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ありがとう。(4)





その後、コンシェルジュは他のお客さまの応対にあたるため去っていき、俺は、そっとツリーを見上げた。


今、願いごとをするなら、あの彼女のことだろうか。

こんな、街全体が浮き立っている日にあんな沈んだ表情をしてるなんて、きっと、何か良くないことがあったはずだから。



”このキーホルダーが無事に彼女のもとに戻って、あの彼女に笑顔も戻りますように”



心の中でこっそりと、俺はツリーに願いをこめた。



そしてまるでそれを待っていたかのようなタイミングで、ホテル正面入り口に、キャメルのコートが戻ってきたのだった。



「あ、あのっ!」


今度こそは逃すまいと、俺は今日一番の大声で呼びかけた。

するとようやく彼女も俺に気付いてくれて、目と目が、はじめて交差した。


すすすす、と小走りで俺に駆け寄ってくる彼女は、少し息があがっているようにも見える。

よほど急いで落とし物を探していたのだろう。

正面から見ると、キャメルのコートの下には黒のタートルニットを着ているのが分かった。

胸元にはダイヤだろうか、小さなペンダントが上品に華やかさを添えている。

後ろ姿で感じた印象よりも、やや年上かもしれない。そう思った。


俺は彼女が目の前に来るのも待てずに、


「あの、これ、さっきホテルの前で落としませんでしたか?」


早口になりながらキーホルダーを差し出したのだった。



「―――っ!」


彼女は両目を大きく見開き、次の瞬間には、心の底からホッとしたように表情がほぐれた。

そして両手で俺からキーホルダーを受け取ると、深々と、本当に深々と頭を下げた。


「やっぱりあなたの落とし物だったんですね」


彼女は探していた物が見つかって気が高ぶっているのか、俺の声は耳に入ってないようだ。

体を起こすと、俺の質問には答えず、じっくりキーホルダーを見つめた。


「それ、人気がありますよね」


彼女が落ち着きそうなほどの小休止をとって、俺は再度、差し障りのない会話を投げてみる。

けれど、まだすぐには反応がなくて。

ややあってから、彼女はゆっくりと俺に顔を向けた。


そしてまた目が合うと、きゅっと、俺の心を鷲掴みにするような、それはそれは嬉しそうな笑顔を見せてくれたのだった。



それは、間違いなく、さっき俺がツリーに願った光景だった。

マスクで顔が隠されているというのに、彼女の満面の笑みが透けて見えるようで、俺は、彼女の落とし物を渡せたことに、まるで自分の探し物を見つけたかのような気持ちになっていた。


