ……」
「わ、私は……私は……そうだ、修行が恐くて、つらくって……! だから、『おかしなことじゃない』と思いこもうとしていたんだッ……!」
「……そうじゃな。つらいことは、『普通だ』と思いこんでしまうのが、一番いい……貴様が己を誤魔化したこと、誰も責めぬ」
「でも、やっぱり、アレクさんの修行は、だいぶ、おかしい……!」
「そうじゃな」
「何度も思った! 『私はいったいなにをさせられているんだろう』って! なぜ、崖から飛び降りるのか? なぜ、死ぬほど豆を食べなければいけないのか? なぜ、なぜ、あんな……あんな……!」
「もうよい……もうよいんじゃ。貴様は救われていい。オルブライトの者よ。貴様らは己をいじめすぎるところがある……」
「ほんとうに、こわくて、いたくて、つらくて……」
「わかる。わかるぞ……」
「だからこそ、逃げちゃいけないと、そう思うのだ……!」
「ロレッタ・オルブライト、ちょっといいか」
「うむ……」
「逃げろ!」
「し、しかし、私は貴族だ……!」
「だからなんじゃ!? 貴族が不退転など、どこの歴史書を紐解いてもそんな事実はないわ! というか『貴族』なんぞという身分ができたころから生きておるわらわが保証する! 『貴族だって逃げていい』!」
「苦しみから逃げても事態は好転しない……立ち向かう力と勇気のない者は、なにもつかめない! 私は、そう学んだ!」
「今回逃げずに挑んで得るものはなんじゃ!? 『風呂』ではないか! 金で設置せいよ! 貴族が自宅に風呂を作ったぐらいで責める者は誰もおらんわ!」
「誰かが責めるとか、たかが風呂とか、そういう話ではない……もはやこれは覚悟の問題なのだ……わかってください、月光さん。私は……私は、今、逃げたら、人生でなにか壁にぶつかるたびに、『あの時逃げたんだから、また逃げてもいい』と思うようになってしまう……それが、イヤなのです……」
処置なしって感じだ。
月光はカウンターテーブルの上でしゃがみこんで頭を抱える――ダメだロレッタは。もうどうしようもない。頑固とかそういうレベルでさえなく、なにこの……なに?
もう好きにやらせたらいいんじゃないか? ここまで言ってこの有様ならもう知らんし……
そう思いもしたが、月光はやっぱりまだ、ロレッタを見捨てられない気持ちでいた。
たぶん、呪われている。
月光という存在は――
不器用で、非効率的で、無駄なことに労力を割いて――
己の人生の少なくない時間を、むやみに浪費してしまう――
そういう人物を、放っておけないのだ。
なぜならば。
月光自身が、そうだから。
……そして、月光がかかわる、好きだった人たちが、そうだったから。
「……はあああ……もうイヤじゃあ……なんでわらわはいっつも、こうなんじゃ……ううっ……わらわとて、幸福になってよい……つらいことも、苦しいことも、痛いことも、もうせんでよいはずなのに……なぜじゃ……なぜなんじゃ……」
あまりにどうしようもなくて涙が出てきた。
どうしてこう……面倒くさい人格の者同士は惹かれ合うのだろう?
わからない。わからなくて胸が苦しい。
だってそうだろう、月光や月光とかかわるみんなは、生き様のうちなにか一つ妥協するだけで幸福になれるはずなのに、自らの意思で幸福ではない方向に行こうとする者ばかりなのだ。
幸せを切望しながら、楽に幸せを得るのは死んでもイヤときている。
不器用でもなく頑固でもない。
自虐的でもストイックでもない。
ただの、愚か者。
愚かだとわかりつつも生き様をまげられない者たち。
「……ロレッタ、わらわの提案がなんのなぐさめになるかわからんが……わらわも付き合う」
「……? つきあう? なにに?」
「貴様の…………うーん、その、えーと…………やめたい……やめたいが……! しゅ、修行! つきあう!」
「な、なぜだ!? 月光さん、あなたには、風呂作りをする理由がないはずだ!」
「理由がないっていうか、わらわは風呂作りできるんじゃが……もう、なんか、意地というか……うむ、そうじゃな。――わらわはな、ともに死んでもいいと思う者と、ともに死ねなかったことがある」
「……」
「じゃから、まあ、なんじゃ……貴様とともに、死んでみよう。そうすることで、慰められる想いもあろう。そういう感じじゃ」
「……なんだかよくわからないが……月光さん、私はあなたを、誤解していたかもしれない」
「……どのようにじゃ」
「あなたは、どこか人と深くかかわるのを恐れ、冷笑的に輪の外から他者を見ているような人に思えたが……」
「貴様、意外と分析しとるな……」
「……熱いものを胸に秘めた方だったのだな。初めてあなたが、『ともにアレクさんの修行を受けた仲間』というように思えた」
ああ、たしかにそうだ。
情熱は消え失せた。
この人生はあまりにも長すぎて、あまりにも、他者のためにささげすぎたから。
惰性で動く人形のようになっていたと――そう思っていた。
他者への関心は薄れた。
人類という種よりはるかに長い年月を生きる月光である。
友も恋人も、夫も息子も、そのすべては自分より早くに息絶える。
だから、他者と深いかかわりをもつことに、興味が失せてしまった――そう、思っていた。
でも、違った。
情熱はたしかに胸の中にあった――それを燃え上がらせることを、恐れていただけで。
他者への関心は、今もなお濃くある――失う悲しみに耐えきれないから、心を閉ざしていただけだった。
「……ともに生き、ともに死のう。我らこれより、一心同体の――『友』じゃ」
月光はロレッタを見る。
ロレッタも感極まったように、月光を見ていた。
その横で――
アレクが、「修行するだけなんですが……」と困惑したような声を出していた。