ありがとう。(3)
探すとは言っても、俺にできることは、ツリーを眺めながら彼女がエントランスに戻ってくるのを待つことくらいだった。
あまりキョロキョロして周りに変に思われないよう、視界の端に彼女が入り込んでくることを願いながら。
クリスマス当日のホテルは小さな幸せの洪水だった。
賑やかで、楽しそうな笑顔があふれていて、キリスト教でもないしサンタクロースにお願いする歳でもない大人でも、やっぱり高揚感は抱いてしまう。
そんな風景の中で、さっきキーホルダーを落とした女の人の沈んだような雰囲気が、どうしても気になってしまう。
きっと、このキーホルダーは彼女にとって大切な物だろう。
なのにそれを落としたことに気付きもしないくらい、彼女は何かを憂いているのだろうか。
一目しか見かけていない相手だというのに、なぜだか俺は、無性に彼女のことが気になって仕方なかった。
ただ、
30分ほどが限度かな……
ツリーが良く見えるソファに腰かけ、そんなふうにも思っていた。
あまりに長居し過ぎると、ホテル側にも迷惑になってしまうかもしれない。
そのときは、元の場所に、あの女性が落とした場所に戻して帰ろう。
そう心に決めごとをして、期待と諦め半分ずつの気持ちで小さな幸せの光景の中に混ざることにした。
けれどその半分もしないうちに、キャメルのコートがエントランスに駆け込んできたのだ。
俺はとっさに目で追いかけるも、キャメルのコートは少しも勢いを弱めることなくエントランスを横切ると、まっすぐに俺の前を通過してしまう。
その姿をとらえたのは一瞬だったが、彼女に間違いない。
キャメルのコートと黒いリュックだけではなく、肩あたりで揺れるダークブラウンの髪も、足元のベージュ系のブーツも、俺の前でキーホルダーを落とした人物と同じだったのだから。
「あの…!」
俺は走り去る彼女に腕まで伸ばして呼びかけた。
だがやはり彼女には届かず、そうしてる間にもキャメルのコートはホテルの正面口をくぐってしまった。
その焦ってるような様子から、落とし物に気付いて急いで戻ってきたのかもしれない。
だったら、遠くに行ってしまう前に渡した方がいい。
俺も慌てて彼女を追いかけようと、ソファから立ち上がった。
早く彼女を引き止めないと。
気持ちはすでに全速力で走り出していたけれど、思わぬ方向から今度は俺が足を止められてしまう。
「いかがされましたか?」
声をかけてきたのは、さっきの女性スタッフだ。
俺のただならぬ雰囲気を察知したのだろうか。
「あの、いえ…ちょっと、実はさっきホテルの前で、今の人の落とし物を拾ってまして…」
急いで彼女を追いかける必要があるのに、俺はわざわざ正直に説明していた。
すると女性スタッフが驚いたように「さようでございましたか」と相槌を返すと、
「もしよろしければ、フロントでお預かりいたしますが、いかがでしょうか?」
と申し出てくれたのだ。
「今お出かけになられたお客さまは存じ上げておりますので、その落とし物を私がお預かりしましたら、責任を持ってお渡ししておきます」
ここで簡単に彼女のことを宿泊客と言わないのは、さすがだなと思った。
俺との関係が明らかでない以上、個人的な情報を漏らすわけにもいかないだろう。
だが俺は、スタッフの申し出にはホッとしていた。
これで間違いなく、このキーホルダーは彼女の元に戻るのだから。
「そうですか、それじゃ……」
お願いします。
そう言ってスタッフにキーホルダーを託そうとした俺だったが、またもや、その指先が開かなかった。
高校時代の友人が話していたことを思い出したからだ。
そいつは、熱心なアニメファンだった。
彼はいわゆる隠れアニメファンだったらしく、ごく親しい仲間内にしかそのことを明かしていなかった。
そんな彼は、大切なアニメグッズはめったに学校に持ってこなかったが、たまに持ってきた日は、それを肌身離さず持ち歩いていたのである。
一瞬たりとも手離さない、ちょっと神経質じゃないのかと言いたくなるような行動に仲間の誰かが突っ込むと、『もしお前達以外の同級生にこれを見られたら、俺がアニメオタクなのがばれるだろうが!』と、小声でお叱りを受けたのだ。
別にアニメオタクでもいいじゃないかと、仲間の誰もが理解不能だと反論したけれど、当人にしてみれば、やはり親しくない連中に知られるのは好ましくないらしい。
隠す必要性は理解できなかったが、どちらにせよ、それはそれでそいつの問題なので、俺達はなるべく彼の趣味を隠すことには協力した。
そんな記憶があったものだから、俺は、今ここで、この女性スタッフに彼女の落とし物であるアニメキャラのキーホルダーを預けても構わないものか、大きな躊躇いが芽生えてしまったのだった。
「えっと……」
迷いに迷う。
どうしたらいいのだろう。
あの女の人の沈んだ雰囲気を少しでも晴らしたくて、それでこうやって探していたのに、もしこのスタッフに預けたら、逆にもっと彼女の表情を曇らせてしまうかもしれない。
預けるか預けないか決めかねた俺は、選べないならこのままでいたほうがましだと結論付けたのだった。
「ご親切にありがとうございます。でも、……できたら、俺が自分であの人に渡したいんです。ですから、あの人がここに戻ってくるまで、ここで待たせていただいてもいいでしょうか?」
一旦渡しかけたキーホルダーに、もう一度力を込める。
これは、俺が直接持ち主に返すのだと決心して。
俺の返事を受けた女性スタッフは「もちろんでございます」と答えると、続けて、
「そういうことでしたら、先ほどのお客さまには、私から、落とし物を拾ってくださった方がいらしてる旨をご連絡してもよろしいでしょうか?」
あくまで控えめに、そう言ってくれた。
「そうしていただけると助かります。ずっとここで待ってるのも悪いと思ってたので……」
俺が提案を素直に受け入れると、スタッフの女性は「かしこまりました」と微笑み、コンシェルジュデスクに戻っていった。
そしてすぐにデスクのパソコンに向かうのを見て、俺は大いに安堵していた。
おそらくメールでも送ってくれているのだろう。
つまりここで待っていれば、間もなく彼女は戻って来てくれるのだから。
そう認識したとたん、目の前のクリスマス景色もわずかに彩を鮮やかに変えたように感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「さきほどのお客さまと連絡がとれました。すぐにこちらまで戻って来られるそうです」
コンシェルジュがそう報告してくれるまで、2、3分とかからなかった。
「よかった。じゃあ、ここで待ってればいいですね。ありがとうございました」
俺は全身から緊張が抜けたように、声まで柔らかくなっていた。
コンシェルジュの女性は「それでは、また何かございましたら…」とお決まりの文句を口にしかけて、ふと、ツリーに視線を逸らした。
そして、
「……ご存じでしょうか、このツリーは、願いを叶えてくれるそうですよ?」
思い出したように教えてくれた。
「へえ、そうなんですか?」
「ええ。知る人ぞ知る、特別なジンクスのようです。実は私も今朝聞いたばかりなんですよ」
「え?今朝?」
それは、ジンクスとしてはちょっと新鮮過ぎるんじゃないだろうか……
不思議に思う俺をよそに、女性スタッフはニコニコしながら言った。
「ですから、お待ちになる間、ぜひ、何かお願いしてみてください」
いつもなら、そういった類のことには1ミリも興味がない俺だけど、どうしてか今日は、信じてみたくもなる。
クリスマスのせいだろうか。
「……そうですね、そうします」
頷いた俺の中に、嘘はなかった。