「大切なものだったんですね」


俺も負けじと笑顔を濃くする。

すると彼女はキーホルダーを片手に握りながら、静かに、けれど大きく、腕を動かしたのだった。


俺に、ちゃんと見えるように。

ちゃんと、伝わるように。



それ(・・)が何なのかは、知識がない俺でも、すぐに、わかった。



手話だ。

片手を胸の前に横向きに置き、その手の甲をもう片方の手で垂直になるように縦に叩き、額ほどの高さにまで素早く上げる―――――


その仕草は、ドラマか映画で見かけた記憶があった。



「ありがとうございます」


突然、俺でも彼女でもない声が飛び込んでくる。

パッと横向くと、まるでファッション誌から飛び出してきたような大人の女性が、俺達に微笑みかけていた。


「それは、手話で『ありがとうございます』という意味です」


「あ…」


そう教えられ、俺は思わず彼女に視線を戻したが、その彼女は俺ではなく大人の女性の方を見ていた。

そしてなにやら嬉しそうに話しかけはじめたのだ。

その指先で。


さっき俺に見せてくれたものとは比べ物にならないほどのスピードで、彼女のおしゃべりが目に見えた。

手のひらと指が重なると、意外に大きな音がする。

何と言ってるのかは分からないが、女性が手話で返事すると同時に声に出してくれるので、二人の会話の内容はなんとなく伝わってきた。


「そうでしたか、落とし物を……」


どうやら俺の話をしてるらしい。

二人の手話の速度には、なんだか ”信頼感” のようなものが見えるので、この二人は知り合いだったのだろう。


途中、俺の方を手のひらで指した彼女に、大人の女性は短い手話で返した。

それから、


「落とし物を届けてくださったこと、とても喜んでらっしゃいますよ」


俺に教えてくれくれた。


「あ、いえ…」


彼女は女性につられるようにして俺に顔を向けると、にっこりと目を細めた。


ただそれだけなのに、ビクリと、慣れない刺激が背中を駆け抜ける。


だが彼女はすぐに指先のおしゃべりに舞い戻ってしまった。



「……そうですよ。今日は夜勤の予定です。……実は今知人がここに宿泊しまして、彼と会ってたんです」


女性の返事に、彼女は明らかにテンションが高まったようだ。

その手の動きが大きくなったから。


すると女性は若干照れたように、こちらも早口で返した。


「それは……ご想像にお任せいたします」


プライベートに及ぶ内容は、二人の親しさが容易に想像できてしまう。

ただ、女性がずっと敬語を使ってるので、もしかしたらこのホテルのスタッフなのかもしれない。


そんな俺の想像は簡単に見抜かれてしまったのか、女性は会話の繋ぎ目に俺を迎えてくれた。


「失礼いたしました。私はこのホテルでコンシェルジュをしておりまして」


「ああ、そうでしたか……」


俺の予想は当たっていたようだ。

コンシェルジュということは、さっきの女性スタッフとも当然知り合いということだろう。

見ると、さっきのスタッフがこちらを気にしてる様子だった。


コンシェルジュという職業は手話までできないといけないんだなと、ひそかに感心している俺だったが、フロントデスクからこちらに向かってくる人物に気付き、何事かと身構えた。


すると、手話で彼女と会話していた女性もその人物を見つけたようで、パッと手話を止めてしまう。

そしてすぐに小さく頷くと、俺と彼女に対して、


「申し訳ありません。お話の途中ですが、私はそろそろ…」


言葉と手話でそう告げた。

それに対し彼女はまた素早く手を動かす。


「……ええ、確かにまだ夜勤の時間には早いのですが……」


「お仕事ですか?」


手話で返事していた女性に、俺が問いかけた。

女性は少しだけ困ったように眉を上げると、「そのようです」と、手話を添えて答えた。


時間外だが、何かトラブルがあってこの女性の手が必要なのかもしれない。

そう考えた俺は、迷うことなく言っていた。


「だったらどうぞ行ってください。俺も落とし物を渡せたので、もう帰りますから」


両手で女性を送り出すようなジェスチャーをしてみたが、手話とは程遠いものだった。

けれど女性が手話で俺の発言を彼女に通訳してくれたおかげで、彼女にはちゃんと伝わったようだ。

彼女は俺と女性を交互に見ながら、また指を、手を動かした。

俺は女性の通訳を待った。



「………何かお礼がしたい、そう仰ってます」


「え?お礼?」


「落とし物を届けてくださったお礼だそうです」


手話を交えて俺と会話する女性。

俺は彼女に向かい、直接手を振った。


「そんなのいいですよ」


だが彼女も同じように手を振って否定してきたのだ。

そしてその延長で手のひらで俺に話しかけてきた。


「……大切なものだったから、戻って来て、本当に嬉しい。だからぜひお礼させてください、だそうです。でもそれでしたら、あちらのラウンジで温かいお飲み物でもいかがですか?実は、仕事前に一息つこうとクーポンを持って来てたんです。残念ながら私はもう行かなくてはなりませんので、もしよろしければ、どうぞお二人でお使いください」


コンシェルジュの女性は俺達に通訳したあと、バッグから手帳を取り出し、そこにはさんでいたチケットのような紙を彼女に差し出した。


彼女は一瞬驚いた反応をしたものの、すぐに目で笑った。

そして差し出されたものを受け取ると、さっき俺に見せた ”ありがとう” の手話をした。


それを受け、女性コンシェルジュは片手の小指だけを立てて自分の顎にちょんちょんと二度ほど当てた。

言葉はなかったが、なんとなく、”どういたしまして” とか、そんな意味なんじゃないかなと思った。


やがて俺達二人に「それでは失礼いたします。素敵なクリスマスをお過ごしくださいませ」と告げ、女性は正面玄関から外に出ていった。

一度外に出て、従業員用の出入り口から入り直すのだろう。


女性の背中を見送りながらそんな推測していた俺だったが、内心は、通訳を失ってしまったことに焦りを覚えていた。

さっきはじめて会ったばかりの女の人と、しかも話し言葉を使えない状況で二人きりになるなんて、どうしたらいいのか……

でもそんな動揺を見せたら彼女は嫌な気持ちになったりするかもしれない……


忙しなく考えていると、彼女がスマホを手早く操作し、その画面をこちらに見せてきたのだった。



《 せっかくいただいたクーポンなので、お時間よろしければ、一緒にお茶でもいかがでしょうか? 》



そこに書かれた文章を読みながら、俺は、そうか、手話ができなくてもスマホを使えばいいのかと、そんなことにも思い至らなかった自分がちょっと情けなくなっていた。

そのせいで即答できない俺に、彼女は再びスマホに文章を打ち込んだ。



《 クリスマスなのに、私ひとりなんです。少しの間、付き合っていただけませんか? 》



その一文に、さっき見かけた、彼女の悲しそうな雰囲気が過った。

だから俺は、少しでも彼女の気分が浮上するように、笑顔で頷いたのだった。










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